2020/12/29

二本の短編小説を書いた所感と解説

二本の短編小説を書いた。ワンアイディアのものと、活劇性の高いものをそれぞれ一本ずつ。僕はこれまで短編を書いたことがないわけではないが、基本的には新人賞狙いの長編一辺倒でやってきた。

今思えば長編小説は執筆に時間がかかりすぎて、浮かんだ構想を文章に起こして試すには長丁場すぎるきらいがあったと言える。結果として未完成の原稿ばかりが堆積していき、実際に応募まで進んだ作品はごく少数に留まった。

そこへいくと短編は書きやすい。キャラクターの造形をそこまで深堀りする必要がなく、思いついたテーマをすぐに単一の物語として働かせることができる。短編賞、それもSFの短編賞はほとんどないので実益に結びつきにくいところはやはり欠点になってしまうが、中長期的に見れば決して無駄ではないように感じた。

十万文字超の長編となると友人に読ませるのも気後れするが、短編となればこれも格段にやりやすい。さしあたっては、その数少ないSF短編賞の一つである創元SF短編賞に応募できるくらいの力作を仕上げたい。

「主観現実権」について

この作品は先の大統領選挙に端を発し、主にSNS上で盛んに活動している陰謀論者たちの様子を見て思いついた。

件の大統領選挙がバイデン氏の勝利で幕を閉じたことは今さら言うまでもない。トランプ大統領が度を越した狂人でなければ、滞りなく政権移行が進んでいくものと考えられる。

しかし陰謀論者の信じる現実では、トランプ氏がいずれすべての”不正”を暴いてバイデン氏や世界中のマスコミを打ち負かし、彼が再び大統領として君臨する、ということになっている。

彼らは自身の信じる現実に背くニュースは端から捏造、陰謀の類と決めつけてかかり、都合の良い情報を吹聴する媒体だけを選好するので、おのずとSNS上の人間関係も同様の指向性を帯び、一種の閉塞的なデジタル・コミューンを形成してしまっている。

つまり、この点において、彼らの見ている主観的な現実はわれわれと大きく異なっているわけだが、もし、そうした主観と客観的な現実のギャップをテクノロジーが上手く埋め合わせてくれるとしたらどうだろう?

あまつさえ、それが人間の幸福度を高める手段として認められ、権利の一つと見なされたらどうなるだろう?

不快な人間は勝手に美少女か動物に置き換えてしまえばいいし、コミュニケーションは機械に代理させればいい。景色や内装だって好きに見た目を変えられる。自分の理想や認識といちいち食い違い、予測不能な情報でストレスを与えてくる客観現実などもはや不要なのだ……。

これはなにも遠い未来の話ではない。既にYoutubeやニュースアプリなどには、ユーザの閲覧履歴を解析して好ましいと思われる内容を優先的に表示する機能が実装されている。

こうした技術が洗練されていけばいくほど、人々がそれに馴染めば馴染むほど、われわれは自分にとって不都合な情報に触れることを苦痛で耐え難いものと感じるようになるだろう。そして、それらの痛みから逃れたいがために、われわれは人間の根本的な部分をいつの日か機械や企業に明け渡してしまうのだ。

なお、この作品は連作になる予定である。このようなテクノロジーが未成熟な青少年の間に蔓延した時のグロテスクさを描いてみたい。

「対革命耐性」について

この作品はウィリアム・ギブスンの系譜に代表されるサイバーパンク的な世界観に、僕の好みの描写と格差論をちゃんぽんして書き上げた。

一作目とは異なり、今回は短編小説として許される文字数を限界まで使ってキャラクターの造形にも意識を向けた。やや鼻につくくらい格差論をテーマとして前面に押し出す以上、それぞれの階層を代表するキャラクター像がおのずと要請されるためだ。

当初、主人公に敵意を持つ人物として登場し、かなりの悪印象を振りまいたスティーブ・ワイヤット刑事が、中盤の活劇で見事に敵を撃退するさまは、少々作劇のセオリーに忠実になりすぎたきらいもあるが、個人的には気に入っている展開である。

秩序が乱れた世界のデカとは、酒やタバコに溺れて汚職の一つや二つくらいやっているものなのだ。それでいながら、気分と運のめぐりあわせでたまに人を救ったりもする。尺の問題で彼の回転式拳銃をあまり活躍させてやれなかったのが心残りだ。

対して主人公のユアン・ファイは設定上では優秀とされていても作品内ではあまり活躍せず、むしろ大企業の都合にただ翻弄されるばかりで、最終的には単なる俗物として役割を終えてしまう。

これはいわゆる現実における小市民的人物(つまり僕やあなただ)が、ちょっとした悲劇やメディアを通じた仮想体験でにわかに社会正義に目覚めたとしても、大本の社会階層が維持されている限りはなにも変わりようがないということの示唆として描写したつもりである。

怪我が完治したユアンは、おそらく以前よりはいくらか低層の人々に意識を向け、あるいはしたり顔で寄付の一つくらいするかもしれないが、太い実家と恵まれた身分を手放す真似は決してしないだろうし、あくまで自身の相対的優位性を保持し続けるであろう。これはキャラクターの性格に依存する要素ではなく、僕やあなたの写し身なのだ。ユアンの容姿に関する描写が徹底的に省かれ、性別や人種が一意に決められていないのはこのためだ。

こうした解決しえぬ格差構造に自覚的な人々は早々に偽善的態度を捨て、入れ替わりに偽悪の仮面をかぶり自らの立場を不定形に装っていたりするが(いわゆる冷笑主義というやつ)いずれにしても社会問題から逃避していることに変わりはない。とはいえ、誰もがチェ・ゲバラのようになれるわけではないのが難しいところだ。

ところで、格差社会を是正するためとはいえ大量虐殺を躊躇しないテロリストは、一般的な善悪の尺度では間違いなく悪の側に分類されると思われる。

しかし倫理や善悪に拘泥できるのは、それ自体がある意味で恵まれた証拠とも言える。多くの人から称賛されるような「美しい勝ち方」はそれだけ手間と時間を要求する。真に立場が弱く、あらゆる資本力に専有された政治や社会に参画できない人々は、残念ながらやはり暴力に訴えるしか手段がないのである。

さもなければただ黙殺され、じわじわと真綿で首を絞められていくだけなのだから。暴力はいつの時代でも万人に開かれている闘争手段なのだ。こんなふうにヒステリックに極まった考え方は僕の好むところでもある。フィクションに限った話だが。

作中でテロリストたちが戦闘ソフトウェアに操られたユアンに一方的に鏖殺され、それが極度に陰惨な情景描写でもって表現されているのは、力なき者がようやく得た革命の刃も、強大な資本とテクノロジーの前には容易に砕け散ってしまうということを劇的に表すためでもある。

読者が「テロリストが倒されたはずなのに胸糞悪い」と感じてくれることを切に望む。われわれは「スカッと後腐れなく倒せる悪役」の存在にもっと懐疑的にならなければいけない。

題名の「対革命耐性」とは単に補償責任から逃れたいメーカーの詭弁ではなく、われわれの社会にも強く植えつけられた一種の呪縛だということを暗に示している。われわれは互いに分断されていて大衆運動から大きく物事を変えられないように仕組まれているのだ。

また、本作では一つの未来像として、仕事が機械化していくのではなく、人が機械化して仕事をさせられる社会を提示している。人間の手先に匹敵しうるほど高度なマニピュレータを製造するくらいなら、人間をポインティングデバイスとして定義し、脳みその働きをソフトウェアに代理させた方が安価で済むという予想図は、新規性に乏しいながらも良い線を突いているのではないかと思う。

これらのギミックや設定を単一の短編で書き捨てするには惜しいので、今後も別の短編に登場させる余地はあるかもしれない。

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