誠に遅まきながら、森見登美彦著「夜は短し歩けよ乙女」を読んだ。同著者の作品といえば「四畳半神話大系」に触れたきりだったが、折よくKindle Unlimitedの対象作品に含まれていたので手に取った次第である。
ひとまとめに言うと、とにかく酒が飲みたくなる話だった。表題作の章にやたらと酒を飲むシーンが出てくるのだ。続く後の章に酒はろくすっぽ登場しないのに、僕はずっとそのことばかりに気を取られていた。同著者の鬱陶しくも美しい筆致で描かれたそれは、下戸の僕には存在しないはずの器官をいたく刺激せしめた。
下戸には二つの種別が存在する。そもそも酒の味を好まず飲まない者と、酒の味が判るがアルコールに耐性のない者だ。前者については致し方ない。栄養価に優れた食品を忌み嫌うことには健康上の懸念があるが、酒は元来飲まずに済むなら極力飲まない方が望ましい代物である。
しかしまったく遺憾ながら僕は後者の側に属する。酒の味が判っても、アルコールが血中に溶け込んだ次の瞬間には激しく酔いが回る。酔いが回ると、どういうわけか途端に酒がまずくなる。おそらくあまりにも耐性がないゆえ脳みそが「これ以上飲むな」と警告を発しているのだろう。
したがって、僕が酒を楽しむには酔いが回る前に飲みきれる分量でなくてはならず、かつ飲みやすい味わいで、なによりアルコール度数が十分に低くなくてはならない。これらの制約を守ると、まずもってウイスキーなどの蒸留酒は真っ先に選択肢から消える。以前はコーラで10:1くらいまで阿呆みたいに薄めて飲んでいた時期もあったが、ウイスキーの妙味が判らなくなる上に酔いだけは覿面に回るという始末の悪さだった。他方、ストレートで飲むにしてはワインや日本酒は度数が高すぎる。結局、ビールしか飲める酒はないとの結論に至った。
とはいえビールはビールで別の問題がある。言わずと知れた銘酒、ヱビスビールやプレミアム・モルツは確かにうまい。だが、僕がこれらをうまいと感じるのはせいぜい三百五十ml缶の半分までだ。この手の本格ビールは、なまじ味わい深いせいで飲む速度がどうしても遅くなってしまう。そしてひとたび酔いが回ると、日本が誇る上質なビールもたちまち頭痛促進剤に早変わりする。
では、いわゆる発泡酒や第三のビールはどうか。チューハイやリキュール類はどうか。あれらは、単純に味が悪い。近年は人工甘味料を使わない製品が増えてきて幾分マシにはなってきているが、それでも本物のビールには遠く及ばない。一口のウイスキーで赤面する僕でもその程度のことは判る。
そこでいよいよ選ばれたるはメキシコビールの代表「コロナビール」である。コロナビールは、薄味でとても飲みやすい。それでいながら決してまがいものではない。分量が適切で、飲みやすく、アルコール度数が低い。僕に課された制約を満たす唯一の酒だ。同系統のビールにハイネケンやバドワイザーがあるが、こっちは微妙に合わなかった。
さてずいぶんと前置きが長くなったが、ここからが酒を飲んだ日の日記となる。しかし日記といっても、僕の手にあの琥珀色に燦然と輝く液体を湛えたガラス瓶はまだ握られていない。実際に買いに行くのは明日か明後日の話だ。つまり、本エントリは日記と予定表を兼ねた体裁をとる。今日は未来の出来事を書き、いつの日かその通りに行動する。
ということは、アクシデントに備えて条件別にルートを用意しておかなければならないな。
${x}$ルート
九月${x}$日。天気は快晴。僕は今日こそ酒を飲む決意を固め、買い出しにかこつけてコロナビールを手に取る算段をつけた。この酒は普段通っているスーパーでいともたやすく入手できる。できるが、コロナビールを嗜む連中はみんな知っていることがある。こいつを完全に楽しむには、ライムが必須だ。 ライムを備えぬコロナビールは、具のないカレーと同じくらいには侘しい。
しかし僕の行きつけのスーパーはライムを取り扱っていない。そりゃあ、きゅうりやピーマンと比べたら買い求める人は確実に少ない。バイヤーも様々な熟慮の末にライムを省く――コロナビールを売っていながらライムを省く――という極めて厳しい決断を下したのだと思う。僕はあえてそれを責めない。十数分ほど足を延ばせばたどり着く商店街の青果店で、ライムが常時販売されていることを知っているからだ。
「暦上は秋でも……」などと言うものの、さすがに先人の経験則が積み重なっているだけのことはある。照りつける太陽や夏同然の気温とは裏腹に、確かな秋の風が肌身に感じられる。蝉はもう鳴いていない。通りの最奥に屹立するイオン帝国の威容をよそに、この街の商店街は今日も一定の賑わいを見せていた。
僕は件の青果店に入場すると、定位置に置かれたライムをむんずと掴み取った。レジの途中にある冷蔵庫から特製のぬか漬け(140円)をせしめ、顔なじみの女店主との会話を適当にやり過ごして会計を済ませた。いつもなら季節の果物も買っていくが、今回はライムだけが目当てだ。ぬか漬けは……ちょうど切らしていた。執筆時点における冷蔵庫内のぬか漬け残量から推測するに、たぶんそうなる。
目的のライムを手中に収めた僕は来た道を戻り、行きつけのスーパーで必要な食料品を買い揃えた。そしてそう、忘れてはならない。今日はコロナビールを買いに来た。こいつが欠品になっているところは見た試しがない。意気揚々と買い出し用リュックに荷物を詰め、帰宅の途についた。
${y}$ルート
九月${y}$日。天気は土砂降りの雨。こんな日でも酒を飲むと決めた以上は行かなければならぬ。どのみち買い出しに赴かなければ食料の備蓄が心許ない。僕はポンチョに傘という季節感もへったくれもない出で立ちで、夏のものとも秋のものともしれない雨雲を仰ぎ見つつ水の散弾に立ち向かっていった。
生ぬるい雨粒の猛攻を傘で受け止めながら、はたと思い出したのはライムの重要性である。コロナビールを嗜む連中はみんな知っていることがある。こいつを完全に楽しむには、ライムが必須だ。 ライムを備えぬコロナビールは、薬味のないそうめんと同じくらいには侘しい。
僕は傘を差す技能についぞ恵まれなかった人間ゆえ、ライムを取り扱う青果店にたどり着いた時にはポンチョのありがたみをすっかり知るところとなった。繊維の表面に水をたっぷり蓄えたまま青果店に入場すると、辺りに雨の欠片を振りまいて意中の品を掴み取った。来た道を濡れて戻らなければならないことを考えると憂鬱な気分になる。顔なじみの女店主はポンチョとマスクで皮膚をあらかた覆いつくした僕を見て人物の特定を早々に諦めたのか、一切話しかけてくることはなかった。
外に出ると、ますます雨足は強まっていた。これはもう、わざわざ行きつけのスーパーにこだわる方がかえって損に思えてくる。通りの奥にあるイオンを頼れば、およそ同等の食料品が手に入るだろう。そこから家に直帰すれば、雨に濡れる時間をいくらか短縮できるはずだ。
かくして僕はイオンで所定の買い物を済ませた。慣れていない店だと目当ての品物同士を結ぶ最短経路が判りづらい。無駄に時間を食ってしまったが、それでもコロナビールは手に入った。どんな店でもこいつは必ず売っている。マシンガンの一斉掃射のごとく無慈悲にばらまかれていた雨も予想に反してすっかり落ち着き、外はあたかも停戦協定が締結された戦場のような静けさだった。僕は傘を閉じ、ポツポツと天から気まぐれに零れ落ちる雨粒を受け入れて帰った。
${x+y}$ルート
帰宅後、なぜか唐突に眠くなったので小一時間ほどの昼寝をした。目覚めは良い方だったが、どうにも奇妙な気分にとらわれていた。窓から外を覗くと真夏の残滓たる太陽が、残滓というにはあまりにも溌剌と輝いて見える。はて? 帰路では雨足こそだいぶ衰えていたものの、依然として空は分厚い雨雲で覆われていた。一時間足らずでここまですっかり晴れるなんてことがあり得るのだろうか。
窓から身を乗り出してコンクリート舗装された路面を見やると、さらに不可解な光景が目に入った。どこもかしこもカラッと乾いていてまったく湿り気がない。通常、どんなに急速に晴れたとしても道路から水分が抜けきるまでには相応の時間経過を要するはずだ。
そこで僕は記憶違いに気がついた。一体、なにを考えていたのか。もともと天気は晴れていたではないか。秋の風を肌身に感じた覚えがある。雨が降りしきる中を歩いた覚えも同様にあるが、そっちは昼寝がもたらしたイタズラに違いない。きっと夢の内容と現実の記憶を混同したのだろう。ほら、見たまえ――僕はクローゼットに掛かっているポンチョに触れた。大雨から帰還したというのなら、こんな場所に放置するわけがない。もちろん、水滴は一つもへばりついていない。
おおかた得心がいったところでにわかに塩気の利いた食べ物をつまみたくなった僕は、自室から出て冷蔵庫を漁った。そうだ、こんな時のためにぬか漬けを買っているのではないか。あそこの青果店で売られている特製のぬか漬けはとてもよくできている。市販の半端に甘さを残した漬物類とは違って、しっかり容赦なくしょっぱい――
――おかしいな。どういうわけか、冷蔵庫内をくまなく探してもぬか漬けが見当たらない。ちょうど切らしていたので、間違いなくライムのついでに買ったはずなのだが。ひょっとすると、あまりにも雨足が強すぎたせいで気が逸り、買い忘れてしまったか? ……いや、今日はずっと快晴だったとさっき納得したばかりではないか。
どうも奇妙な気分だ。得体の知れない焦燥感が全身を駆け巡った。殊ここに至っては、酒を飲むしかあるまい。酔ってしまえばこんな些末な不安は消えてなくなる。帰宅してすぐ冷蔵庫に入れておいたおかげで、ライムもコロナビールも十分に冷えている。僕はさっそくペティナイフでライムを輪切りにした。コロナビールのクラウンコルクを栓抜きで剥ぎ取ると、そのままライムを瓶の中に突っ込んだ。これこそが正式な作法なのだ。
いよいよ僕は瓶を片手で持ち上げ、勢いをつけて呷った。ほどよい炭酸とマイルドな苦味が一瞬で舌を通り過ぎ、たちどころに喉を潤した。琥珀色の液体が燦然と輝きながらガラス瓶の中で波を打つ。僕が瓶の傾斜を垂直に戻して小休止の構えをとると波は止んだ。ライムの鮮烈な酸味がコロナビールの軽快な味わいと折り重なって、この上ない調和をもたらしている。僕はすぐに次の波を作った。
寄せては返し、幾度となく波を打っていると、やがて瓶の中は空になった。この勢いで飲まなければ僕はビールを美味しく飲むことができない。飲み干して間もなく、予想通りに強烈な酔いが回ってきた。身体がカァッと熱くなる。こうなると後はもう、ただベッドに臥して眠るばかりである。わざわざ鏡を見るまでもなく、自分の顔が真っ赤に染まっている様子がありありと想像できた。
とはいえ、やはり塩気の利いた食べ物が欲しかった。アルコールを摂取したために尚更強くそう感じる。切り分けたライムの残りを冷蔵庫にしまうついでに、万が一の見落としがないか朦朧とした視野で確認すると、果たしてぬか漬けはそこにあった。よりによって冷蔵庫の真ん中の段の、一番よく見える場所に袋ごと鎮座していた。
あるではないか! さっき冷蔵庫内を探索した際に一向に見つからなかったのは一体どういうわけなんだ。こんな目立つ場所に自ら置いておきながら、この有様。まるで酒を飲む前から既に酔っていたみたいではないか。苦笑しつつぬか漬けの袋をつまもうとすると、なぜか指先は袋を突き抜けて虚空を掻いた。
不可思議な現象に理解が及ばぬまま再び指先で袋をつまもうとするも、やはり突き抜ける。業を煮やした僕は手のひらを広げて袋全体を掴み取ろうとした。しかし、手はおのずとじゃんけんの「グー」の形をとり、ぬか漬けの袋が手中に収められることは何度繰り返してもなかった。あるはずのぬか漬けの袋に一切触れられないのだ。
これは――まずいな。久しぶりに酒を飲んだせいで悪酔いしてしまったかもしれない。判断力の低下した頭脳でなんとかこの現実的な結論に達したが、ぼやけた視界は未だにぬか漬けの袋を捉えていた。眼前のぬか漬けは実在するのかしないのか。いずれにせよ、今すぐぬか漬けが食べられないことに変わりはなさそうだった。
僕は諦めて冷蔵庫を閉じた。横になって酔いが覚めた頃にはなにもかもはっきりしているだろう。千鳥足で自室へ戻りベッドに倒れ込むと、同時に強烈な眠気が襲ってきた。ただちに眠ってしまいたかったが、僕に残された理性的な部分が睡魔に抗って自説を主張しはじめた。
そいつの言い分によると、僕はいつの間にか分岐の境界に足を踏み入れていたらしい。そこでは僕の取りえた二つの選択の結果が互いに重なりあって存在している。晴れの日に買い物をした分岐、雨の日に買い物をした分岐。ちゃんとぬか漬けを買った分岐、うっかりぬか漬けを買い忘れた分岐。ライムとコロナビールは取りえた選択の両方で買っていたが、ぬか漬けはどうやらそうではなかったようだ。だから、どちらともつかない存在としてしか冷蔵庫にいられなかった。あのぬか漬けは、いわば量子論的なぬか漬けということになる……。
はあ、なにが理性的だ。こんなSFじみた話があってたまるか。夢に違いない。そうだ。昼寝をした後の出来事そのものが夢であって、現実の僕は今もなおグースカと惰眠を貪っているのだ。ここで寝てしまえば、きっと現実で目が覚める。しかしそれにしても、どうせ夢に見るなら恒星間宇宙船で銀河の果てを旅する話とかが良かったな。
よりによって、空想のスケールがライムとコロナビールと、食うに食えない量子論的ぬか漬けとは……僕は等身大の失意に打ちひしがれたまま、深い眠りに落ちた。
まとめ
こうして実際に書き起こしてみると、予想よりもはるかに多くのルートが存在しうることが判った。まさかアルファベットを半分も消費するとは思わなかった。当初はなんとなく格好つけて${x}$を先頭に据えるつもりだったが、念のために${a}$から順に進めておいて本当に良かった。僕は命名規則にうるさいたちなので、${xyz}$を使い果たした後に他のアルファベットをしれっと使うような真似はしたくない。
既に書かれている通り、いくつかのルートではコロナビールが買えずやむを得なくハイネケンで妥協したり、逆にライムの方が売り切れで魅力半減のコロナビールをちびちび飲んでいたりしている。これは誠に残念な結末と言わざるを得ない。こうした事態を防ぐためにも物品の入手可能先は余分に把握しておくべきだろう。
了