ある日、すし詰めの電車から吐き出されて帰宅すると、そこには妖精がいた。なにを馬鹿な、と思ったが事実として目の前にいる少女は妖精としか言い表しようがなかった。人形に似た華奢な身体と、ささやかに揺れ動く透き通った羽根を持つ彼女に他に適した形容は見当たらない。じきに目が合うと少女は腰掛けていたベッドからぴょんと飛び立って宙に浮き、僕と同じ目線の高さに立った。
「わあ、やっと私が見えたんだ! どうもはじめまして、人間さん」
「どうも、はじめまして……?」
挨拶をされたのでつい反射的に返したものの、直後には手で口を抑えていた。たちまち脳裏で思索が行き交う。まずい、どうやら僕は気が狂ってしまったらしい。物書きの端くれとして時に人生と物語の区別が曖昧なふりをしているのは、少なくとも本当の意味では決してそうならないことを前提に置いている。幻覚と会話するほど「区別がつかない」のはさすがに洒落にならない。
いつからだ? 僕はいつからここまで気が狂った? 昨日も一昨日も、今までずっと人生の責務をまっとうしてきたじゃないか。生活習慣にも運動習慣にも人一倍気を遣ってきた。なんの兆候もなく幻覚が現れるほど病状が進行しているのは納得がいかない。そこではた、と冷たい悪寒が背中を伝う。
実は前からおかしかったのか? 普通の生活ができていると思い込んでいたのは僕だけで、周りからすればとっくに異常者だったのかもしれない。今日も本当は通勤なんかしていなかった可能性すらある……。疑念が疑念を呼び、見るからに険しくなっていたであろう僕の顔つきを心配したのか、妖精の少女が優しく声をかけてくれた。
「どうしたの……私のこと、怖い?」
僕はさしあたり幻覚を無視して机の前に座り、パソコンを立ち上げて職場のSlackを呼び出した。直近の履歴を遡ってみて、束の間の安堵を得る。自分の記憶とチャットの内容は概ね合致しており、不審な点は特に見当たらない。同様にプライベート用の他のワークスペースや、Discordの各サーバの履歴、SNSの投稿なども探ってみたが、いずれも記憶との相違点はなかった。
もちろん、だからと言って心から安心はできない。現にこうして幻覚が現れた以上――妖精の少女はぱたぱたと飛び回って「ねえ、お話しようよ」とか「あれ、また見えなくなっちゃった?」とか言っている――もはや僕の主観的な認識が現実と一致している保証はない。誰かを呼んできて履歴を音読させても、それすら自分に都合の良い内容としてしか理解できないかもしれない。このパソコンも、キーボードの打鍵感も、住んでいる部屋さえも、なにもかも幻覚かもしれない。
そもそも初めて見る幻覚が妖精の少女なのも社会的に好ましからざる傾向だ。幻覚に隠れた願望が秘められているとしたら、僕は深層心理下において小児性愛的な傾向を抱えていると判断されかねない。そうでなければ親子関係や育児に対する憧れだろうか。模範的な人生を歩んでいる同世代の友人への羨望が表れているのだろうか……。このように、ひとしきり最悪な心情を想定し続けると逆に気持ちが静まってきた。仕事の障害対応時に得た知恵である。
こうなった以上は焦っても仕方がない。インターネットで見つけた近所の精神科にWeb予約を入れた後、僕は通常の生活ルーティーンに立ち戻った。今日は筋トレの日だ。いつも通りプッシュアップバーを用いた腕立て伏せからメニューを開始する。頭がおかしくなっても筋肉は裏切らない、と言いたいところだが、今となってはそれも分からない。しかし、この肉体の確かな疲労感、筋繊維が引き伸ばされる圧迫感がまるきり嘘とは信じられない。妖精の少女はメニューが粛々とダンベルカールに進んだあたりで根負けしたのか、ベッドの隅に弱々しく腰を落ち着けていた。たとえ幻覚でもいたいけな子が落ち込む姿を見るのは悲しい。
仕上げの腹筋ローラーで筋トレを終えるとシャワーで汗を流す。一日のルーティーンを一通り済ませた後でベッドに座り、そこでようやく妖精の少女と相対した。隅で体育座りをしていた彼女だったが、目が合うと遠慮がちに微笑んだ。「あの……私とお話してくれる気になった……?」僕はごく短く答えた。「会話をする準備をしていたんだよ」途端に、花が咲いたように表情がぱっと輝く。「そうだったの? ありがとう!」
実を言うとルーティーンをこなしているうちに幻覚が自然に消えてくれる方に賭けていたのだが。消えたり現れたりするなら症状としては軽微な部類で条件も探りやすい。しかしここまではっきりと見えてしまっている以上は、やはり決着をつけるしかない。自分の幻覚の出来栄えを確かめるのだ。会話で破綻をきたした箇所が僕の想像力の限界だ。想像を上回らない存在は恐れるに足らない。恐れなければ治療にも幾分取りかかりやすい。
「さっそくだが……いくつか質問していいかな。率直に言って、君のような……生き物は見たことがない。君も僕のような生き物を見るのは初めてじゃないか?」
「私はそうでもないけど……うん、いいよ! なんでも聞いて!」
妖精の少女はえへん、と胸を張った。
あるいは……万に一つ、いや、億に一つだが……本当に神秘的な出来事が起こっている可能性も、一応は考慮に入れておきたい。そんな大それた欲望を堂々とまろび出せてしまうのも、こうして異常者の色が濃くなった今だからこそできる振る舞いである。 牛と一緒にUFOに吸い込まれるのでもいいし、ある日突然に超能力に目覚めるのでもいい。なにか人知を超えた異常事態に巻き込まれてみたい……などと、図々しくも安定した暮らしを得ている身分で願っているのだ。きっと多くの人々が少なからずそうなのではないか。もし億に一つに当たれば、僕の場合はさしずめ妖精族とのファーストコンタクトを行っていることになる。
「ねえ、人間さんはお話する時にだんまりになるの?」
「あ、いや、そういうわけではないんだけども……聞きたい話がたくさんあったので」
すっかり長考していたからか彼女の表情に険しさが戻りかける。僕は気を取り直して質問を始めた。
「君は……その、どこから来たのかな……異世界……とか?」
まるで思春期の少年が隣の席の子と初めて会話するみたいなぎこちなさだ。幻覚を相手にするには物怖じしすぎだし、億に一つで本当に未知の知的生命体なら段取りが悪すぎる。そんな懸念をよそに目の前の妖精は羽根を広げて宙に浮いたかと思うと、前もって用意していたような仕草で話しはじめた。
「えっと、地球がこの辺にあるとしたら〜私たちは〜」そうして宙の一点を小さな指先で指し示した後、部屋の対角の地点を指して飛び移り「ここからびゅーんって飛んできた宇宙移民なんだよ!」弧を描いて元の位置に舞い戻ってきた。
なるほど、見た目が妖精だからファンタジーかと思いきや舞台設定はSFなのか。残念ながら億に一つの見込みは十億に一つに後退してしまった、と言わざるをえない。話が僕の好みに近すぎるからだ。外宇宙の詳細な説明が為されないのも、僕自身にその種の知識が乏しいせいだろう。実際、その手の話を書く時は僕もこうやって曖昧にしがちだ。
「とても遠いんだろうね。その羽根で飛び続けるのは疲れそうだ。どうやって来たのかな……宇宙船とか……」
「うーん、飛んできたよ? すっごい時間かかっちゃったけど!」
小さい両手をいっぱいに広げて一生懸命にアピールする。小柄とはいえ人間に近い形態の生物が宇宙空間をぱたぱたと遊泳してくる? 何万年――いや、下手をすると何億年? どんな代謝をしている生物なんだそれは……ナンセンスすぎる。僕とていくらなんでもそういう設定には絶対にしない。これが自分の想像の産物なら我ながらがっかりだ。
「じゃあ、どうしてわざわざこんな遠くまで移民してきたのかな……それってみんなで来たの?」
「うん! 元の星ではもう、食べ物がなくなっちゃって……ずーっと探していたんだけど、他に食べ物がある惑星はここだけだったの」
食糧難による宇宙移民……これもあまり筋が良くない設定だ。外宇宙の一点を目指して、かつ一斉に移民を実行しうるくらい高度な文明を持つ知的生命体が食糧を再生産できないとは考えにくい。余談だが、実は我々人類は食糧危機を技術的には克服しつつあるという仮説がある。各国で規制されている遺伝子組み換え作物を最大限に認可すれば、そこらじゅうで無尽蔵に穀物が実るので少なくとも飢え死にはしないとの話だ。ただし、その代わりに地球上のほとんどの農作物が私企業の知的財産になってしまうのだが。
「でもあれじゃないかな。外に行くのは怖いから嫌だとか、みんなと離れ離れになりたくないとかで、反対する集団もいたんじゃないかな」
「いたよ! でもご飯を食べられないのは辛いから……結局みんなで行くことにしたの。次のチャンスがいつになるか分からなかったし……」
遍く知的生命体が必ず合議制を採るとは限らない。まず人類社会からして必ずしも前提ではないし、生命の成り立ちや元となる自然環境が異なればなおさらそうだ。だから彼女が言う「みんなで行くことにした」を文字通りに受け取ってはいけない。意思決定の中枢を司るマザー妖精がいて、その司令が群れ全体に波及する統治を敷いている場合も考えられる。
「元の星に怖い生き物はいた? 僕たちにもいたんだけど怖すぎてたくさん殺してしまったから、今は守ってあげようとしている」
この質問には両手を組んで考え込みだした。顔も若干うつむいている。そのポーズは二足歩行の知的生命体に共通する仕草なのか? そんなわけがない。二十億に一つ……。
「いたにはいたかな〜。一度入ると出られなくなっちゃうのに、中がスカスカだと食べるものがなくて……でも、だいたい人間さんとおんなじ。私たちもたくさん死なせちゃった」
いまいち要領を得ない回答だ。体長が数キロメートルの宇宙鮭とかだろうか。彼女のサイズなら鼻の穴から誤って入ってしまって出てこられないリスクはなくもない。だが、ともあれ、外敵の存在、そしてそれを排する力を持っている、という予測は得られた。つまり彼女たちは紛れもなく母星の支配種族(マスターレース)であって、不利な側が逃げ出したわけではない。
ファーストコンタクトの相手が生存競争を経たマスターレースかそうでないかは割に重要な問題だ。もしそうでなかった場合はどんな約束事をしても後から「ご主人様」がやってきてあっけなく反故にしてしまいかねない。反対に、生存競争を経ていない稀に見る幸運なマスターレースが存在するとしたら、間違いなくその種は人類とは相容れない。遠からぬうちに我々と対立する。さもなければ我々がその種を侵してしまうだろう。最初の惑星間交流は能力が拮抗した似たもの同士が望ましい。
そういえば、大事な話を聞き忘れていた。本来なら真っ先に聞かなければいけないことだ。
「君たちは他の”人間さん”ともお話したのかな?」
問うまでもなく、この質問への回答はイエス以外にはあり得ない。真の意味で自分が宇宙人とファーストコンタクトしていると思い込むのは浅薄だ。たとえ二十億に一つの現実を引き当ててもその確率はさらに極めて低い。ありふれた民間人の家屋にふと現れるほど大量に移民してきているなら、とっくに各国のあらゆる組織に報告されている。ましてやそれが人間に近い姿で、人間の言葉を喋るとなれば外交レベルの問題となる。市井の人々が知らないだけですでに非公式の会合がもたれていてもなんら不思議はない。アメリカやロシア、中国あたりが各々勝手に「人類の代表」を名乗って話をややこしくするのはお決まりの展開だ。
「うん! お話したよ!」
「僕たちは群れごとに別々の長を戴いていて、それぞれ性格が違う……中には君たちとあまり仲良くしたくない”人間さん”もいるかもしれない」
「ううん、そんなことなかったよ、みんな仲良し」
にこやかに微笑む。「分からない」とか「知らない」ではなく堂々と断言したのには驚いた。もしかするとこの妖精の少女は種の中で高い地位に就いているのかもしれない。外見や喋り方が幼く見えるのは種族的な特徴か、はたまた翻訳的特性――当然、地球の言語でもとりわけマイナーな日本語での疎通がここまで淀みなく行えるのは、前もってめちゃくちゃ勉強した、とかではないはずだ。高度な翻訳機かなにかを用いていると推測される。
各国首脳との話し合いがついているのであれば、じきに正式な発表が行われる。いつまでも隠し通せる規模の話ではない。してみると、彼女たちの姿かたちは大いにものを言うに違いない。仮に身長が五メートルあり、目は六つ、二ダースもある手足の先に鋭い鉤爪が備わっていたら、どんなに温厚な気質の宇宙人でも共存は厳しい道のりとなる。それにひきかえ、人形に似た人畜無害な大きさ、人間の少女を思わせる外見、ささやかに揺れ動く小ぶりな羽根を持つ可愛らしい彼女らは、我々にとってたいへん親しみやすい。彼女たちが食べ物に困っていると言えば、きっと多くの人々がこぞって食糧を譲り渡すだろう。
こうしたルッキズムや同族意識に根ざした支援格差は人類同士でも頻繁に起きている。浅黒い肌をした馴染みのない地域の人々が無差別空爆で何千人と死んでいても雀の涙ほどの支援しか集まらないが、肌のトーンが白く明るくなり、土地の位置が北寄りに変わっただけで何百倍、何千倍も救いの手が差し伸べられる。そう考えるとややシニカルな発想ながらも、史上初のファーストコンタクトが共感的に始められそうなのは僥倖と言える。初手でしくじったら後世の時代まで負の歴史を引きずることになる。
いずれにしても僕が聞くべき話はなくなった。思考の整理には役立ったが、彼女が幻覚でないと見込めるほどの材料は得られなかった。これまでに交わされた会話はどれも僕の想像力の範疇を超えなかったからだ。二十億に一つ、現実だとしても後は各国の専門家がうまくやってくれる。どっちに転んでも今はおとなしく休んでいるのが賢明だ。
「じゃあ、握手をしよう。我々の種では共通の挨拶だ。互いの手と手を握りしめるんだ」
僕の手のひらに彼女の小さすぎる手がちょこんと重なる。皮膚の感触は人間と変わらない。触覚の想像力は物語よりもさらに一段低いらしい。握りしめると言ったが、手触りがあまりにも儚く柔らかすぎたせいでそれは叶わなかった。包み込むようにして触れて済ませる。幻覚なら幻覚で仲良くしておいて損はない。罵声を浴びせてくる恐ろしい姿の幻覚か、見ていて気持ちが安らぐ可愛い幻覚なら、後者の方が予後が良いのは明らかだ。
「逆に、僕に質問はないかな。難しいことには答えられないが……もし、”人間さん”の生態に興味があればだが」
妖精の少女は手を離すとゆっくり僕と目を合わせた。相変わらず微笑んでいるが、親しみというよりは超然的な気配が感じられてぎくりとする。
「ううん、もう全部、知っているから」
「全部? 全部というと――」
すると彼女はぱたつく羽根を閉じてベッドにぺたりと座り込んだ。小さな手を空中に向かって一振りすると、そこからディスプレイに似た四角い画面が現れる。画面の中に映っているのは――また画面だった。これは、僕の職場のオフィスだ。僕の席だ。キーボードを打っている手は、僕の手だ。
映し出されているのは、僕の視界だ。
「すごい技術だな……一体どうやって……」
少々うろたえつつも文化の違いを考慮して賛辞を述べかけると、うってかわってはっきりとした声音で彼女が遮った。
「人間さんの情報処理はオーバーヘッドが大きすぎると思う。まあ、仕方がないけど」
次いで、多様な顔ぶれが並ぶ会議の様子が映される。だいぶ荒れているようだ。だがこれは僕の視界ではない。
「でもこれは分からない。せっかく色々な道具を作ったのに、人間さんは情報伝達の手段を発声器官に頼りすぎじゃないかな」
「それは……発声が主旨ではなくて、むしろ表情や身振りといった非言語的な要素から相手の真意を探るためだからかな……。だから文字や音声では代替できない」
「そう、人間さんは同種でも意思疎通にしばしば欠損が生じる生き物だったね」
つい反論してしまったが、なんだか妙な雰囲気だ。少女どころか幼児然としていた妖精が急に語彙力を高めて人間を批判している。いや、批判でさえない。言うなれば、観察の結果報告に近い。
「……君たちは違うのか?」
「私たちは違う。みんな仲良し。ぶい」
またぞろ胸を張って小さな手でピースサインを掲げる。人類には典型的な、あのピースサインだ。
「……それはどこで覚えた仕草なのかな」
「人間さんが教えてくれたんだよ」
彼女の回答はごく単純なものだった。
「……どの人間さん?」
ぴっ、と小さな手の指先が僕を指し示す。
「僕から? 教えた覚えはないが……」
「教わらなくても分かるよ」
一瞬、目の奥がちかちかして空中の映像が切り替わった。なにかの集合写真の撮影でピースサインを要求されているところだ。続いて、今度は僕が「はい、チーズ」と呼びかけて写真を撮る場面。僕自身でさえ忘れていた過去の日常が動画記録のようにして再生されている。
「君は僕の記憶を読めるのか……テレパシー能力かなにかか」
「うん、私たちはそこに住んでいるから」
彼女がしゅっと手を振るとまた映像が切り替わった。赤とピンクが入り乱れた靄の景色が映し出される。
「これね、人間さんの頭の中」
「え?」
「ちくっとするよ」
映像の中でなにか黒いものが蠢いたかと思うと頭頂部に痛みが走り、咄嗟に呻いて目を閉じる――再び目を開けた直後には、部屋の中がJR田町駅の構内と混ざり合っていた。職場の最寄り駅だ。まるで下手な作りのゲームが粗雑にアセット画像を貼り付けているみたいに、駅ナカのスターバックスや公衆トイレの入口、階段の手前の手すりなどがのっぺりと壁一面にくっついている。
「ありゃりゃ、失敗」
「やめてくれ、君に技術力があるのは分かったが、頭の中をいじるのはやりすぎだ」
突然放り込まれた念願のはずの異常事態に恐れをなして後ずさりする。実際に叶うと案外嬉しくはない。体勢を崩して尻もちをついた時の感触は、明らかに部屋のフローリングとは違っていた。冷たく固いタイルの感触だった。いま僕が触れているのは田町駅の床なのだ。
「技術じゃないよ。私たちはこういう生き物なの」
また頭の痛みと引き換えに視界に変化が訪れた。妖精の姿をしていた彼女が、同じくらい親しみに満ちた子猫に変わった。
ここへきて、僕はようやく状況から立ち直って理解を得た。
「君の姿は本物じゃなかったんだな」
子猫の彼女は首を傾げた愛らしい仕草で喋った。
「そう。人間さんが一番怖がりにくい姿を、人間さんの脳を刺激して取り出したの」
もっと早く気がつくべきだった。
部屋にいきなり妖精の少女が現れたのも。流暢に可愛らしく日本語を喋るのも。会話の内容が想定を上回らないのも。すべて僕の脳を読み込んでいたからだ。確かに、彼女は幻覚だった。だが、僕の気が狂っていたわけではない。想像の方向性を予め操作されていたのである。
「……君の本当の姿はどんな感じなんだ」
田町駅の雑踏の音が無意味に反響する部屋の中で、彼女の声がひときわ大きく響く。
「ウニに似てるね」
「ウニに?」
突拍子もない例えに聞き返す。
「棘皮動物門の、ウニ」
目の奥がちくりとすると、子猫の姿がたちまちウニに変わった。黒々とした棘を持つ球体がベッドの上をころころと転がる。だが、声の調子はあくまで変わらない。
「こんなに大きくはないけどね」
「じゃあどれくらいなんだ」
「人間さんの単位でいうと……〇.二ミリメートルくらいかなあ」
虚空に吸収されたかのようにウニが瞬時に収縮する。僕の目には空間にしか見えない場所から引き続き声が聞こえる。
「でも棘はもうちょっと伸びるよ。それで人間さんに夢を見せている」
ちくり。一瞬で彼女は元の妖精の姿に戻り、見る者すべてに安らぎを与える笑顔を浮かばせた。
「じゃあ……君は……君が住んでいるのは……本当に僕の脳の中なのか」
「そうだよ。人間さんみたいに大脳のニューロン数が大きい生き物に入り込むと、私たちもこうしてお話できるようになるの」
なにもかも合点がいった。人類が遭遇した外宇宙の生命体は新種の微生物だ。おそらくは、隕石かなにかに取りついて何十億年もかけて地球にやってきた。元の惑星は滅んだのではなく、彼女たちが滅ぼしたのだ。
「いつから僕に……僕は、昨日も先週もずっと普段通りに生活していると思っていた」
「それは私にも分からないよ。けど、ようやく落ち着いた場所に来たから、脳の共有状態が安定したんだと思う」
止まっていた空間ディスプレイに映像が映る。成田空港だ。パスポートを持っているその手は、僕の手だ。イミグレーションで流暢な英語を話しているその声は、僕の声だ。記憶にはない。
「人間さんはすぐに腐っちゃうから、寒いところに運んであげないと食べられなくなっちゃう」
呆然と映像を観ているうちに、やがて僕の視界は雪風と氷床に彩られた銀世界に到達していた。力なく揺れ動く視界の左右には、よく見ると同じようにふらふらと歩き続ける人々の姿があった。誰もがゾンビのように虚ろで、それでいて目標は明瞭な足取りで前へ前へと進んでいく。
「君らの食べ物は、僕たちか」
「厳密には、大脳かな。一度入ったら出られないから、長生きして繁殖するにはなるべく賢い生き物を狙わないといけないの」
地球人類が自らの脳を彼女たちに捧げるべく、北へ南へ永久凍土を目指す壮大な大移動の光景が想像された。どんなに厳しいセキュリティに守られた各国の首脳も、瞬く間に大地を荒廃せしめる核ミサイルも、わずか〇.二ミリメートルの微生物が相手ではどうにもならない。運良く”ファーストコンタクト”を免れた人々とて、僕たちの脳で増えた個体に仕留められるのは時間の問題だ。
これがただの幻覚と思えたなら。しかし、今や五感すべてが圧倒的な現実感でもって僕の身に押し迫っている。最初で最後の宇宙戦争に交戦はなく、物語もなかった。我々人類は戦わずして敗北したのだ。
「じゃあ僕はもう……死んでいるのか?」
「死んではいないけど、凍っているね。乾いた洞窟の中で、みんな一緒」
いつの間にかディスプレイの映像が、部屋を構成しているテクスチャと混じり合って一体化していた。僕の部屋は田町駅であり、浦和のマンションの一室であり、永久凍土の洞窟でもある。洞窟の中には同じく凍りついた人々の身体が整然と並んでいる。あたかも天然の冷凍庫だ。
「これから僕はどうすればいいんだ……」
凍土とタイルとフローリングが入り混じった床にへたり込むと、羽根を伸ばした妖精の少女が近づいてあっけらかんと言う。
「だから、私とお話していようよ」
「でも、君にとって僕はただの食べ物だろう」
「そうだけど……でも食べ終わるのに何年もかかっちゃうから……どうせ他にすることなんてないでしょ?」
「勝手に食べておいてなんて言い草だ……。これが生存競争に負けた側の気持ちなのか」
不思議と怒りは湧いてこなかった。恐怖も悲哀も今となっては感じても虚しい。感情や思考は今の僕には仮初のものに過ぎない。彼女が棘の先端をゼロコンマミリメートルほど伸ばして脳をちくりとやれば、どんなふうにでも僕の気持ちを制御できる。すでにそうなっていないとも限らない。
「せめて夏のアフリカに行きたかったな……」
なんの気なしにぼそりとつぶやいた。
「どうして?」
「いや、行ったことがなくて。学生のうちに行っておけばよかったんだけど、サラリーマンの身だとなかなか難しくてね……。アフリカだけじゃないよ、中東とか地中海にも行ってみたかった。凍らされた身でなんだけど……僕は暖かい場所が好きなんだ」
「ふうん」
彼女が僕の脳を操作して特定のイメージを引き出せるのは分かっている。だが、資料や動画を通してしか見た覚えのない外国の景色は再現しきれないだろう。
ところが、彼女の提案は想定に反した代物だった。
「ねえ、ちょっと聞いてみたけど、行けそう。行ってみたい?」
「聞いたみたというのは……」
「私のお友達。人間さんにとっての人間さん。私たちはお互いに意識を共有しているの。それで、今はみんな人間さんの脳に取りついているから……」
「……アフリカ出身の人の記憶から取り出した?」
「そうみたい」
浦和の通りに面していた窓が光り輝き、思わず外を覗き込むとそこにはケープタウンの町並みが広がっていた。合成に失敗したテクスチャなんかではない。僕の目には紛うことなき現実そのものに見える。いてもたってもいられず窓を開けると、からりと乾いた温かい風と異国情緒あふれる匂いが渾然一体となって吹き込んできた。
「信じられないな……本当にケープタウンだ。どこまで行っても途切れないのか」
「人間さんの記憶を全部集めたから、たぶん大丈夫だと思う」
動揺と歓喜が綯い交ぜになった表情で妖精の少女をしばらく見つめた。素直に感謝していいものか、言葉が出ない。すると、今度は彼女の方から手を差し出してきた。
「食べちゃってごめんなさい。でもこれも、生存競争だから……。その代わり、私がごちそうさまをするまではずーっと楽しく暮らせるようにしてあげる」
〇.二ミリメートルのウニ状微生物が自分の大脳新皮質をちまちまと喰んでいる光景を想像しながら、僕は彼女の小さい手を静かに包みこんだ。
そうして今、まさにアフリカの陽気な日差しを浴びながらこの記事を書いている。夢の世界にいても文章をしたためる性分は拭えないらしい。むしろ書くのにパソコンも紙もペンもいらないのは正直助かる。もはやインターネットも必要ない。皆さんがこの文章を読めているように、彼女たちを介してみんな一緒になったのだから。