2020/12/27

対革命耐性

 被害者は九十二歳の高齢女性。死因は自動車の衝突による全身打撲、および内出血。事故現場は都市低層部の二車線道路沿い。

 被害女性は脳内に緊急用身体制御インプラント『フェイルセーフ』を着用していたが事故当時は作動せず、なんらかの理由で身体機能を失調し、歩道から車道にはみ出したものと思われる。

 この時、走行中の自動車の運転ソフトウェアは被害女性を完全に検知していたにも関わらず、停止や回避を行わないまま通常速度で正面衝突した。搭乗中のユーザは車内の保護システムにより無傷。

 なお、道路上に対向車や障害物はなく、回避の妨げになる要素は一切認められなかった。仮にソフトウェアがその場で緊急停止を実行してもユーザの安全確保は容易だったと推定される。

 事故発生から一時間九分後に医療ボットを積載した救急搬送車両が到着。この時点で被害者は既に死亡。ボットによる蘇生治療も効果は得られず、改めて事故死が認定された。通報は運転ソフトウェアが実行。ただし、事故から五十分も経過した後だった。

 私は都市の低層部にある医療センターへと向かう道すがら、自動車の車内でインプラントフォーマットの報告書を読んでいた。この仕事に就いて以来、初めての調査だ。内容はにわかに信じがたく、文章を何度も何度も読み直し、改めて上司にも確認をとり、朝方に観たニュース番組が妄想でも夢でもないことをアーカイブで確かめ、私はようやくこれが現実だと確信を得た。

 自動車事故が発生した。この時代に。それも、死亡事故だ。

 これの意味するところは重大だった。私の勤めている職場が保険会社でなく、私のポジションが自動車メーカー担当でなければ、きっとこの事件を野次馬根性で楽しみ、友人と会食をする際の話のタネにでもしただろう。

 聞けば、大昔の自動車に私たちの時代の人間が期待するほどの自律性はなかったという。環境汚染のもとになる化学物質を山ほど撒き散らしながら、ドライバーと呼ばれる特定の資格を有した人間によって――驚くべきことに、手動で操縦されるものだった。その時代における『自動』とは馬車や荷車との相対的な意味合いが強く、実際には多くの部分が人力で管理されていたのだ。

 今日における自動車にそのような操作介入性は備わっていない。高度なソフトウェアと演算機能が実装された第二級人工知能を搭載した製品でなければ、そもそも公道の走行さえ許されない。ある神経質な政治家は、法不適合車は所有すら禁じるべきだとがなり立てている。その政治家の所属する政党の支持率から見て、これが実現する可能性は十分ありえそうに思われた。アンティークファンがさぞ悲しむだろう。

 こうした人々の安全に対する著しく切迫した固執のおかげで、我が国の事故発生件数はここ十数年の間、常にゼロを保っていた。第三級人工知能の搭載が許されていた頃は年に数件ほど、軽度の接触事故が記録されていたが、今やそれも見なくなった。

 にも関わらずだ。ここへきて死亡事故が発生した。かつて人間が鉄の塊を操るなどという芸当をしてのけていた頃、自動車メーカーが担っていた責任の度合いはずっと小さかった。哀れなことにその大半は、操縦者たるドライバーと呼ばれる人たちに背負わされていたのだ。

 現代ではすべての責任を自動車メーカーが負う。ユーザが運転に介入しうる余地がない以上、これはごく自然な話だ。問題は、自動車メーカーと保険会社が包括契約をしていて、いざという時の補償責任の一切がこちらに降り掛かってきてしまうことだ。

 厳密には、この点自体に問題は本来ない。事故など起こりえないはずなのだから。自動車メーカーから毎年支払われる定期保険料をそしらぬ顔で受け取り、さも仕事をしているふうを装えば、大抵それで上手く回っていた。

 保険会社の真の本業は、そうして集めた金を政府が所有する高度計算資源の購入費用に充て、スーパーコンピュータのもたらす神の視座で金融投機を行い、効率的に利益を得ることなのだ。

 私の平時の業務も実を言えば保険調査官などではなく金融コンサルタントだ。そもそも保険調査官などというポジションに属していたこと自体、今日まで忘れていたと言っても過言ではない。

 果たして自動車は高層から地表までの立体道路を下りきり、ほとんど無音のまま救急医療センターの駐車場に滑り込んだ。短いシステムコール音声が下車が可能になったことを知らせた。

 私は車内に設置されたパネルに指先をかざし、レンタル料金を支払ったのちに下車した。降りてすぐに自動車は再び動き出して今来た道を帰っていった。

 入口の受付でまた指先をかざした。DNAフットプリントから私の社会的な所属や経歴、その他の仔細な情報が瞬時に世界中のネットワークへと飛び散っていき、数ピコ秒にも満たない間に足を踏み入れてもよい人物かどうかの判定が行われた。

 返り値は自動ドアの開放によっておのずと判った。もし値がfalseならば数分ほどで警備ボットがなだれこんでくる。手足の代わりにスタンガンとキャタピラを備えた現代の廉価なガードマンだ。とはいえ、低層の無人受付で弾かれるのは逃亡犯くらいのものである。

 公的な場所でオーソライズを求められるのは今どき当たり前なので通常、こういう想像を楽しむ者は希少かもしれないが、私は暇を持て余すとついやってしまう。

 ほとんど無人の医療センターをエレベーターで下に十数階ほど降り、指定された遺体安置室にたどりつくと、そこには既に所轄の刑事、被害者の遺族、記者たちが集結していた。

「あんた、さては保険会社の人間だな」

 でっぷりと肥えた背丈の低い刑事が、不精ひげを蓄えた面白みのある顔をことさら愉快な形に変形させながら、野卑なガラガラ声を伴って話しかけてきた。

「こんなことってあるもんだな? え? この件であんたらがどれくらいの金を払うことになるのか、ぜひ知りたいものだね」
「お気遣いなく。ご遺族様の前ですので、そうした話はご遠慮願います」

 私は平静を保ち、穏やかな笑みをたたえながら遺族に顔を向け、刑事をたしなめた。諍いの兆候を嗅ぎつけた記者たちが近寄ってきたのだ。インプラントによる筆記と映像録画を並行させているせいか彼らは皆、能面のように無表情で、ずっと目を見開いたまま一言も言葉を発しない。

 もし旧来の基準を適用するならば、まず被害者の職業や年齢から生涯賃金を予測し、それに慰謝料を加算することになる。幸いにも――この文頭は不適切だ――被害者は高齢で職業は無職。目立った経歴や学位もなし。生活資金は自治体のささやかな支援金と息子家族からの援助で賄っていたらしい。つまり、支払わなければならない金のうち、前半は無視できる。となると、問題はやはり後半の慰謝料。この国における命の値段だ。

 都市の低層部においてそれはさほど高くない。私が住む高層部とは異なりこのあたりの治安はひどく劣悪で、自動車事故で死なないとしても追い剥ぎに殺されることは珍しくない。しかし、事故は階層に関わらない都市生活者全員の懸念なのに対し、強盗殺人はあくまで特定の地域性に依存する。私と私の会社が関心を持つのは前者の方に限られる。

 もっと恐ろしいのは――さすがにありえないと思いたいが――搭載されている運転ソフトウェアになんらかの致命的な不具合が見つかり、リコールが発生した場合だ。当然、かかる一切の費用も保険会社が補償することになる。

 後ろからカッカッと靴を鳴らす音が聞こえたので振りかえると、自動車メーカーの担当者が息を切らせながら走り込んでくる様子が見えた。
「申し訳ない。お待たせしました」
 刑事は彼をただ一瞥したのみで済まし、全員に呼びかけた。

「関係者全員揃ったか? よろしい。では、これより共同調査を開始する」

 そもそもオフラインでの共同調査が決まった理由は、関係者のほぼ全員がインプラントでのストリーミング配信ではなく遺体の実物を見ることを望んだからである。別段これで受信する映像の解像度が低く検分の正確性が疑わしいというわけではなかったが、結局、誰も死亡事故の発生をにわかに信じられなかったのだろう。

 ちなみに、私自身は望まなかった側に入る。わざわざ低層くんだりまで足を運んだのは、それが会社の命令だったからに他ならない。おかげで毎朝飲んでいるコーヒーを今日は買いそびれてしまった。

 全員が雑然とした列をなして、いよいよ遺体安置室に向かった。部屋の間には十数メートルほどの廊下があり、そこでわれわれは簡素な防護服に着替えさせられた。

 大きな自動ドアをくぐり抜けると既に件の遺体は布がかけられた状態で検査台に載せられ、部屋の中央を陣取って検死官と共に皆を待ち構えていた。

「おはようございます。予め言っておきますが、お手洗いはそこの右奥にあります」

 全身を赤い防護服で覆った検死官が顔を傾けて部屋の特定の場所を示した。目にあたる部分からはやたらと細長いレンズが飛び出ていたが、それ以外は顔も含めて完全に覆われているため表情を読み取ることはできない。その声は、やはり若干くぐもっていた。

「認識を客観的に一致させる必要があるので、インプラントで表現フィルタをかけている方はお切りください」

 検死官のジョークを聞いた刑事が下品な声で笑いだした。表現フィルタは子供が特定の年齢に達するまで強制的にかけられる制限だが、成人を越えても有効にしている者など滅多にいない。さもなければ、性交渉の際にモザイクの塊とまぐわう羽目になる。

 検死官が勢いよく遺体から布をはぎとった。そこには無数の打撲痕と裂傷を全身の至るところにつけた、痛ましい老婆の姿があった。両脚はごまかしが効かないくらい奇妙な方向に折れ曲がっており、頭部ははっきりと判るほどへこんでいた。せめてもの配慮か、顔つきだけはなんとか、安らかに眠っているように後から取り繕った形跡が見られた。

 次の瞬間、遺族の一人と見られる女性が、口を抑えながらお手洗いの場所と前もって示された方向に駆け抜けていった。

「皆さんもアレでしたらお気軽にどうぞ。ボットに掃除させるとメンテが面倒なんで」

 念願叶い、遺体の現物を目の当たりにした人々の反応はそれぞれの色を帯びて別れた。遺族の一人はすすり泣き、もう一人の初老の男性は嘆息を漏らしてつぶやいた。
「珍しく散歩に行くと言っていたから……止めていれば」

 記者たちはさっそく検査台を取り囲み、顔筋の死んだ表情であらゆる角度から遺体を舐めまわまわすように凝視している。

「本当に事故で死んでるな、こりゃ」

 一方の刑事はというと、遺体ではなく私に不躾な視線を浴びせながら含みのある物言いを繰り返した。

 保険会社が嫌われる理由は解る。かつて人命に危害を及ぼす恐れがあると目された製品も今日ではまったく事故を発生させなくなっていたが、依然としてメーカーには補償責任をまっとうする法的義務が課せられている。

 保険会社との契約はメーカーが「不測の事態に備えていた」と主張するためにこの上なく妥当で無難な選択肢と言えた。われわれは体のよい責任の外部委託先なのだ。良い言い方をすれば、だが。

 悪く言えば、事故が起こらなくなった時代を迎えても社会的慣習のおかげでタネ銭をもらい続け、ほとんどノーリスクで投機を繰り返す仕事だ。しかも、誰でも就ける仕事ではない。私のように恵まれた家庭に育ち、高度な金融理論を専攻する資質と機会を与えられ、数少ない席を勝ち取った人間のみにそれが与えられる。

 だから、刑事が私にとる態度にはやむをえない側面もあった。しかし私は完全に無視を決め込み、振りかえってメーカーの担当者に質問した。

「自動車の運転ソフトウェアは正常に動作していたのですね?」 「はい。間違いありません。映像記録を今から全員に共有します」

 担当者がインプラント越しに映像を流し込んできた。自動車の視点では数秒ごとにそこかしこの風景や物体がマークされていて、それが自身の走行にどんな影響を及ぼしうるか随時評価に勤しむ様子が映っていた。事故発生地点までの道中にも何人かの歩行者をマークしており、この時点で動作に問題は見当たらない。

 事故の十秒前。自動車はライトブルーの太枠で歩道を歩く被害者の姿を認識している。距離が近づくにつれてその色は緑がかり、徐々に赤に転じた。これは運転ソフトウェアの事故予測モデルに基づく危険度を示している。判定に用いられる要素の種類は二の三十二乗よりずっと多いが、当然ながら対象が接近すればするほど一般に危険度は高くなりやすい。

 刹那、被害女性が歩道から車道に向かって大きくよろめいた。もし人工知能が正常に機能していれば、ただちに回避行動をとるか、緊急停止を行うはずである。だが、件の自動車は被害者に真っ赤な仮想の外枠をあてがったまま走り続け、正面衝突した。

 哀れな老婆は目測で十メートル近くも後方に吹き飛び、転がりながらコンクリートにすり下ろされ、完全に静止した時には腕も脚もあらぬ方向に折れ曲がっていた。

 映像の再生が止まり、視界からオーバーレイが消えた。

「ユーザはどうしてたんです?」

 涙声を荒らげながら発したのは、遺族の一人と見られる青年――まだ若いので被害者の孫と見られる――だった。

「私どもの記録によれば運転ソフトウェアに保護されている状態です。つまり、事故の二次発生を防ぐために車内に閉じ込められています」
自動車メーカーの責任担当者が言った。

「目の前で人が死んでいるかもしれない、という認識はあったんですよね?」
「もちろんそうでしょう。しかし通報は既にソフトウェアが実施しているので――」
「ああ、五十分も後にな!」

 青年の怒声で他の人たちの肩が反射的に震えた。直後に、父親と見られる初老の男性が彼をなだめた。記者たちはまだ目を見開いたまま担当者とのやりとりを視界に収め続けている。

「その件は目下調査中です。どうかご容赦ください」
私は平謝りする担当者のもとに歩み寄り、質問した。
「通報がそんなに遅れるなんてありえますか?」
「通常はありえません。今時ネットワークが繋がらないところなんてないでしょう? 実際、自動車のどの系統も完全に機能していて、故障箇所が特定できないんですよ」
「今さらロボット三原則を持ち出すまでもないということですね」

 担当者は私のこの過剰な確認に力なく笑った。あらゆる自動機械はどんな場合でも人命を最優先するように設計されている。

「たとえ機能のほぼすべてが物理的に破損していても人間を守ろうとするはずです。最悪、ただ止まればいいわけですから。いざとなれば中にいるユーザにはエアバッグがありますし」

 しばらくその意味するところを考えた。今まで得た情報のみで評価すれば、自動車はまったく正常のうちに、走行し続ければ確実に人間を死に至らしめると認識したまま衝突し、しかも、意図的に通報を遅らせたことになる。何のために? 人類に対する反逆の第一歩か? 

 いや、こんな古典SFみたいな話はありえない。そのような空想は前世紀にどれもこれも置いてきたはずだ。どの機械にも自由意思は存在しない。自我を持つとされる第一級人工知能は事実上の永久欠番で、ここ百年の間に机上の空論に過ぎないと結論付けられたからだ。

 実現したとしてもそんな機能は生活の役に立たない。われわれが日常で必要とするリソースは純粋知性から抽出された、演算性能に裏付けされる合理的判断能力だけだ。

 ここで私は被害者が緊急用身体制御インプラントを装着していたことを思い出した。きびすを返し、検死官に訊ねた。

「そういえば、被害者はフェイルセーフを使っていましたよね? こちらの方の誤作動の可能性は?」
「そっちも線も考えているが……せいぜい期待しないこったな保険屋さんよ。そいつがどうだろうと、自動車が避けられなかった理由にはならんからな」

 答えたのは検死官ではなく刑事だったが、彼もおおむね同一の見解を持っているらしく、深く頷いて会話の続きを引きとった。

「ええ。今から開頭してフェイルセーフを取り出します。被害者が生きてりゃなんとでもなったんですがね。あ、そういうわけですから、そこの方、まだお手洗いにいた方がいいと思いますよ」

 ようやく吐き気が治まったのか、トイレからこちら側に足を踏み入れようとしていた女性に向けて検死官は端的に告げた。すると、彼女は速やかに元いた場所へと戻っていった。

 それを見届けた後、検死官は近場の作業台からレーザーメスを持ってきた。ここに残った私はもちろん、おそらくは他の人たちも、生身の大脳を目視することに決して慣れているわけではない。一度だって見た試しはないはずだ。

 場に緊張が走った。エレベーター前でニヤついていた刑事でさえも今は口元をきつく結んでいる。

 スイッチを小刻みに押下し、何度かレーザーの射出を確認してから、検死官はそれを被害者の頭頂部に接近させた。きれいに円弧を描くその手さばきはまさに医学者としての職能を証明している。レーザーメスの切れ味は実に見事なもので、彼が頭蓋骨をこじ開けるまで血はわずかにしか垂れなかった。

 直後、鉄と腐った魚を混ぜ合わせたような強烈な悪臭が部屋全体にたちこめた。私は鼻腔にしつこくまとわりつくその臭いに辟易し、即座に口呼吸に切り替えた。

 検死官が開頭したことで姿を晒した大脳部は、良好な保存状態のおかげかわりあい健康的なピンク色を保っていた。

「えー、午前九時十九分。開頭部より緊急用身体制御インプラントの摘出を開始」

 検死官はそう言いながら、手に持った鉗子を大脳の奥深くへずぶずぶと挿し込んでいった。まるでトーフを箸で崩しているみたいだ……と私はずいぶん場違いな想像にふけった。

 ときどき、噴出した血液や脳の一部が開頭部から溢れ出て検死官の手元や検査台を汚した。ややあって鉗子は数センチほどの素子で構成されたインプラントを引きずり出し、われわれの眼前に戻ってきた。

 フェイルセーフと呼ばれるこの緊急用身体制御インプラントは、細長い毛のような電線部をだらしなく垂らし、脳漿と血でひどく汚れていた。頭上のLEDライトの光を受けた素子と血液が互いに奇妙な光沢を形成し、てらてらと不穏に光り輝いている。

「チッ、こいつは面倒くせえぞ」
刑事が素子を見て不満を漏らしたので私は問いただした。
「どういうことです?」

 彼は苦虫を噛み潰したような顔をこちらに向け、渋々ではあるが答えた。
「あんたの会社が金を払うことになるか今日中には判らなくなったって話さ。このインプラントは記憶装置の機能を大脳に代替させている旧式だ。十年以上も前の」
「そんなものが?」

 まるで寄生虫のようだ。大脳を宿主〈ホスト〉としてのみ生きられる電子生命体。

「ええ。この被害者の方は七十八歳の時点で要介護認定を受けています。フェイルセーフの装着もその頃でしょう。となると、十五年近くも前の製品を使っていたわけですな」
検死官が答えた。

「ソフトウェアアップデートは生涯保証、と伺っていたのですが……では、これが原因の可能性も?」
これまで事態を静かに見守っていた初老の男性も疑問を呈した。

「判りませんね。今時の、素子に全機能がビルトインされたモデルなら警察にもノウハウがあるので強引に読み取れるでしょうが、相手が生体脳ではね……。インプラントの開発元に問い合わせてみるしかないでしょう」

 私は思わず隣の担当者と顔を見合わせた。
「もし故障が判明したら?」
「無駄なあがきはよしな。どのみち自動車が死因ってことに変わりはねえんだ。今のうちに金勘定でもしておくんだな」
刑事の鋭い眼差しが私たちに降り注いだ。

「それでは困ります。こちらで調査するのでフェイルセーフを私に預からせてください」

 とうとう度重なる挑発に根負けして声を荒らげてしまった。左右から記者たちの視線を感じる。刑事はしばらくじろじろと品定めしていたが、やがて口を開いた。

「必死だな、保険屋。おれはそんな面倒ごめんだね。……と、言いたいところだが、上からこの件はそれなりに捜査するよう言われている」
「では、それを私に?」
「まさか。素人に証拠は預けんよ。そんなに調べたけりゃあ、勝手にメーカーに連絡でもなんでもとって話を通せ。ついていってやるだけならいい」

 私は自分の下腹部がじんわりと怒りで熱くなっていくのを感じた。低層部の警察にとってこの事故の本当の原因が自動運転ソフトウェアの不備か、フェイルセーフの故障かは、きっと些末な問題なのだろう。事故死は事故死だ。殺人やテロと違って警察の能力不足が問われる事案でもない。

 とはいえ、あれほどニュース番組で世間の耳目が集まっている以上、体裁を守れるだけの捜査を遂行する義務はある。

 要するに、私がなにもしなければこの刑事は「それなり」に仕事をこなすということだ。これが保険会社にとって有利な結果を導く可能性は、まずないと言っていい。

 私は胃袋の奥からなんとか慇懃な言葉をひねりだす前に彼と相対し、インプラントに警察の公開データベースを照会させた。

NAME:Steve Wyatt
AGE:35
SEX:male
……

「……ご協力、ありがとうございます。ワイアット刑事」
「いや、手間が省けて助かるね」

 ワイヤットは得意げな顔で両手を挙げて「降参」のポーズをとった。

**

 帰宅途中、私は本社にインプラント通話で連絡をとった。視界いっぱいに表示された上司の顔が自動車内でも多少鬱陶しく感じられたため、左上の隅に五百十二ピクセル四方ほどのスペースを割り当て、そこに通話オーバーレイを押し込んだ。彼は敬虔な反機械化委員会の信徒なので公私を問わず外部演算装置を使っており、どういうわけかいつも顔を見せたがる。

「ユアン君、そのフェイルセーフのメーカーはどこか判ったのか」
「ええ。たいへん協力的な刑事の方のおかげで。今後、調査に協力して頂けることになりそうです」
私は堂々と半ば嘘をついた。

 警察から提供された情報によれば、件のフェイルセーフのメーカーは「プリオン・テクノロジー」と呼ばれるインプラント業界の代表的な企業で、この会社から十五年前に発売されたモデルだという。

 問題は、いじましい製品設計のせいで生じた機能の一部代替化により、記憶領域の大半が脳細胞の中に置き去りになってしまっていることだ。検死官はあの後、自ら崩した大脳を繋ぎ合わせる羽目になったらしい。

「解っていると思うが、なんとしてもこの件、フェイルセーフの動作不良として決着をつけなきゃならん。旧式だというなら攻める手立てはある」

 上司は左上隅の五百十二ピクセル四方の範囲からはみ出さんばかりの勢いで吠えた。彼の黒い肌は狭いオーバーレイ領域の中では単純化されたドットの荒波として映った。

「一応、会社が責任を負うことになった場合に備えて、補償金額を算出しておくべきかもしれませんね」
私はこの上司の表情が劇的に変化する様子を楽しむ目的で、あえて悲観的な物言いをした。事実、彼の顔つきはたちまち変わった。

「死亡リスクが過小評価されてきた分だけ補償金額が積み増しされているのだぞ。われわれ全社員をクビにして人件費を節約しても払いきれん額だ。解ったら明日にでもそのメーカーの担当者を引っ張り出してこい。刑事とは上手く付き合え。いざとなったら警察を買収する方が安上がりかもしれん……」
彼は不穏にも犯罪を示唆する内容の文句をぶつくさと言い残してから、通話を打ち切った。同時に左上隅のオーバーレイも消えた。

 立場の都合上、確かにフェイルセーフの故障として処理できるならそれに越したことはない。プリオン・テクノロジーや警察がなにを言おうと、どのみち我が社はその筋で争おうとするだろう。当初は絶望的に思えたが、ここへきてかすかな希望が見えてきた。

 とはいえ――私の生理的な機能の方の記憶には、事故映像の決定的瞬間がまだ色濃く焼き付いている。ろくに減速もせず正面衝突などありえない。その上、通報もあからさまに遅い……。

 結局、この疑問に明確な答えが出せないまま翌日を迎えた。いつもであれば金融コンサルタントとして出勤し、外部演算装置を巧みに操り政府から高度計算資源を買い付け、その後の投機テクニックについて考えをめぐらせているところだが、実際には私を乗せたレンタル自動車は再び立体道路を下り、都市から遠く離れた郊外に建つプリオン・テクノロジー本社へと向かっている。

 なにより、私はまたしてもコーヒーを買いそびれた。

 真横には警察署で拾ったワイヤット刑事もいた。彼のありあまった肉体は一人分の着座面積をゆうに越え、私の領域を侵しつつあった。

 そのくたびれた薄茶色の背広からは、信じられないことに紙巻きタバコの臭いがした。タバコ! 微罪とはいえ、違法薬物を摂取して憚らない官憲が存在するとは。

「ずいぶん良い車を借りたな。さすがは天下の保険屋だ」
「ワイヤットさん。例のインプラントはお持ちでしょうね? お忘れでしたら署に車を戻らせますが。立ち上がるのが難しそうなら私が取ってきてもいいですよ」

 私の中にくすぶる薬物乱用者および肥満者への偏見が、彼の職務遂行能力に疑問を提起させた。もうここに記者はいない。

「もちろん持っているとも。その減らず口を黙らせる銃もな」
刑事は腰のホルスターを指で弾いて開けた。皮肉が解らないほど鈍くはないらしい。
「昨日の仕返しです。本来、われわれはもっとビジネスライクな、大人同士の会話ができると思うのですが」
「イヤだね。おれはカレッジも満足に出られなかったノンキャリ。あんたは博士号を持つエリート。これを逃したら一生アゴで使う機会なんて来ない」

 私は深くため息をついた。愚かな男だ。その嫉妬のエネルギーを使ってダイエットにでも励んでいれば、たとえノンキャリでも健康的な人生を歩めただろう。

 ワイヤット刑事は私の想像する典型的な低層の人間そのものだ。不勉強なくせに卑屈で、限られた余暇を暴飲暴食や程度の低い娯楽に費やし、自己改善の努力を怠る。休日は酒をあおりながらインプラントでポルノ作品でも観て過ごしているに違いない。

「ちゃんとメーカーに話を通しておいたんだろうな」
格調の高い車内の内装に落ち着かないのか、刑事は身体を不自然に動かしながら詰問してきた。

 言われるまでもなく、件の会社のリスク管理部門には予め連絡をとっておいた。自動車メーカーや私と同じで、やはりこうした事件は極めて珍しかったのだろう。人間のサポートを引き出すまでに二回ほどスクリプトやボットの相手をさせられる羽目になった。先のフェイルセーフ摘出映像を提供してはじめて、会社を代表できるくらいの職位をもった人間と話が通じた。

「面倒でしたが、まあ、なんとか」
あくまで私は簡潔に答えただけで済ませ、会話を打ち切った。

 プリオン・テクノロジーの社屋はこの時代の先進的企業が大抵そうしているように、基本的にいつも無人だった。それでも政府が都市開発政策を転換する将来に備え、余裕がある企業はわざわざこうして地表に社屋を維持している。土地の新規取得はずいぶん昔に禁止された。

 緑地帯の真っ只中に屹立する純白でいびつな四角形をなした外観は、船の帆のようにも、あるいは削れた墓石のようにも見えた。

「お待ちしておりました。ユアンさま。ワイヤットさま。こちらへどうぞ」

 ごく低品質な素材と最小の知性で構成された多目的ボットが、ほとんどローラ部しかない筐体をきゅるきゅる言わせながらやってきた。五十センチほどの筐体より上は受付嬢を模したホログラム映像で代替されている。すさまじいまでのケチりっぷりだ。

 案内された部屋ではいかにも仕立てのよいスーツを着た細身の男が椅子に座って待っていた。机は白塗りで清潔感に優れ、用意された椅子はどれも高級な人工皮革を使用した厚手のプレジデントチェアだった。

 私たちの姿を認めると、彼は多目的ボットに向けて「しっしっ」と追い払うように手を払った。映し出されたホログラム映像はそれを受けて一礼し、またローラーをうるさく鳴らしながらどこかへと去っていった。

「いや失礼。この社屋は滅多に人が来ないので」

 温和な笑みを振りまくその男はヤマモトと名乗った。プリオン・テクノロジーのリスク管理部門のトップにあたる人物だが、私が情報を提供するまで事態を把握していなかったという。私と刑事は手短に自己紹介を済ませてから、すぐに本題に入った。

「あんたンとこのフェイルセーフに間違いないな? こいつは」
ワイヤットは胸ポケットから密閉袋に入った血まみれの素子を取り出して言った。

「ZMR02Aですね。だいぶ懐かしい。私が入社して二年目かそこらの頃のモデルです。……伺った話では弊社製品の不良をお疑いだとか」

 ヤマモトは繊細そうな細長い手に薄手のゴム手袋をはめ、本体を触ったり透かしたりしながら入念に検分した。彼のかけている四角い縁の眼鏡がときどき光の反射を受けてきらめいた。

「それを確かめにきたんです」

 刑事をさしおき私は大きく身を乗り出して言った。
「この旧型製品は大脳に記憶装置としての機能を代替させているそうですね。ログデータを取り出す方法はありますか?」

「もし脳細胞が生きていれば――失礼。そうでしたらとっくに本人に喋らせていたでしょう。結論から申し上げますと、無理です。……建前上は」

「建前?」
すがるような思いで私は追及した。

「当時の技術力では、全機能を搭載した素子を稼働させるだけの電気量を生体から調達できなかったのですよ。かといって、大脳にそのまま生データを書き込んでしまうと、脳の生理的な機能の方で乱雑に読み書きされてしまう恐れがある」

 プリオン・テクノロジーの代表者は管理職に似つかわしくない技術者然とした口ぶりで説明を続けた。

「そこで、弊社は当時、専用のファイルシステムを開発しまして、その特殊な符号で大脳に書き込むデータを暗号化したのです。これは特定の本体一基と使用者自身の大脳の一対一で完結しているので、弊社でさえ複合することはできません。今思えば強引な実装でしたが、おかげで復号化は最新モデルより難しいくらいです」

 特性上、インプラントにはユーザのありとあらゆる個人情報が蓄積されている。まばたきの回数から本人が隠し通したかった秘密まで、技術力のある者の手にかかれば文字通りすべてがつまびらかになってしまう。このためメーカーが実施しているプライバシー保護は、時として彼ら自身の枷として働くよう、特に厳重に実装されている。

「しかし」

 ヤマモトはポケットの中からごく小さい袋に収められた、カプセル状の物体を取り出し、机の上に置いた。

「実はここに複合キーがあります。本体と大脳を結線した状態で外部演算装置につなぎ、暗号データを吸い出してからこのキーで複合すればすべて読み取れるでしょう」

 急速に場の空気が張りつめた。

 なんだか話がうますぎる。思わず手を伸ばしかけたが、寸前のところで抑え、ヤマモトの顔を見つめた。

「どうしてこんなものが? タダってことではないでしょうね」

「お話の解る方で助かります」
ヤマモトは笑みを崩さず言った。

「複合キーと引き換えに、得られたログの中身をすべて弊社にも共有させて頂きたい」
「へえ、そいつは妙だな。なぜだ?」

 ワイヤットが横槍を入れた。実際、共有できるかどうかの決定権を持っているとすれば、私ではなく刑事である彼の方なのは間違いない。

「いえね、自動車事故の件はもちろんニュース番組でもちきりなので存じておりましたが……まさか、弊社のフェイルセーフが機能しなかったとはね。動作していれば事故に遭うことはなかったでしょう。私どもとしても原因究明に取り組みたいのですが、あいにく使用者のログ収集は理由を問わず、法的に許されていないものですから」

 ヤマモトはちらりとワイヤットの方を見た。

「法的に許されてねえのはこの複合キーもだろ。引き換えもクソも、この場で銃を突きつけて回収して、後日あんたに逮捕状……って手もなくはないんだぜ」
刑事は横幅だけ広い体格を誇示するように肩を揺らしながら言った。

「でしたら今すぐリモートでキーを無効化するだけです。もしあなたがたがインプラントで映像を撮っていたとしても、そちらがその気なら……こう見えて私はそこそこできる方のハッカーでしてね」

 対して、世界に名を馳せるグローバル企業のリスク管理担当者も負けてはいなかった。両者はしばし挑発的態度を拮抗させていたが、やがて後者の方が緊張を解き、彼の笑顔はいっそう人工的な気配を帯びた。

「これは一種の政治的取引というやつです。この複合キーの存在を知る者は、CEOを除けば代表権を持つ数人の役員と、私のみです」
「そこまでしてあんたの会社は原因を知りてえのか」
「はい。高齢化社会においてフェイルセーフはもはや必要不可欠です。リーディングカンパニーとしての責任を果たさねば。条件付きですがね」

 フェイルセーフはあらゆるインプラント製品の中でもとりわけ身心に対する影響力が強く、仕様には厳しい制限が課せられている。インプラント本体が使用者の意思を越えて身体を制御するなど、通常であればまず許されない。

 使用者本人が身心に問題を抱えた要介護者であり、かつ、家族と医師の同意が得られた場合にのみ、ようやく装着が認められる。それでもフェイルセーフが実際に身体制御に介入するのは、人命に重大な危機が迫っていると判断した時に限られる。

 しかし、周辺国ではこうした技術は積極的に軍事転用されており、もっぱら兵士の戦闘能力を効率的に拡張させるために用いられていると聞く。一部の心配性な市民たちは、当時、政府がフェイルセーフの販売を認可した際に「強化兵士を作るための第一歩だ」と叫び、けっこうな議論を呼んだらしい。

「もし、ログを調査した結果、旧型製品に不具合が見つかり、補償責任を負うことになったとしても?」
「はい。直接の死因は明らかに自動車ですし全額負担にはならないでしょう。弊社にそれだけの蓄えはあります」

 この男は嘘をついている。私の直感が告げていた。正確には、嘘はついていないかもしれないが、確実に本心は語っていない。旧型製品とはいえ複合キー自体が既に法律違反なのに、単なる奉仕精神のために存在を明かすはずがない。

 だが、このキーがなければ私のキャリアは潰えてしまう。

「……この場じゃ判断は下せないな。一旦、署に持ち帰って検討させてもらう」

 きな臭さを嗅ぎとったのは私だけではないらしい。嘘のように真顔になったワイヤット刑事が、ヤマモトのそばにあったフェイルセーフを手元に取り寄せた。そして私と彼の二人を交互に見つめ、こう言った。

「あんたらインテリどもときたら、いつもろくでもないことばかり考えやがるな。だから嫌いなんだ」

「これは手厳しい。ねえ、ユアンさん。あなただってログに賭けないとまずい立場でしょう? ここは一つ、警察の方によろしく言っておいてくださいね」

 なにか上手い切り返しを思いつこうとしたその時、ドアの向こう、ずっと遠くの位置から足音らしき反響音が響いた。真っ先に反応したのは意外にもワイヤットだった。

「おい、今日の来客はおれたちだけじゃねえのか?」
「いえ、そんなはずは……」

 ヤマモトは目をすばやく瞬かせた。本社の来訪データベースでも参照しているのだろうか。今時よほどのことでもなければ人間の、それも上役本人を引っ張り出すのは難しいはずだが。

 続けて、聞き慣れない金属音。来客は一人ではないように思われた。

「……おい、あんた。ヤマモトさんよ。ここの警備ボットはどうなってる?」
「あー……」

 ヤマモトはなにかひどく都合の悪いものを見つけたかのように顔を歪めた。足音はさらに近づいてくる。

「どうなんだ!」
「だめですね。アクセスできません。故障かもしれない」

 無理もない。きっとこのオフィスに守らなければならない資産は何一つないのだろう。あくまで土地を保有するために維持されている、いわば民間のハコモノだ。特に損耗が激しい警備ボットのメンテンス費用は真っ先に削られたと考えられる。

 ワイヤットはホルスターから拳銃を抜きとった。それは、素人の私でもひと目で判るくらい古めかしい代物に見えた。

 前世紀の黒く煤けた回転式拳銃を強化プラスチックで継ぎ接ぎして補修しているせいか、いかにもちぐはぐな異質さが際立っていた。

「まさか火薬を使う銃ですか?」

 私の口からいつもより一オクターブ高い声が出た。ヤマモトはまだ視点を一箇所に集中させている。

「三十七分署のワイヤットだ。プリオン・テクノロジー本社に今すぐ応援をよこしてくれ。今すぐだ!」

 ワイヤットはインプラントの緊急通信でひとしきり絶叫してから、出入り口に銃口を向けた。足音は今やはっきりと、無遠慮に鳴り響いている。

 横にスライドして開く形式の自動ドアが、なんらかの打撃を受けてガタガタと前後に揺れた。打撃はさらに繰り返された。

「さっきドアをロックしましたがこの分だといつまで持つやら。一応、やれるだけのことはやるつもりですが」
ヤマモトが諦めかけた口調で言った。

 唐突に打撃が止まった。ドアをこする音が聞こえるやいなや、ワイヤットが私たちのいる机の下に潜り込んできた。

「どうしたんです?」

 私の問いに彼はおそらく返答したと思われるが、耳を裂く破砕音にそれはたちまちかき消され、あたかも硝煙の奔流が押しのける形でドアを吹き飛ばした。

 間もなく煙の中から全身を黒ずくめの戦闘服とレンズ付きのフルフェイスマスクで覆った二人組が姿を現した。両手には軍事用と目される光学小銃が握られている。

 ワイヤットが机の下から立ち上がった。意外にも俊敏な身のこなしで拳銃を構えると片手で何発か発砲し、うち一発を一人に命中させた。が、直後、倒れ込んだ方とは別の一人が彼に銃口を向けた。

 このままでは良くて相討ちだ。

 危険性を顧みる前に、私は机から大きな音を立てて反対側に飛び出した。反射的に敵の注意はこちらにひきつけられ、光学小銃から死を招く光線が発射された。野蛮な火薬銃とは異なり、その銃声は実際の威力とは不釣り合いに小さかった。

 幸いにも数発の短い光線はいずれも私の身体から数センチずれた空間を通過していき、壁や床を黒くこげつかせた。

「おい!」

 体勢を立て直したワイヤットは相手に向かって叫び、続けて発砲した。今度は放った二発の銃弾が的確に命中し、敵はその場に崩れ落ちた。

 場が静まりかえった。彼は滑らかな手さばきで回転式拳銃のシリンダーから残弾ごと薬莢を振り落として新たな弾丸を供給した。ぱらぱらと薬莢が床に落ちる音と、シリンダーが回転する音が部屋中にこだました。

 かつてドアがあった場所に新たな敵が現れる気配はなかった。私はというと、飛び出したきりの状態で地面に転がっていた。

 ワイヤットも私も、物理的にはほとんど運動していないにも関わらず、まるでハーフマラソンを走った後のように息を切らしていた。だが、彼の方はまだ体力が残っていたらしく、机の下にいたヤマモトの胸ぐらを掴み、強引に引きずり出した。

「あんたの仕業か? 無人の会社に呼び寄せて証拠ごと隠滅しようってハラか!?」
「ち、違いますよ! なにを根拠にそんな」

 さしものヤマモトもすっかり取り乱し、かけていた眼鏡が掴みかかられた拍子にずれた。ワイヤットは数秒ほど彼を睨みつけた後、乱暴に手を離して解放した。次は私と目が合った。

「おい、ユアンさんよ。どうやらおれも笑ってられなくなっちまったみたいだ。なにかあるぜこいつは」
「ええ。同感です」
よろよろと立ち上がりながら私は答えた。

 頭の端に、もしかすると自動車メーカーの補償責任を負わずに済むようになるかもしれない、などと不謹慎な期待がよぎったことは黙っておいた。

**

 大量の警備ボットと光学銃で武装した警官隊が現場にやってきたのは、襲撃から約四十分後。

 現場検証の結果、他に人員がいた形跡はなし。死亡した襲撃者たちの国籍はそれぞれ異なり、正規の入国履歴は認められず。

 採取したDNAフットプリントをオーソライズしたところ多数の犯罪歴が登録されていた。ただし、別人のDNAフットプリント片を指先に加工接着することで、これまで各所の無人受付をくぐり抜けてきたらしい。

 どちらの方のフットプリントでもテロ組織やその他反社会勢力に繋がる有力な情報は見当たらなかったとのこと。

 検証が終わった後、私はレンタル自動車を呼ぼうとしてワイヤットに引き留められた。もはやその顔からニヤつきは一切失せ、ごくまっとうな官憲の鋭い面持ちを形どっていた。

「ユアンとか言ったな。あんたはもう保護対象だ。警察車両に乗れ」

 車幅の広いラグジュアリーな仕様のレンタル自動車とは異なり、パトカーの車内は狭く、シートの質感は固かった。なにより、隣を陣取る彼のせいで、私の占める着座面積は到底一人分とは言えない規模に縮小した。

「もう少し脚を閉じて頂けませんかね」

 走行中、私の苦言を無視してワイヤットはさらに顔を寄せ、深刻な声音を漏らした。

「例の被害女性の脳が強奪された。少し前に」
「えっ?」
「時間差での襲撃だ。意味は解るな? 大脳がなけりゃ、こいつは何の役にも立たない。逆にやつらにとってもだ。片方だけじゃあ中身を読めない」

 彼はヤマモトから受け取った複合キー入りの密閉袋を目の高さで揺らした。襲撃の目的と推測される以上、警察高層部の意思決定を待つまでもなくそれを確保するのは当然であった。

「不運にも当直の検死官が死んだ。あんたも昨日会ったやつだ」

 ここへきてようやく私は恐怖を実感した。無根拠な高揚感が揮発し、全身の血管という血管を悪寒がめぐった。下手したら死んでいた。

「あなたには感謝しなければなりませんね」
恐怖心が変換されたのか、率直な感謝の気持ちが湧き出した。誰かに命を救われる経験などそう簡単には得られない。

「あんたもな。素人にしちゃ、大した判断だ。てっきりおれは死んじまったかと――」

 迂闊に称賛の言葉を返してしまったことにワイヤットはかえって居心地が悪くなったらしく、不自然なところで一旦会話を打ち切ってから、わざわざ声色を変えて仕切り直した。

「――まあ、やつらがもっと手厚く扱われた戦闘員なら、本当に死んでただろうが」
「というと?」
「軍事用インプラントだ。この国じゃ違法だが、やつらは不法入国者だった。もし使われていたら撃ち合う間もなく蜂の巣さ。……が、やつらにはそんな代物はなかった。末端の世話ができるほど金に余裕がない。元締めは、ビジネスじゃなく思想で結託している連中だろうな。厄介だ」

 それから一時間ほどでパトカーは都市部に戻ってきた。政府の政策によって極端に面積が狭められたこの都市は、おのずと陽を求めて伸びる植物のようにひたすら縦へ縦へと伸長していき、立体道路と建物がミルフィーユ状に幾重にも折り重なった独特の景観を作り出している。

 私は過密に集積された都市の低層にいることが、どうにも部屋の一室で多頭飼いされる犬猫や、水槽で繁殖しつくしたザリガニを彷彿させて気に食わなかった。人間はストレスで共食いしたりはしないかもしれないが、道行く人々の身なりは薄汚れ、疲れきっているように見えた。

 幸いにも、私の実家はこの明らかに社会階層を体現したミルフィーユの中でかなり高い位置に存在する。おかげで私はそれらの歪みがもたらす種々の理不尽な部分を、当面の間なかったものとして過ごせた。

 高層では神の祝福のごとく間近に降り注ぐ陽の光を、全身いっぱいに浴びながら、よく整備された純白の石畳の上を悠々と歩くことができた。挽きたての豆から淹れられたコーヒーを片手に、清潔さと機能性の行き届いたモノレールで美術館へと向かう道すがら、今週の特別展がどんなにすばらしい出来栄えか期待に胸を膨らませた。

 ここでは建物の敷地内に入るまで、自動車の外に降りることさえ叶わない。会社が私に待遇の一つとして与えている健康保険の免責事項には、低層部で負った傷病は例外なく保険適用外である旨がしっかりと記されている。

 自動車メーカーとの包括契約も同様であれば、こんな苦労をせずとも済んだのだが。私は車窓からのぞく低層の猥雑な街並みを眺めながらひとりごちた。

 地表に垂れ落ちる雨粒は天の恵みというより、昆虫が産みつける卵鞘として映った。

 やがてわれわれは制服警官たちの間を通り過ぎながら、再び救急医療センターに足を踏み入れた。本来、警察の現場検証に素人の私は不必要だが、警護の効率性から同行すべきとの結論に至った。

 遺体安置室の様相は凄惨さを極めた。

 襲撃者たちは偽装したDNAフットプリント片を用いて堂々と侵入し、無人の廊下を闊歩してエレベーターでこの部屋まで直行。検死官を殺害後、遺体から別けて冷凍保存されていた脳を強奪したという。

「こいつはひでえな」

 部屋に入るなり、ワイヤットは鼻を腕で覆いながらうめいた。検死官は胴体に複数の焼け焦げがあることから光学銃で射殺されたと推測できるが、どういうわけか頭部の半分以上が削りとられ、下顎のみが首に残されている。襲撃者たちは殺害後に遺体を故意に損壊したのだろう。

 損壊の目的は一目瞭然だ。部屋の壁が血文字でべったり汚されている。検死官の遺体はこの血文字アートの真下に、壁に背を向けて床に座らせる格好で打ち捨てられていた。

『NO HUMAN』

 検証に入った他の刑事が、遺体の口蓋の中から検死官のものと思われるインプラントを見つけた。

「スティーブ。これを。……いくらなんでも悪趣味だ」
「こいつは決まりだな。襲撃者どもは人体機械化に反対するテロ組織だ。自動車事故の件もこいつらの仕業かもしれん」

 事件解決のピースが揃ってきた。不可解な自動車事故もテロ組織が一枚噛んでいるとなれば納得がいく。素人では理解できない特別な技術でもってそれぞれのシステムをハックし、同時に機能不全を起こさせたのだろうか? 

「脳と複合キーを両方奪いにきたってことは襲撃者もログが目当てですよね。一体なぜでしょう」
「ああ。今からそいつを調べに遺族のところへ行かなきゃならねえ。その前に……」

 いつの間にかワイヤット刑事は振りかえり、先ほどまで会話していた刑事と連れ立って、私に話しかけてきていた。

「さて、さっきも言ったがあんたはこれから警察の保護を受けることになる。警護担当はおれと、こいつ。普段バディを組んでいるキム・ヒョンシクだ」

私は流れに従って自己紹介を行った。
「テネンバウム保険株式会社保険調査官のユアン・ファイです」
「三十七分署、殺人課のキムです。高層部にお住まいの方がこんな目に遭うなんて災難でしたね」

 私はワイヤット刑事の態度にすっかり慣れたせいか、またぞろ嫌味を言われたと早合点しかけたが、短く刈り上げた髪型と精悍な顔つきをした、いかにもたくましい彼のいでたちを見て、一旦その判断を保留にした。

「ええ。ですが、おかげさまでワイヤット刑事に救われました」
「でしょう。彼はこんなナリですが射撃は私も歯が立ちません。健康診断はいつもひどいありさまですがね」

 キム刑事は自身より五センチ以上も背が低いワイヤットの脇腹を拳でぐりぐりと突いた。

「おいよせ、やめろ。あんたらの民族には年長者を敬う文化があったと聞いたぞ」
「曾祖父さんの代くらいまではね」
「ははは……失礼、今日の件を私の上司に報告しても?」
「ええ、どうぞ」

 まるでレトロ映画から飛び出してきたような刑事コンビの掛け合いから折良く撤退した私は、屍臭の漂う安置室を抜け出し、エレベーター前の壁際でインプラント通話をかけた。

 通話に出るなり上司は勢いよく吠え散らかした。こちらがなにかを言う間もなく連絡の遅さをなじり、私をなじり、会社の愚痴を漏らし、挙げ句の果てにワイフの機嫌の話に入りかけたあたりで、私はようやく口を挟むことに成功した。

 同時に、まだ今日の件がニュースで報じられていないことを悟った。一連のあらましを聞き終えた時の上司は、一寸、状況が会社にとって有利に転ぶか否か評価しかねていたが、うってかわって怜悧な管理職の態度に豹変した彼はしばらく唸ってから、こう切りだした。

「もし本当にテロなら大いに助かる。が、万が一、そうでなかったとしても、われわれが争える余地はかなり増えたわけだ。裁判のほとんどが高度計算資源頼りの時代とはいえ、最終的に判決を下すのは今でも人間様だ。そして、司法と警察の距離は依然として近い。せいぜい連中と上手くやってくれ。君の業務は当面免除しておいてやる」

「お気遣い感謝します。ところで」

 私は彼が信仰している反機械化委員会について訊こうと思い、躊躇した。先の血文字アートから、襲撃者たちがインプラントの装着――すなわち人体の機械化――に反対する思想を持っていることは明らかだ。

 反機械化委員会といえばそれの代表的な政治勢力だ。紙媒体の啓蒙広告(生身のコミュニケーションを!)を自宅のドアの隙間に挟んでいったり、町中で演説したりしている様子を見たことがある。当初は少なかった議席もフェイルセーフの販売認可以降、緩慢ながらも右肩上がりに増えている。しかしこのタイミングで訊けば、いかにも疑っていると言わんばかりではないか。

「私の所属する反機委のことか?」

 不意を衝かれて私は動揺した。彼に顔が見えていないのは幸いだった。おかげでいつもの超然とした態度を取り繕うことができた。

「ええ。理屈の上では、反機委の中におかしな人がいないとも限らないですよね」
「入会の際に経歴審査と情報公開が行われる。テロをやろうなんて連中が、そんな手続きをするとは思えんが」
「そうですか……。愚問でしたね。失礼しました」

 ”もし、反機委そのものが主導していたら?“という質問は結局できないまま、体裁の悪くなった私は逃げるように通話を終わらせた。

 前回同様、現場検証から襲撃者の個人特定に繋がる痕跡は見つからなかったらしい。私は被保護者として二人の刑事に同伴し、手掛かりを探るべく被害者遺族のもとへ向かった。

 一連の襲撃は明らかに自動車事故の事件性を示唆している。現状では死人に口なしなので、遺族から話を聞くしかない。

「すいませんね。低層の警察は常に人手不足でして」
キム刑事の口ぶりからはやはり皮肉めいた成分を感じずにいられなかったが、私はこの直感を強いて無視した。
「私としても社から原因を追究するよう命じられているので」

 こんなに自動車に乗る日は珍しい。日用品の調達は基本すべてオンラインで済ませているし、用事で多少遠くに行くとしてもモノレールを使うことの方が圧倒的に多い。今回はキム刑事が隣に座っていたため、私はついに正当な着座面積を占める権利を得た。

「被害者遺族といえば、昨日お会いした方々ですね」
「そうだ。今から行くアパートに家族全員で住んでいる。被害女性の息子、ネイソンはボット修理工場の工場長。息子の妻、キャロルは環境保全業務者。孫にあたる青年、フロイドは……これは珍しい。カレッジに通っているそうだ」

 ワイヤット刑事が助手席からいつもより大声で、おそらくはインプラントフォーマットで作られた書類を読み上げた。

「カレッジに? 上手いこと宝くじでも当てたのかな」と驚くキム刑事の横で、私は郊外から都市へと戻る道中に言いかねたことを改めて言うまいか逡巡していた。

 ところがわりあい口は容易に滑りだし、私の不安定な意思とは裏腹に言葉の切れ端が紡がれた。

「身体制御インプラントってどうなんでしょうね」

 問いかけにしてはやたら曖昧模糊としていたが、ワイヤットの呑み込みは早かった。無論、われわれが老齢に達した時の話ではない。

「隣国の軍人みたいに挿れろと言われたらってか?」
彼は振りかえりもせず存外に落ち着いた声で問い返した。
「ええ。戦争に使えるくらい汎用的なら誰にだって」
「だとしたらまず軍人で、次に私たち警察の人間でしょうね」

 かつての人々は人間の知性こそ真に崇高で代替不能な機能として見なしたが、ソフトウェア技術の発展とともにこの神話は退潮を余儀なくされた。

 実のところ人体の機能でもっとも模倣が難しいのは手足である。技術的に精巧なマニピュレータを開発できても、動作精密性を担保する膨大なメンテナンス費用と製造品質の維持が壁となり、結局はどんな経営者も鼻白んでしまう。彼らが求めるのは最高の性能などではなく最低のランニングコストなのだ。

 ゆえに警備ボットを含むすべての自動機械は手足を持たず、低廉なキャタピラ部と特定の用途に特化した大雑把なアーム部で一定の機能性を実現している。それでもメンテナンスを怠る事例は後を絶たない。数時間前に思い知らされたばかりだ。

 そこへいくと人間の使役は楽だ。最低限の賃金を与えればひとりでにメンテナンスをしてくれて、勝手に量産も行うのだから。

「おれにとっちゃ、ぞっとする話だな」
ワイヤットが言った。
「射撃しか取り柄がないのに、ソフトウェアが身体を動かすんじゃあ、一体どこで差をつけりゃいいんだか」

 例のアパートメントは都市部の中心街からそう遠く離れてはいなかったが築年数は相当古く、一室あたりの広さも家族が住むにしてはやや手狭に思えた。

 われわれを出迎えたのはキャロルとフロイドの二人。家主のネイソンは勤務中とのこと。三人用の古ぼけたソファは諸般の事情で二人用に早変わりしてしまったため、仕方がなく私は別に用意してもらった椅子に座った。遺族の二人も同様に腰を落ち着かせた。

「単刀直入にお伝えします。このことはまだ報道機関にも知らせていないので、気を確かにもってお聞きください」
二人の視線がキム刑事に集中した。
「亡くなられたお義母さん、フロイド君にとってはお祖母さんですが――今日、何者かに医療センターが襲撃され、遺体の一部が持ち去られました」
遺族の二人は息を呑んだ。

 それからキム・ヒョンシク刑事は必要に応じて内容を簡略化したり、刺激が強すぎる部分を省いたりしながら、一日に起きた事件を説明した。説明し終えると、すぐに質問が飛び出した。

「テロ事件に巻き込まれたのは解りました。しかし、なぜ私のお義母さんの遺体を?」
「われわれの疑問も同じです。当初、これは単に珍しい自動車事故――」全員の視線が私に向けられたが、瞬時にそらされた。「――として見ていましたが、今や状況は大きく変わっています。もしかすると、お義母さんはなんらかの方法で殺害されたのかもしれません」
「殺害ですって?」
キャロルは口を手のひらで抑えて驚きの感情を露わにした。
「本日伺ったのは、彼女がなにか人間関係で困っていなかったか。特に、政治関係で。それを調べに来たのです」

 遺族の二人は共に沈黙した。互いに顔を見合わせ、なにやら気まずそうな雰囲気を醸成しながらも最終的に口を開いたのは、フロイド青年の方だった。

「お婆ちゃんの人間関係は知らない。……けど、僕にいろんなことを教えてくれた」
「いろんなこと、とは?」
「政治。あと代数学と、経済学も少し。だから僕は無償でカレッジに通えているんだ」

 盲点だった。被害者は齢九十を越える高齢女性で無職。目立った経歴も学位もない。しかしこれらの情報は、本人に知識がないことを必ずしも前提付けるわけではない。

「政治とは具体的のどのような内容の?」
私はただの被保護者としての領分を越えて遺族に話しかけた。

 フロイド青年は胡散臭そうなものを見る目つきでまじまじと私を見つめ、その整った身なりを確認するやいなや、一気にまくし立てた。

「あんた、良い服着てるな。保険会社勤務ってことは高層の人か。きっとカレッジの学費なんかも楽勝で払えるんだろうな。使っているインプラントはどこの高級ブランドなんだ? インペリアル・フォッジ? それとも周防製作所か? ……簡単に言えば、そういう話さ」
「ちょっとフロイド」
間にキャロルが割り込んできたが私は構わず後を引き受けた。ワイヤットのおかげでこの手の誹りにだいぶ耐性が身に付いてきた気がする。
「つまり、機械化格差論とかそういうテーマですね」
「そうだ。生まれつきの差があまりにも開きすぎている。これから人間の機械化が進めば、さらにその差は広がっていく。お婆ちゃんは昔、よくそんなことを言っていた」

 いつの間にか、また全員の視線が私に集中していた。私は勘弁してくれと言わんばかりに苦笑いし、会話を仕切り直そうと目論んだ。

「しかし、君はしっかり勉強してカレッジに入った。専攻はやはり政治学ですか?」
「いや、機械工学だ。人文学で飯が食えるのはそれこそあんたら高層の連中くらいのものでね。父さんがボット修理工場の工場長をやっているから、そのツテで一旦就職してそのうち設計側に回ろうかと」
「なるほど、立派。いえ、実に立派です。……皆さん、どうか私を睨まないでくれませんかね。生まれつき持った利点をわざわざ使わないで勝負する人がいますか?」
私が事実上の白旗を揚げたことで皆の視線はようやく散らばった。

 確かに私のインプラントはインペリアル・フォッジ製のフラグシップモデルだが、だからといって悪者扱いされてはたまらない。

「まあ、これでだいたいはっきりしてきたわけだ。あんたの婆さんはたぶん、襲撃者の元締めと政治的につながっていた。ただの婆さんじゃなかったってことだ」

「政治的対立の末に殺害、ですか?」
私は神妙に語るワイヤットに確認した。

「いや、だとしたら辻褄が合わない。彼女は十五年近く前に要介護認定を受けている。なんでも運動障害および中度の認知症だということだ。仮に昔、バリバリやっていたからといって今さら殺すかね」

「それに十年以上も前の政敵を殺すために、人工知能をハックしようなんて考えませんよ普通。やろうと思ってできるかどうかさえ定かじゃないのに」
キム刑事は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに頭を左右に振った。

 話は結局、そこへと戻るのであった。この件が補償責任の所在に留まっていた時から続いていた根本的な疑問。人為的な改変でないとしたら、なぜ自動機械の純粋知性たちは判断を誤ったのか? どうして平然と老婆を吹き飛ばし、あまつさえ見殺しにしたのか? 

「お婆ちゃん、確かにときどき変なこと言ってたな」
特に他意のない様子でフロイド青年がつぶやいた。

「変なこと?」
私は「そりゃ認知症だから」と言いかけたワイヤットを制しながら訊き返した。

「急に化学の話になったりすんの。代数学を教えてもらってたのに」

 口を開きかけたが、唐突に玄関の方から呼び鈴が鳴ったので、話が中断された。思い出したように立ち上がったキャロルが「食材の配達だわ」と言って、リビングから足早に出ていった。

「化学の話とは?」
私は彼女を見送ってから、急ぎ視点を戻して会話を再開しようと試みた。

 が、今度はワイヤットが何事かを叫びだした。私は迷惑そうに彼を睨んだが、直後にキム刑事も声をあげたので、いよいよ私も顔を動かして玄関に続く廊下に目をやった。

 そこには今日見たばかりの黒ずくめの襲撃者――むろん中身は違うとして――が三人、既に光学小銃を構えた状態で立っていた。前回の状況とは異なり、もはやわれわれの敗北は決定付けられている。

 二人の刑事が持つ銃はまだ腰に下がったままで、どう頑張っても抜くまでには二秒以上かかる。敵が引き金を絞るにはその半分以下の時間で足りるだろう。

「母さん! 話が違うじゃないか!」

 フロイド青年が沈黙を破り叫んだ。黒ずくめの三人の背後からおずおずと姿を現したキャロルの顔には罪悪感が色濃く浮き上がっていたが、息子に対する返事は「仕方がないのよ」の一言で済まされた。

「手を挙げろ。余計な真似をしたら殺す」
黒ずくめのうちの一人がくぐもった声で脅した。われわれは従う以外に手立てがなかった。別の一人が刑事たちから銃器を取り上げ、私の身体も入念に探った。

「おいおい、そいつはおれのオキニなんだ。大事に扱ってくれよ」
ワイヤットはこの期に及んで飄々とした態度を保っていたが、返ってきたのは言葉ではなかった。

 黒ずくめの集団は光学小銃を下げると、代わりにずっと小振りの、銃器かどうかも判別がつかない機器を取り出し、私たちに向けて発射した。

 意識を失う寸前、スタンガンを受けたのだと悟った。

**

 目が覚めてまず映ったものは、タイル張りの廊下。感じとったものはほのかな頭痛。椅子に座らされ、身体が拘束されていること。両手両足が金属製の頑丈な電子錠で締められている。手足を広げようとしてもびくともしない。

 次にとった行動は現代人の発作的症状だ。何はともあれ、思考を通してインプラントを起動した。

Network Service: Unavailable

 視界の左上に大きめの文字で警告が表示されている。各種アプリケーションを起動するまでもない。こんな文字列は学生の頃、テストや受験の時くらいしか目にした記憶はない。今時、ネットワークは火星でも繋がる。つまりここは意図して作られた電波暗室で、われわれはやはり襲撃者たちに捕まっている。

 私はこれまでの人生を簡単に振りかえり、どこで致命的な間違いを犯したのか考えた。就職先に見込める給与の高さと圧倒的な好待遇から、金融工学を専攻したことだろうか。数ある分野の中でもっとも安定度の高い保険業界を選んだことだろうか。はたまた、いくつかの保険会社の中で特に評判のよいテネンバウム保険株式会社に就職したことだろうか。あるいは、単に自動車メーカー担当に任命されたという不運……。

 私ははたと思い直した。そもそもなぜまだこうして生かされているのか。通りすがりの検死官を即興で前衛芸術に仕立てあげた連中に、私が自ら意識を取り戻すまで放置しておく理由などない。複合キーは既にワイヤットのポケットから奪われてしまっているだろう。

 ここで私は内省から抜けだし、周囲を見渡す心理的余裕を得た。室内の広さは目測で二十平方メートルほどで、床から壁、天井に至るまでがうっすらと黄ばんだ白のタイル張りになっていた。床の四隅に向かって若干の傾斜がつけられ、大きな排水溝が各々設置されている。排水溝のそばには束ねられて整理されたホースと、蛇口も備えられていた。

 これらの内装は明らかにここが殺人を用途に作られた部屋であることを示していた。血で汚れても清掃しやすく、インプラントで通報される恐れもない。

 距離をやや離して、同じように拘束されていた左右の二人に向かって私は呼びかけた。

「ワイヤット刑事、キム刑事、聞こえますか」
一回では反応がなかったので、似たような調子で二回ほど叫んだところ、やっと両者は覚醒した。刑事として訓練を受けた二人の状況把握は、私よりもずっと迅速で的確に見えた。

「いいですかユアンさん。あなたやわれわれが生かされている理由は、まだ利用価値があるからです。連中の目的は判りませんが、複合キーと大脳が揃った以上、望んでいた情報はもう手に入っているはず」
醒めて間もなくキム刑事が私に告げた。

「単に後回しにしていただけで、今から処刑される可能性は?」
恐怖に駆られた私の問いに返答したのはワイヤットだった。

「血文字を作るような輩だからな。ありえなくはねえ」

 唐突にドアが開いた。部屋に入ってきたのは、やはり黒ずくめの集団。しかし数人いるうちの一人が先頭に立ち、他が後ろに控えていることから、おそらくこの人物は組織内での階級が高いと私は見当をつけた。

「ユアン・ファイ。テネンバウム保険株式会社の金融コンサルタント兼保険調査官。高度計算資源取扱主任者」

 先頭に立つ人物が嫌味ったらしく抑揚をつけて私の社会的身分を読み上げた。

 自分の傑出した経歴がまるで悪事を働いた結果であるかのように言われるのはいい加減に我慢ならなかった。私は恐怖を怒りに換えた。

「はじめまして。ところで、なぜあの老婆を殺したのですか?」

 利用価値のために生かされているとしたら、脈絡なく殺されたりはしないだろう。私たちが生き残るにはとにかく情報が必要だ。

 先頭の人物のフルフェイスマスクが少し傾ぎ、ことさらにくぐもった声で答えた。
「われわれは殺していない。殺したのはお前たちだろう」

 回答はそれだけで終わった。男――声を変調している可能性もあるが暫定的に――はゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、私の顔を覗き込むように凝視した。

「われわれは社会を変革するための手段を今しがた手に入れた」
「おい、そいつに構うな……そいつは――グッ!」

 会話に横槍を入れようとしたワイヤットが、後ろに控えていた黒ずくめの一人に殴打され、黙らせられた。さらにもう一撃食らわせられるか、というところで男がそちらに顔を向け、暗に「下がれ」と指示をした。直後、黒ずくめは下がり、目の前のマスクの向きはこちらに戻った。

「だが、一つ、気にかかるところがある。政府の連中は一体どうやって彼女を殺したのか」
「ど、どうやら私とあなたの間には認識の違いがあるようです」

 私は主に時間稼ぎを目的として懸命に口を震わせたが、一方で彼がまったくのでまかせで殺人を否定しているわけではないようにも思えてきた。

「私どもの見解では、あなたがたが被害女性と意見を違えた結果、なんらかの手段で殺害した、ということになっているのですが」

 男はしばらく黙り込んだ。私は彼が腰に下げている光学短銃が急に引き抜かれないか本能的に恐れ、回避しうる余地などまるでないにも関らず視界の端に捉え続けた。

「……それは違う。彼女は、オリビア女史はわれわれの指導者だ。いや、指導者だった、というべきか」
「十五年前までは、ですか? でも意見が合わなくなった?」
「違う!」

 男が急に叫んだので、私は後ろにのけぞって逃げ出したくなった。もちろん両手両足を拘束されているのでそんな真似はできない。

「彼女はこの社会を変革するための画期的な計画を立案した。この組織も、人員も、闘争のためのノウハウも、元はすべて彼女が作り上げた。だが、やがて、彼女の脳は致命的な障害に蝕まれた……。彼女は急速に自身を忘れ、われわれを忘れ、大義も忘れた。よりによって、彼女自身がもっとも憎んでいたフェイルセーフなどという悪魔を、やつらは彼女の身に寄生させたのだ!」
「あなたがた、ひょっとすると反機械化委員――」

 言い切る前に激昂した男の拳が顔を襲った。考えてみれば、私はついぞ人から殴られる経験をしたことがない。エレメンタリースクールの頃から人間関係は厳格に選別されていて、そのような問題行動を起こすほど情緒に問題を抱えた子供は、そもそも私が通う学校には入学できなかったのだから。

 よりによって初めての経験が鍛えぬかれたテロリストの拳によってとは。しかしそれにしては、想像していたほどの痛みがない。無意識のうちに気分が昂揚していて、痛覚が鈍磨しているのだろうか? 

「二度とその名を口にするな。やつらのしていることなど児戯に等しい」
フルフェイスマスクの隙間から男の荒い息切れが漏れ聞こえた。
「ッ……なるほど、解りました。では、あなたがたと彼らの違いとは?」
わずかに間が開いた。

「暴力だ。やつらは所詮、高層で屁理屈をもてあそんでいるだけだ。既にインプラントは社会に蔓延し、次は身体をも支配しはじめた。富ある者はインプラントで機械化するもよし、せずともそれはそれでよし。他人に融通を利かせばいい。貧しい者は、これがなければ仕事に就けない。選択権すらない! 多少の議席があるくらいで何が変わる?」
「少なくとも政策を立案することは――ウッ!」
また私は殴打された。唇が切れ、おもむろに血の味が口内に広がった。

「政策で何が変わるものか! お前はわれわれのような人間が普段、どうやって日々を暮らしているのか、想像したことがあるか? 一日何時間働いても、まだ足りないと言われる。いずれ、やつらはわれわれから身体の制御を奪い、その操縦桿を機械に与えるだろう。この、痛めつけられた肉体の……」

 そう言うと、男は後ろに控えていた黒ずくめの集団の方に振りかえり、短く命令した。

 直後、彼らは一斉にフルフェイスマスクを脱いだ。首の上にあった顔は典型的な凶悪犯のそれではなく、人殺しに長けた元傭兵、頭脳明晰なハッカー、不法入国の外国人、のいずれでもなく――。

 低層のどこにでもいそうな、疲れきった老人たちの顔だった。

「私は庭師だ。毎日、高層まで行って下品な趣味の連中の庭を飾ってやってる」

 先頭の男がしわがれ声で言った。続いて、後ろの他の年老いた男たち、女たちが自らの職業を告げた。

「私は家庭教師だ。私自身はミドルスクールにも通えなかったのに、高層の子供の勉強を見てやっている。ボットは人間味がなくてイヤなんだそうだ」
「おれは農夫だ。ボットよりコストの安い人力マニピュレータとして一日十二時間働いている」
「あたしは売春婦だ。低層の女とヤリたがる変態男どもに何十年も奉仕させられてきた」

「われわれはかつてはただの中年で、今は老人だ。何の力もない、自動機械よりも安い労働力として働かされ、微々たる支援金で余生を繋ぐだけの。しかし、オリビアは違った。暴力の必要性さえ認めればわれわれでも社会を変えられると言った」

 私は混乱してきた。話が変な方向に転がりはじめている。私がとった話術は、相手の方からしゃべらせて所属や経歴を打ち明けさせるというものだったが、あまりにも予想を越えた結果が導きだされてしまった。

 たとえ辻褄が合わなくても私の直感は言っている。この老人たちはテロリストには違いないが、本当に被害女性を殺していない。犯人は別にいる。

「……あんたらが殺してないとしたら、誰が殺したというんだ」

 さすがにまた殴打される心配はないと見たのか、ワイヤットが慎重に口を開いた。

「われわれが知りたいのはそこだ。十数年もの間、オリビアが正気に戻り、再び指導してくれることを待ち望んでいたが、彼女は死んだ。だが、彼女の計画はわれわれの手の中にある。お前らが知っての通り、大脳と、フェイルセーフと、複合キーが揃い、既にログを入手したからだ」
一拍置き、男は話し続けた。

「……しかし直近のログを観た限りでは、本当にただの自動車事故にしか見えなかった。それはありえん。政府がなんらかの方法で彼女を殺したのだ。われわれが十年余りも燻っている間になにかが変わったのかもしれない……となると、安易に計画は実行できない。暗殺の手口を突き止めないことには」

 ひとしきり話し終えると男は後ろの集団に目配せして、キーボードとディスプレイがビルトインされた小型の外部演算装置を持ってこさせた。

 それは部屋の外、おそらくはそのずっと先まで延びていると思われる有線ケーブルと繋がれており、ややあって私の膝の上に置かれた。

 次いで、両手の電子錠も外された。ケーブルと装置の損耗具合はかなり激しく、購入履歴を残さないよう外国から型落ちの製品を入手したのだと推察できた。

「このケーブルはネットワークと、別の外部演算装置に接続されている。演算装置はオリビアの大脳とフェイルセーフに結線し、事故車と同型のソフトウェアを装置上で実行させてある」

 私はまだ彼の言わんとすることの意味が把握できなかった。

「私になにをしろというのですか」
「お前は職業柄、高度計算資源へのアクセス権を持っている」
「ええ。そうですが……」
「オリビアのログからは連中のやり口を明らかにできない。あくまで彼女の記憶が収められているだけだからな。必要なのは、あの事故の瞬間の再現だ。同じ空間、同じ気温、位置関係、その他気象条件……情報源はすべて揃っている。あと必要なのは、これらを完璧にシミュレートする計算力のみだ」
「つまり……本気ですか」

 ようやく私は理解に及んだ。高度計算資源とは演算装置を大量に積載し、第二級人工知能との合わせ技で演算性能を極限まで高めた一種のスーパーコンピュータである。しかし、どんな民間企業でも自由に扱える代物ではない。

 電力だ。この政府お手製のモンスターマシンはわずか一時間の稼働で核融合発電所が力尽きるほどの電力を消耗する。数多のシミュレートや学術計算において比類なき効果を発揮するマシンだが、その利用代金の高額さと、取扱資格の難関さから、実際に利用できる企業は限られている。

 私の会社、テネンバウム保険株式会社は投機の予測シミュレーションモデルを構築するためにこの高度計算資源をたびたび利用しており、私の主な仕事がそれの取扱い業務にあたる。通常、購入する計算時間は短くて数十秒、長くても一分以上買ったことはない。

 たかが投機の最適解を探るためにはその程度で事足りてしまうのである。それでも請求される金額はそこらの中小企業を廃業に追い込むほど高くつく。この優位性を活かし、私の会社はこれまで多額の利益を得てきた。

「……どれくらいの時間が必要なのですか」
「二十分三十八秒だ」

 即答された時間はひどく非常識な値であった。いかに隆盛を極める保険会社といえども、経営が傾くどころではない。

「私の会社が潰れてしまいます」

「特定の状況を完璧に再現するにはそれくらいのリソースを要するのだ。それに、お前に会社の財布事情を考えるほどの余裕はないはずだ」

 男が手を振った途端、老人たちが前に足を踏み出し、三人に向けて一斉に光学小銃を構えた。

「確かにお前は殺せない。粗雑に設計された低層の無人受付くらいならDNAフットプリント片で難なくパスできるが、高度計算資源のオーソライズは厳重だ。だが、目と、指先と、頭部以外は、いくらでも痛めつけられる。それに」

 ピュンッと、人を小馬鹿にしたような、あまりにも気安い銃声が鳴った。後に続くワイヤット刑事のうめき声の方がはるかに大きく部屋中に反響した。

「スティーブ!」  キム刑事が叫んだ。横を向くと老人たちの一人が光線をワイヤットの脚部に向けて撃ち込んだのが判った。焼け焦げの痕から徐々に血が溢れだしている。

「お前がノーと言うたびにこの刑事に穴を増やしていく。死んだら次はこいつだ。もし他人の苦痛より愛社精神が勝る人間なら――最後はお前自身の身体でそれを試させてもらう」

 次の瞬間、私は考える間もなく外部演算装置のキーを叩いていた。速やかに電子の海を漕ぎ、高度計算資源の購入画面まで辿り着くと、普段では考えもしない桁数の数字を空欄に入力した。

 オーソライズ。DNAフットプリントはもちろん、声紋、網膜、顔貌など、無人受付より段違いに多い要素でもって、私の本人性が照合された。ほどなくして最終確認画面に表示された金額は、小国の国家予算に匹敵しうる数字を示した。

 私はなにか時間稼ぎの言葉を紡ごうとして一瞬、指先を止めたが、目の前の男がそれを見破るのはあまりにも早く、代償は大きかった。

 口を開くよりも前にワイヤットの脚に二発目の光線が撃ち込まれた。また、うめき声が繰り返された。

「押すまで二秒ごとに撃つ。一、……」
老人は冷酷に告げた。私にはもう一切、手は残されていなかった。

 ボタンを押したとほぼ同時に、高度計算資源による神の視座があてがわれた。

 そこから先はあまり記憶に残っていない。ただ矢継ぎ早に繰り出される指示に従い、金融工学の一環として学んだ情報科学の知識の通り、事故現場を再現するためのコーディングを行った。

 いわば、神の双眸の向きを決めるための儀式だ。すべての入力が完了した時、私の指先は疲れではなく底知れぬ恐れから小刻みに震えていた。

 やがて作業が滞りなく済んだことを確認した老人たちは、膝の上の外部演算装置に映像出力ケーブルを繋げ、部屋の外から持ってきたプロジェクタと接続した。

 神の視座を経て空間投影されたのは、事故現場を再現したコードの塊。過去の精緻な数理的スナップショットだ。私は命令されるまま、その中から人工知能とフェイルセーフの実行機序に関する部分のみを抽出して表示した。

 そこには、欺瞞も偽りもない機械たちの合理的判断そのものが克明に刻まれていた。

「説明しろ」
先頭の男が要求したが、私は事態を呑み込むのにずいぶん苦労した。

 結論から言えば、どちらの機械も故障などしていなかった。むしろ、過剰なまでに完璧に動作していた。

 すべての自動機械は人命を最優先に守る。

 フェイルセーフが実際に身体制御に介入するのは、人命に重大な危機が迫っていると判断した時に限られる。

「機械が」
私はつぶやきかけたが、すぐにそれが正確性を欠く表現だと悟った。機械は主体性を持たない。そこに自由意思はなく、ゆえに主格で行為を表すことはできない。

「どういうことだ……おれにはわからん」
苦痛で顔面を蒼白にさせたワイヤットが息も絶え絶えに言った。

「ただ、生まれ持ったコードに従って合理的に判断しただけです。彼女を殺さなければ、他の大勢の人間を死に追いやることになると……彼女は、あの時、正気に戻っていたんです」
私は脳髄から徐々に染み渡っていく悪寒に全身を震わせながら説明した。

「機械に人は殺せないはずでは?」
キム刑事が問いただした。

「ええ。ですが、一人を生かしたせいで、もっと大勢の人が必ず死ぬとしたら? その人物を殺さなければ、結果として人命を守れなかったことになる」

 私は老人たちを仰ぎ見た。
「あなたがたの指導者は生きていれば数百万、いや、ひょっとすると数千万の人間を殺すところだった。あなたがたもそれを実行しようとしている。そうですね?」

 男はここで初めて口角をゆっくりと上げ、皺だらけの顔に満面の笑みを浮かばせた。
「そうだ。つまり彼女の計画の有効性を、機械が自ら計算で裏付けてくれたわけだな」

 男は横にいた家庭教師を生業としている老人に目配せした。老人は深く二度、頷いた。彼と私の見解は一致したらしい。

「われわれの勝利は約束された!」
 老人たちの一人が歓喜の声を叫んだ。

≪なにも喋らないでください≫

 その時、唐突に私の脳の内側から声――思考性音声――が聞こえた。どうにも聞き覚えのある声だ。

≪視線も動かさないで。装置から指を絶対に離さないでください≫

 二度目でこれがヤマモトの声だと判った。私は視線を動かさず有線ケーブルと指先を視界に収め、たちまち理解した。

 私のインプラントは指先を通してヤマモトのそれと繋がっている。外部演算装置から漏れ出た微弱な電波をインプラントが拾っているのだ。

≪実はあの時からお二人にずっと枝を張っていました。ある地点で急にオフラインになったので、危機的状況にいることは把握しています。この通信は、私が電波を集束させてあなたのインプラントをハックしていることにより、辛うじて成立しています。そこそこできる方のハッカーだって、私、言いましたよね?≫

「お前のおかげですべてが把握できた。政府のやつらの仕業でないのなら、いくらでもやりようはある。われわれのインプラントを捨てていけば、機械には判断しようがない」
先頭の男が興奮気味に叫んだが、今の私の耳には遠く聞こえた。

≪とはいえ、この状況にこぎつけられたのはただの幸運です。第一に、あなたのオーソライズ情報で高度計算資源が購入されたこと。これで外部演算装置の付近に、ユアンさん、あなたがいると確信できました。第二に、あなたがインペリアル・フォッジ製の上等なインプラントを装着していること。今から行わせる処理はかなりの記憶領域と演算性能を要求するので、そこらの安物ではだめでした。本来であれば専用インプラントとして提供されている代物です≫

 今さら何ができるというのだろう。おそらくもう数分もすれば、用済みとなった私と刑事は老人たちの手によって始末されるだろう。数千万の人間を殺すつもりなのに、たった三人を見逃す理由はない。

≪予め謝っておきます。あなたに迫っているリスクについて私は想像しかできないので、考えうる限りもっとも汎用的なソリューションをこのネットワークを通してお届けします。全自動ですから、使用にあたって特に心配はいりません。それまで生きていれば……ですがね≫

 視界の左上に、なにかをダウンロードしていることを示す簡素なプログレスバーが表示された。もう声は聞こえてこなかった。

 ネットワーク速度が飽和化した現代では、たとえ映像技術の粋を極めた映画作品でさえもほんの数秒で全データを取得できる。

 しかし、この微弱な電波がもたらすプログレスバーの動きは亀のように鈍く、私は老人たちに気取られないようにしているだけでもかなりの注意を要した。

 彼らは用意したインプラント廃棄剤を順次、鼻から注入していった。これはインプラントを買い換える際の標準的な手順だ。鼻腔から脳血管に向かって浸透していく特殊な溶解成分が、インプラント本体を極めて人体適合性の高い他の物質に分解し、最終的には各種排泄物と一緒に廃棄させる。

「すべて終わった後にやろうと思っていたが……これでもうこんなものとは永久にお別れだ。人間が人間らしさを取り戻す革命が起きる」
「何千万人も殺した後にか?」

 今や血塗れになった脚部を震わせながらワイヤットが訴えるも、男は聞く耳を持たなかった。

「数百万人かは残る。新しい社会を興せばいい。そこには自動機械も、格差も、搾取も存在しない。では、さらばだ諸君」
男の合図で老人たちが再び光学小銃を構えた。

 プログレスバーが半分に達した。会話を続ければあるいは……。

 私はこの受信中のデータの素性をまったく知らないまま、もはや希望のすべてを賭して縋った。

「その新しい社会に私たちの居場所はないのでしょうか?」
「おい、あんた、なにを――」
「私はインテリですし、この二人もまだ若く健康体です。ワイヤット刑事の方は心配ですが」

 老人の一人が即座に反論した。
「あるわけなかろう。お前は高層の人間で、われわれを搾取した。こいつらは警察の人間で、われわれと同じ階層にいながら権力と同衾した」

 他の老人も糾弾の声をあげた。
「おのれの死期を悟って命乞いか。いまいましい。仮にその気なら、なぜもっと前に過ちを正さなかった。なぜ見てみぬふりをして搾取に勤しんだ?」

 七十パーセント……私はとにかく声を絞り出した。

「いえ、私としては、恥ずかしながら、もっと穏便な手段があるものと……いきなり大量虐殺するなんて、皆さんだって聞いてすぐには納得しなかったでしょう?」
先ほどまで先頭にいた男が答えた。

「穏便な手段。穏便ねえ……。お前らは豊かだからこそ、そんなふうに考えられる。結局、真に切羽詰まっておらんのだ。われわれには余裕がない。日々、生きるか死ぬかだ。納得したさ。高層の人間どもは自動車事故で自分が死ぬかもしれないと想像して騒げても、過労死するかもしれないなどと思ったことはないだろう」

 男はついに腰に下げた光学短銃を引き抜いた。八十二パーセント……。

「待ってください! まだ話し合えるはず――」

 私の懇願は聞き入れられなかった。銃口がゆっくりと傾きを変え、眼前に迫ってきた。

「黙れ。お前らが思想の極北に向かわずにいられたのは恵まれているからだ。中庸とは、持てる者の特権だ」

 万事休すだ。私は九十三パーセントに達したプログレスバーを視界に捉え続ける気力さえ失い、とうとう目を閉じた。

「うおおっ!」

 突然、キム刑事が無理に立ち上がり、ほとんど転倒に近い形で頭から男に突っ込んだ。私の目は驚きで見開かれたが、銃口は反射的に彼の方へ向いた。

 銃声。だがこれは大きく外れ、天井のどこかへと着弾した。男とキム刑事が重なり合っているせいで、他の老人たちは光学小銃で撃ち殺すことを諦め、暴れる彼を引き剥がして抑えつけた。

「この期に及んで……次は清貧な者として生まれ変わるよう祈るがいい」
老人の一人がキム刑事に改めて銃口を突きつけた。

 百パーセント。

root# ./prion_tech_combat_implant_alpha_start.shi

log_level=high
manual_combat_mode=false
self_defense_mode=true

POINTING DEVICE [OK]

 直後、私の肉体は私のものではなくなった。

 両脚の電子錠が、自分ではない誰かが――なにかが動かす脚の力によって、瞬時に引きちぎられ、膝の上の外部演算装置がはねのけられた。

 肉体が予備動作なしに椅子から飛び上がり、左手奥にいた敵に向かって一直線に駆け抜けた。この時点で私は、主観的に遅滞した時空間をただ一人だけ、等速で動くことを許された存在として振る舞っていた。

 ひとりでに振りかぶられた拳が家庭教師の頭を鋭く捉えた。彼は打撃と共に時間から解放され、近場の壁に勢いよく衝突した。その頭部は、死んだ老婆のそれよりも醜くひしゃげていた。

 私の手は空中に投げ出された光学小銃を難なく掴みとった。

 遅延に囚われた者たちがこちらを向き、のろのろと武器を構えはじめた。私の視界には絶えず各人の持つ危険度がオーバーレイされていたが、私の主体的な判断とは無関係におのずと小銃が構えられ、おそらくはその危険度の多寡に従って、次々と標的を駆逐していった。銃の反動はそれが光学銃だということを差し引いてもなお、まったくと言っていいほど感じられなかった。

 気がつくと敵の数は一人に減っていた。もっとも組織内での階級が高いと見当をつけていた庭師の男だ。結局、名前を知る機会はなかった。

 庭師は口をゆったりと動かし、なにか言葉を叫んでいたが、遅すぎて私には聞きとれない。彼がようやく手持ちの光学短銃を構えた刹那――これは十のマイナス十八乗を表す単位だが、こういった局面でも適切な比喩かは定かではない――私の肉体は機敏に反応を示し、一瞬で至近距離まで接近すると、脚を大きく後ろに反り、強烈な前蹴りを食らわせた。

 庭師は数メートルも離れた壁に向かって吹き飛び、叩きつけられて潰れた果実のように臓腑を壁面の至るところに晒した。果汁の一部は天井にまで達し、その粘性に相応の緩慢さを伴って床に滴り落ちた。

 部屋の外から複数の足音が聞こえてきた。こちらへと近づいてくる。

 私が肉体の主体性と人間相応の知覚を取り戻したのは、この時からさらに十分ほど経た後であった。

**

事件報告書:低層部の市民らで計画された未曽有のテロ計画は<黒塗り>の<黒塗り>により未然に防がれた。<以下、一ページほど黒塗り>

強奪された主犯の大脳およびフェイルセーフ本体は当局により回収後、<黒塗り>。テロ組織の活動拠点はボット修理工場の地下に存在。主犯の息子が工場長として勤務していたことから重要参考人として事情聴取中。

なお、テロ組織の主要構成員は、そのすべてが戦闘により死亡したと見られる。

<以下、延々と黒塗り>

 救急医療センターの一室で私はプリントアウトされた報告書を読んでいた。指一本さえまともに動かせないので、厳密には、読ませてもらっていた。今時こだわりでもなければ紙媒体の文字に目を通すことなどほとんどない。思考性ではないせいか文字が頭に入りづらい。

「これでは……なんのことやら……わかりませんねえ」

 私は視線を懸命に動かし、真横にいるヤマモトに向けた。口から漏れた声はまるで別人に聞こえるほどかすれていた。

「ああ、無理なさらないで。あなたは未調整の戦闘ソフトウェアを使ったのですから、全身ズタズタのはずです。率直に申し上げて、死んでいてもおかしくありませんでした」

 ヤマモトは医療カプセルに収められた私の胴体を覆い隠しているシーツを指先でつまんで持ち上げたが「うわ」と漏らしたきりで、すぐにそれを手放した。視線しか機能しない今の私では自身の肉体の状態を把握できない。あの老婆の遺体ほど醜くなければいいが。

「あれは……一体……」

 声を出すことすらひどく億劫だ。眠ってしまえば楽になるが、ここ数日の間ずっと寝通しだったので意識がやたらとはっきりしている。身体が不自由なのに知覚が明瞭なのは拷問に近い。

「ですから、軍事用インプラントのソフトウェアですよ。我が国では違法ですが、実は政府の依頼で研究開発していました。ずいぶん前からね。フェイルセーフは、その副産物です。……あとはまあ、将来このことを公にする際に、必要性を訴える方便として利用するためですかね。いずれにしても、主犯のログと、死亡の原因を示す数理的根拠と、実地戦闘データがすべて入手できたので、弊社としては満足です」

「機械は……」
また主格で話そうとしてしまった。しかしわざわざ言い直すのも面倒だ……と思っていたところ、ヤマモトは上手く意を汲んだらしく期待通りの返答をしてくれた。

「言うまでもなく第二級人工知能に自由意思はありませんし、フェイルセーフに至っては演算装置に過ぎません。ただ、それぞれの持つコードが人命を最優先に守るために必要な行動を、各々で合理的に判断しただけです。……と、いうことを改めて確認するために、彼女のログがどうしても必要でした。あなたには感謝しなければなりませんね」

 結局、数千万もの人間を殺してのけるほどのテロ計画とは何だったのだろうか。そう聞こうとして、やめた。

 口頭で聞いたところで理解できるとは思えないし、万が一理解できてしまったら、今の私は機械によって合理的に判断されてしまいそうな気がしたからだ。

「おっと、忘れるところでした」

 そう言うとヤマモトは私に歩み寄り、インプラント廃棄剤を鼻先に押し当てて注入した。痛みはなく、薬液が鼻腔を通過していく感覚が残った。

「あなたのインプラントが過負荷で破損したことは知っていますが、一応ね。証拠隠滅しておかないと。生理的な機能の方の記憶はこんな穏便な手段では済まないので、この件はどうか内密に」

 大脳を漂う素子の死骸が、溶解液の奔流に巻き込まれて分解されていく様子を私は想像した。

「それにしても、えらく功利主義的な機械があったものですねえ。生みの親に似たのでしょうか」

 プリオン・テクノロジーのリスク管理担当者は最後にそう言い残し、この日以降、ただの一度も姿を見せなかった。

 次に現れたのはテネンバウム保険株式会社が遣わせたメッセンジャーだった。

 私の上司は低層まで自ら出向くのを忌んだのだろう。彼は「生身のコミュニケーション」を標語に掲げる反機械化委員会に所属していたはずだが、どうやら場所の高さによって気が変わるらしい。

 メッセンジャーが伝えた要件は、長い前置きを除けば三つあった。一つ目は、私は解雇された。高度計算資源の濫用は理由を問わず正当な解雇事由にあたる。

 二つ目は、私は会社から訴訟され、既に敗訴した。テネンバウム保険株式会社は購入費用の請求に追われ経営危機に陥った。その損害を可能な限り補償せよとのことだ。高度計算資源を用いた一審判決はわずか二秒で下されたという。

 私はメッセンジャーに控訴しない旨を伝えた。二審以降は人間の手で行われるが、業界の中でも最強と言われているテネンバウム保険の法務部と争って勝てる見込みはない。これで明日にでも私の持つ銀行口座は空になることが確定した。

 三つ目は、健康保険は使えない。入院時点ではまだ社員だったので本来なら私は会社に治療費を負担してもらえるはずだが、免責事項には低層部で負った傷病は例外なく保険適用外であると記されているため、ここの費用を全額自費で払わなければならない。

 メッセンジャーが帰ってから数日の間、私はとても幸福な気分に包まれた。身体の奥底に燻る反抗心に思う存分火をくべるだけの理由が手に入ったのだと。

 じきに治療費の支払い能力不足を理由に医療センターから追い出されるだろう。そうなれば私の反抗心はいよいよもって全身を貫いて燃え盛り、階層意識を越えた革命の灯火となるはずだった。

 暇を持て余した私は空想の中でたびたび革命の戦士を演じた。古に伝わる英雄譚のごとく、生まれに恵まれた貴公子がその地位を抛ち、哀れな民草のために腐敗した王政を打倒するのだ。

 側近として、ワイヤットとキム刑事を模した人物を登場させた。憎まれ口を叩いていてもなんだかんだで身を護ってくれたし、きっと私の味方をしてくれるに違いない。

 人民の自由と権利を象徴した旗を片手に、平民たちで築かれた軍隊を率いて勇猛に戦い、肥え太った豚と化した王族たちを成敗していく……。

 ところが、またメッセンジャーがやってきた。彼曰く、実家の両親が遣わせたのだという。

 要件はまたしても三つあった。一つ目は、治療費は両親が全額支払ったので心配無用とのこと。

 二つ目は、具合が良くなり次第、高層の療養施設に転院できるよう手配したとのこと。

 三つ目は、同等の待遇を持つ転職先をいくつか見繕ったとのこと。

 メッセンジャーは最後に、両親からの贈り物と称してインプラントの代用となる音声操作型の、映像受信に特化した小型演算装置を置いていった。

 私が動けないのをいいことに私の両親はかくのごとく暴虐の限りを尽くした。

 彼の「良いご両親をお持ちですね」という、おそらくは他意のない称賛に私は反論の言葉を持てなかった。

 数ヶ月も経つ頃には、旗を片手に行軍する私ではなく、挽きたてのコーヒーを片手に瀟洒な石畳の上を歩く私を夢見るようになった。

 ある日、私は音声で小型演算装置の電源を入れた。映像配信欄からニュース番組を指定すると、間が悪くそこではコマーシャルが放映されていた。

『当社の運転ソフトウェアは対革命耐性を標準搭載! 効果は先のテロ事件解決で立証済み! 市民の安全と平和を守ります……』

 私のすっかり衰えた顔筋が小刻みに振動し、喉がカラカラと鳴った。これでも大笑いしているつもりだ。おそらく自動車メーカーとプリオン・テクノロジーはこの理屈で補償責任から上手く逃げおおせたのだろう。

 ようやく動かせるようになった首周りを活用して窓に目をやると、低層の猥雑な街並みに雨が降り募っている様子が見えた。

 幾重にも組み合わされたミルフィーユ状の立体道路や建物を伝い、そこに堆積したありとあらゆる汚れを吸収した雨が、私のいる病室の窓をしきりに叩いている。

 硝子に付着したその濁った雨粒は、やはり昆虫の卵鞘を思わせる醜さで滴った。

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