2021/04/17

書評「アーサー王宮廷のヤンキー」:知識無双系の始祖

前置き

現代の科学技術や知識によって古の蛮習を一掃し、かかる圧政から民草を救おうとする試みはあらゆる物語の上で実践されてきた。どれほどの賢者であっても実際に未来の出来事を把握し、その結果までをも経験した者には及ばない。ゆえに主人公は常に圧勝する。文明を象徴したるわれわれの優れた科学や理性が過去の後塵を拝することなどありえないからだ。

いわゆる知識無双系と呼ばれる作品群は、それらの輝かしい勝利や民からの崇拝、旧弊の権力があげる断末魔などを通じて、われわれの文明がいかなる機序にして成り立っているか教えてくれる。同時に、ただ漫然と座って読んでいるだけでも実に心地の良い優越感をもたらしてくれさえもする。たとえ、自身が科学文明という名の巨人の肩に乗っているに過ぎないのだとしても。

あるいは読み方によっては、その肩に乗って少々調子づいた自らを映し出す格好の鏡として機能させることも可能なのかもしれない。

兵器工場の職長、アーサー王の時代へと降り立つ

主人公のハンク・モーガンは19世紀末のコネチカット州に住む男で、技師の父と獣医の叔父に鍛えられ、彼もまたコルト兵器工場の職長として辣腕を振るうエンジニアである。すなわち、当時の科学技術についておよそ余すところなく知り尽くした知識人であり、実物を作ってみせることもできる技術者でもあった。そんな男が、かの円卓の騎士たちが活躍する6世紀の時代にいきなり転生させられてしまう。

なんだかやたら聞き馴染みのあるあらすじだと思うかもしれないが、本作の刊行はなんと1889年。日本では大日本帝国憲法が公布された年だ。本作は数多ある知識無双系作品の始祖にあたるものと考えて差し支えない。

エンジニアとして、またアメリカ合衆国の国民として理性を重んじる彼は、当初この事実を受け入れず、どこかの病院かなにかに迷い込んだものと合点しかけた。しかし現に自身が騎士に捕らえられ、いかめしい礼装を身をまとった貴族がそこらじゅうを闊歩し、よもや処刑されるとなると、いよいよ状況の理解に努めなければならなくなった。

後に右腕となる若者、クラレンスによれば今はユリウス暦で528年、日付は6月19日だという。幸運にもハンクはそれが真であるか確かめる術を知っていた。また、それは彼自身をこの状況から助け出す策でもあった。というのも、この時代の人間ときたら、だれもかれも呆れかえるほど迷信ぶかかったからである。どれだけ物的証拠に欠けていても、口先だけで魔法や呪いの類を頭から信じ込んでしまうほど愚かだったのだ。

騎士は脳筋、貴族は横柄、主人公は最強の魔法使い

策とは、皆既日食だった。ユリウス暦528年の6月21日に日食が起こったという記録をハンクはたまたま知識として知っていた。天文学のもたらす客観的事実である。ハンクはめいいっぱいの演説をぶって自らに手をかければ太陽が消えてなくなり、たちどころに永遠の闇が訪れるとアーサー王や騎士たちを脅しつけた。

一転、クラレンスの余計な世話でこれは逆効果に働き、ハンクは予定よりも早く火炙りに処されそうになるも、間一髪、日食現象が間に合い、一夜にして彼は囚人から最強の魔法使いにしてアーサー王の側近に登りつめた。宣告通りに太陽を翳らせた男を疑う者は誰もいなかった――既に王の側近に就いていた自称魔法使い・マーリンを除いては。マーリンは今後もなにかとハンクを追い落とそうと下手な策を巡らせては、たびたび返り討ちに遭うこととなる。

してみると、荘厳な歴史書に記されていた英傑の実際の姿はひどく無様であった。騎士はろくに読み書きできず、簡単な計算もこなせない。恵まれた体躯を武者修行と称する無益な殺し合いに捧げ、その無思考ゆえ非効率きわまる人生を歩まされている。

貴族はもっとひどかった。さしたる根拠もなく、ひとえに血筋だけであらゆる権利を独占し、平民を踏みつけにしながら優雅で自堕落な日々を送っている。わずかでも礼を逸した民には鞭を振るい、気が立てば殺すことも厭わない。そういった圧政を、他ならぬ国立教会が神の名を騙り民衆に押し付けているのだ。

ハンク・モーガンは実利に生きるアメリカ合衆国の人間、あるいは一人のエンジニアとして、これらの蛮習を打ち砕き、早期のうちに科学文明を到来させ、貴族制を廃止に追い込むことを決意した。

電信、爆薬、石鹸、新聞、他にもいろいろ

まずもってハンクが取り組んだのは工業力の向上である。誰にも目をかけられない、捨て子同然の子供や若者を集め、次々と理想とする職人に育て上げた。そこには一切の身分差は存在せず、誰でも働きに応じて賃金を得られ、高度な教育を与えられた。大勢の部下を従えてきた職長たる彼にこれは容易い仕事だった。

そうして作り出された生産物は多岐にわたった。ハンクは例の無駄の極みといえる騎士たちの武者修行を逆利用し、それらの宣伝に用いた。王の補佐人としての権力を振るい、流浪の旅に出ていく騎士の甲冑に飾り文字で当て布を施してやったのだ。そこには石鹸の効用を主張する宣伝文句が記されている。騎士たちにも実物を持っていかせ、修行の一環として売りさばくように命じた。いずれ武者修行は滅ぼす予定だが、その日までは有効に使ってやろうというわけだ。

鍛えあげた職人たちには電線を敷かせた。古の城下町に電信柱が立ち並び、至るところに電信局が設置された。高速な情報伝達力は様々な局面で彼の窮地を救うこととなる。宮廷にいるクラレンスと連絡を交わして王の出立を事前に知り、計算から得た到着予定日時を「予言」と称して報せたり、枯れ井戸から水を湧き出させるためのダイナマイトを部下に持ってこさせたりした。

ついには新聞まで出来上がった。クラレンスが編集長を務め、記事の出来栄えは上々であった。こうして6世紀の野蛮な土地に、着々と近代文明が築かれていった。

それでも権威には逆らえない

しかしこれまでの歴史によってこびりついた意識を人々から拭い去るのは難しかった。確かにハンクは最強の魔法使いとして敬われ、王に次ぐ権力を有し、極秘の科学工場を運営できるほどの資金力も与えられていたが、それでも彼は貴族ではなく、あくまで遠方から来た異国人でしかなかった。

6世紀の人間にとって、貴族階級とは真実と正義のすべてだった。たとえハンクがどれだけ尊敬されていても、所詮、それはライオンや巨象に対する敬意であり、また、彼の"魔法"を恐れたとしても、やはりそれはライオンや巨象に対する恐れでしかなかった。独立した人間に対する純粋な尊敬は、すべて貴族のもとにのみ集まっていた。結局、この意識を変えることは不可能だった。平民や奴隷たちに反抗の兆しはまるで見られず、むしろ種々の差別を心から愛しさえした。

アーサー王にしても例外ではなかった。王は聡明な人物であり、あらゆる係争を審判する際にも一見して法律と理性に則り、公平を期しているかのように見えた。だが、そもそもの法律が貴族のために作られたものであり、王自身も自覚なく高位な人物の主張を真と捉える節があった。これほど傑出した人物でさえも、やはり全身の隅々に染み込んだ蛮習には抗えないのである。

なによりまして恐れていたのは、国立教会の権威だった。王でさえ正面からはそれに逆らえなかった。ひとたび教会がハンクの科学文明に脅威を感じとれば、彼らは速やかにすべてを破壊しにやってくるだろう。どれだけ優れた技術であっても、数多いる軍勢に打ち勝つにはまだ準備がいる。ゆえにこれらは聖なる魔法、一代限りの奇跡としてごまかし続けなければならなかった。幸い、貴族も教会もとるにたらない平民がどこでどう働いているかなどいちいち気にかけなかった。

専制に対する憎悪

ハンクは平民たちの暮らしを実物大として見るためにあえてボロ布を着込んでなりすまし、長期の潜伏生活を試みる。問題は、その話を聞きつけたアーサー王がなんとしても同行したいと言ってついてきたことだった。ただ歩くだけでも威厳たっぷりの王を、卑屈さのにじむ平民の姿に偽装するのはたいへんな苦労が伴った。

作品全編を通してこれでもかと訴えられるのは専制政治の愚かさである。アーサー王はまさに望み通り、平民のむごたらしい暮し向きを目の当たりにする。領主や教会が課した一方的な重税のために破滅を余儀なくされた平民の姿、貧困のために罪を犯さざるをえない人々の姿、酷使される奴隷の有様をまざまざと見せつけられた。王は自身の日頃の審判と、眼前の惨事に沸き立つ感情に、見事な相反が生じているのを悟る。

誤って奴隷として売られ、後に脱走した罪で処刑台に立たされたアーサー王は見物人たちに余は王であると主張するも、民衆は一笑に付し口々に罵倒を浴びせる。ところが、騎士ランスロット率いる500人余の軍勢が、ハンクとクラレンスの機転をきかせた電報作戦により救援に駆けつけるやいなや、一転して民衆は頭を地面にこすりつけて必死に命乞いをするのだった。短い間とはいえ、度重なる拷問にも屈せず処刑寸前に至るまで尊厳を貫いた王の姿を見て、ハンクは確かにアーサー王は傑物であったと評した。

しかし、どうやら誰もかれも王が王であるということを、言動や能力によって判断しているわけではないらしい。だとしたら、真の権力とは一体どこに宿っているのだろうか? 人々はいずこにそれを見出して頭を垂れるのだろうか? もしそれが剣や槍だというならば、騎士ランスロットではなくアーサー王を畏れ敬う理由とはいかなるものだろうか。このエピソードが専制を批判するために拵えられたことは明らかだ。

つまり、本当の権力はわれわれ人民の一人ひとりに宿っているのである。ただそれを信じさえすれば、どこかの誰かに一切合切委ねてしまおうなどと早まらなければ、いつだってわれわれこそが真の権力者であるはずなのだ。

決闘と船旅、そして戦争

ハンクは数年間の期間を経てかなりのところまでイギリスを文明化させていた。電信、石鹸はもちろん、タイプライターや機織り機が国中に普及し、鉄道や蒸気船までもが運行していた。アーサー王の同意により奴隷制度は廃止され、税金は適正な金額に抑えられ、すべての人民は平等に扱われた。

些細な理由で申し込まれた決闘は回転式拳銃の力でねじ伏せ、最強の魔法使いとしての座をますます固くした。血気盛んな騎士たちには殺し合いの代わりに野球をやらせた。対して、魔法使いマーリンの名声はハンクが来てからというもの暴落続きであった。

ハンクの新しい人生は万事うまくいっていた。作中、半ば強制された武者修行の旅に同伴したサンデーという女性は後の妻となり、子宝に恵まれた。しかしそんな幸福も、いよいよ挫かれる時が来たのだった。

ハンクとサンデーの子供は病弱であった。医者の進言に従い、船旅を通じた治療を試みた彼らはしばらくイギリスの地から離れた。ある日、自慢の蒸気船がいつまでも迎えに来ないことに胸騒ぎを覚え、妻と子を残して代わりの船で帰国すると、既に状況は一変していた。騎士ランスロットとアーサー王の妻、ギネヴィアの不倫が発覚し、国を大きく割る内戦が巻き起こっていたのである。

ハンクが到着した頃にはなにもかも決着していた。アーサー王は部下の裏切りに遭い戦死し、機会に乗じた国立教会は破門宣告を一斉に行い、後ろ盾を失ったハンクを抹殺せんと生き残りの騎士たちを従わせていた。あれほど科学の恩恵に与った国民や工場の職人たちも、やはり教会の権威の前にはひれ伏した。

もはや6世紀のイギリスに近代文明を築く望みは失われた。後はただ、生き残るために戦うだけだった。教会は以前から計略を巡らせており、船旅を勧めた医者たちも連中の手の者だったのだ。

クラレンスはハンクがいない間もできる限りの対策を講じていた。彼らは共和国を名乗り、さっそく新聞広告を刷って教会を挑発した。地下要塞の前に幾重にも張り巡らせた電気柵や地雷原、ガトリング砲は数万もの騎士を屠り、たった50数名の選ばれし職人からなる共和国は、教会の圧倒的な軍勢にとうとう打ち勝った。

ところが、ハンクは最後の最後で詰めを誤った。19世紀末の文明的慣例に基づいて負傷兵を救助しようとしたのである。奇襲されて怪我を負い、意識を失ったハンクは変装したマーリンの魔法にかかり、1000年以上もの眠りについてしまう。再び目を覚ました時には、もともと暮らしていた19世紀末の時代に戻ってきていた。手には彼が書いた、これまでの出来事を物語風に記した帳面が握られていた。

総評

われわれは本作を読む際に二重のフィルタを働かせる必要がある。というのも、主人公ハンク・モーガンの価値観はいかにも19世紀末らしい、民主主義と自由主義への無邪気な信頼にあふれすぎているからだ。21世紀に住むわれわれにとってこれはいささか夢見がちに見える。

もしそれらの思想があらゆる専制を打ち払えるほど常に有用であったなら、われわれの時代まで独裁政治が幅を利かせているはずがない。支配を求める声は民主主義が行き届いた現代社会の中にさえある。そして少しでも近頃の社会情勢に通じていれば、そういった声が決して6世紀由来の無知から来ているものではないと理解できるはずだ。

従って、われわれは否が応にでも21世紀のスコープの間に19世紀の望遠鏡を挟み、それでもって6世紀の姿を覗くことになる。そうすると、なかなか面白い事情が見えてくる。近年に書かれた同ジャンルの作品は必ずしも専制を否定せず、むしろ憧憬を抱いている節さえ感じられるのに、著者は主人公のハンク・モーガンをそのようには書かなかった。専制に対する他人事ではない徹底した憎悪、アメリカ合衆国にも存在した種々の理不尽への自嘲が鮮烈に感じとれるのだ。

われわれ21世紀の民主主義国家の国民は専制をフィクションとして消費することができる。自由をたっぷりと謳歌し、その恩恵に骨の髄まで浸っていながら、あまつさえそれを腐し、時として専制の側に花を持たせてやることもしばしばやっている。これは専制が再びわれわれを覆うことなど決して不可能だと理解しているからこそ可能なのである。ある意味で自由の極みにまで達していると言える。

だからこそ、著者がハンク・モーガンを科学文明を笠に着た殺戮者として描いた意図も、われわれであれば案外すんなり受け入れられるかと思う。そう、ハンクは明らかに殺戮者であり侵略者だ。単に自身が満足した生活を送るだけであればあそこまでの大事を起こす必要はない。放っておいてもいずれ進歩を遂げる過去に、わざわざ割って入って改良してやろうなどという発想が独善でなかったらなんなのか。

しかもその手段は騎士や貴族ほど横暴でないというだけで、俯瞰的に見ればハンクの手もどす黒く血に染まっている。貴族を体よくコントロールするためにときどき処刑する権利を与え、個人的に気に食わないと思った者は自ら刑に処し、なにより、数万もの騎士を地雷や電気やガトリング砲で皆殺しにしてしまったではないか。

ちょっとでも考えてみれば、50数名の職人たちだけではどれだけうまく迎撃したところで実際の統治権力など得られないと理解できるはずだ。いくらハンクの側に理があったとしても、民衆は歴史ある教会の言葉に付き従う。それにしたってハンクは繰り返し自身に言い聞かせていた。すべて織り込み済み、承知の上での行動だったのだ。要は、持ち前の科学力でどれだけ殺せるか試したかったんだろ? しきりに文明人ぶっていたハンクもいざ戦いとなれば、たちどころに残虐な側面がまろびでる。ゆえに著者はハンクに名誉ある死や平穏な余生など与えなかったのである。

むろん、ハンクの主張そのものは完全に正しい。あらゆる専制は悪であるし、自由は尊い。科学技術の普及が不便や不条理の解消に役立つのも明らかな事実だ。しかし、人々がその重要性を真に理解せず、自ら欲してもいないのに与えようとするのは、たとえ一時の快楽を生むとしても当人たちの将来に虚ろな空洞を作り出してしまう。あらゆる思想は身を焦がすほどの欲望を満たす過程があってこそ、はじめて成熟に至るのだと思う。本作は専制や差別に対する痛烈な批判と、近代文明に宿る傲慢さを表裏一体に重ね合わせた見事な怪作と言える。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説