2021/01/30

もはや「漠然」とは言えない加齢への恐れ

そいつは年を追うごとに近づいてくる。五年ほど前はまだ遠くで手を振ってくる程度の間柄だったが、この頃は背中にぴったりとくっついてまわるようになった。僕は加齢が恐ろしい。どこからどう見ても僕がおっさんと思われる年齢に達した時、背中にへばりついていたそいつは僕の肉体と一体化して、そいつの持つ諸要素は僕自身のそれと混濁してしまう。そしていくらかの当惑を経た後、今度は何も感じなくなってしまうのだ。

コロナ禍以降、中年男性諸君らの活躍がめざましい。ある者はマスクの着用を拒否したいがために航空機で暴れ、ある者は同様の理由で試験会場にて暴れ、最近では、業務で書いたコードをまったく個人的な動機で公開して開き直るなどという珍事件も起こしている。彼らは決して知能に問題があったわけではない。むしろ大学教員であったり、中年でありながら再受験を志すほど学習意欲が旺盛であったり、技術職に携わる人間であったりした。つまり、知能に自信があってもこれらの事件の当事者のようにならぬ保証はないということだ。

多くの人間は彼らを嗤う。いい年をして常識がないと言う。あるいは、彼らを特定の属性に押し込む形で「限界独身中年男性」や「キモくて金のないおっさん」と揶揄する。なるほど、知能の欠如を理由にできないと、次は所帯を持たないことや金がないことが原因として挙げられるらしい。そう考えると、加齢への恐怖はもはや「漠然」などと遠巻きにした表現でごまかしていられなくなる。

常識は時代と共に変遷していくものであるし、所帯の有無や性的魅力、資産の多寡はもっと確信が持てない。現在、僕は満二十七歳だが「おっさん」の定義を仮に三十代後半からとした場合、残された時間はもう十年もない。十年もないのに、未成熟な若者という形態から所帯を持ち、一定の資産を蓄えこんだナイスミドルに突然変異しなければならないのだ。さもなければ、おのずと先の事件の当事者のような属性の人間として見なされるかもしれない。

もっと若く純粋だった頃、他人の評価や風評に左右されない人生を歩むのはずっと容易に思われた。かつての画一的で型にはめるがごとくの旧来の基準は自動的に霧散し、柔軟性に満ちた個人を尊重する新しい仕組みが到来すると無根拠に信じていた。ところが、SNSや関連技術の発達がわれわれにもたらしたものは、生来の資本に富む者とそうでない者の格差をよりつまびらかに、時として露悪的に見せつけるということだけであった。

殊にスーツで身を包み、巨大なビルの中に入って仕事をする特定の職種にあっては、求職者がどれだけSNS等を活用できているか査定を行うのが通例となってきている。個人の生活を積極的に開示できない者はそれだけ魅力に乏しく、資力にも欠けるので採用には値しないらしい。

こうした価値基準はこれから日増しに高まっていくものと考えられる。やがて個人の魅力の乏しさは個人の怪しさ、不気味さに転化され、日常の秘匿は不誠実な非常識になっていくのだろう。ここで話は前半部に戻る。僕は加齢が恐ろしい。加齢すればするほど頭の回転は鈍り、肉体は衰え、一般に容姿は醜くなっていくにも関らず、時代はわれわれに魅力的でいることを事実上要請する。その時々の変化に柔軟でいることを求める。柔軟になるのは制度ではなくわれわれの方だったのだ。

もしかすると、そうした迫りくる様々な新基準の奔流に耐えきれなくなった時、僕やあなたは先の事件の当事者のように、突如として怒りに駆られ、あるいは錯乱し、不必要に頑なになって、世間や人々から排除されうる厄介な存在になり果ててしまうのではないか。むろん、伝染病の予防にマスクの着用は妥当であるし、これらを半ば義務化することに異論はない。しかし、次に来る何かが僕を豹変させないとは限らない。

僕は彼らを正面きってあざ笑うほど自身の正気に確信を持てない。陰謀論やデマに惑わされなかったからといって、自分が他人より本質的に賢いなどとは思えない。現在の僕の判断力が、たまたまそれらの巧妙さをわずかに上回っていただけに過ぎない。

そんな時はただ、ふ、と安堵のため息を漏らす。
「ああ、今はまだ正気らしい。まだ今は」

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | 小説