村上龍の作品にはインモラルなものが多いが、本作も多分に漏れずそれが存分に迸っている。もっと言えば、なにがしかのテーマに氏特有の暴力性が付属しているのではなく、本作は暴力そのものがテーマなのだ。暴力を通じて初めて自分の人生を得た者、逆に暴力に囚われたがゆえに身を滅ぼす者、暴力と知らずに暴力を用いる者、そんな登場人物らの交叉が黎明期のインターネット空間、不景気の到来が誰の目にも明らかとなった平成初期を舞台に描かれている。
あらすじ
主人公ウエハラは重度の精神疾患を抱えた引きこもりの青年である。両親が用意したアパートの一室に事実上隔離され、母親に腫れ物に触るかのような形で世話を受けている。中学生の時分のある日、ベッドから突然起き上がれなくなったウエハラを父親と兄は至極ぞんざいに扱った。病院の検査を経ても父は頑なに「怠けているだけだ」との見解を崩さず、兄は教育の名目で動けないウエハラを一方的に殴打した。その絶え間ない暴力は兄が自立して実家から出ていくまで止まらなかった。
ウエハラもまた母親に暴力を振るう。ほとんど物欲のない彼であったが、発作的になにかを欲しがる時もあり、それが即座に叶えられないと悟るや母親を激しく殴り、蹴るのだった。そのような理不尽な行為について、作中で正当化らしい正当化は行われない。母親が自分の欲求に当意即妙で応えなかったから、殴った。ただ行動の出力結果のみが淡々と語られる。唯一、曖昧な笑みをにじませながら、時折差し入れを持ってくる妹は暴力の対象から免れられている。
ある時、ウエハラはいつものように母親を殴打してコンピュータを手に入れた。テレビでよく見る、顔が好みの女性ニュースキャスターがWebサイトを主宰しているとの情報を得て、覗いてみたくなったのだ。それだけではない。彼女はウイルスや寄生虫の話題に詳しく言及していた。このことはウエハラにとって極めて重要だった。というのも彼は幼い少年の頃に、病室で危篤を迎えた祖父の鼻から飛び出した虫のような生き物に寄生されていたからである。それと入れ替わるように祖父は亡くなり、以来、彼はその虫が自身の体内で生き続けていると信じていた。
幾ばくかの躊躇の末、女性ニュースキャスターのWebサイトに設置された掲示板に虫の話を書き込んだところ、間もなく『インターバイオ』と名乗る謎の組織から隠しページへの招待を受ける。そこには彼に寄生している虫――共生虫と呼ばれる、各国政府から秘匿された特殊な寄生虫についての情報が記されていた。曰く、人類史のいにしえより存在する共生虫に寄生された者は「選ばれし者」であり、殺人を含む一切の行為が許される特別な人間になるという。
今まで家族以外には会話もままならず、母親の助けなくしては通院はおろか外出すら満足にできなかったウエハラは、これら一連の情報をきっかけに様々な能力を培っていく。しかし同時に凶悪な暴力衝動にも目覚めてしまうのだった……。
インターネット黎明期の狂騒
結論から言うと「共生虫」は完全な創作である。「インターバイオ」とは即興ででっちあげられた組織に過ぎず、わずか数名の構成員は小手先のハッキング技術を鼻にかけるプログラマ崩れの集まりでしかない。インターネット黎明期に特有のセキュリティが杜撰なサーバに侵入しては、個人情報を暴いたり嫌がらせをするのが彼らの趣味であった。次第に味をしめた彼らはそうした技術と話術でもって、特定の人間を破滅に追い込むことに楽しみを見出すようになる。
ウエハラが掲示板に書き記した内容はそんな彼らの興味を大いに惹いた。この狂人の妄想をさらに過激な方向に膨らませてやれば、どんな凶悪なことだってやらせられるかもしれない…… 実際、彼らの企てはうまくいった。あまりにもうまくいきすぎたせいで、彼ら自身の身をも滅ぼす羽目になった。最終的にウエハラの暴力衝動は彼らへと向けられてしまうのだ。因果応報。自業自得。……などと言い切るのはもちろん早合点に他ならない。
物語の終盤において、彼らもまた内面に多くの問題を抱えていたことが発覚する。構成員の全員が互いに疑心暗鬼に陥っており、他人のプライバシーを覗き見しておきながら自分も誰かに覗かれているのではないかと思い込んでいたのだ。女性ニュースキャスターが運営するメーリングリストでも、もともと彼らは健全なコミュニケーションをとることができないでいた。結果、睡眠薬や向精神薬の世話にまでなっている。もはやインターネットを飛び越えて現実の日常生活にも著しい支障をきたしていた。
作中には「ネットに接続する人は寂しがり屋が多い」との記述がある。今でこそ生活の用を足すために必要不可欠なインターネットだが、当時は社会に不適合な人たちが集う避難所としてのニュアンスが格段に強かった。現実でろくに人間関係を築けないからインターネットを訪れて、そこでも馴染めないと知るやいなや個人情報を奪ってでも優位に立とうとする。だが、そこまでやっても、いや、やってしまったがゆえに、今度は自分自身が標的に晒されるのではないかと猜疑心に駆られる。それでもなお、ネット上のコミュニケーションを断つ選択はとれない。
このように俯瞰するといかにも彼らの脆弱さが際立つ。あの手この手で人を自殺に追い込まんとする旺盛な暴力性を持ちつつも、そこには明らかな弱者性が同居している。彼らの人生はより凶悪な怪物を呼び覚ましたことによって不運にも幕を閉じたが、仮に生きていてもどのみち先細りを余儀なくされただろう。本作においてインターネットは単なる舞台装置以上のメタファとして確かに成立していると言える。
社会性と暴力性の境界線
一方、巧みに暴力衝動を加速させた人物こそが主人公のウエハラである。彼は共生虫の妄想を信じ込んだことで物怖じせず外出できるようになり、行ったことのない喫茶店で平然と食事をして、誰とでも自然に会話を交わせるほどに成長した。単独で雑木林を探索し、器用に登山道具をも操ってのけた。この作中の描写が示唆する事柄はまさしくインモラルで倒錯的な価値観だ。すなわち、われわれの営みはすべて形を変えた暴力性に支えられているということを表している。 要はその出力の矛先や加減の違いでしかない。世間ではそれを社会性と呼ぶ。
ウエハラが母親にたびたび振るう暴力の描写はわれわれを不快にさせる。社会通念上も言語道断の悪事に他ならない。しかし一方で、彼の兄が教育の名目でウエハラを殴打し続けたことはどうだろうか。2022年現在の倫理観であれば、それも同様に悪いと見なす向きが強いかもしれない。ところが本作刊行当時の2000年、執筆中の90年代末においては必ずしもそうではなかった。ウエハラの父親がそうだったように、怠け者に対する正当な制裁と評する人々も大勢いたのだ。
事実、ウエハラの兄は順当に自立を果たしている。ベッドから動けないでいる弟を殴り続けた兄が立派な社会人となり、殴られ続けたウエハラの方は最低最悪の引きこもりとなった。してみると、社会が定める暴力の基準など実に勝手なものである。その社会は間違いなく引きこもり状態のウエハラを極めて危険な人物と決めつけるだろう。だが、見方を変えればむしろ彼は徹底的に去勢せしめられ、世の中に打って出るための最低限の暴力性――社会性すら剥奪された弱者として見ることができる。
だからこそウエハラは、幼児がそうするような発散的な暴力でしか母親に欲求を伝えられないのだ。そして母親以外のあらゆる外界には近づくことさえできない。それが一転、共生虫の妄想を信じ込み、どんな行為も許される特別な人間だと錯覚した途端に、あたかも別人のごとく彼は能力を開花させていく。かつては逆らえなかった父親や兄を金属バッドで殴り殺し、色々な場所に一人で行けるようになった。他人との会話も淀みなくスムーズで、誰も彼が秘めた暴力性に気づかない。
つまり本作は圧倒的弱者が、剥奪された社会性を妄想によって取り戻しすぎた物語なのだ。社会性を得たからこそ彼は周囲に溶け込む力をいかんなく発揮し、かえって誰にも嫌悪されなくなった。実態としてのウエハラはまごうことなき精神病質者、殺人鬼にも拘らず、人殺しを経た彼はとてもコミュニケーションに堪能で隙がない。当初は掲示板に書き込むことすら躊躇していたほどなのに、物語後半にはインターバイオの構成員をおびき出すためにわざと油断を誘うような文章までしたためている。そして残忍な手口でもって構成員らを見事に抹殺してみせた。
われわれはしきりに口ずさむ。暴力は良くない。暴力は悪い。事実、みだりに暴力を振るえばたちまち官憲に引っ立てられるであろうし、そうでなくても社会的信用は失墜する。われわれが平穏無事に暮らすためには当然、社会はそのようになっているべきで、それに異を唱える者はまずいないだろう。しかし、本作は常識とは異なる視点の存在を示している。
われわれは結局、常に暴力を振っているのだ。 ただ社会が手前勝手に境界線を引いているだけに過ぎない。その中で特に秀でた者は他者を完全に威圧しつつも、それでいてまったく暴力的とは見なされない特権じみた地位を手に入れられるが、逆に劣等な者はなにもせずとも周囲をいたずらに警戒させ、ともすれば公の場から排除せしめられる。
本作がかくもおぞましくインモラルな価値観を説いていながらも奇妙な共感を呼んでしまうのは、多かれ少なかれそうした事例に心当たりがあるからではないかと僕は思う。言うまでもなく、覚醒したウエハラが劣等の失態を犯すことはありえない。きっと引きこもりの頃よりもはるかに社会に馴染んで暮らしていくはずだ。たとえ陰で何人、何十人と殺して回ろうとも。