2021/02/12

書評「限りなく透明に近いブルー」:全体的に不潔

前置き

本作を最初に手にとったのは高校生くらいの頃だったと思う。当時、ある種の焦燥感から小説を乱読していた僕は母の蔵書――この頃は電子化以前だったため部屋の壁面と押入れが埋まるほど本があった――から適当に抜き出して読むということをやっていた。その日、不運にも僕の手が捕まえた一冊がまさしく本作「限りなく透明に近いブルー」であった。

当時、本作を通じて得られた読書体験はひかえめに言っても最悪に近かった。高校生の僕には無秩序な堕落が延々と続いているようにしか思えず、むろん、登場人物の誰一人にも共感できるところはなく、おまけに後半は一文がやたらと細切れになっているのに段落が少ないせいか読みづらかった。いっそ読むのをやめてしまえばよかったのに、そのうち面白くなるかもしれないとチンタラやっているうちにページの末尾までたどりついてしまった。読了後の感想は「全体的に不潔」の一言に尽きた。

そもそも「限りなく透明に近いブルー」とかいう題名はなんなのだ。あたかも青春小説さながらではないか。それこそ無垢で未熟な少年少女がボーイミーツガールして、不器用な逢瀬を重ねながらも他に代えがたいひと夏の恋を謳歌した、とでもいったような風情だ。こんなのは悪趣味な擬態だ。詐欺みたいなものだ。そう思いながら当時の僕は、どちらかといえば怒りよりも嫌悪が勝った姿勢で本作をむんずと掴み、本棚の空いた箇所に押し込んだ。世の大人どもはこれを読んでやれブンガクだゲイジュツだとのたまっているのか。理解できない。

それから十余年。どういうわけか「限りなく透明に近いブルー」の電子版が僕のKindleに入っている。発端は友人のMが「村上龍の作品がKindle化されている」とDiscordで発言したことだった。これまで村上龍はAppleのプラットフォーム(iBooksや専用アプリ)でしか電子書籍を発売してこなかったのだが、調べたところによると約一年前からKindle版も発売していたらしい。

Mは言った。試しに「限りなく透明に近いブルー」という作品を読みはじめたが、ドラッグを打ったりセックスしたりするシーンばかりでよく解らん。ウーン、まことに同感である。とはいえ、この機会に改めて読み直してみたらもしかすると違った感想が得られるかもしれない。なんせKindle版はたったの390円だ。1390円なら躊躇したが。

結論から言うと、読了後の感想は一言で表すぶんには大して変わらない。やはり全体的に不潔だった。だが、極めて精緻で非の打ちどころのない不潔さだ。文章表現や倒錯に対する理解が年齢相応に身についていたおかげでもう嫌悪感を覚えることはなかった。これは物語を俯瞰的に覗く習慣を図らずも会得してしまっているということであり、裏を返せば、そのぶんだけ我を忘れて作品世界に没頭する余地も減ってきていることを意味する。そう考えると幾ばくかの寂寥感もある。

本題

主人公のリュウは荒んだ日々を送っている19歳の青年である。舞台は米軍基地の街、福生市。ここでは外国人の手によって持ち込まれたドラッグが蔓延しており、リュウも、リュウの友人の男女も例外なく薬物中毒に染まっている。「パーティ」という名目で米軍兵士向けの住宅「ハウス」に集まっては日がな乱交に勤しみ、報酬として金銭やドラッグを受け取ることもある。リュウ自身も黒人兵士たちの肥大化したイチモツをくわえ、女にも陵辱される。

ではリュウやその友人たちは乱交やドラッグが本当に好きなのか、といえば、そうでもなさそうに見える。リュウは白人のデブ女や黒人の男に陵辱されている最中、何度も吐き気をこらえているし、事実、そのせいでくわえこんだ男根に歯が当たってしまい、これがもとで殴られるアクシデントも発生している。当の黒人たちには「お前は黄色い人形だ」などと侮蔑される始末である。他の女たちも半ば無理やりに、ひどく犯しつくされ、まさしく性玩具のごとき扱いを受けている。この辺りの濃密な筆致には圧倒させられた。

リュウも周りの男女も日常的にドラッグを摂取しているため、特に内観的な部分はほとんど"ラリった"状態で占められている。ヘロインやハシシ(大麻)の他に、仲間が薬局で万引きしてきた「ニブロール」という錠剤がよく登場する。実在する錠剤らしいがどんな効果がある薬なのかは検索してもいまいち判らない。作中でもヘロインを摂取した際の執拗な描写とは対極にさらっと書かれているだけなので(意図したものだと思うが)僕は手頃な向精神薬かなにかだと勝手に見当をつけている。これらの薬物で気分を昂揚させつつデパートで洋服を盗み、遊びだか使命だか判然としないまま「パーティ」に赴き、またドラッグを服用して乱交を繰り返す。

思うに、彼らが目指している結末は緩慢な自殺なのだろう。決して金儲けのためではなく、具体的ななにかからの逃避というわけでもない。仮に僕がこういう筋の話を書くのなら、登場人物の過去に暗い要素を持たせたり、堕落の正当化ないしは原因に繋がる小話を用意するが、本作では彼らが地方から上京してきた人たちだという背景を除き、生育環境そのものがあまり語られないまま終わってしまう。どう見ても彼らは人生の道程を遮二無二にショートカットしてまで死に直行しているのに、その書き味は不気味なほど乾いていて不幸な感じがあまりしない。過程はどうあれなるべくしてなった……とでも言いたげな塩梅である。そこはかとなく約束された破滅の気配が文面から伝わってくる。

こうした死地にひた走る心境は、少なくとも物語として書かれている以上は解釈可能性のあるものとしてなるべく理解に努めたい。現実では人は無意味に死んだり生きたりしているが、本の中の人たちは理由なしには死ぬことも生きることもできない。

本作が書かれた70年代といえば、連合赤軍の事件がまだ記憶に新しい頃で70年安保闘争などもあった。当時の若者たちによる変革のうねり――学生運動――の退潮が決定づけられた時代と見ることもできる。それとは裏腹に日本の経済力は飛躍を遂げ、既に世界第二位の大国にまで登りつめていた。良くも悪くも秩序と経済優先の気勢が日本列島を征服しきった年代と言えるのかもしれない。実際、安保闘争の後に社会党は多くの議席を失い、自民党は躍進を果たした。

つまり、小さい個々人の動きは大資本や国家には到底影響を及ぼせない。整備されつつあるレールの上を走る方が無難であるとの認識が、若者たちの眼前に否応なく突きつけられた時代なのだ。ここから80年代後半に進むとまた反発の機運が高まってきて「フリーター」なる”自由な”生き方が盛んにもてはやされるようになったりもしたが、これはまた別の話。

以上の時代背景が物語に反映されたと考えれば、リュウやその周りの男女は、秩序だってきた社会になんだか白けてしまった人たち、と解釈することができる。くそったれなレールから降りてどうこうしてやるぜ、というほどの熱量もないまま田舎から出てきて手探りに独創性を見出そうとしたがやはり叶わず、かといってむざむざ社会に取り込まれてしまうのも良しとできない。そんな人たちが行き着いた先が乱交でありドラッグであり緩慢な自殺だった。

90年代に生まれ、現代を生きる若者の僕からすればヒステリックに極まった発想に感じるが、これは当時と比べて今の世界が格段に豊かな情報伝達手段や消費文化を提供しているからだとも考えられる。音楽一つとってもコードがわずかに変われば別のジャンルになり、何を愛好するかしないか、どんな感じ方をするか、あらゆる一挙一動が微細化され、もはや僕たちは個性を主張するための材料に事欠くことはない。言い換えれば、今はいくらでも安全な逃げ道があるし、持て余すほど表現の手法が用意されている。

技術革新に伴い微細化が進む半導体の中で紡がれた、僕たちの文化や情動もまた、同じく微細化してきているというわけだ。しかし本作の時代においては、緩慢な自殺しか秩序の支配から逃れる術、自己表現を貫徹するやり方がなかったのである。これがひとたび加害性として外部に表出してしまうと大変まずいことになる。

登場人物の一人、ヨコヤマはケイという元カノと復縁を目論んで真面目に働くことを約束するが、にべもなくまともに取り合ってもらえない。それもそのはず、中盤までは彼女と人生をやり直そうとするけなげな男として描写される彼はその実、異常な暴力性を内に秘めた人間なのだ。

後半では復縁を拒むケイの歯を折り、腹部が変色するまで暴行し、ことが済むと一転して泣いて詫び――それでも受け入れられないと悟ると自殺を図るのだ。驚くべきことにこうした愚行は一度や二度では済まないという。そんな醜態を晒しておきながらまだやり直せるつもりでいる。どうにも救いがたい男だが、そもそもリュウや友人たちも伊達にヤク中をやっていないだけあり、根本的に倫理観の逸脱が甚だしい。立ち寄った野外コンサートで仲間がガードマンに殴打されたと知れば、容赦なく縛りあげて報復し、仲間の一人が電車内で女性を襲えば、止めるどころかむしろ便乗して犯そうとする。

この物語は不良ならではの美点がある、とか、不良が社会の理不尽に抗う、とか、そういう性質のものではない。不良が不良として堕落している。確信犯的に荒廃している。当時にありえた青春の一ページを克明に書き表しただけで、特段に彼らのような人たちを擁護することを企図したわけではないのだろう。先に述べたとおり登場人物の過去があまり語られないのも、物語がありきたりな自己憐憫や社会への恨み節に堕してしまわないようにするための工夫なのだと考えられる。

登場人物の一人はリュウに「フルートを吹け」としきりに言う。彼はかつて演奏を嗜んでいた。僕の解釈ではこれは言葉どおりの意味ではなく「お前はまだやり直せるから破滅するな」と言っているように感じる。そうした忠告が通用したのかしなかったのか、彼は薬物の禁断症状を経て「限りなく透明に近いブルー」のガラスみたいになりたいと願うようになる。

限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。

最後、リュウは小説を出版する。まさに本作「限りなく透明に近いブルー」こそがそうなのだ。小説を通して自分自身の体験を伝える営為が透明に近いガラスなのだとしたら、まさしく彼はそうなれたと言えるのだろう。

ところで、本作は主人公と著者の下の名前が一致することから、明らかに私小説的な要素が強いと判る。だとしたら僕は村上龍の健康がちょっと心配だ。いくら若い頃の話とはいえ、こんなにドラッグ漬けになっていたら後遺症の一つや二つくらい引きずっていてもおかしくはない。

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