2021/09/06

新紙幣の話:ミニマリズムの専横

紙幣のデザインが新しくなる。この件は2年か、3年くらい前には告知されていて、新紙幣の外観も既に公開済みだったように思う。というのも、僕自身そのデザインを見て 「うわダサいなあ」 と強く感じた記憶があるからだ。近頃また新紙幣に関するニュースが報じられて改めて見る機会が増えてきたが、未だ感想は変わらない。僕の感性――ミニマリズム的感性では、どんなに前向きに解釈してもダサく見える。

新紙幣がダサく感じられる原因はおそらく、同じアイコン(肖像)が使い回されていたり、フォントサイズがやたら大きく間延びしていたりと、なにかと情報過多を印象づける要素が多いところにあるのだと考えられる。ネット上でも否定的な声が多い。情報過多の装飾を疎む傾向は、実物と抽象的な記号を容易に関連づけられる能力が人々の間に育まれていった結果と言える。

たとえば20年ほど昔のPCユーザに、漢数字の「三」に似た形のアイコン(俗にハンバーガーメニューと呼ばれる)はメニュー画面への遷移を意味すると教えたら、間違いなく理解に苦しむだろう。このように新世代のデザイン理論はより抽象的に、より少ない情報量であらゆる機能を表そうとしてきた。

以前、2013年頃までは実物の忠実な模倣をそのまま意匠に用いるデザインが流行の一つだった。とりわけジョブズ存命時のAppleはそういった表現手法(スキュアモーフィックデザイン)を徹底的に追求していたことで知られる。ディスプレイ上で、本棚はより本棚らしく、本はより本らしく描かれた。当時のApple製品がコンピュータに疎い層からも高く評価された背景には、優れた操作性のみならず実物と抽象的デザインを脳内でいちいち関連づけなくてもよかった簡便さがある。

とはいえ、いつまでも同じデザインを引きずってはいられない。レートマジョリティ層がスキュアモーフィックに愛着を寄せる一方で、時流に敏い層、新世代の人々は実物に依存するデザインを「古めかしく冗長で鬱陶しい」と見なしはじめた。前述の「関連づけ」を無意識にこなせる顧客層が現れたのだ。この時、MicrosoftやGoogleも各々のデザイン理論でもって、その潜在的需要に応えようとしていた。曰く、Metro(Modern UI)やMaterial Designと呼ばれる代物だ。これらのデザインランゲージは、もっぱら点と線、および配色の使い分けだけでコンテンツの機能を説明する。

ジョブズの死後から約2年後、Appleも同様の方向に舵を切る。以来、足並みを揃えたITの巨人たちが推し進めてきた抽象的、記号的デザインは、界隈で大いに権勢を振るった。点と線で構成されうるデザインこそ正義、シンプルでミニマルなデザインこそ正義、情報量が少ないデザインこそ正義――もっとも、実物をそのまま再現したグラフィックを意匠に用いるより明らかに労力が低く、容易にベクターデータ化も行えるため、このムーブメントは業界的にもおおむね歓迎されていたのではないかと思う。

これまで抽象化や記号化に邁進したデザイン思想といえば、風変わりな家具や雑貨、一部の建築物、マニア向けの機能に特化した電化製品などに限られていたが、今やスマートフォンで閲覧する種々のコンテンツを通してそれは広く認知されるに至った。ミニマルなデザインを普遍的と見なす傾向は、特に若年者の世代においてはもはやマジョリティと言っても過言ではない。新紙幣のデザインをダサく感じてしまう心理には、このようなミニマリズムへの適応が少なからず影響している。

ところが、だ。 新紙幣のデザインには、ITの巨人たちの言うデザイン理論とは異なる要素を考慮しなければならない。紙幣の重要な機能として、まず偽造しにくいこと、すべての人間が正しく券面を識別しうること、 それが自国ならではの意匠を代表しているとはっきり判ること、が挙げられる。つまり、ミニマリズムの追求がもたらす美しさとは、まったくもって真逆の思想が求められているのだ。

デザインセンスとは選別と排除の論理

殊ここに至り、そもそもデザインセンスの良し悪しとはなにを意味するのか、ということを僕なりに考えてみた。結論から言えば、それは選別と排除である。 自分を含む、好感を持つ集団や属性だけが文脈を理解できるデザイン。これこそが当人にとっての「良いデザイン」となる。反対に、文脈を理解できないデザインは当人にとって「悪いデザイン」であり、誰でも簡単に意図が読み解けるデザインはえてして説明過剰で面白みがない。すなわち「ダサいデザイン」と判断される。

たとえば、映画をよく観慣れている者にとって、国内の映画ポスターにありがちな登場人物勢ぞろい、てんこ盛りの宣伝文句で構成されたデザインは典型的な「ダサいデザイン」である。本来であれば洗練されていたはずの洋画のポスターも、日本市場に取り込まれるとあっという間に陳腐な代物に成り下がってしまう。これに怨嗟の声をあげる映画マニアは決して少なくない。かくいう僕もその一人だ。

しかし、日本の映画業界人とて意味もなく映画ポスターをダサく仕上げているわけではない。手持ちのデータや諸々の市場調査の結果から、結局はこうしなければ大衆に広く訴求できないと結論づけているに過ぎない。もしオリジナルの洗練された映画ポスターをただ持ってくるだけで大ヒット御礼確実なら、彼らだって手間なく儲けたいだろうから確実にそうする。現状そうなっていないということは、映画を観慣れている者にとってはダサく見えるくらいの方がちょうどいい。 そのように判断せざるを得ない。どんな映画マニアもたった一人では100回も200回も映画館に足を運べないが、大衆にウケさえすれば100回分どころか1万回分、10万回分だって不可能ではないのだから。

要するに、デザインセンスの論理は大衆への訴求を目的とする場合、ただちに放棄を余儀なくさせられる。どうせマニアはポスターにだらだら文句を垂れたとしても、本当に気になっている映画なら必ず観る。全体を包摂しようとすればするほどダサくなるのは同論理の宿命と言える。

ミニマリズムの専横

ひるがえって新紙幣の話に戻る。新紙幣のデザインは、やはり僕にとってはダサい。ダサいが、専門家は言う。あの券面は、ディスクレシア(失読症)や弱視の人にとっては、とても判別しやすく作られている。 これを聞いた時に、僕はたちまち自らの誤りを悟った。日本円は少なくとも日本で暮らす人々すべてが用いる万能チケットである。その中には、端からデザインなど二の次、読めるか読めないかのみが重要――というくらいには、日常生活にリスクを抱える人たちも当然いる。あの間延びした数字や、意匠をこれでもかと詰め込んだギチギチな装飾には、福祉としての機能が備わっていたのだ。

ということは、だ。ミニマリズムの追求がもたらす美しさは、そうした人々にとってはただの専横でしかない。 年配の人々にとっても、字面が大きく意匠がはっきりとしている豪華絢爛な券面は、いかにも紙幣らしい威容があり、うっかり見間違えるおそれがない。僕はノルウェーの紙幣のデザインを好ましいと感じるが、見る人によってはおもちゃのように見えなくもない。

先に述べた通り、デザインセンスは選別と排除の論理である。ビジネスにおいてこれを自由に扱うことはなんら悪ではない。事業者がターゲット層に自然な形でリーチするためには必要不可欠なアプローチの一つだからだ。IT業界が目端の利く人たちを優先してミニマリズムを追求したり、逆に映画業界が大衆への訴求を狙って意図的に映画ポスターを情報過多に仕上げたりするように、好き嫌いや戦略の問題であってもおおよそ善悪の問題ではない。

だが、日本円のデザインは断じてビジネスではない。万人が有無を言わさず使い、使わされる価値交換媒体に他ならない。特定の誰かを選別したり、排除せしめるようなデザインであってはならない。このようにして考えると、新紙幣に関しては、まあ、あまりダサいダサいと声を大にして叩くのもどうかと思い直した次第である。

参考文献

財務省
Balloon Inc.
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