ページをめくり続ける

昨日、インターネット上の友人らとの会話で人間関係の不和が話題にあがった。そのうちの一人曰く大学の学友に幼稚な振る舞いをする人たちが多く、付き合いがたいとの話だった。なんでも未成年の身分で飲酒行為を婉曲的に称揚したり、単純に雑談の中で品性に欠ける様子がたびたび見られたらしい。

僕はその会話にはあまり積極的には加わらずほとんど黙って聞いていた。成人にも満たない子供のする事にいちいち注文などつける気にはならない。学生時代の知人に大麻を栽培して捕まった人がいるが、あれでさえ大して驚きはしなかった。少々の飲酒や猥談で済むのならまさしく児戯に等しい。

それ以降も各々の人間関係にまつわる会話が交わされ、最終的に自身に害をもたらすかもしれない人間とは極力付き合うべきではないとの結論に達した。確かに常識的な見解だ。合理性や利益を考えたら至極まっとうな意見に感じられる。

とはいえ、長年生きてきた結果としてその境地に到達したのならまだしも、まだ若人の段階でこの考え方で生きるのは少々もったいないようにも思う。相手が株価などの経済指標であれば損切りは重要だが、人間にはまだ大きく変化する余地がお互いに残されているからだ。

ましてや若人同士ともなればその可能性は飛躍的に高まる。とんでもない愚か者とみなしていた人間が、数年後に理性と知性を湛えた賢人に成長する例は決して少なくない。そもそも教育機関とは大半の愚人を訓練して底上げさせる場所なのだから、ろくでもない者ばかりだとしてもなにひとつおかしくはない。

ところが長年インターネット上でコミュニケーションを重ねてきたり、他人が舌禍を招いて身を滅ぼすさまを見ていると、そのあたりのリテラシーが中途半端に身についてしまうのか周囲の勝手な振る舞いが許せなくなってしまうようだ。知識が不寛容を呼ぶ不幸な事例と言える。

そのせいかインターネット上の人間関係についての言論でも、そりのあわない人たちと理解しあう術よりも、彼らを敵とみなして追い詰める願望や愚者として扱って遠巻きにする対策ばかりが語られる傾向にある。なんならそういう内容のテレビ番組も放映されている。

本来であればこの種の方策は、一端の社会人が理不尽な組織の中で生きていくためにやむを得ず選ぶ手段であったはずだ。しかし、それゆえに少しでも厄介事が起きたら人間関係を気軽に整理する生き方が「大人らしい」との認識を若者たちに与えてしまっているのかもしれない。

中には若者でもこれまでに辛い人間関係ばかりを強いられた人たちもたくさんいるだろう。彼らが逃避しか選べないのは当然致し方ない。しかし、もし自分はそこまでは切迫していない、ほんの少し面倒くさいだけ、と感じているのであれば、あえてその「愚か者」と積極的に付き合ってみる事を勧めたい。

もしあなたや相手も若者なら、しばらく付き合えば思いほか愚かではなかったと気づくはずだ。人間関係とは重厚なハードカバーの連続小説よりも気の長い娯楽である。最初の数ページではその人の本質など到底理解できはしない。

たとえ何か社会的な素養が致命的に欠落していても、他になにか目を見張るような技術を持っているかもしれない。たとえ本当になにひとつも技能がなかったとしても、隣にいるだけで温和な気分にさせてくれるかもしれない。その瞬間にたどり着くには熱心にページをめくり続けるしかない。

幸か不幸か今はどこでも人間関係を作れてしまう。ちょっとでも気に入らなければ全て投げ捨てても、すぐに次の人間関係を探しに行ける。それはそれで選択肢の一つなのかもしれないが、ろくに読まれずに打ち捨てられた本を見た時と同じ一抹の寂寥さを覚える。