ひまわりを探している

生涯をかけて言い続けたい。人生のほとんどは運と環境で決まる。人間の自由意志は否定しないが、結局はそれも先の二つによって形どられるものだ。ごく一部のまれな成功例を持ち出して精神論や努力を訴える人たちはたいそう恵まれている。彼らの目に朽ち果てて実らなかった努力の亡骸は映らないのだろう。

僕の父は実にひどい人間だった。彼は機嫌の波が異常に激しく、いつ暴力を振るわれるかまったく予期できなかった。殴られるたびに鈍痛が脳髄に浸透していき、恐怖と無力感が僕の中から虚無な従順さを生み出していく。そこには努力の余地などない。痛みを恐れる動物的な本能のみがある。

一方、父は上機嫌であればとても魅力的な人物にも見えた。事実、母と離婚してからも彼はすぐに再婚していたし、後に本性が露呈して再び離婚しても別の女性を連れてくるまでにそう時間はかからなかった。中には連れ子を伴う場合さえしばしばあった。… 続きを読む

二度目の機会ならある

なにかと悪い方向に物事を考えるくせがある。いかにも企業の危機管理部が提起しそうな「最悪の想定」を大幅に越えて、ほとんどサスペンスかホラーの域に到達するまで妄想をやめられない。そのせいか現実の話ならともかく、とんとん拍子にうまく展開が進む手合いのフィクションはどうにも苦手だ。

これは必ずしもリアリティの話ではない。創作だからこそどんなに極端に後味が悪くても楽しむ事ができるのに、わざわざ底抜けにお気楽な内容にしてしまう意義があるだろうか。せっかく刺激的な人物や設定を作ってもそれでは自ら魅力を殺いでしまっているようなものだ。

なんでも、聞いた話では二度目の人生がどうとかといった題名の作品が炎上したらしい。日本刀で戦時中に数千人も殺した元軍人が、老衰で逝去した後に異世界で活躍する話だそうだ。ありきたりな筋書きだが驚くべき事に十八巻まで刊行されていてアニメ化も決定していた。… 続きを読む

洛陽を思えば

京都で上京と書くとそれは「かみぎょう」と読まれる。間違っても首都に行く意味とは見なされない。彼らにとって東京は上るものではない。むしろ東下り(あずまくだり)という言い回しさえある。千年の都を自称する気高さは伊達ではない。

そんな京都人も府外の相手ならともかく同郷で優位を保つのは難しい。下の地図の範囲内にある地域は「洛中」と呼ばれて一定の評価を得るが、ここから外れた人たちは「洛外」として実質的に外様の扱いを受けるからだ。

では洛中に住んでいれば安泰かと言えば決してそうでもない。京都御所の周囲を頂点として下っていくほど地位も徐々に下がっていき、下京区ともなれば露骨に「シモの方から来たのかね」などと蔑まれてしまう。同様に中京区も上京区には頭が上がらない。… 続きを読む

その男は刃物で性交する

昔、強姦を犯した性犯罪者に去勢を施す国があった。性器がなければ再犯率が下がると考えたのだろう。事実、性犯罪率は下がったかのように見えた。ところが人間の狂気は一物を削ぎ落としたくらいで容易に萎むものではない。

ある男は数多の強姦を繰り返してきたが、去勢を契機にまったく別の性癖が開花した。刃物である。挿入を通じて得られぬ快感を刃物によって代替しようとしたのだ。彼にはもはや男根は必要ない。刃物が彼の永遠の男根となった。

2004年、小学3年生の女児が男に刺殺される事件が起きた。それから14年の年月を経て犯人が衆目に晒されるに至る。その高く積み上げられた犯歴は市民を大いに震撼させた。まるで創作物から抜け出してきたかのような猟奇を内心に湛えていたからだ。… 続きを読む

ゼロを下回る生

異なる方向から見ても文字や単語として認識できるデザインをアンビグラムと言う。どう見ても一つの言葉にしか見えないはずが、逆さにすると正反対の意味のものに変化しうる。物事の多面性を視覚的に説いているようでたいへん面白い。

昨日、Eテレで「ゲーム障害」についてのドキュメンタリー番組が放送されていた。なんでも近年はゲームにのめりこみすぎて生活に支障をきたしている人たちを、一種の疾病患者として捉える向きが医療機関の間で拡大しているらしい。

これはゲームが脳機能の低下を引き起こすと主張する「ゲーム脳」の概念とは大きく異なり、あくまで「ゲーム廃人」を比較的穏当な形に言い換えたものだと思われる。実際、前者に根拠らしい根拠は見られないが、後者は特に珍しくはない。… 続きを読む