エルサウンド EDAC-3 SPECIALとの邂逅

はじめに


集中的な勤労で懐具合に余裕が生まれた事をきっかけに、いっそ可能な限りオーディオに投資してみようと決意したのが2ヶ月ほど前の話である。これまで幾度となく環境を刷新してきたが、今回は自由に動かせる預貯金を全て投資した。現時点ではこれ以上はないというぐらいの環境を揃えたかったのだ。その結果、実に素晴らしいD/Aコンバータに出会えたのでこの喜びを共有したいと思う。

ちなみに、ヘッドフォンはbayerdynamic T1 2nd、アンプはLuxman P-1uに買い替えた。こちらの方は既に山ほどレビューが存在しているので敢えて具体的な言及はしない。強いて言うならスゴくイイぞの一言だ。

経緯


当初、DACに関する僕の知識はかなり乏しく、とにかく真新しくハイスペックな素子が使われていれば高音質なのだろうなどと思い違いをしていた。そのため、最新鋭の素子「ESS9038PRO」が搭載されているOPPO Sonica DACがまず目に止まったのだった。

しかし、実際に試聴してみると、それは期待通りの音ではなかった。HP-A8よりは確かに優れているものの、音場や重厚さに欠けた感じが拭えなかった。もっとも、約10万円という価格でトレンディな機能を色々詰め込んだネットワークオーディオ機器として考えれば、決して悪い製品ではないだろう。だが、僕にとっては豊富な機能性はむしろ余計でしかなかった。何せそれらの機能を有効にしていると音が悪くなるというのだから、たまったものではない。

結局、素子のスペックありきで申請した購入予約を取り消して振り出しに戻った。改めて情報を収集していると、ガレージメーカーの製品が想像以上に有力である事を知った。ガレージメーカーとは営業力や知名度に乏しい中小企業の中でも、とりわけ趣味性や独創性が高い分野に携わっている会社の事を指す。

広告に頼らず、受注生産なので在庫も抱えず、少数精鋭なので人件費もあまりかからない事から、通常の企業には真似出来ないハイコストパフォーマンスな製品を提供している所が特長だ。

その中から試聴機を借りられるメーカーを探したところ(何せ10万円近い買い物だ。試聴せずに買って期待外れだったら後悔どころの騒ぎではない)エルサウンドというメーカーに出会った。Luxmanのエンジニアが独立して創業したこの会社は、他のガレージメーカーと比較してもとりわけコストパフォーマンスに優れたメーカーとして知られている。以上がエルサウンドのDAC「EDAC-3」を手にするまでの経緯である。

音質


実のところ聴くまでは大して期待していなかった。何故ならEDAC-3に搭載されている「PCM1798」はかなり古く、決してハイエンドとも言えない素子だったからだ。本製品は約10万円だが、この素子は2万円程度の製品にさえ搭載されているのだから、スペック至上主義の僕からすれば良い音が出るとは到底思えなかった。

しかし、実際に聴いてみるとその自然な音場の広がり、過度な抑圧のない理想的な迫力感、美しい音色に驚嘆した。

…後で知った事だが、素子の性能がDACの音質の向上に寄与する度合いはかなり低いそうだ。つまりそれ以外のアナログ部分の方がよほど重要という事になる。数字として表れない場所の方が大事だなんて、これまでスペック至上主義で生きてきた僕にはあまりにも衝撃的だった。だが、実際に出音がそれを証明している以上はその事実を受け入れなければならない。

ところが僕は諦めが悪かった。大して変わらないとはいえ、決してゼロではないのだから、より良い素子を搭載すれば少なからず音質が向上するはずである…エルサウンドの方針からすれば失礼にもあたりかねないこの特注依頼をエルサウンドの社長は快く引き受けてくれた。

具体的にはバーブラウンの素子の中で現在、最も高性能な「PCM1794A」をデュアル搭載(左音声と右音声をそれぞれ単独の素子で処理する事で音質を向上させる)するという内容だ。当然、余計に手間がかかるぶん特別料金が発生するのだが、ありがたい事に不要な入出力端子やLEDを省く事で増額部分を相殺して頂いた。エルサウンドはこのような柔軟な特注が可能なのだ。

こうして出来上がった「EDAC-3 SPECIAL DUAL DAC」が奏でる音楽を聴きながら、まさに今、本記事を執筆しているのだが、正直に言おう。通常品との音質差は集中して聴かなければ判らない程度だ。僅かとはいえ良くなってはいるのだから、僕の諦めの悪さが功を奏したとも言えるが、その反面、素子の性能が音質に大して影響を及ぼさない事も身をもって実感できた。

総括


われわれオーディオファンはこれからも金を注ぎ続ける。将来、聴く音が今よりも良くなる事を願って黙々と貯金を続ける。将来の自分の聴力は今より確実に劣化していると知っていても、止め時を見つけられないでいるのだ。それは聴力を完全に失うまで続く果てしない探求の旅である。

悪く言えば、自分の聴力を犠牲にして投げ込んだ札束の厚みを競う散財行為の一種である。