2021/12/04

誰だ廊下にうんこをばら撒いたやつは

僕はいわゆる団地と呼ばれる集合住宅に住んでいる。駅チカの割に家賃がすこぶる安い。もちろん代わりに色々な義務や制約もあり、そのうちの一つがマンション自治会にあたる。団地に住まう者は階ごとに振り分けられる「代議員」なる職務を持ち回りで担当しなければならない。本来は居住開始から約3年ほどの猶予が与えられるらしいが、様々な事情により僕は引っ越して間もなくやっている。来年の4月で交代するので既に任期の3分の2が終わったことになる。

といっても、代議員の仕事は大して難しくはない。自治会費の徴収こそ金勘定が絡むため若干の神経を使うものの、それ以外はもっぱら自治会発行の冊子を同じ階の住民のポストに投げ込むだけの仕事だ。月に一回は代議員同士の集会やらがあったりもするが、話の程度は井戸端会議を取り繕ったような代物で大概いつも聞き流している。実際、聞き流して不利益をこうむった試しは一度もない。

手の抜きどころが解ってくるとこうした守旧的組織との付き合いはずいぶん楽になる。いつしか自治会の仕事は日常の水分に深く溶け込んでいき、身も形もすっかりなくなってしまった。「自治会の仕事」はもはや独立したタスクではなく、日常という名の不定形かつ連続的な事象の中に埋没していったのだ。

そんなふうにしてよく煮込まれたカレーのごとく仕上がった日常生活が台無しになったのは、今から約二週間前になる。昼下がりの半端な時間帯に鳴り響いたドアチャイムに呼応すると、玄関前にいたのは同じ階に住む前年度の代議員だった。かつて彼女が様々なノウハウを伝授してくれたおかげで僕も今や立派な団地マンだ。

彼女は言う。この階の廊下に ――うんこが散乱している――それも大量に―― 連れ立って現場へ向かうと確かにそこにはうんこがあった。「このままだと誰かが踏むかも」と顔をしかめる彼女の心配は実にもっともで、現状すばらしく固形を保っている眼前のうんこが、ともすれば糊状にならないとも限らない。しかし、こういう未曾有の事態が発生した際はまず代議員たちのボス「会長」に連絡する手筈になっていた。

この問題を解決する清掃業者に連絡が行き渡るまでに誰かが不運に見舞われやしないか、との懸念は幸いにも杞憂で終わった。なんと僕の連絡を受けた会長御自ら、わずか10分足らずで廊下に散乱せしうんこどもを見事片付けてくれたのだ。ちょっと部屋で小休止して様子を見に戻ったら跡形もなくうんこが抹消されていたので、僕は会長の仕事の早さにいたく感心した。

なぜ我が階の廊下に突然うんこがばら撒かれたのか疑問は残ったが、なんにせよ問題は解決された……と早合点したのも束の間。翌週、自室で筋トレをしていると会長から電話がかかってきた。プランクは一度体勢を崩すと持ち直すのが辛くなる。仕方がなく僕は体勢を維持したままスピーカーモードで通話を開始した。会長は開口一番 「またうんこが散乱しているとの報せを受けた」 と厳かに言った。

だが、今回はそこで話は終わらなかった。朕は直ちには現場に行けない。清掃業者は週に2回しか来ない。特定の階で起きた事件は、本来その階の代議員によって解決せしむるべし。よって此度は其の方が廊下に散乱されしうんこを回収せよ。御名御璽。 簡単にまとめれば、そういう感じの話が続いた。僕はプランクの苦しみに耐えながら、うんこの回収を命じられた精神的苦痛にも耐える羽目となった。

ついでに僕は「あ〜〜〜〜…そうですかあ……」と必要以上に会話の間を取った。その隙に 「もしこの命令を跳ね除けたらどうなるのか?」 を高速でシミュレーションしてみた。うんこは誰かが片付けない限りフィールドに残り続け永続効果を保つ。これは明らかだ。そしてフィールドに残せば残すだけ、ある副次効果を発生させるリスクも抱えることになる。他の誰かがうんこを踏んで靴を汚し、廊下をもさらに汚すという副次効果だ。

その上、踏んだ当人がクレームを入れる先は、きっと僕に違いない。およそ想像する中で5本の指に入る最悪の経験をした被害者にクレーム先を吟味する余裕はない。仮に被害者が思いのほか冷静で、このクレームを自治会の方に持っていったとしよう。しかしそれでも会長や他のお偉方は「あの階の代議員が最初から片付けていれば、余計な手間がかからずに済んだのに」との結論に達するだろう。心象の悪化は避けがたい。なにしろ一度は会長でさえ自らの手を汚したのだ。(リアルに汚したわけではないが)

当然、僕の手にも「それは僕の仕事ではないのでは?」との切り札――説得力を有する主張――は依然握られている――いるが、果たして今がそいつの切り時かと言えば、少し違う気がする。事実、僕一人が迅速に動けば今回の事態はすべて丸く収まるのだから。もっと複雑な問題が起こり、いよいよ面倒になってから切っても遅くはない――むしろ多少は身を挺してからの方がより効果的――

じきに筋トレを中断した僕はキッチン下の収納から使い捨ての手袋を取り出し、余ったビニール袋を二重に重ねた。キッチンペーパーを小脇に抱え、いざ廊下に向かうと果たしてそこにはうんこがあった。以前とほぼ変わらぬ形状、ほぼ変わらぬ位置取りだ。僕は感情を消してキッチンペーパーごしにうんこをむんずと掴み、次々とビニール袋に入れていった。

皮肉な話だが、実際にうんこを掴んでみて判ったことがある。あれは、人間のうんこではない。 人間のうんこにしては形や固さがしっかりしすぎていて、匂いも少ない。うんこの分量からすると、おそらくは成犬のものと思われた。そう考えると事態の全容もおのずと推理できる。きっと犬を飼っている住人の誰かが、糞の後始末をサボって廊下に放置したのだ。

この予想にさらなるディティールが加えられたのは、つい昨日の話。朝、資源ゴミを出すべく外へ赴くと廊下にはまたしてもうんこが散乱していた。 例によって形状、位置取りはほぼ変わらない。僕は廊下で金切り声を上げたくなるのを必死で堪えた。どうせ今回も「切り札」は使えない。平日の朝方、現場と同じ階に住み、在宅勤務をしている僕以外に、どこの誰が手早くうんこを片付けられるというのか。清掃業者は週に2回しか来ない。藁にもすがる思いで一応かけた会長への電話は、にべもなく留守番電話サービスに繋がった。

3回も同じ階の廊下の、同じ位置にうんこがばら撒かれた ――これは、単に糞の後始末をサボったというよりはもはや作為的な気配を感じる―― とうとう事態を重く見たマンション自治会は、会長より上位の人間を僕のもとによこした。曰く、自治会の予算をある程度好きに使っていいので防犯カメラの選定に協力してほしい、とのことだった。まんまと仕事が別の仕事を呼び込む格好となったが、それでもうんこの回収を今後ずっと命ぜられるよりはマシと認めざるをえない。このままではいずれうんこ回収スキルが限界値に達してうんこパラディンに自動転職してしまいそうだ。

ところが、うんこパラディンがあまりにも嫌すぎて二つ返事で了承したカメラ選びも、現場環境を勘案するとなかなかどうして難しい。まず、予算はある程度使えるといっても配電工事を行えるほどではない。よって防犯カメラはバッテリー稼働式でなければならない。次に、設置場所は手狭な壁面に限られるため機種次第では適さない恐れがある。それでいながらうんこばら撒きマンの素性がはっきりと判るような画素数を持ったカメラでないといけない。いかにも厳しい条件だ。

世の中には買いたい商品について訊ねるとおすすめを教えてくれる良心的な人々が多数存在するが、さしもの彼らもこのような奇問には思わず首を傾げてしまうだろう。「あのう、すいませんが廊下にうんこをばら撒くやつを捕まえるのに向いた防犯カメラはありますか?」 などと訊かれても。

いや、実際これ、どうすればいいんだろうな。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | RSS | 小説