こどもの詩をまじめに読み解く

数日前、Twitterで以下のようなリツイートが回ってきた。具体的にどの新聞で発表されたのかは判らないが、紹介文によれば小学生が書いた詩のようだ。

昔、どこかで聞きかじった話だが漫才は聞き手との協調が必要で、まったく笑う気がない人を笑わせる事は極めて困難らしい。実は詩もそれと似ている。

最初から理解を拒絶している人に感銘を与える詩を書く事はとても難しい。拒絶というとものものしい雰囲気だが、事実、いくらでも解りやすい情報があふれかえっている現代で、あえてストイックに文章を読み解こうとする人はそう多くないだろう。

そういう環境に慣れていると、むしろ詩などは読み手に苦労を押し付ける自分勝手な…ともすれば自慰行為のように写るのかもしれない。この認識はたいへんもったいなく思う。なぜなら読み手も読解次第で書き手の発想を越えうる余地があるからだ。

もちろん詩を含む文芸的な表現に自慰的な要素がまったく含まれていないという事はあり得ず、むしろ多分に含まれている場合さえしばしばあると思うが、読み手も自分なりの読解を通じて自慰にふける事ができるという点をまず強調しておきたい。

小難しい文芸の読解に迫られた際に、苦労を押し付けられたと卑屈な態度をあらわにして理解を拒絶する事はたやすいが、読み手も対等に自慰を行える楽しさを知ればたちまちそれが面白く感じてくるはずだ。

以上を踏まえてこの詩を読解していきたい。気心のしれた友人と会話したり遊んでいると、その安心感や充足感から友人の事がたまらなく愛おしく感じる瞬間がある。とはいえ、恋仲でもないのにそうした感情を直截に伝えると相手の動揺や不安を招きかねない。

「友達の足をかみたくなった」というのは一方的な愛情表現の比喩であり「すごくかみ心地が良かった」とはそれによって自己満足感を得た事を表している。

ところが一方的に感情をぶつけられた友人からは「すごく痛がっていた」とあるとおり、少なからず衝撃を隠せない様子がうかがえる。もしかすると不快感すら覚えたかもしれない。

たとえ好感情であっても伝え方や状況を考えなければ、自覚なく相手に危害を加えてしまうおそれがある。けれども彼女は愛情を伝えられずにはいられなかった。年頃のほろ苦さをデフォルメして表現した良い詩だと思う。

僕は以上のようにこの詩を読解したが、たぶん大概が的外れだろう。それでも僕は読解を通じて読み手としての満足感を得たのである。