戦前前世

歌や音楽で組織の一体感を図る試みは、なにも近代に始まったわけではない。僕たち人類の祖先があなぐらで暮らす時代から既に実践されていた。それは儀式の一環としてではあったが、組織力を維持するために決して欠かせない行事だった。

時代が進むと次第に愛情や悲哀など他の感情も取り入れられるようになり、共通認識を得るための行事から芸術性を伴った娯楽文化に昇華していく。人々は若葉の生え際に無垢な精神を見出し、秋の紅葉を拾って熟れた恋心を連想するに至る。

戦場ではどの国でも太鼓や笛で勇ましい律動と音を響かせ、戦士たちの意欲を高揚させる。不幸にも友が死した時は荘厳な節奏とともに悲しみに浸る。どんな時でも音楽は僕たちの感情に染み入り、震わせ、なんらかの感情を引き出してきた。

近代に入ると統治機構の高度化や人間心理の理解に伴って音楽が国民を操作しうる事が明らかになる。すなわち扇動的な国歌や軍歌のたぐいは、戦場のみならず日常生活や教育現場においても国家への奉仕精神や忠誠心を植え付ける上で至極有用であったのだ。

二度の世界大戦が終わり、自由主義や個人主義の気運が強まってくるとそれらの音楽はほとんど大衆の支持を失った。代わりに自由意志の発露や音楽表現の多様性に重きを置いたロックやジャズが流行しはじめ、これが今日の音楽シーンへと繋がっていく。

ところが軍歌をモチーフとする音楽が潰えたわけではない。友人間や地元の集まりを飛び越えて、国家や民族といった巨大なコミュニティに強い帰属意識や一体感を求める向きは今でも健在なのだ。これは必ずしも特定の政治思想を伴うとは限らない。

椎名林檎が「NIPPON」という曲を発表して話題になったのは記憶に新しい。歌詞で日本を「万歳 万歳 日本晴れ」、「地球上でいちばん混じり気のない気高い青」などと優越的に扱っているので、確かに国威発揚の側面が感じ取れる。とはいえ、ほとんど扇動の色は見受けられず、特段に批判される事はなかった。

しかし、後にゆずがリリースした「ガイコクジンノトモダチ」は異様に強烈だった。「この国で泣いて 笑い 怒り 喜び なのに国歌はこっそり唄わなくちゃね」との内容や「なのに 国旗はタンスの奥にしまいましょう」といった奇妙なフレーズにあふれていたからだ。

他にも「どうして胸を張っちゃいけないのか」とあるとおり、どうやら彼らは多くの日本人が国旗や国歌を抑圧していて、自国にプリミティブな誇りを持つ事さえ許されないと感じているようだ。けれども、国旗国歌法の制定や教育現場での国歌斉唱の強制などを考慮すると、僕にはどうも真逆に思えてしまう。

事実、この国では教職員が国歌を歌わなければ有無を言わさず解雇される。生徒も意図して歌わなければなんらかの咎を受けるだろう。一方、他の国ではスポーツの代表選手でさえ自由に国歌を否定する様子がしばしば見られる。以上を踏まえると、少なくとも日本社会が特別に国旗や国歌を弾圧しているとは到底言いがたい。

つまり、この曲は明らかな事実誤認に基づいて作られているのだが、そうは言っても物事の認識はそれぞれ異なるものなので、批判こそすれ流通に際して個人的に含むところは特にない。事実を理解した上でこの曲に感動した人がいるのならそれはそれで良い事だと思う。

そしてつい最近、かのRADWIMPSが新曲「HINOMARU」を発表した。なにやら有名な音楽グループが唐突に愛国歌を発表する流れができつつあるらしい。今度は日本のどこを持ち上げたのかと思いきや、歌詞を読んで僕はいたく残念な気持ちにさせられた。

歌詞の一部が明らかに不自然なのだ。古い言い回しと現代的な言葉遣いが奇妙にまざりあっている。「僕らの燃ゆる御霊は」の部分に至ってはそもそも単語の使い方からしておかしい。「御霊」は神や高位の人間に用いる尊称なのだから、自身に対して使うのは傲慢極まりない。

冒頭の「古(いにしえ)よりはためく旗」も違和感を覚える。日章旗を指すのなら「いにしえ」と表現できるほどの歴史はなく、他の旗なら「古よりはためたく旗」ではない。なんだか無理して古語を使おうとしている印象だ。

こうして見ると愛国心がどうのというよりは、昨今の流行りに乗じて「いっちょ噛み」したいがために作られた曲に聞こえる。オリンピックが近い事もあってなんとなく国民の一体感が高まりそうな歌を用意しておけばひと稼ぎできると考えたのではないか。

実際にTwitterを確認してみても彼らから特定の政治思想は感じ取れない。ネット上では著名なアーティストが次々と愛国歌を発表しはじめている現状に警戒心を強める声はあれど、個人的にはそれほど扇動をもたらす要素は見受けられないように思う。

ただ、やはりどうしても引っかかりは残る。なぜあらゆる愛国歌のたぐいは必ずと言っていいほど前時代的な国家観や民族観を称揚する内容になってしまうのだろうか。なぜ日本国憲法が示す平和や民主主義ではなく、平安時代の歌が伝える朴訥な慈愛の心でもないのだろうか。

聞けば国歌の「君が代」も元を辿ればラブソングだと言う。ところが明治時代以降は天皇を褒め称える曲に仕立て上げられてしまっている。最初はそうでなかったはずなのに、僕たちに与えられる「愛国」はいつも国家か権力者への忠誠や奉仕に収斂する。

今回、紹介したいくつかの曲はそう慌てふためくほどのものではない。言うまでもなくどんな曲を作る自由もある。けれども僕は、国家や民族の権威におもねる曲より、和琴を奏でて季節の遷ろいを唄う愛国歌を聴いてみたい。