日頃Twitterなんぞをやっていると、あまり意識しなくても目に入ってくる話題がある。ここのところは、やれフェミニストがアニメの絵にケチをつけただの、やれ表現の自由戦士がどうのこうの……みたいな論争がけっこう盛んに行われているようだ。いくつかの案件では、僕も自説を2、3ツイート分くらいぶった記憶が残っている。あの手の話題が堂々巡りになってしまうのは、突き詰めると結局は各々の主観に依らざるをえないからだろう。
僕としてはまあ、公共の場の広告であっても表現の幅は広い方が好ましい、と思う。官公庁のPRでもぼちぼちエッジが効いていれば相応に訴求効果が見込めるだろうし、とりあえず人気のアニメキャラクターを立ち並ばせるだけでも人々の耳目を惹きつけられる。諸問題に解決意欲を傾けることは全市民の義務であり、広告の内容にいちいち左右されるようでは困るというのはいかにもな正論だが、そう出来のよい市民はあまりいないのだからとにかく次善の策を打っていくしかないのである。
とはいえ、だ。こうした考え方は別段、論理的とまでは言えない。ポーズをとった可愛らしいアニメキャラクターや、やや挑発的でキャッチーな文言を盛り込んだポスターを「エッジが効いていて訴求効果が見込める」と判定するのは、明らかに僕の主観的な見立てに過ぎない。そんな僕も他の誰かが注目さえ集められればいいと言わんばかりに、街頭ビジョンを全面ジャックしてアダルトビデオ風の意見広告を垂れ流したり、動物虐待防止キャンペーンのためにリアルな犬猫の死骸を模した等身大フィギュアを公共展示したりしたら、きっと反対する。やりすぎだ、 と。しかし僕の感覚と「誰か」の感覚のどちらが絶対に正しいのかは、むろん、決めようがない。せいぜい、われわれに考慮可能な判断材料は多数決――みんながどう感じるのか――程度しかない。
そこへいくと、公共広告というやつは難しい。多数決なら過半数を上回っていれば良しと考えるかもしれないが、それこそアニメや漫画などの能動的に閲覧するコンテンツならともかく、受動的に、自動的に人目に触れてしまう公共広告は、たとえ反対者が3割、いや、2割でも立場が危ぶまれる恐れが出てくる。反対していない7割、8割は大半が「どうでもいい」のであって、積極的にその広告を好ましいと感じているわけではないからだ。前述の「コンテンツ」との違いはそこに見られる。たとえ割合が優勢でも「どうでもいい≒ないならないでも構わない」と「反対≒なくなってほしい」とでは、残念ながら後者が優先されうる。
このような考え方に基づくと、広告の表現はより慎重に、より控えめにならざるをえない。組織内の審査を通過したとしても、クレームが殺到すれば撤去もありえる。結果、もたらされる判断基準はえてして不透明かつ不明瞭であり、ひどく恣意的、作為的、独善的に見える。とりわけ、日頃から多くのコンテンツと向き合い、あらゆる表現手法の造詣を深めた者からすれば、ほとんど難癖、偏見の類にさえ思う。より好かれるのではなく、より嫌われないための表現は、手慣れている者にとってはどうしても退屈な代物である。
近年は公共広告でもサブカルチャー文化を意識したものが増えてきている。これらの潮流は同文化がもはやオタクに特有のコンテンツではなく、若者全体に広く浸透した証左と言える。他方、中高年層や興味関心のない人々には、どうにも馴染みがたい新興文化が公共の場を踏み荒らしにやってきたと映る。両者の認識の差を埋め合わせるのは、極めて難しい。サブカルチャー文化がメインストリームに食い込む過程には必ず闘争が避けられず、過去の歴史を踏まえても穏便に融和が果たされた試しはない。この時、サブカルチャー文化に属する側は自身をさしたる理由もなく嫌悪され、排除される被害者と捉えるだろうし、反対にメインストリームに属する側は自身を異民族に侵略され、安寧を乱された被害者と捉えるだろう。
Twitterのユーザはもともとサブカルチャー文化に親和的な人たちが多い。僕も彼らもサブカルチャーに浸かりきっている。ゆえに自分たちの愛好する文化や表現が誰かを傷つけるなど、とても受け入れられない。あいつら被害者ぶりやがって、一方的に嫌って、差別しているのを言い繕っているだけだろ、と決めつけたくなる。部分的にそういう勢力も実在するところがますます論争をややこしくしている。しかし偶然にも、本現象を説明しうる好材料が最近得られたので、後半はそれを体よく活用することとする。
仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん
仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん―― とはならんことは、ここ数日のTwitterを眺めていれば判る。数多のオフィスビルが建ち並ぶ品川駅に掲載された背景から「自殺者が出てもおかしくない」と評する者もいる始末だ。あるニュースサイト運営企業がブランドメッセージとして打ち出したこの広告は、すさまじい批判に晒されわずか1日で撤去を余儀なくされた。企画を手掛けた企業は謝罪にまで追い込まれている。かくいう僕も、本件を茶化したツイートをした。
さて、となると、われわれはいよいよ問われることになる。サブカルチャー文化を起用した広告に寄せられる数々の批判と、今回の件に、一体何の差があるのか? 意識高い系のベンチャー企業が放つブランドメッセージはTwitterユーザの反感を買いやすいから好きに殴ってよくて、Twitterユーザお気に入りのサブカルチャー文化は殴ってはならないのか? 一晩考えてみたが、僕はどうあがいても整合性を保った反論は思いつけなかった。
同様の疑問を抱いた人たちもいるにはいる。それじゃあ、表現に難癖をつけて回る連中と同じじゃないか、なんて真似をしてくれたんだ、と。だが、もう遅い。どうあれ広告は撤去されたし、われわれは単なる文字だけのメッセージからも、色々な物事を連想できてしまうことを自ら証明してしまった。であれば、可愛らしいアニメキャラクターは性的搾取だとか、性犯罪に繋がりかねないとか、そういった類のものも十分に想定可能な意見として留保しなければならなくなった。
Twitterで一言突っ込んだだけで、わざわざクレームは入れていない、という言い訳もちらほら見られる。なるほど、クレームを直接入れさえしなければ万事問題なし、と。当然、その理屈は対立者にも利用される。直接クレームは入れていない。Twitterで言っただけ。相手が勝手に取り下げただけ――下手に言い訳をこけばこくほどわれわれの理論強度は弱まっていく。あるいは、叩いてはいない、大喜利に使っただけだ、なんて恥知らずな言い草も聞こえてくる。殴る蹴るはアウトだが、指を差して笑いものにするのはセーフだと? 小賢しいいじめっ子の屁理屈だ。そんなのは。
所詮、われわれは公平ではなかった。気に入る表現は何が何でも擁護するし、気に入らない表現はとことん邪推してみせる。そう、たとえ「今日の仕事は楽しみですか」の一言でさえも。へそ出しルックのVtuberが性差別的だと言われた時、Twitterユーザの大半は一笑に付した。僕も「なにいうてんねん」と思った。にも拘らず、この有様である。もはや同じ穴の狢と言われても仕方がない。
もう一度言っておく。 仕事は楽しみですかって聞いてるだけじゃん。 一体、どこに文句があったというのか。ディストピアっぽい? ディストピアの定義は? 線引きは? 理論的根拠は? 統計的エビデンスは? ……これは表現の自由戦士たちが表現規制派を詰める際の常套句だが、今はわれわれの喉元に突きつけられている。現状起こってもいない不幸な未来や、文言に記されていない内容を想像することは、即ち表現規制派の物言いを追認したに等しい。どう考えてもそうなる。片方の批判だけが正義の告発で、もう片方だけが許されざる弾圧とは絶対にならない。どちらかが弾圧なら、もう片方も弾圧に決まっている。
われわれは試されている。もし、今以上に公共広告に許される表現の幅を広げ、サブカルチャー文化や、あるいはもっと際どいアプローチをも大衆に認めさせたいのなら、意識高い系ベンチャー企業のピントズレした広告にも手心を加えてやらなければならぬ。どんな形であれ彼らに圧力を感じさせ、広告を引っ込めさせたらわれわれはたちまち弾圧者だ。むろん、広告を取り下げさせるつもりはなかったなどという言い分は通らない。われわれがそう言ってのけるのなら、表現規制派も同じ言い分で逃げおおせるだろう。
もし、こんな面倒は御免だ。茶化したい時は自由気ままに茶化したいし、批判も風刺も表現の自由だ。引っ込めるのはそいつの判断だ、と言うならば、サブカルチャー文化が常に手厳しい批判に晒されることも覚悟しなければならない。その中にはもちろん、われわれが好き勝手に件の広告をミーム化したのと同様、粗雑な難癖も山ほど含まれる。結果、撤退に追い込まれる恐れだってある。 しかしこっちの道を選ぶ以上はそれもやむをえない。
そうした批判をまた批判し、さらに批判し返され、どちらかの体力が尽きるまで延々とシバき合うのも一つの手には違いない。自らインターネット人間と化し、今日も明日も明後日も、晴れの日も雨の日も対立者と罵詈雑言を交わし、仲間と悪口の出来を競いながら人生を過ごす。やがて、好みのコンテンツを見かけた時でさえ 「フェミさんが怒りそうw」 といった、いかにもエコーチェンバー内の歓心を買うことに特化したコメントばかりが口を衝いて出るようになる。いずれにせよ、良いとこ取りはできない。
僕は――どうすべきなのか、まるで判断がつかない。公共広告の表現の幅はもっと広がってもいいと思っている。だが、文字一つでここまで人々が激昂し、他ならぬ僕自身も加担した事実を鑑みると、現実的には幅広い広告表現などどだい不可能ではないか、という気がしてくる。
なんにせよ、インターネット人間にはなりたくない。結局、都合の許す時だけいっちょ噛みして、そうでなければ黙殺してごまかす。われわれは虫食いまみれの半端者でしかないらしい。