ひまわりを探している

生涯をかけて言い続けたい。人生のほとんどは運と環境で決まる。人間の自由意志は否定しないが、結局はそれも先の二つによって形どられるものだ。ごく一部のまれな成功例を持ち出して精神論や努力を訴える人たちはたいそう恵まれている。彼らの目に朽ち果てて実らなかった努力の亡骸は映らないのだろう。

僕の父は実にひどい人間だった。彼は機嫌の波が異常に激しく、いつ暴力を振るわれるかまったく予期できなかった。殴られるたびに鈍痛が脳髄に浸透していき、恐怖と無力感が僕の中から虚無な従順さを生み出していく。そこには努力の余地などない。痛みを恐れる動物的な本能のみがある。

一方、父は上機嫌であればとても魅力的な人物にも見えた。事実、母と離婚してからも彼はすぐに再婚していたし、後に本性が露呈して再び離婚しても別の女性を連れてくるまでにそう時間はかからなかった。中には連れ子を伴う場合さえしばしばあった。

その女性たちは父の虐待をおおむね黙認した。そうぜざるを得ない。口を挟めば自分に暴力が降りかからない保障などなく、連れ子もどんな目に遭うか判らない。それでも結局は殴られていた。僕はひたすら自己保身に走った。誰かが激しい折檻を受けていても、無視して本の世界に逃げ込み続けた。僕は空想と創作に生きていたのだ。当時は友人との会話でも妄想と現実をしばしば混同していた。

中学生になって間もない頃、ようやく反抗を覚えた。父はもういつまでも屈服させられないと悟ったのか、とうとう実の母に僕を引き取らせた。それ以来、僕の人生は鮮やかな色彩のひまわり畑で満たされている。光り輝く幸福の太陽が二つに増えたかのようだった。肌の隅々まで光源が染み渡り、痛ましい傷は徐々に癒やされていった。

今、こうして相応の文章力をもってこの記事を書いていられるのは僕が有能だったからではない。結果的には父の暴力が即時に死をもたらすほど過激ではなく、中学生の息子の反抗にひるむほど実は弱々しく、母に子供を養えるほどの余裕があったからだ。

どれか一つでも欠けていれば僕は死んでいたか、あるいは犯罪者になっていただろう。幸運に見放されなかったおかげで今の人生が与えられている。そこには善悪の区別も、素質や才能の違いもない。ただ残酷な運命のみが僕たちを睥睨している。

奪われる相手を選ぶ

僕の地獄はだいぶ底が浅く、垂らされた蜘蛛の糸は強靭だった。ちょっと登ればそこはすぐにひまわり畑で、池には睡蓮が浮いていた。けれども暗闇の中心に生まれたら、あてどなく花を探し続けるしかない。誰かが篝火を掲げてくれない限りは。

今年二月、目黒区で五歳の女児が激しい虐待の末に死亡した。彼女の父親は以前から暴行を繰り返していて、それは児相や当局もよく知るところであった。食事もろくに与えられずに殴打され続けた彼女の目にこの世はどう映っていたのか。

その手かがりは女児が遺した反省文からうかがえる。彼女は両親から文字の書き取り練習を強制されていた。文章ににじみ出ている悲哀と恐怖から逃れるための否応なき奮起は、ゆっくりと心臓を握りつぶされるかのような苦痛を想起させる。以下に全文を転載した。

ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりかもっと あしたはできるようにするから
もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
ほんとうにもうおなじことはしません ゆるしてきのうぜんぜんできなかったことこれまでまいにちやってきたことをなおす
これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめる もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします
もう あしたはぜったいやるんだぞとおもって いっしょうけんめいやる やるぞ
引用元

初めてニュースでこの文章を読んだ時はあまりの悲壮さと無力感に落涙してしまった。彼女と僕たちにどれほどの努力や能力の差があったと言えるだろう。ただ幸運から見放された。それ以外に説明の余地はないように思う。

既に報道されているとおり父親はこれまでに何度も逮捕されている。児相も問題解決のために指導やその後の接触を怠らなかった。今回、行政側に落ち度らしい落ち度は見られない。日本の法律は親権を強力に設定しているため、それを停止するには困難な手続きが求められるからだ。

つまり、この国ではほとんどどんな場合でも子供は保護者と一緒にいるべきとの認識で法律が作られている。ゆえに少々の虐待が露見したとしてもすぐに何かが起こるわけではない。僕の場合も学校や近所の人たちは明らかに事態を把握していたが、積極的な行動は何もしてくれなかった。せいぜいおざなりに電話をかけてきたぐらいだ。

最近はこういった問題を懸念して児相の権限を高めるべきとの意見が増えてきている。確かに彼らが比較的簡単な手続きで親権を剥奪できるようになれば虐待から救われる子供たちは増えるだろう。しかし、それにも弊害は必ずついてまわる。

児相が簡単に子供を親から取り上げられるようになるという事は、そこまで悪くなくとも行政機関によって急に子供を奪われる可能性もおのずと高まっていく。そこのところの線引きを慎重に見極めていたら今とほとんど変わらなくなるからだ。

従って、誰もが納得する制度は現状作りえない。現にアメリカでは風呂に一緒に入っていただけで性的虐待と判定されて親権を奪われた事例もある。西洋先進国では、子供は社会で育てるとの認識が強いせいか驚くほど親権が脆弱に設定されている。

果たして日本社会はこの考え方を受け入れられるだろうか。少なくともこれまでこの国は子供を親の所有物として見なし、多少の理不尽にも我慢して従うよう教育してきた。社会が育てる形になれば親よりも社会のルールの方が優先されるようになる。そのような運用が早晩認められるようになるとは到底思えない。

市井の人たちにアンケートをとればほとんどの人が児相の権限強化に賛成するだろう。しかし、それは表面上の話だけで実態としては昔から今まで反対し続けているに等しい。

僕のような出自の者からすれば、たとえ無実の親子が引き離される事例があり得るとしても権限強化に賛成せざるを得ない。何と言っても虐待は相当つらい。今でもまれに夢に見る。あの頃は悲しくないはずなのに眠る時によく泣いていた。こんな目に遭う子供がまだたくさんいると考えただけで胸が痛む。

しかし、行政や法律のありかたは当事者の感情だけで決められるものではない。すべての国民がこの問題について意欲的に話し合い、各々の最適な基準を示していくべきだと思う。

誰しも満開の花に囲まれる権利がある

刑務所の中でさえ子供に手を出した者は軽蔑される。児童虐待はその量刑の軽さに相反して世間で最も許されない罪の一つとして認識されている。事実、何の罪もない子供を一方的に痛めつけて殺すさまは明らかに人非人のそれであり、ほとんど酌量の余地はないかのように思える。彼らを悪しざまに言うのはあまりにもたやすい。

僕自身、フィクションでそういった人物が残酷な末路を迎えるとやはりすっきりするので、もちろんみんなと同じ処罰感情は備わっている。しかし、それでも彼らの生い立ちや心境について理解を拒絶したまま隔離して終えるのは現代人として相応しくないように感じる。

これは決して現実味のないうすらぼけた博愛を説いているわけではない。息を止め、唇を噛み締めながらでも彼らの心情を探る事がよりよい社会を築くためにどうしても必要なのだ。運と環境で人生のほとんどが決まってしまうのだから、結局は悪人もそれの犠牲者にほかならない。

聞けば虐待の大半は母親によるものだと言う。それは果たして女性に強い嗜虐性が備わっているからだろうか。違う。育児の過程で蓄積させられたストレスや怒りがそうさせているに過ぎない。今回の残虐極まる事件にも必ず実態が秘められている。

それは労働環境や人間関係かもしれない。あるいは彼らの生い立ちに原因があったのかもしれない。どの環境が人間の暴力衝動を増大させるのか緻密に精査して、徐々に問題の解決を図っていく形以外に悪事を減少させる方法はない。

誰しも満開の花に囲まれる権利がある。たとえ非道な虐待を繰り返した彼らにさえも、長年の葛藤と反省の末にそれは用意されている。そこまでの道のりは険しく遠い。

最後に、亡くなった女児の冥福を祈りたい。お花畑の中心で花の輪を作り、それを他の子たちと互いにかぶせあって、どこまでも透き通る無限の青空の下で、どうか安らかに暮らしてほしい。