2022/07/24

表現の自由の競争的側面

前提として、われわれがいま認識している「表現の自由」とは実質的に市場原理に基づくものであり、率直に言えば能力主義の産物である。

もし「表現の自由」が単に束縛を受けずに喋ったり書いたりできれば満たされうるのであれば、たいていの専制国家はそれを実現することが可能だ。誰もいない空室とか、閉じられたネットワーク環境でのみ表現を認めればよい。今風に表すと「壁打ち」だけ許せば事足りるということになる。

もちろん自由主義国家に住まうわれわれが認識する「表現の自由」はそんな程度の代物ではない。街中で、出版で、オープンなインターネットで、時には嫌がるであろう人の鼻先にさえ、それを突きつける機会までが約束された権利だと確信している。空間を共有する誰か一人でも苦言を呈したら即座に撤去などとなればほとんどの表現は公開できないからだ。「見せる権利」は「見ない権利」を明らかに上回っている。

ところが「見せる権利」を豊かに行使できる者はそう多くない。繁華街の街頭ビジョンにコンテンツを放映できる者は並外れた資本を持つ者に他ならず、どんな規模であっても個展を開ける者は相応の能力を有している。フォロワーが1000人いる者は100人いる者よりも広く「見せる」ことができる。

公衆に発信できてこそ表現は自由であり権利であるとわれわれが見なす以上、このように「表現の自由」がしばしば競争的な側面を持つことを否定できない。能力が低い者にとっての「表現の自由」とはせいぜいコンテンツ消費の自由でしかなく、それですら個々人の経済力に左右される。表現の自由の多寡とあらゆる能力の多寡は密接に関係しているのだ。

表現の自由の競争的な側面はもう一つあり「批判の自由」が挙げられる。ある者の論に対して自由に反論できなければ言論は停滞し、社会は公正ではない方向へと進んでしまう。なので持論に言い返されてムカついたなどの些末な理由でこの権利の行使が妨げられる道理は本来ない。批判者が庶民で受け手が権力者であろうとそれは変わらない。

しかし今やSNSが隆盛を極める時代である。身分上はいち庶民に過ぎないわれわれの中にも凄まじいフォロワー数を誇る者や、クラスタと呼ばれる集団の上に君臨して強力な後ろ盾を得た者が少なくない。従来の権力者も相変わらず権力を握っている。そうした際にこの「批判の自由」は不公平な状態を作り出す。

取るに足らない個人の感想が執拗な批判に晒される一方、インフルエンサーの不正がフォロワーやクラスタの擁護によってうやむやにされる――ということが容易に起こりうるようになった。特に後者では「批判の自由」を行使した側がむしろ熾烈な反撃を受ける事例も珍しくない。

こうした環境下で「表現の自由」を最大限に発揮するには自身に忠実な尖兵たるフォロワーを大量に揃え、当該のSNSで強い発言力を持つクラスタに属しておく必要性が生まれてくる。まさに競争、権力闘争そのものである。Twitter論客が言葉巧みに「批判の自由」と「言論弾圧」を使い分けていくさまを見たのは一度や二度では済まない。

ここまで読んで、拍子抜けというか「なにを当たり前のことを言ってるんだこいつは」と感じた人もかなりいると思う。誰も彼も好き勝手にものを言えるのであれば、そこに競争が発生するのは当然だからだ。人ひとりが受け入れられる言論の物量には限りがある。より魅力的な言説は選好され、そうでないものは棄却される。深刻ぶるまでもなく大半の人が常日頃行っている営為に過ぎない。

だが、われわれがこの競争的な表現の自由をラディカルに認めすぎた場合、ある強大な脅威を否定できなくなってしまう。それはプラットフォーム企業による規制である。優れた個人が表現の自由を競争的に扱ってよいのなら、優れた企業だって当然そのように扱う。自社のブランドにふさわしい表現を選好し、他は棄却するのだ。TwitterがDLsiteのURLをシャドウバンしたとしても、あくまで正当な競争の過程ということになる。気に食わなければ他のSNSに行けばよい。

MasterCardがDMMから手を引いたのも同様だ。これも他のカードブランドを使えばよかろうということにしかならない。結果、MastarCardの競争力が失墜するにせよ、他のカードブランドがMasterCardに追随するにせよ、それは市場原理に基づく決定である。極めてシンプルな道理だ。にも拘らず、意外にこの結論を受け入れられない人が多い。

どういうわけか「プラットフォーム企業による規制は勘弁願いたいが、表現の自由は競争的に行使したい」と考える人が多いのだ。率直に言って小賢しいいじめっ子の理屈だと思う。殴れる相手は殴るが勝てない相手には芋を引くみたいな……むろん、そのようなやり口は通用しない。

僕や諸君らが100の批判に乗じて相手を追い詰め、圧倒的勝利の愉悦に脳汁を迸らせている最中、TwitterやMastarCardも「これはダメ」の一言で僕や諸君らの好きな表現をパージせしめる――まさしく自由競争ではないか。言うなれば無差別級の異種格闘技だ。ヘビー級だけ来るなは通らない。われわれがフライ級をボコるのなら、ヘビー級にボコられても仕方がない。さもなければ頑張って勝つかだ。そんな芸当ができればだが。

そこで別の提案がある。プラットフォーム企業の専横を糾弾しうる正当性を保持すべく、われわれも「表現の自由」をあまり過度に競争的に利用しないことだ。たとえ誤っていても既に100も1000も批判されつくされている個人を殊更に叩きにいく必要はない。文句はリプライや引用RTでなくても言える。

市場原理で押し切れそうな局面でもクレーム多数なら表現の内容を再検討する。反対に、気に入らない表現であっても市場の選好ならそういう流行りだとぼちぼち認めてやる。こういった原理原則によらない鷹揚な態度こそ、われわれが真に強大な脅威と対峙する際の力になると僕は思う。

結局、競争が一番得意なのは巨大企業なのだ。表現の自由を平等に分配できない以上、時として自由競争の作用に期待するのは確かにやむをえない。だが、それはなんとか飼いならせる範囲に留めておく方が望ましい。その舵取りにわれわれの言論文化の未来がかかっている。

要するに、無理に言い争うな。議論は道具であって目的ではないはずだ。

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