2022/08/10

叱責されるとあくびが出る

この悪癖は僕の人生にけっこうな厄介をもたらしてきた。表題通り、叱責されるとあくびが出る。誓って言うが、別に相手をなめてかかってはいない。等身大の自省は備わっているつもりだし、反抗を態度で示すつもりもない。にも拘らず、どういうわけか叱られるとあくびが出る。

恐るべきことにこの悪癖はどんなに努力してもなかなか止められない。気がついたらおのずとあくびの体勢をとっている。奇跡的に寸前で留めたところで、既に口は開いている。相手からしたら呼吸していようがしていまいが格好としてはあくびそのものだ。こいつ、生意気にもあくびなんぞかいていやがる。ふざけやがって。こんな具合に余計な怒りを買った経験はもちろん一度や二度では済まない。

ものの本にあたって見ると、高ストレス環境下で表れる肉体の動きというのはその原因から身を守るための防衛反応である場合が多いらしい。これに照らすと僕のあくびは叱責への自己防衛と解釈できるが、どう考えてもなにひとつ防衛できていないので到底当てはまるとは思えない。

さらに奇妙なのは、事象の発生が「叱責」に限られていることだ。反論の応酬を前提に成立する「議論」とか、もっとひどく感情を爆発させる「喧嘩」などではあくびは出た覚えがない。叱責は受動的なのに対して議論や喧嘩は能動的な競争だから、より高負荷なのはこっちの方じゃないのかと思うのだが、僕の口蓋はあくまで叱責にしか反応しない。

叱責にあくびで返すとなにがまずいのかといえば、まず、叱責する立場にある人間を余計に怒らせる――これはさっき書いた通りだが――それ以上に、そういった人間に見限られてしまうところが、若いうちはずいぶん辛かった。兎にも角にも教えを乞わないといけない身分なのに、そんななめくさった態度では十分に教えてもらえるわけがないからだ。

そりゃあ、理想は「叱責」ではなく「説諭」の方が好ましい。なにしろあくびが出ない。だが、教えてくれる人が必ずしも「説諭」のスタイルをとってくれるとは限らない。とりわけ明白なミスをやらかした時などは「叱責」が先に来て当然である。そして、あくびが出る。ミスをして叱られているのに、あくびが出る。

ぶっちゃけた話、それで反射的に「叱られている分際でなんだ貴様その態度は」と激昂する相手の方が、なんだかんだで埋め合わせはしやすかった。そういう性格の人は後に然るべきリカバリを果たせば、なんとなく帳消しにしてくれる。

しかし僕のあくびを見るやいなや凍てついた氷面のごとき無表情を象り、以降は白々しい社交辞令しか返してこなくなるような人の場合は、大抵どうあがいても挽回が効かない。彼ら彼女らの中で僕の人物評価はその瞬間を境に一生定まったのである。まあ、実際、無理はない。

なぜこんな思い出話をわざわざ日記にしたためているのかと言うと、つい最近久しぶりにあくびが出たためだ。仕事でも交友関係でもなく、僕がここのところかかりきりになっているValorantという競技的なFPSゲームで、たまたま味方に組み入れられた誰とも知らない相手に、僕はいきなり叱責された。

競技的なゲームはしばしば密接なコミュニケーションが要求される都合上、味方が赤の他人だろうとボイスチャットでリアルタイムに会話を交わすことが望ましいのだが、僕は戦略的な内容にとどまらず味方や自身の活躍に乗じて過剰に大騒ぎする性質がある。それがどうも癪に障ったようだ。

『あの、ナイスとかやられたとかどうでもいいんで、敵の位置報告だけしてくれません?』

一人の味方の発言によって僕は冷や水を浴びせられた気持ちになった。まもなく、あくびが出た。これはつまり、僕の肉体が当該の発言を議論にも喧嘩にもなじまない大上段の正論――「叱責」と見なしたということになる。なお、特に試合運びに問題は起こらずゲームには圧勝した。

そこで僕はたちまちあくびの件を思い出したのである。ああ、そういえばこんな悪癖があったな。もう3、4年くらいは出ていなかったのに。まだ治っていなかったのか、と。してみると、業務経験の蓄積に伴ってミスが順当に減ったのか、単に周りから愛想を尽かされきっただけなのか、いまいち確信が持てないところに若干の不安が残る。

若い頃は叱責をあくびで返してしまうことを恐れていたくせに、歳を食うと今度は逆に叱られない方が恐くなってくるのだから不思議なものだ。しかもよりによって、ゲームでそれを悟る自分。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Twitter | RSS | 小説