銀嶺よりも高く

エベレストの単独無酸素登頂を目指していた登山家の栗城史多さんが5月21日に亡くなった。

登山は苦痛で楽しむ娯楽の典型例だ。もちろん山頂というゴールがある以上、そこに辿り着ければ嬉しい。嬉しいが、登山のコンテンツの大部分は山頂ではなく登り切るまでの過程にある。この過程が本当にただ辛いだけなら山を目指す人はもっと少なかっただろう。

山道を歩くのは疲れる。渋谷の坂道ですらだいぶ厳しい。ところが主体的に意欲を持って歩き続けていくと、疲労で苦痛が増しているはずなのに徐々にそれを自分の内側に併呑できているかのような錯覚を覚え始める。これは決して辛くなくなったわけではない。

つまり、苦痛を乗り越えた結果が楽しかったり喜ばしいのではなく、苦痛を味わっている間に既に快楽を感じているのだ。そこには何事にも代えがたい中毒性がある。やがてそれを得るためにより強い苦痛を求めるようになっていく。

他の競技でも部分的に似ている要素はあるが、記録や対戦で他のプレイヤーに勝利するという明確に闘争的な意図が含まれる他のスポーツと比べて、登山は倒錯的なフェチズムの色が濃く表れていると言える。登山とは筋トレに物語性を足したようなものだと思う。

聞きかじった話では、栗城さんはだいぶ無謀な計画で登山をしていたと言う。それはエベレストに限った話ではない。シシャパンマ登頂の際も極寒の雪山で穴開きグローブを装着していた。いつもしているようにスマートフォンで実況中継を行うためだ。

言うまでもなく彼は凍傷を負ってしまい、九本もの指の切断を余儀なくされた。他にも同行していたフリーカメラマンが死亡したりと、もともと厳しい登山とはいえあまりにも悲惨な結果だ。それでも彼は引退せずにひたすら登り続けた。

当初、栗城さんの話を聞いた時は、スポンサーを豊富に抱えた登山家が映像配信をしながらお気楽にショービジネスを行っているものと認識していたが、この偏執的ともいえる強情さは明らかに常人の気質ではない。フェチズムに支配された人間のそれである。

もちろん彼の無謀なやり方に警鐘を鳴らすライターはいた。彼は自身のブログで専門的な知識を交えながら、エベレストの標高が天変地異で大幅に下がらない限りは絶対に登頂できないと断言した。このまま登り続けたら死ぬとまで言った。

しかし栗城さんは自分のフェチズムに正直だった。スポンサーやファンの要請のために仕方がなくというような後ろ向きの感情ではなく、ほとんどの指を失ってもなお、その滾る執念が彼に歩みを止めさせなかったのだ。そして彼は銀嶺よりも高い所に行ってしまった。

圧倒的な無力感や絶望が鉛のように重い自省心や諦観を与えてくれる場合がある。それには倒錯した魅力が宿っている。身体的な負荷は比べ物にならないが、それはひたすら鬱々としていて救いのない物語に宿る魅力と似ている。