政治性の忌避は政治性を帯びる

今日、Twitterを眺めていたら気になるリツイートが回ってきた。晒し上げる意図はないので具体的に引用はしないが、要約すると「日本の大学生は政治的な話を避ける事から幼稚と評されているが、むしろ賢いからこそ意図的にしていない」というような内容だった。

その発言者の言い分によれば、それぞれ多様な意見を持つ事ができる民主主義社会において政治的な発言は意見の相違から軋轢を生みやすいため、賢い人間ほど相互理解を諦めて意図的に発言を避けるのだそうだ。

どうもこの人の中での成熟した民主主義社会とは相互に相手の顔色をうかがって深入りしない社会のようだ。とはいうものの、彼自身の他のTweetを見に行くとわりかた挑発的に振る舞っている様子が散見される。インターネット上では別らしい。

もっとも、こうした現実への冷笑的な態度はインターネット上ではかなり昔からよく見られる態度なので、今更とりたてて違和感を覚えるというほどでもないが、まずもって彼の言い分の内容は端的に正しくないように思える。

第一に、日本の大学生が政治的な話を避けているとは限らない。確かに他国の学生と比べれば積極性にはやや欠ける印象だが、奨学金や就職、将来の労働環境など直近の事柄に政治的な要素が大きく関わっているため、むしろ無関心でいる事はかえって難しいだろう。

能動的な政治活動、いわゆるデモなどを遠慮する向きはあるかもしれないが、会話をするぶんにはとりたてて忌避的とまでは言えないのではないか。少なくとも政治的な話題そのものを避けていると断定できる根拠は明らかに薄い。

第二に、政治などの敏感な話題を避ける態度こそ賢いとの主張だが、これはその時の立場や状況によってはそうかもしれない。しかし、裏を返せば一般的に立場も状況も乏しい学生がそこまで神経質になる必要性もないはずだ。

そもそも民主主義とは全ての国民が各々の主張を交換する事で集団的な意見を形成し、間接民主制であればそれによって代議士を選出する仕組みのはずなのに、意見の衝突や軋轢を危惧して話題の制約を図るのは本末転倒な発想に感じる。

その考え方はそのまま非民主的な国家でやむを得ず行われているような、人目を避けた場所でこそこそとしか政治的発言ができない環境を醸成する事に寄与しかねない。つまり、政治性の忌避そのものにある種の政治性が帯びていると言えるのだ。

政治的中立性への固執や無関心を気取ろうとする態度は、それはそれで実生活の中で諍いや議論に巻き込まれないようにするための処世術なのかもしれないが、そのちょっとした怠慢の蓄積が専制を呼ぶ撒き餌になり得る。日常は政治に支えられており、政治は日常から作られている。この事は民主主義国家に住む国民としては是非とも理解しておきたい。