原始の平等に学べ

今日、呆けながらテレビを眺めているとNHKで「人類誕生」と銘打たれた特番が放映されている事に気づいた。これが存外に優れた出来栄えで思わず見入ってしまった。NHKの作る映像にはなんとなく垢抜けない印象があったのだが、今やそうでもないらしい。

僕たちの祖先は極めて原始的だったあの時点で、怪我人を介護したり死者を尊ぶ感情を備えていたという。それらは決して精神的余裕がもたらしたものではなく、むしろホモ・サピエンスはしばらくの間ずっと弱々しい種族だった。弱いからこそ群れる必要に迫られ、そのためには弱りきった者をも保護しなければならなかったのだ。

つまり、動物的な弱肉強食の掟から脱却する事こそが人類の生存戦略であった。弱さを社会性と技術力で克服した結実として今日の社会がある。技術力は個人の能力に依存しない効率的な集団を形成し、社会性は窮地に陥った人々を救済してきた。けれども近年の社会はそんな人類の叡智を捨て去ろうとしている。

かつて人類は過酷だが平等だった。ボトルネック現象によって遺伝的多様性に乏しく、貧富の差も社会的地位の概念もほぼなかった当時、人間の自由意志が人生に影響を及ぼす余地は今よりずっと大きかったに違いない。本来の人生とはそうあるべきである。

僕は前々回の記事で人生のほとんどが運と環境で決まると論じた。しかし、実のところそれは社会の方向性に依るところが大きい。格差を容認する社会では相対的に自由意志の影響力が下がってしまうのだ。貧富や教育の差は有利な側に復帰の機会や競争しない特権までをも与える一方、そうでない側には意思決定の責任だけを背負わせていく。

ところが現実とは奇妙なもので格差が大きい社会ほど自己責任を強調する色が濃く、どちらかといえば不利益を被る側でさえもその責任転嫁をしばしば認めてしまっている。これはまさしく自由意志の毀損、自傷に他ならない。

今の人類はあまりにも色々と知りすぎているがゆえに不自由な時代への回帰を拒絶する。もちろん僕もそうだが、ひどい格差の中でなにひとつ能力を与えられずに競争を強いられる人々が、絶対に原始の人類よりも恵まれていると果たして言い切れるだろうか。なまじ他人と精密に比較できてしまうだけ現代の方が不幸かもしれない。

昔からこのような認識を持つ人たちは少なくなかった。彼らは近代において共産主義者や社会主義者と呼ばれた。それを実践した社会の末路を学んだ者からすれば、僕の言い分は極めて無学に映るだろう。そのまなざしを十分に受け止めた上で言いたい。本当の意味で共産主義や社会主義が実を結んだ事はこれまでに一度もない。

ソビエト連邦や朝鮮民主主義人民共和国といった国々はマルクス思想の正当な継承者ではなく、あくまで独裁を維持するための方便としてそれを利用したに過ぎない。事実、後の時代になればなるほど格差は拡大していき、国民の自由意志も縛られていった。

僕の思想が社会主義と近似するのは確かだが、必ずしも資本主義を捨て去るべきとまでは思わない。弱者を救済しうる高度な技術の発明に競争と利潤はつきものだからだ。公正な競争と利潤の適切な分配さえ怠らなければ、おのずと平等に一歩ずつ近づいていく。

重税をとられる富裕層にとっても、全ての国民に高度な教育や医療、生活支援などが与えられていれば、安定した社会で良識的な市民を相手に商売ができるのだから決して損な話ではないはずだ。資本の独占を狙うせいで不毛な競争が起きている。

もっとも、確かに現状では部分的な機会平等の実現でさえ極めて難しいと言わざるを得ない。しかし、少なくとも格差は認められるべきではないとの姿勢だけでも堅持して抵抗しなければ、既に言われているとおり当然の存在として容認されてしまうだろう。

近年、僕たちの自由意志はろくに機能していない。あたかもロールプレイを押し付けられているかのように、統計上の目盛りや折れ線に沿った人生を歩まされている。スタートラインやコースが平等でないレースに参加させられている。今こそ原始の平等に学び、現代人の手で自由意思の価値を取り戻していかなくてはならない。