2021/01/24

書評「推し、燃ゆ」:無限遠点の隣人

前置き

大量にある積ん読をすっ飛ばし、あえてこの本を優先的に開いたのにはわけがある。

第164回芥川賞を受賞して間もない本作は、なるほど確かに著者が弱冠21歳の若手、それも現役女子大生であることから大きく話題を呼んでいる。が、これはどうでもいい。この本を求めた理由は、僕が理解に悩んでいたある種の人々について、より深く解釈できるようになるかもしれないと期待したからだった。

ある種の人々は主にSNSを活動拠点としている。彼女らは各々の執着対象やアプローチの手法に応じてオタクや腐女子、あるいは絵描き、字書きなどと呼ばれる。これらすべてに共通する要素として、極度に簡素化された言葉遣い、スラングや定型句の多用、執着対象への強烈な感情の隆起と、裏腹に垣間見える現実世界への敵意ないしは無関心……などが挙げられる。

僕もオタクだ。コンピュータやSF小説と、アイドルやアニメキャラクターでは毛色が違いすぎるとはいえ、それでも特定の対象に強い執着を持つ点に違いはない。しかし、われわれと彼女らに実装された表現のコードやコミュニケーションのプロトコルには大きな隔たりがある。同じオタクなのに距離があまりにも離れているせいで、まるで別種に感じられる。

思うに、彼女らは強烈な光を発しているが、感情の奔流に任せるまま放出しているので、元々のコードの違いも相まってあちこちに光が拡散してしまっているのだ。時折「はてな匿名ダイアリー」などに投稿される所謂「お気持ち長文」では本質を読み解けない。

彼女らの近くにいる人――趣味が近い人――は光を全身に浴びられるため、それらの文脈を十全に捉えることができる一方、かなた遠くの座標にいる僕に散らばった光は届かない。

遠くにいる人に光源の威力を知らせるためには、照明のような拡散光は不適当だ。むしろ極限まで絞り、指向性を持たせた光線でなくてはならない。決壊した奔流ではなく、計画的に射出された一条の光でなければ、遠くまで届かない。

彼女らの表現コードは執着対象そのものと密接に対応しているゆえ、僕の方から無闇に近寄ることはできない。それ自体への理解がないまま半端に共感を示すのは双方に不必要な痛みをもたらす結果になりうるからだ。

僕は彼女らの執着対象自体への関心はない。恐らく今後もないだろう。それでも、同じオタクではある。だから、無限遠点の隣人として、彼女らの内面世界に関心を持っていた。

彼女らが執着対象に寄せる感情は、僕がコンピュータに向ける感情とどう異なるのか?彼女らがそれの情報を帳面にまとめる時や、二次創作において理想のカップリングを練っている時の情動は、僕がSF小説に登場させる架空のガジェットを考えている時の高揚感と同じなのか?

そこへ折りよく現れたのが本作「推し、燃ゆ」である。文学作品の形態をとっていたけれども、まごうことなく一条の光であった。

本題

本作は主人公の「推し」、執着の対象である男性アイドルが、ある女性ファンを殴打した不祥事により炎上したところから始まる。タイトルが言うとおり「推し」が燃えたということだ。

僕は作品のあらすじを把握する前から、これがアイドルと知り合って恋に落ちて大団円を迎えるような物語ではないと確信していた。そんな話であったなら、とても文学には値しない。むろん、一条の光にもなりえない。

作中ではアイドルを「推す」同志の中にも様々な流派が存在することが示されるが、言葉少なめに「恋愛感情を抱く子もいる」と紹介される以外に、地下アイドルと恋仲になろうとする主人公の友人を除いては、そういった流派に焦点が当てられる様子はない。濃淡に程度はあれどマジョリティの流派に違いないそれをいきなり除外しているのだ。このアプローチは僕の作品に対する期待感をよりいっそう高めた。

主人公のあかりは「推し」を恋愛対象として見ていない。かといって崇拝や信仰とも異なる。彼女は「正確な解釈」をし続けることだけが望みだと言い切る。そこには肯定も否定もない。彼女は「推し」の男性アイドルがファンの女性を殴ったことについて、特に擁護もしなければ批判もしない。また「推し」の性格上の欠点や問題を精緻に把握した上で、やはり個人的な好悪は表明しない。そもそも「個人的な好悪」という判定基準自体をほとんど持ち合わせていないかのように見える。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。
(中略)
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

上記のとおり、彼女にとって「推し」以外の一切は余分な贅肉であり、なんとかしてやり過ごし、仕方がなく帳尻を合わせるだけの存在に過ぎない。人気ブログの運営やSNSを通じて得た同好の士たちも、共通の趣味を唯一の接点とする限定的な関係に留まっている。前述の友人さえもこの点に変わりはない。

唯一、彼女がまともに抱く懸念は「推し」が推せない存在になること。すなわち、アイドルを引退して一般人に変わってしまうことだけなのだ。肉体を動かす動機を「推し」に集約させすぎてしまったがゆえに、それがなくなればどうなるか想像できない。しかし、科学者やアスリートのように一つの目的に向かって邁進できるほどの能力を、著者は無慈悲にも彼女に与えなかった。

あかりは先天的な障害を抱えている。病名は明かされていないものの恐らくは発達障害と推定される。アルバイトはいつまでも慣れず失敗ばかり、学校の授業はおよそ寝て過ごし、ついには留年に追い込まれ、驚くほど希薄な心理描写のうちに自ら退学に至る。ここでの書き込みの少なさは明らかに著者の演出意図が表出している。たとえ人生の岐路であっても「贅肉」に今さら重要性を見出すことはない。

あかりが「推し」について考える際の執拗かつ濃密な描写の対比として描かれる日常生活への徹底した無関心さと、それでいながら現実を生きる能力の欠如を疎んでいる様子は、外側からうかがえる彼女らの性質と一致している。本作は普遍的な言葉で見事に閉ざされた内面世界の一例を説明しきった。

どう言い繕ってもあてこすりになってしまうことを覚悟で言えば、SNS上の彼女らは虚飾が多く、自己欺瞞に満ちている。なんらかのテンプレートや装飾なくしては自分自身について説明できないかのように見える。これは必ずしも虚栄心からくるものではないと思う。あるいは恐れからかもしれない。彼女らの内面世界は強固で密度が濃く、その入口は周到に隠蔽されている。

本作には虚飾がない。いわゆるオタクや腐女子と呼ばれる彼女らを野放図にエンパワメントする作品では決してない。あかりと「推し」のアイドルは結ばれるどころか出会いすらしないし、現実と折り合いをつけて趣味と上手に付き合っていけるようにもならない。むしろ「推し」は物語の後半で引退し、どこの馬の骨とも知れぬ一般女性と婚約してしまうのだ。

この時、あかりは「贅肉」を削りとってきた結果を否が応でも自覚させられる。高校を中退し、ただでさえ振るわなかった仕事ぶりに加えて無断欠勤も繰り返していたアルバイト先は解雇された。両親からは責め立てられ、就活は早々に頓挫する。そんな渦中での凶報。何もできないでいるうちに、やがて仕送りも途絶えてしまう。「推し」を推すためだけに機能していた体躯はひどく脆かった。

祖母の死を機に一人暮らし用の住処としてあてがわれた母の生家は、彼女が住みはじめるやいなや即座にゴミ屋敷と化し、足の踏み場もないほど荒れ果てる。「推し」を推している間は希薄だった現実が、唐突に膨れあがったかのように読者に提供され、物語の終末を彩る。

最後、あかりは自暴自棄になり綿棒の箱を投げ捨てる。投げ捨てられた箱から綿棒が散らばり、至るところに散乱する。夜が明けて、彼女は綿棒を拾いはじめる。拾う際の這いつくばった姿勢を「あたしの生きる姿勢」と言い表し、物語の幕は閉じる。

このような内観に富んだ作品を他人事として作ることは難しい。本作からは著者本人の自省が込められた気配がする。安易な開き直りを認めない決意が感じとれる。歩を止めた人間がいきなり現実と向き合えるようになりはしない。突然、ユニークな才能に目覚めて救済されることもない。ただ人生の歩みを止めた地点から、その肉体をどうにかして動かすしかないのである。

内面世界への旺盛な描写がなければ、ともするとこれらは陳腐な自己責任論、ありきたりな説教に堕してしまったかもしれない。本作は受容と批判の狭間に鋭く穿たれている。

本作はまごうことなく一条の光であった。感情の奔流に覆い隠された彼女らの本質をつまびらかにし、過度の卑下も称揚もなくその心理機序の片鱗を見せてくれた。彼女らの執着は単に逃避や依存ゆえではない。執着そのものが彼女らを代表している。再帰的に彼女らを形どっている。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | 小説