漫画のゾーニング問題について

はじめに

数日前、ジャンプの巻頭カラーが話題になった。

キャラクター達はあるキャラクターの激昂によって巻き添えの形で空中に打ち上げられ、その結果、衣服がはだけてしまっている。人気投票の結果発表という形で恥ずかしがるキャラクター達が詳細に描写されており、サービスシーンとしての意図がうかがえる。本記事では、このツイートに端を発して巻き起こった漫画の表現規制やゾーニング問題について述べたい。なお、結論は最後の「総括」を読めば解るようになっている。

ゾーニングは人々の感情で作られている

最初にはっきりさせなければいけない事は、本件が表現規制そのものとはほぼ何の関係もないという所だろう。まとめブログを始めとして、多くのブログメディアやユーザー達が「フェミニストが文句をつけて漫画を規制しようとしている」という的外れな批判に終始しているのはとても残念に思う。事実、一部のラディカル・フェミニストを除いて本件で表現規制を訴えている人達は滅多に見当たらない。批判派の大半は少年誌の枠組みで許容される表現の限度、つまりゾーニングを論点に置いている事をまず認識しなければならない。従って、この件は各々が適切なゾーニングの度合いを主張する所から議論を始める必要がある。


原理主義的な表現規制反対派の論客として知られる青識亜論さんは、批判派からの指摘について「正当性や理論的根拠がない」と疑問を呈している。このソース至上主義的な態度は恣意的な表現規制を阻む上では有効であり、尊重されるべきものだが、ことゾーニング問題に関しては上手く適合しないように思う。

というのも、そもそもゾーニングやレーティングに理論的根拠など最初から存在していないからだ。「少年誌に身体の欠損表現が、誌面全体のX%あると、統計的に少年犯罪がY%増加するので自粛する」というような統計やデータに基づいたものではなく、実際には「何となく少年誌でリアルなバラバラ死体を描くのはまずい気がするから自粛する」といった具合に規制が行われている。アダルトコミックの購入制限も同様だ。

つまり、理論的根拠がないゾーニングの提案を全て退けるのであれば、同様に、少なくとも公共の場所以外でのゾーニングは全廃するよう主張しなければならない。少年ジャンプの読者がより過激なコンテンツを求め、出版社がそれに応じるのであれば、それが完全なエロ漫画でも問題ないという事になる。そういったアナーキズム的な規制反対論も決して悪くはないが、もし心外に感じるのであればゾーニングの件でやたら理論的根拠を要求する態度は改めた方が賢明だろう。それは無いものねだりというものだ。

このように考えていくと、われわれを取り巻くガイドラインや規制、レーティング、ゾーニング、何ならマナーや道徳も含め、それらのほぼ全てに理論的根拠などろくにない事に気づく。よく「青少年の健全な発育のために…」などといった言い回しが用いられるが、人々の生き方が多様化した現代では「健全な青少年」という定義に多くの条件を盛り込む事はできないし、すべきでもない。

結局、批判派も擁護派も「理論的根拠のあるゾーニング」など持ち合わせていないのである。繰り返すが、理論的根拠がなければ何も認められないのなら、最初からレーティング・ゾーニング全廃論を主張すべきだ。それの是非はどうあれ、既存のレーティング・ゾーニングを実質的に黙認しておきながら一方的に相手の不備を指摘するよりは、よほど一貫した態度に思える。

日本の漫画市場の特異性


数日前、僕はゾーニングの度合いについて上記のような言及を行った。少年誌の内容はCEROで言うところのC相当が望ましいという主張だが、実のところ日本の漫画市場では上手く働かない可能性があるかもしれない。ここで「HUNTERXHUNTER」を例に挙げて説明する。

この作品は少年誌にしてはだいぶ暴力的な表現を描いているため、上記の基準が適用されると青年誌であるヤングジャンプに移籍しなければならない。ポジティブに考えると、以下のような自主規制(モザイク処理)は今後実施する必要がなくなり、作者が望めばさらに踏み込んだ表現も描写できるようになる。青年誌の購入に年齢制限はないので低年齢層の読者が本作を読めなくなる事もない。

結果的に読者が体験できる表現の幅は以前よりも広がり、さらに拡張された作品世界を楽しめるかもしれない。一方で、ネガティブに考えると、ただ上記の基準に沿う形で表現が抑制されて終わるおそれも大いにあり得る。何故そのような事態が考えられるのか。それは日本では青少年向け作品(全年齢向けと言い換えてもよい)がマス市場だからである。

これはZ指定(英語圏では概ね17歳以上推奨)のゲームが人気を博し、有名ヒーロー映画の最終作がR-15でも収益的な問題が起こらない英語圏とは対照的に見える。つまり青年誌にわざわざ移籍するよりも、表現を抑制してでも少年誌に掲載する方が諸々の利益を得られやすいのだ。ファンとしては残念かもしれないが、漫画家も商売なのだからそういった商業的判断は責められない。批判派に表現規制の意図がない事は理解しているが、日本の漫画市場の特異性を考慮すると、画一的なゾーニングが上記のような実質的自主規制をもたらすおそれがある事は留意すべきだろう。

余談だが、僕は完全なる単行本派なので「進撃の巨人」がどの雑誌で掲載されているか調べるまで知らなかった。ずっと青年漫画だろうと思って読んでいたのだが、どうやらこの作品は少年漫画らしい。内容的には青年誌の方が相応しいように感じられるものの、作者は本作が売れるまでは無名の作家で、少年ジャンプでも門前払いを食らった過去を持っている。マス市場ではない青年誌では思うように人気が出なかった可能性も考えられる。

他方、ネガティブな例ばかりでは不公平なので上手く機能した例も挙げておきたい。「ToLOVEる」はやや性表現が多いラブコメ漫画として少年ジャンプでスタートしたが、続編の「ToLOVEる ダークネス」はヤングジャンプで掲載されていた。青年誌に移籍した事でこれまででは描写できなかった多様な性表現が行えるようになった。今後、次作が始まるとしても少年ジャンプに戻る事を望むファンはごく僅かだろう。とはいえ、これは既に有名な作家だからこそスムーズに実現できたのであって、市場の特異性という構造的な問題を解決する処方箋としては力不足である。ただ、描きたい表現のためにマス市場ではない環境に挑む姿勢はもっと評価されてほしいものだ。

結局、結論としては僕の提案も含め、表現を萎縮させない形でのゾーニングの強化は極めて難しいと言わざるを得ない。変な話だが、むしろ皆がもっと過激なコンテンツを好むようになり、青年誌がマス市場になった方がかえって少年誌のゾーニングを行いやすくなるのだ。こんな皮肉な話があるだろうか。

メタ的性暴力

少年誌における性表現は自主規制のため、意図的・積極的な性的接触の描写はほとんど見られないが、それをかいくぐるために「ラッキースケベ」という手法がしばしば用いられる。何らかの事故を通じて結果的には性表現を描写するものの、登場人物に性的接触の積極的意図はないとする概念である。擁護派はこの理屈をもって性暴力性を否定しているが、それに対して批判派はメタ的視点としての性暴力性を挙げた。

説明すると、確かに作中では偶発的事象として描写されているが、作者が性表現を描く意図でそのストーリーを利用した事は明確であり、その意図は少年読者にも伝わるという視点だ。作者は偶然という体裁で性表現を伝えている。すなわち、その建前さえ用意できれば、相手の同意を得ずに性的接触が行えるとの誤解を少年に与える可能性があると主張しているのだ。これを「メタ的性暴力」と名付けたい。

僕個人としては少々飛躍が過ぎる見解にも感じられるが、実際の性犯罪について調べてみるとあながち否定も難しい。例えば、痴漢やセクハラは偶然を装って行われる事例がほとんどだ。他国では強姦でさえも偶発性を主張して無罪になる例もあった。もしかしたら事件化していないだけで、統計よりもずっと多くの女性が(男性も)偶発を言い訳にしたセクハラを受けているのかもしれない。そういった立場からしたらラッキースケベに警戒感を抱くのも無理はない。

とはいえ、そのような立場自体は理解するとしても、それを根拠にラッキースケベを抑制する事には慎重でありたい。いっそ発想を転換して、むしろ女性による能動的な性的接触の描写を増やすというのはどうだろうか。これは女性の自由意志を尊重するリベラル・フェミニストの価値観にも適合している。少年誌のエロといえばラッキースケベ、といった画一性を改革するためにも、性表現の多様化を積極的に検討した方がよいと思う。例えば、偶然とはいえ女性ばかり衣服をはぎとられるのは何なので、その逆もあった方がより適切だろう。少年誌の範囲でも性表現は多様化できると信じたい。

一部の過激派は互いに「フェミババア」、「おしゃべり金玉」などと罵り合っているが、ゾーニング問題は先ほど言ったように感覚的なものなので双方が歩み寄らなければ単純なパワーゲームで決まってしまう。そして、どちらがより強いパワーを持つかは時代によって変わっていく。壊滅的な事態を防ぐためにもお互いに対話の姿勢を捨ててはならない。

アメリカのコンテンツとポリティカル・コレクトネスの可能性

かつてアメコミ業界にはコミックス・コードなる規制が存在していた。それはタイトルに「horror」という文字を使用できなかったり、恋愛を描く場合は性欲を伴わない”純潔”なものでなければならず、司法や警察への不信感を示唆する表現も許されないという、極めて厳しいものであった。これらの規制により、しばらくアメコミといえば単純な勧善懲悪もの一辺倒だったが、80年代からは次第にコミックス倫理規定委員会に従わない動きが形成されるようになる。

結果、最終的に全ての出版社が脱会してコミックス・コードは廃止されるに至った。現在のアメコミ文化は漫画のみならず、映画からゲームに至るまで絶大な人気を博しており、そのコンテンツ力を疑う人は少ないだろう。なんせ51歳の母が「ダークナイト」や「ゴッサム」を楽しんでいるほどだ。

かくしてアメコミは出版社の裁量で自由に創作できるようになったが、日本の漫画文化との大きな違いは読者の批判精神が非常に根強い所にある。「このキャラクターのステレオタイプな描かれ方は不快だ」というような、人物像や設定にまで踏み込んだクレームがごく当たり前のように送りつけられてくるのだ。その結果、作者がその批判を受け入れて修正を施す事も珍しくない。

こういった文化に馴染みがないと、何だか表現がクレームによって抑圧されているようにも感じられてしまう。しかし、現実には僕を含む多くの人々がアメリカのコンテンツに魅了されている。「Game of Thrones」ではあまりにも過激なシーンに思わず息を呑んでしまった。この国が作り出すコンテンツの圧倒的なスケール感から表現の窮屈さはまるで感じ取れない。

この事はポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の是非を論じる上でも大いに考慮されるべき点である。ネット言論では表現の抑圧を危惧して安直なポリコレ否定に走ってしまいがちだが、敢えてポリコレを受け入れる事で多様なキャラクターが生まれる可能性もある。例えば、日本の漫画やアニメにおける同性愛者はほとんどオカマ的なキャラクターだが、女装や男装をしない同性愛者がもっと登場しても良いはずだ。

別の例も挙げてみよう。かつてアメリカの映画・ドラマ俳優は白人だけだったが、人権意識の高まりから黒人も俳優として起用され始めた。ただし批判をかわすためだけに用意された端役、いわゆる「トークン・ブラック」として。しかし、その「トークン・ブラック」から多くの黒人俳優が出世を遂げ、今や黒人は映画に欠かせない存在にまでなった。人権運動は白人だけの映画を作りたい自由を抑圧したかもしれないが、結果的にはより多様性のある作品が生まれるようになったのではないだろうか。

今日におけるポリコレ的言論はアジア人や性的マイノリティなどの出演機会を増やすよう要求している。僕はこれを表現の抑圧とみなす事はできない。それはクレームという体裁ではあるものの、かえって表現の幅を広げる事に寄与しているからだ。ポリティカル・コレクトネスは行き過ぎれば確かに抑圧を生む危険性も含んでいるが、上手に付き合えば自分が見落としていた多様性に気づく事もある。

もっとも、作品の中にはむしろ多様性や意外性を徹底的に排除する事で成り立っているものも多々あり、そういった水戸黄門的な予定調和でなければストレスを感じる人達が多くいるのも確かだ。あらゆる作品に多様性を求め続けた結果、最終的に彼らの箱庭を破壊してしまうような事態が起こりえるかもしれない。この事は多様性を求める側として注意を払っていきたい。

総括

・ゾーニング問題は最初から感情論なので理論的根拠を求めても意味がない。
・致命的に対立が進むと最終的にパワーゲームで決まりかねない。50年代の頃がそうであったように。
・少年誌と青年誌の住み分けは重要だが、現状ではマス市場が少年誌である事から安直なゾーニングは実質的に抑制を招きかねない。
・ラッキースケベに性暴力性が含まれているとの主張は理解できるが、それを根拠にした規制は慎重になるべきだ。
・ポリコレ的言論は表現者にとってプラスに働く事もある。それは見落としていた多様性に気づかせてくれる。
・水戸黄門的な予定調和やステレオタイプを好む人達もいる。多様性の否定も多様性の1つである。

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