ゴア表現今昔

ゴア表現の精細性は視覚文化の発達に伴ってますます進歩している。激しく殴打されれば身体が歪み、刺されれば夥しく流血する。人々はたとえ現実で体験した事がなくてもそこに現実感を見出してきた。たとえ仮想の出来事であっても。

自らが介入して自在に刺激を加えられる視覚文化ーすなわちゲームが登場して以来、この「現実感」はさらに重要性を帯びはじめた。当初は数色のドッドで構成された敵が光って消える程度の演出に過ぎなかったが、点や線の集合がやがて具体的なモチーフを形どるまでにそう時間はかからなかった。

90年代に入るとゴア表現はいよいよある核心に到達する。立体的なフィールドを歩き回って写実的な銃でもって人を殺せるようになったのだ。これまでは想像力を働かせなければとても人間や銃に見えなかったグラフィックが、この頃にははっきりとそう認識できる水準に達していた。

銃で撃たれた敵が叫び声をあげながら流血して斃れていく。そのさまは当時の基準で見ればかなり現実的に感じられた事だろう。この時代のフィールドは本物の3Dではなく、ただの平面を工夫して立体的に見せているだけなのだが、それでも革新的には違いない。立体感は写実性を満たす上で決して欠かせないものだからだ。

もちろんこれはまだ序の口に過ぎない。流血が当たり前の時代になると次はキャラクターの当たり判定や反応に手を入れはじめた。足を撃てばうずくまって痛がり、頭を撃つと即死する。現実に即したリアクションの多様化は写実性に貢献を果たした。

21世紀に入るとゴア表現は次の段階に進んだ。すなわち身体欠損表現である。これまでにも即死判定の一環として首が飛んだり、肉塊になるといった描写はあったが、プレイヤーの攻撃によって自在に細かく身体欠損を発生させられるゲームはとても稀であった。

技術的課題はもちろん、表現規制との兼ね合いも無視できない。当時、非常に厳格な規制を行っていたドイツではゲーム中での殺人自体が問題視され、普通の人間に見えないようキャラクターを緑色や紫色に塗色しなければ販売できなかった経緯がある。

そんなドイツも今では際どい表現で定評のある「Fallout 4」を無規制で販売できるほど緩和が進んでいる。一方、日本は業界が弱腰なのか自主規制を実施する傾向が強く、特に身体欠損表現はしばしばカットされる。画一的に規制されるわけではないので、時節柄や当局の気分によるところが大きいのだろう。

「Soldier of Fortune」シリーズはその身体欠損にこだわる作品として一世を風靡した。幾多もの当たり判定を死体にさえ実装する徹底ぶりは当時のゲーマーを大いに震撼させた。僕自身、中学生の頃に体験版を遊んでかつてなく驚いた記憶がある。それはあたかも猟奇殺人を追体験しているかのようだった。

正直に言うとシューターとしての面白さやストーリー性はそれほどでもない。元傭兵の特殊部隊員が悪辣なテロリストと戦う、極めてありきたりな筋書きだ。それでも撃つたびに異なるリアクションが得られるだけで十分楽しかった。

イキりたおしていた中学生の時分、この作品を学校で喧伝しては友人を家に呼んで自慢げにプレイしてみせたものだ。2007年頃に2002年発売のゲームを自慢するさまは相当痛々しかったに違いない。クラスメイトがあの頃の僕の振る舞いを忘れてくれている事を祈る。

話を戻そう。つまり、ゴア表現のベースはこの時点でほぼ完成されていたと言える。身体欠損や臓器が露出する表現そのものは既に出来上がっていた。後はひたすらポリゴン数や解像度を増やしていけば、おのずと現実感も上積みされていくものと思われた。

ところが際限のないゴア表現の過激化が、やがて本来の目的意識を変えさせてしまう。すっかり肉片や流血に慣れたゲーマーたちはそれらを「お約束」として捉えはじめたのだ。現実感を与えるための表現が小粋なジョークに変遷した瞬間であった。

それ以来、大手のゲーム制作はジョークとしてのゴア表現を追求する立場と、現実感を守るためにあえてゴア表現から距離をおく立場の二つに分かれた。近年新しくリメイクされた「DOOM」などは前者に入る。発表会ではプレイヤーが悪魔の肢体をもぎとるたびに笑いと拍手が巻き起こった。

実際「DOOM」はすごく面白い。憎たらしく強力な悪魔が自身の操作で肉塊に変わっていく様子にはいたく快感を覚える。操作や敵の種別に応じて引き抜ける身体の部類も変化するのはまことに大した工夫だと思う。おのずと毎回違った殺し方を試したくなる。

一方、近年の「Battle Field」や「Call of Duty」、「Uncharted」などの写実性にこだわったゲームでは流血すら気持ち程度にしか見られなくなった。どの作品もD指定以上で販売されている以上、単なる規制回避が目的でないのは明らかだ。

おそらくゲーマーの「お約束」に注意が向いて本筋のドラマ性が希釈される事態を恐れたのだろう。制作側が主人公への感情移入を期待しているとしたら、流血を越えるゴア表現はかえって逆効果をもたらしてしまうと考えたのかもしれない。敵がゾンビやモンスターでもない限り、もはやそれを加えるのは悪手のように思われた。

しかし「The Last of Us Ⅱ」のゲームプレイ動画を観るとそんな認識はたちまち吹き飛んでしまった。まるで二極化していたゴア表現の隙間に割って入り、内部で膨張したかのようだった。敵にさえ同情しかねない鋭利な残忍さがそこには秘められている。

特に敵をナイフで突き刺す時のエリーの表情や息遣いが凄まじい。生への渇望と殺人への嫌悪、さらには憎悪までもが綯い交ぜになった心情がうかがえる。刺された時や不意を突かれた際の敵も、驚きと恐怖の入り混じった生々しい表情を見せる。あたかも現実の殺人を目の当たりにしているかのようだ。

それだけでは飽き足らず、車の下をも探索してまわる賢さを備える一方で、奇襲されると慌てて的を外す人間臭ささえも備えられている。どんな技術を用いたらこれほど高度なNPCを実装できるのだろうか。明らかに業界の先を進んでいる。

武器の刺さり方もとんでもなくえげつない。これまでゴア表現と言えば小気味よく切り落とされたり、弾け飛んだりする内容が多かったが、こうして見ると中途半端にえぐれる方がずっと恐ろしくて痛ましい。トンカチに至っては顔面に埋まるほどだ。なんと残酷な事か。

前作では年齢のせいでほぼ無力だったエリーも、今作では19歳に成長して主人公の役目を得た。唯一ゾンビウイルスの抗体を持っていた彼女は、本来であれば前作でワクチンを作るためにその身を犠牲にするはずだったが、ジョエルの独善によって救出されて今に至る。

数年間で大幅に組織や人間関係は変わらないであろうから、おそらく動画中の敵は前作でワクチンを作ろうとしていた武装組織「ファイアフライ」か、残忍な野盗集団「ハンター」のどちらかと思われる。最後のシーンでエリーが意図的にとどめを刺したところから、強い憎しみか恐怖を抱いていると考えられそうだ。

わざわざ人員を割いて執拗に追いかけられている様子を見ると、どちらの場合でも敵はエリーの素性に気づいていると見るべきだろう。ところが今作のエリーはもはやジョエルに守られる存在ではない。前作でも頑張ったとはいえ今や立派な主人公なのだ。

もともと素晴らしいドラマ性を持った作品とはいえ、ここまでキャラクターの動作や反応を刷新してくるとは思いもよらなかった。このゲームによってゴア表現は、写実性を支えていたかつての伝統に立ち返った。前回の記事で本作を取り上げなかった理由はここで紹介したかったからにほかならない。

創めに計算機科学の神がコンピュータとプログラミング言語を造った。神は云った。「点と線と光あれ」。すると点と線と光が出来た。またゲームの神は自らの形に形どって人を造り、銃で撃ち殺せるようにした。神が作った総てのものを見ると、それは甚だよかった。