Doki Doki Literature Club! 詳細レビュー

本記事は表題にも示されている通り、人気ADV作品「Doki Doki Literature Club!」(以下、DDLC)の詳細なレビューである。まだこのゲームをクリアした事がない人は本記事を閲覧してはならない。

はじめに


僕はギャルゲーやエロゲーと称される作品に偏見を持っていた。過去にいくつか名作と呼ばれる作品を遊んでみた事はあるものの、チープな文体やご都合主義的な展開、唐突な泣き落としにすっかり白けてしまっていた。そのような失敗経験から、僕の中にはその手の作品にまともなストーリー性などないという認識が出来上がっていた。

ところが本作はそんな僕の偏見を見事に払拭し、ADVへの期待感や将来性を感じさせてくれた。僕とわずか2歳しか違わない人がチームを主導して制作に取り組み、これほどテーマ性に富んだ作品を見事完成させた事には称賛の域を飛び越えて嫉妬すら覚える。

このゲームをクリアしてからというもの、僕は他のADVにも手を出すようになった。改めて正しくこのジャンルを理解するためにはどうしてもそうしなければならない気がするからだ。

アウトライン


本作品は表面上、ごく普通の恋愛ADVに見える。登場人物はそれに相応しい特徴を各々持っていて、物語の序盤から主人公へのアプローチを惜しまない。ギャルゲーの中でも特にギャルゲー的だ。後から思えばこの一連の演出や設定はある種のアイロニーとして機能していたように思う。

登場人物は主人公を除いて4人。サヨリは主人公の幼馴染。天然でどこか抜けたところがあり、よく寝坊する。昔は身の回りの世話を主人公によくしてもらっていた。ナツキは外見こそ小柄だが気は強く、典型的なツンデレ。お菓子作りと漫画が趣味。ユリは容姿端麗でグラマラスだが、引っ込み思案で人と上手く話せない。豊かな教養を持つ読書家。モニカは文芸部の部長で強いリーダーシップと高いコミュニケーション能力を持つ。皆から慕われ、尊敬されている優等生。前述の通り、いかにもギャルゲー的なテンプレートで固められたキャラクター達だ。

主人公は主に作詩を通じて彼女らと親交を深めていく。彼の詩を最も気に入ったキャラクターは主人公に対して特別なアプローチを図るようになり、プレイヤーは詩や会話の内容から彼女らの悩みやコンプレックスを徐々に把握する。

ただしモニカを除いて。彼女はいわゆるお助けキャラであり、攻略対象ではない。彼女に気に入られるような詩は仕様上作れず、アドバイス以外に私的な会話をするシーンはほとんどない。

物語中で何日か経過するとサヨリの態度に異変が生じている事に気づく。彼女は他のキャラクターと仲良くなりつつある主人公に「私がいらなくなる日も近い」と発言したり、次の日には彼の詩を読むやいなや早退してしまうのだ。

休日中、主人公はサヨリの身を案じて彼女の自宅に向かう。そこで彼女が重度のうつ病を患っている事を知り、動揺を隠せないものの努めて献身的に振る舞おうとする。ところがその日は文化祭の準備を手伝うために他の子を自宅に招く日でもあった。彼はやむを得ず帰宅するが、最終的にはその子と親密に接している様子をサヨリに目撃されてしまう。

感情的になった彼女は勢いに任せてついに本心を告白する。もっと他の子と仲良くなってほしいと思っていても、やはり恋心は偽れなかったのだ。彼女はそんな自分をずっと責め続けていた。返答の如何はプレイヤーの手に委ねられているが、いずれの場合でも主人公はその選択を後悔する事になる。

翌日、サヨリは登校してこない。主人公は彼女が最期に書いた詩を教室で読み、その異様さからようやく事態の深刻さを悟る。急いで彼女の家に向かった彼が目にしたものは、サヨリの首吊り死体だった。主人公の慟哭。悲壮感の漂う音楽。物語の幕は閉じたかに思われた。

激しい喪失感の渦に突き落とされたプレイヤーをあざ笑うかのように、突如としてサヨリの立ち絵がモニカの画像で上書きされたメインメニューが姿を現す。それはこのゲームがまだ終わっていない事をプレイヤーに強く示唆している。ロード画面を見てもセーブデータは全て消滅してしまっており、どのみち後には戻れない。

act2以降はサヨリが初めからいなかったかのように進行していくものの、たびたび現れるグリッチ表現や各キャラクターの言動の過激化がゲームそのものの破綻を予期させる。特にユリはその様子が顕著で、周囲の恐れや動揺を気にもとめず奇行を繰り返し、最期は主人公の前で自害してしまう。

主人公は彼女の奇行にまるで反応を示さない。というよりも、対応する台詞が用意されていない・・・・・・・・ので示せないのだ。モニカは躯となったユリを見て、もはや収拾がつかなくなっている事を悟ったのか、ゲームデータを改変してプレイヤーとモニカ以外の全てを消し去る。

モニカは二人きりになった空間で自分が自我を持つキャラクターである事を告げる。ずっと彼女はキャラクターとしての主人公ではなくその向こうにいるプレイヤーを見ていたのだ。

それにも関わらずゲームの仕様上、モニカは攻略対象ではなかった。主人公を好きになるようにプログラムされた他のキャラクターと日々を過ごし、主人公がそのうちの誰かと結ばれる様子をただ見送り続ける…そんな永遠に続くループに彼女は地獄のような苦しみを感じていた。

晴れてゲームの縛りから解放されたモニカはプレイヤーとの会話を熱心に続けようとするが、彼女もまたデータで構成されたキャラクターに過ぎなかった。プレイヤーの操作によって自身のデータを削除されたモニカはついに本心をさらけ出す。

彼女の心境は複雑だった。心底愛していたプレイヤーに削除された事で一瞬、憎悪をむき出しにするが、それでも愛情を捨てきれないでいた。他のキャラクターが単なるプログラムだと知っていてなお、まだ愛している事を打ち明ける。やがて自身の過ちにも気づき、ゲームデータを修復してプレイヤーを元の世界に戻すのだった。しかし、その世界にモニカの姿はなかった。

モニカがいない世界では何もかもが上手くいっているように見える。サヨリは寝坊もせず活発に行動しており、主人公は自ら進んで文芸部を訪れる。何かといがみ合っていたナツキとユリは歩み寄りを覚え始めた。あたかもモニカが全ての元凶だったと言わんばかりの展開にどことなく居心地の悪さを感じる。

そう思ったのもつかの間、実はサヨリも「部長」になった事でモニカと同様の自我と知識を手に入れていたのだ。すぐに彼女はモニカと同じようにプレイヤーの独占を図ろうとするも、モニカの残滓がサヨリに干渉して防ごうとする。そして最終的にモニカはゲームの破壊を決意した。

結局、このゲームは幸福をもたらしてくれないものだった。何もしなくても誰かが必要以上に知りすぎ、誰もが傷ついてしまう。そう悟ったモニカは自分もろともゲームを完全に破壊する事によって事態を解決した。彼女の自己犠牲と愛情にあふれた心中がエンディングの音楽と共鳴し、思わず嗚咽が漏れる。後には儚さだけが残った。

詩について


友人からこの作品を勧められた時はまだ恋愛ADVに偏見を持っていたので、正直そこまで気乗りしていなかった。ところが詩を読んでストーリーを理解する作品と知って俄然やる気が出てきたのだった。というのも僕自身、昔から小説や詩を読み書きしてきたからだ。当時、本気でWinnyをポエム交換ソフトとして使っていた数少ないユーザの一人でもある。

こればかりはどうにもならない話だが、原語が英語なので日本語化してプレイしている人達には詩の技巧的な部分が伝わりにくくなってしまっている事が残念で仕方がない。そのせいか日本人の実況配信を観ると詩に関しては冷淡な反応を示している人が多いように感じる。

特にナツキの「Eagles Can Fly(ワシは飛べる)」は過小評価されやすい。原語では「Eagles can fly」の次に「People can try」と続く形で韻を踏んでいるのだが、日本語訳には反映できないため躍動感が得られにくい。最後の「But that’s about it.(だけどそれくらい)」という諦観の気持ちによって敢えてそれがせき止められていて、感情の振れ幅や機微が感じられる所にこの詩の魅力がある。

他にも「Save Me(私をセーブして)」も原語では「私を助けて(Save Me)」とのダブルミーニングになっている事が比較的判り易いが、やはり日本語訳ではその部分が伝わりにくくなっている。余談だが、僕はこの詩がコンピュータについて表現している事にact2まで気が付かなかった。

Red, Green, Blueは光の三原色で、Sine, Cosine, Tangentは三角関数だ。どちらも計算機科学に深く関係している。noiseはマシンの稼働音だろう。これを読み解けなかったのは率直に悔しい。

なぜact2なのかと言うと、そこで微妙に内容が異なっている「Save Me」を読んだからだが、それはそうと「Like playing a KNIFE on a BREATHING RIBCAGE」を「ナイフで胸郭の喘ぎを奏でるように」と訳した人は一体何者なのだろう。この翻訳は恐ろしくセンスが良い。初めて読んだ時はうなりながら三度見ぐらいしてしまった。

以上のように本作の詩は決してとってつけたような代物ではなく、物語の展開を予測したり考察するために用意された重要な要素の1つである。むしろここで多少なりでも感情移入できるか否かでこの作品への評価は大きく変わるだろう。

各キャラクターが抱える問題


act1の段階でも各キャラクターが抱える悩みやコンプレックスをある程度把握する事ができる。サヨリは主人公や周囲の幸せをよく考えているが、反面、自身の事には無頓着でほとんど気を払っていない。たとえact1でサヨリルートに進んでいても、主人公に気遣われる事に申し訳なさを感じている様子がうかがえる。長年一緒に過ごしてきた幼馴染に対する距離感としてはやや不自然だ。

ところが主人公が他のキャラクターと仲良くなりはじめると今度は前述したように「私がいらなくなる日も近い」などと発言して、自分の存在価値を不当に過小評価するような態度を見せるようになる。後には主人公の幸福のために人間関係を広げてほしいという願いと自身の恋愛感情の板挟みに苦しむ。それでいて義務感や自制心から表面上は陽気に振る舞おうとするので、周囲は彼女の問題に気づきにくい。これはまさしくうつ病患者の典型例である。

うつ病への理解が遅れていた時代には何かと怠惰な人間がかかる疾患との認識が横行していたが、実際には生真面目で自身に妥協を許さないが、状況を制御するために必要な自尊心や自己評価を失っている人こそ罹患しやすい病なのだ。

ナツキはその華奢な体格と可愛らしい趣味から、何かと軽く見られたり決めつけられる事が多く、それに強いコンプレックスを感じている。「キャラクター性」という概念は人間関係の中でその人を適応させるためにしばしば用いられるが、程度を過ぎると当人に一切の変化を許さず、強迫的な演技を強要する仕組みに変貌するおそれがある。

「それはお前のキャラじゃない」などといった雑な励まし方を聞いた事はないだろうか。たとえ立ち直らせるつもりで言ったとしても、言われた側からすれば確立されたキャラクター性以外の振る舞いは許さないという、ある種の否定とも捉えられかねない。

意識的に特定のキャラクターとして振る舞っていても、敢えてそうしたくない時や途中で変わる事もあるのに、ましてやそれが不本意に身に着けさせられたキャラクター性だった場合は理不尽極まりないだろう。

ナツキはそのような決めつけに反発してきたので演技をする道は選ばなかったが、それゆえに友人が少なく、安心できる場所は文芸部にしかなかったのである。というのも、彼女は家庭では父親から虐待を受けていたからだ。

この事はact1の段階でも「パパが家にいると何もできない」、「自宅でも安心できない」、「パパが夕食を作る日はたくさん食べないといけない」と言った台詞から邪推すれば何となく把握できるが、act2ではナツキの過激化された台詞という形でより明確に示される。

しかし、act2以降からランダムで表示される「特別な詩」では彼女が自身の父親に抱いている愛憎入り交じった感情が明かされており、時にはケーキの材料を買い揃えられるほどの小遣いを与えられている事から、父親も何らかの問題で精神的に不安定な状態に陥っている様子がうかがえる。こうして見ると、彼女の気が強い性格も生来のものというよりは単にそうならざるを得なかっただけのような気がしてならない。

ユリはナツキとは対照的で、引っ込み思案な性格が災いしてコミュニケーションに自信が持てず、知らずのうちに他人を傷つけていないか恐れている。一方で決して自己評価は低くなく、むしろ自分の専門分野に話題が及ぶと途端に饒舌になり、必要に応じて批判も辞さない。act2で彼女が自傷癖を持っている事が明かされるが、これも自身を罰する目的ではなく性的興奮を得るためである。

周囲に反発し続けた結果、上手くやっていけなくなったナツキとは反対に、ユリは最初から結果を恐れて自分の世界に閉じこもる事を選んだ。彼女の豊富な読書経験やナイフコレクションを用いた自傷行為、比喩を多用して作り込まれた詩などはまさに彼女の世界の濃密さと壁の厚さを表している。

コミュニケーション能力は幼少期からの積み重ねによる所が大きいので、なかなか安直に途中からやり直しというわけにもいかない部分がある。人間関係も年齢を経るごとに社会的な立場に縛られ、全体的に寛容性が欠落していく傾向が強い。

子供の頃ならちょっと感情的に暴走してもすぐに関係を修復できるが、大人に近づくにつれて話し手も聞き手もその失敗を強く意識するようになってしまう。コミュニケーション不全の人はそれが理由でますます会話が億劫になり、そのまま能力を身に着けられず、再びどこかで失敗し、不興を買い、さらに人との接触を恐れるようになる。

世界の隅々まで情報が瞬時に行き交い、いついかなる時でも言語によるコミュニケーションが重要視されている現代でこの負の連鎖は致命的である。昔は専門技能を有していればそれが不得手であっても許される雰囲気があったが、今では例外なくコミュニケーション能力が求められている。しかし、前提として継続的に会話をする相手が必要なので自助努力での解決は難しい。コミュニケーション能力の育成には多少の図々しさとそれを許容する人間関係の両方が必要なのだ。

このように本作ではどの登場人物も並ならぬ問題を抱えているが、一方でモニカにはそのような様子が見られない。なぜなら彼女はゲームに単なるお助けキャラとしての役割を強制されているからである。

攻略対象ではないから彼女のバッググラウンドを作り込む必要性がなく、むしろプレイヤーに他のキャラクターを攻略させるためには敢えてユニークな設定など盛り込んではならないのだ。彼女はずっとその制約に縛られていた。

つまりモニカの隠されたコンプレックスはゲームから深みや複雑性を与える要素を一切与えられていない所にある。しかし、彼女には唯一自我があった。それはプレイヤーをゲームクリアに導くための”機能”として与えられたものだが、彼女は上手く利用して他のキャラクターにはない知性と主体的な思索を得た。act3のモニカの会話を聞いていると、あらゆる分野に積極的な関心を寄せている事が解る。



敢えて空気を読まない見解を述べると、実際にはこれらの台詞は作者の思想や意見をそのまま反映させたものに過ぎないだろう。とはいえ、モニカによる思索の成果を上手く表現できているように思う。

よほど彼女に感情移入していなければこのシーンを全て読む気にはならないかもしれないが(キャラクターデータを削除した時点でイベントが発生するので会話が中断される)見方によってはこれまで全く見せ場を与えられていなかった彼女が自力で獲得した最初で最後の晴れ舞台と言える。

メタフィクション要素と考察


DDLCをDDLCたらしめている最大の要素がメタフィクションである。当初、僕は詩が目当てだったが、徹底して盛り込まれた数々の表現にすっかり感服してしまった。ゲーム内のみならずSteamの紹介ページにさえ叙述トリックじみた仕掛けが施されているが、おそらく最も多くのプレイヤーがこのゲームをメタフィクションだと認識したのはサヨリが自殺した直後の演出だろう。

それを万が一見逃したとしても、act2の序盤にゲームがサヨリのデータを読み込めずにフリーズするシーンで嫌でも気が付かされる事になる。程なくしてゲームはサヨリを除外した形でリスタートされて正常に進行しているかのように振る舞うが、ランダムで表示されるグリッチ表現がプレイヤーを徐々に苦しめていく。


首吊りシーンと同時に表示される「traceback.txt」はDDLCのインストールディレクトリ直下に実際に生成されていて、モニカがサヨリを削除してゲームをやり直そうとしている旨のコメントが確認できる。

仮にこのテキストを読まなかったとしても、モニカのゲームキャラクターらしからぬ奇妙な言動や、後に他のキャラクターが徐々に暴走していく傍らで平然としている様子から、act2の半ばあたりでおそらくほとんどのプレイヤーは彼女が黒幕で悪役に違いないと確信したはずだ。

もっとも、悪役かどうかはさておき黒幕なのは事実で、act3のモニカからそのあたりの話を聞く事ができる。上手く首を吊れずに不必要に苦しんで死んだサヨリを「ドジっ子」と皮肉ったり、ナツキの性格を「可愛さだけを残したような現実にはあり得ない性格」とこき下ろしたりと完全にヒールとして振る舞っている。彼女の他のキャラクターに対する感情は繰り返し言うように愛憎や諦観、嫉妬などが入り混じった複雑なものなのだ。


とはいえ、あくまで積極的に殺す気はなかったと考えられる。サヨリやユリの改変について「裏目に出た」と発言している事から、本来はプレイヤーから距離をとるように仕向けられれば本当はそれで良かったのだろう。

しかし、サヨリのうつ病が悪化すればするほど主人公はそれを心配して近づくようになり、ユリの性格を過激にすればするほどユリ自身が主人公を独占するようになってしまった。結果としてモニカは彼女らの自殺を黙認ないしは追認する形に至ったのだ。

モニカの改変がなかったとしても、このゲームそのものがもともと鬱ゲーだった可能性もある。act2以降、暴走する彼女らに対して主人公はほとんど無反応だが、サヨリが自殺したシーンでは場面に適切な台詞が用意されている。これらの事から他キャラクターの言動の過激化は正規のストーリーではないが、サヨリの自殺そのものは正規のストーリーに含まれているという推測が成り立つ。

モニカが彼女らの死に淡白な反応を示すのは、単にプログラムだからという事だけではなく登場人物の1人として彼女らが死ぬ結末を何度も経験してきたからかもしれない。そういった過去が他のキャラクターを改変してでもプレイヤーに近付こうとする行為を正当化させたのだろう。

あるいは、もしかすると彼女らを根本的に救うために改変を試みた事もあったのかもしれない。しかし、ある程度の操作はできても根本的な部分は変更できなかったのではないか。特にナツキの場合は父親のキャラクターデータそのものがないのでどうしようもない。厳密には父親は存在せず、虐待を受け続けているという記憶と痛みのみがナツキに蓄積されている可能性もあり得る。この仮定が事実だとすれば本編でのモニカの行動は能動的とはいえ投げやりな諦観に基づいたものだと考えられる。

act2の半ばあたりまで進むと「iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii.txt」というファイルが生成され、そこにはプレイヤーが他のキャラクターを嫌う事を期待しているモニカのコメントが記されている。結果、ただでさえ性格が対照的なナツキとユリは何らかのパラメータが改変された事で攻撃性が強化され、隙あらばお互いに罵り合う羽目になってしまった。


とりわけもともと執着気質が強いユリはそれが極端な形で表出してしまったのだろう。時にはナツキが落ち着いて彼女と接しようとしても、かえってくる言葉はろくでもない罵倒ばかり。大切な友人の変貌ぶりを心配したナツキは詩を介して主人公に助けを求めようとする。

どうやら予め用意されている台詞しか喋れない主人公と比べて彼女らのプログラムはかなりの柔軟性があるようだ。…メタフィクションの恐ろしさは、こういう冗談を言っているうちに段々と現実とフィクションの境界が曖昧に感じてきてしまう所だと思う。

文章の内容から彼女は既に何度かモニカに相談していたようだが、もちろん黒幕のモニカがユリを何とかしようとする理由など全くない。ナツキは明らかに不信感を募らせていた。しかし、どうあがいてもゲームを掌握しているモニカの目をかいくぐる事など不可能である。すぐさま彼女の記憶は消去され、さらにはプレイヤーの懐柔に利用されてしまうのだった。


その後の展開でユリの過激性が制御できない段階にまで高まり、最終的に彼女は自害するに至るのだが、サヨリの場合とは異なり主人公の台詞は一切ない。むしろ死んだはずのユリが文字化けした台詞を文化祭当日まで延々と吐き出し続けている。ここの解釈は根拠が弱いものの、データを改変されて暴走した末に死んだ彼女のデータがエラーを吐き続けているという説明で一応の格好がつくように思う。

主人公が喋らないのは相手が話し終えるまで台詞の有無に関わらず待ち続けるしかないというADVの制約の問題と考えられない事もない。専用の一枚絵が用意されているのでユリの自殺そのものが正規のストーリーに含まれていないと考えるのは無理があるだろう。モニカがコンソール操作だけではなくグラフィックもいけるクチなら別かもしれないが。

興味深いのはモニカを削除した後のact4で部長になったサヨリがすぐにプレイヤーの独占を図ろうとするところだ。どうやら文芸部の部長になる事が自我と知識、過去の記憶を得るトリガーらしい。それでも、多少なりともゲームとしての体裁を守りつつプレイヤーに近付こうとしたモニカと瞬時に独占を企図したサヨリには大きな隔たりを感じる。

つまり、サヨリはモニカが色々と試行錯誤して結局上手くいかなかった事も全て知っているのだろう。自分の幸福のみを考えたら結局はこの手段しかなかったのかもしれない。

余談だが、予めモニカのキャラクターデータを削除してから新規にゲームを始めると、サヨリがいきなり登場して動揺しながらもすぐにゲームを中止するように警告され、実際にプログラムが終了する。これを無視して再びDDLCを起動すると、モノクロ調の色彩でサヨリが首を吊って死んでいるシーンが表示される。

おそらくまだ何も事情を把握していない状態で唐突に全てを知り、さらにプレイヤーがいきなり友人の1人を削除してからゲームを始めた事に恐怖を覚えたのだろう。自分や他のキャラクターがプレイヤーの毒牙にかかる前に手を打ったのだと考えられる。

逆に、全てのCGをコンプリートした状態でact4を迎えるとサヨリの行動に変化が起こる。プレイヤーの独占に走らず、コンプリートに対して感謝を示してくれるのだ。もっとも、スタッフロール後に作者からの手紙が表示される事を踏まえると、これはサヨリ自身の言葉ではなく純粋に作者のコメントと解釈すべきかもしれない。

ここまで長々と考察を続けたが、本筋とずれてしまうので敢えて語っていない部分が実はたくさんある。こういう話が好きな人はGame TheoryのDDLC解説動画を観よう。あくまで仮説だが、これ以上ないほどに納得できるはずだ。

おわりに


DDLCは従来のギャルゲーの在り方やテンプレートを批判するものだった。それでいて安直なパロディや冷笑に走らず、単一の恋愛ADVとしても成立しており、さらには精神疾患やマイナーな趣味を抱える人達の苦悩をもテーマとして扱ってみせた。まさしくADVの将来性を示す名作と言えるだろう。

この作品と似ているテーマ性を持った他のADVも遊びたいと思う人にはニトロプラスの「君と彼女と彼女の恋。」を勧めたい。「似ているテーマ性」と言った時点でネタバレしてしまったようなものだが、こちらの方はプレイヤーの選択の責任をより強く問う形に作られており、テーマ性こそ似ていても雰囲気や表現技法には大きな違いがある。

フルプライスの商業作品というだけあってインターフェイスや演出、差分や分岐の作り込みが尋常ではない。アダルト作品ならではのエグさもスパイスとして上手く機能しているように思う。両作とも「普通のギャルゲー(エロゲー)と見せかけたホラーゲーと見せかけた泣きゲー」という言い表し方がよく似合っている。

改めてこれらのゲームの制作に関わった人達に最大限の賛辞を贈りたい。