例年、夏休み明けは学生の自殺が増えるそうだ。この頃はコロナ禍のせいでただでさえ認知件数が上昇傾向にあるというし、行動を制限された人々が鬱屈した感情を抱え込んでしまうことは想像に難くない。
そんなニュースをトピックに掲げた5ちゃんねるのスレッドを閲覧していると、不意にグロテスクな情報が目に飛び込んできた。昨年の話だが、あるゲーム配信者が生配信中に首吊り自殺を遂げたという。問題の箇所を切り抜き録画したと思しき二分ちょっとのクリップには、一人の人間が自らの命を絶つまでの一部始終が収められていた。
動画はゲーム画面が映し出された状態からはじまった。左上にはWebカメラを通じて配信者の顔を映すワイプ画面があり、開始時点で配信者は既に自殺の準備を済ませたようだった。彼は用意した踏み台の上に立つと、しきりに「おぇぇぇ……」と激しくえずきだした。画面上では見切れているが、おそらく足が着いた状態でロープに首をくくって感触を確かめているのだろう。幾度となく繰り返されるそのうめき声は、さしずめ「本番」での苦痛に動揺しないための予行練習を意図しているのだと思われる。
時折、独り言のような調子で「死ぬのか……」、「こうなることは解っていたけど……」、「いける、いけるよな?」とつぶやく声が聞こえてくる。しかし躊躇の時間は驚くほど短い。「さよならっ」と最期に言い残し、彼は勢いよく踏み台を蹴飛ばした。刹那、小さいワイプ画面でもひと目で判る恵体が大きく傾ぎ、がくんと宙に浮いた。数秒経ち、彼の手が首のロープをかきむしる。「く、苦しい……」とかすかな声を発するも、まもなく手は下ろされ、しばらくすると腕全体が痙攣しはじめた。切り抜きの動画はここで終了しているが、実際の配信はこの後およそ六時間も続いたらしい。
調べたところによると、件の配信者はあるオンラインゲームで迷惑行為を頻繁に行っていたことで有名な人物だった。その悪質なプレイングはなかなか堂に入ったもので、自分もろとも味方チームを確実に敗北せしめる徹底ぶりだという。いくつかのソースは自殺の原因を「迷惑行為の報復に受けた誹謗中傷で精神を病んだ」としているが、僕の見立ては違う。以前から彼の中に宿っていた破滅願望――希死念慮が、たまたまオンラインゲームでの迷惑行為という形で表出したのだろう。誰もが「死にたい! 助けて!」と率直に言えるわけではない。成人以上の男性はさらにその傾向が強い。結果、幾重にも屈折した感情の発露や振る舞いがますます周囲から遠ざけられる要因を作り、希死念慮のリビドーを加速させる。
こんな具合の悪い代物を観てしまうと寝付きがひどくなる。なにしろこの動画を観たのは「寝る前に軽くネットサーフィン(死語)でもするか」と考えつつベッドの上でスマートフォンを開いた午後十一時過ぎ。件の配信者はもうこの世にいないというのに、ぐるぐると無闇に思考が巡る。もし彼がただ死にたいだけだったのなら、わざわざ自殺の様子を配信する必要などない。あえて配信して映像が残るように仕向けたのには彼なりの理由があったに違いない。果たして、動画を観た僕が寝付けなくなったのは彼の期待通りだったのだろうか。僕がこうして彼の死に至る過程を描き出したのは、彼にとって望ましいことなのだろうか。
希死念慮。聞けば誰しも人生の中で一度か二度は本気で自殺を考えるそうだ。学生の自殺は夏休み明けに多く、それ以外では春先が多い。いずれも移り変わる環境に適応しようとして苦労する時期だ。一年生やクラス替え直後の学年だと交友関係にもソフトリセットが入る。新年度から三ヶ月ちょっとで促成培養された即席フレンドシップは、とても儚く脆い。
他方、その辺りに目端の利く者は実に上手くやってのけているもので、夏休みの間にフレンドシップを盤石に固めきっている連中が存外少なくない。周りがそんな雰囲気だとなんだか自分だけが意図的にハブられているみたいで、次第に疎外感が募っていく。ささくれだったメンタルでは普通の言葉が普通に受け取れない。認知が歪む。すべてはねじ曲がった自意識の産物に過ぎないが、自分の脳みそが作り出したものからはそう簡単に逃れられない。
希死念慮がしゅわしゅわと泡を立てる。スパークリングのように。腹の底から喉元までせり上がってくる。思わずロープで首をきつく縛ったら、代わりに舌が飛び出した。
ソフトリセットならまだしもハードリセットはさらに苦労が絶えない。春先の自殺がもっとも多いのは進学、入社、転勤など人生の大きな転換点と重なる季節だからだろう。ここでも目端の利く者たちが素晴らしい待遇に恵まれたり、弛まぬ努力を実らせたり、自分では及びもつかない優雅な交友を育んでいたりする……つまり希死念慮の根本的な原因は、他人と自分を比べすぎるところにある。他人がいつも人生を上手く歩んでいて、自分ばかりが下手を打っていると思い込んでいるから、どうにも死にたくなってくる。
とはいうものの今時分、他人と自分を比べずに暮らすのは無理がある。無造作にSNSを開けば嫌というほど「他人の人生」が目に入り込んでくるし、進学も就活も競争の過程が極度に可視化されている。知りたくなくても彼我の差は自動的に、半強制的に通知される。「内定を獲得した先輩はもっとエントリーしています!!!!」 リクナビが踊り狂いながらがなりたてたので、僕はブラウザのタブを引きちぎって捨てた。
希死念慮を和らげる方法はなくもない。こんなのは散々語り尽くされていて今さら新説をぶつ余地などない。玄関の壁に所定数ぶつかったあと斜めにジャンプしても、希死念慮のステータスはゼロにならない。代わりに「比べても気にならない相手と付き合う」というやり方がある。いわゆる類友は共通の話題が多く馴染みやすい反面、追いかける目標が近すぎる。ゆえに能力の差がはっきり判ってしまう。一方、職業も経歴も考え方も違う友人ならスキルセットが違いすぎてピンと来ない。同じゲームのランクがゴールドだのプラチナだとの可視化されるとつい見比べてしまうが、まったく異なるジャンルのゲームならランクが何であろうと気にも留まらない。
平凡なプログラマーがプログラマーばかりのコミュニティで劣等感を一切覚えずにいるのは難しい。だが、ゲームコミュニティやアウトドアコミュニティならコンピュータ関連の相談で諸君らの右に出る者はそういない。思う存分に無双するとよい。交友関係を複数のコミュニティに分散しておけば気持ちの切り替えが円滑に行える。平均から見て優秀な人間がめちゃくちゃ卑屈になっている時は大抵このメソッドを実践できていない。ツイッターに入り浸っている東大生や京大生からはだいたいそんな感じがする。
他には、そもそも希死念慮ですらなく単に敗北癖が身についてしまっている場合がある。いっとき誰かを上回ると今度はその地位を維持し続けることが辛くなる。ならばいっそ負けっぱなしの方がいくらか気が楽というもの――親に養われている学生ほどこんな考え方に取り憑かれやすい。というのも、彼らの敗北は実際には何一つ失っていないからである。古今東西、真の敗北には痛ましい損失がついて回るが、学生の時分の敗北で精神衛生以上の何かを失うことは滅多にない。だからこそ気まぐれな勝利を守るために四苦八苦するよりもずっと気安い。かくして彼らにとって敗北は安住の地になりうる。
しかし人の親になり、家族を養うようになると自分の勝敗が一族の行く末を左右する。敗北は一族の離散を招き、勝利は一族の繁栄に繋がる。たとえ個人主義の時代であってもこの原則は変わらない。より多く稼げば子孫への投資機会は増大し、ゆくゆくは子孫の勝負さえも有利に運べるが、敗北を重ねればすべてが真逆にひっくり返る。このような状況下ではおのずと勝利を志向せざるを得ない。したがって、諸君らの抱えている希死念慮がとりとめのない敗北癖に過ぎないのなら、適齢に達し次第、手頃な相手を見繕って子供を作るとよい。守るべき相手がいれば変われる。むろん、互いに若ければ若いほど望ましい――
――とはならんのだろうな、実際。 これらの方法は確かに強力だが容易ではない。共通の話題がないコミュニティに次々と参加して交友関係を築くなどという芸当ができれば、もともと希死念慮なんて大した悩みにならない。誰かと結婚して子を為したいと思って気軽にできたら、限界独身男性がネットで怨嗟の声を叫ぶこともない。結局、人生の行く末は生まれつきの素質や資本力で概ね決定されてしまう。仮に万事上手くいったとしても所詮、隣の芝生は青い。せめて我を忘れるくらい夢中になれる趣味でもあれば慰めになるが、これはこれで相当な集中力と体力を要求するので、十年後、二十年後も続けられるかは定かではない。
してみると、このご時世に希死念慮を抱かず、ゆりかごから墓場まで健やかに人生を営める人間の方がむしろひと握りではないか、という気がしてくる。誰も彼も折に触れて死にたくなり、しかし本当に死ぬには大抵ほど遠く、希死念慮の泡立ちを腹に感じながら生きている。きっとわれわれに必要なのは死にたい気持ちを潔く認めて、カジュアルに付き合い続ける工夫なのだ。
腹の底からしゅわしゅわと泡立つ音がする。希死念慮スパークリングが喉元までせり上がってくる。歯を食いしばらなければ口から飛び出そうになる。思わずロープで首をきつく縛ったら、代わりに舌が飛び出した。そんなことになる前に、口の隙間からちょっとずつ漏らせばよい。
参考文献
月別に見た自殺
夏休み明け増加・・・子供の”自殺” SOSは
コロナ禍で子どもの自殺が深刻 不登校新聞「SOSに気づき話を」