ゼロを下回る生

異なる方向から見ても文字や単語として認識できるデザインをアンビグラムと言う。どう見ても一つの言葉にしか見えないはずが、逆さにすると正反対の意味のものに変化しうる。物事の多面性を視覚的に説いているようでたいへん面白い。

昨日、Eテレで「ゲーム障害」についてのドキュメンタリー番組が放送されていた。なんでも近年はゲームにのめりこみすぎて生活に支障をきたしている人たちを、一種の疾病患者として捉える向きが医療機関の間で拡大しているらしい。

これはゲームが脳機能の低下を引き起こすと主張する「ゲーム脳」の概念とは大きく異なり、あくまで「ゲーム廃人」を比較的穏当な形に言い換えたものだと思われる。実際、前者に根拠らしい根拠は見られないが、後者は特に珍しくはない。

ドキュメンタリーに登場していたゲーム障害の「患者」はまさにその実例だ。人間関係のストレスで退職してひたすらゲームにのめりこむ彼を、この番組は人生を浪費している敗残者として紹介していた。

彼自身の自己評価もきっとそれに近いのだろう。しかし、見方によってはゲームに救われたと考える事もできなくはない。もしゲームという逃げ場がそこになければ彼はもっと悪い状況に陥っていたかもしれないのだから。

彼は傍から見れば完全なゲーム廃人で将来性に乏しいかもしれないが、とりあえずゲームに没頭しているおかげで今は生きていられる。生きてさえいればまだ将来性は残されてる。

「なんとかなる」などと無責任に前向きな事は言えないが、原理的に生はゼロを上回っている。熱中できるほどのものがある彼は比喩的な意味においてもまだ死んではいない。彼がゲームに熱中する事で生きていられるなら、彼の両親だとしても僕はそれでよいと思う。

ところが昨今の社会風潮はこの考え方を快く受け入れてはくれない。社会の役に立てない者の生はゼロを下回るとの価値観が次第に強くなってきているからだ。彼らの中にはマイナスの生が存在する。この矛先は必ずしも無職や犯罪者にのみ向けられるわけではない。

以前、あるアナウンサーが「透析患者は見殺しにしろ」と主張して炎上した事は記憶に新しい。基本的に彼らの考え方はこれと地続きだ。必要に応じて病人も老人も障碍者も、いつでも彼らの目にはゼロを下回る生として映りうる。

きっと彼らはそれほど悪人ではなく、表面的にはむしろ社会道徳に長けた善人なのだろう。その純粋な公益への意識が研磨された刃となって弱者に襲いかかる。限りなくゼロに近づけさせるために。