2022/09/04

黒人エルフと雇用均等

Amazon Prime Videoにて歴史的ファンタジー大作「ロード・オブ・ザ・リング」の最新シリーズ「力の指輪」が絶賛公開中だ。僕はJ・R・R・トールキンの原作小説は中途半端で映画化作品しかまともに観ていないが、2話目の段階でかなり期待の持てる出来だと感じた。

その「力の指輪」についてだが、浅黒い色の肌をした俳優がエルフを演じていることで物議をかもしている。この俳優はプエルトリコ出身なので本当は黒人ではないものの、人種がなんであれトールキンの原作小説に肌の黒いエルフは登場していないらしい。

つまりこれはポリコレを笠に着た作品の改竄――偉大なるファンタジー文学の始祖、J・R・R・トールキンに対する冒涜ではないか――エルフは純白の美しい白人の俳優が演じるべきだ――件の議論で「黒人エルフ」に反発している人たちの意見は、おおよそこんな具合だ。

他方、実際に原作を紐解いたファンの意見によれば 「確かに黒い肌を持つエルフが作品に登場したことはないが、すべてのエルフは白い肌を持つとも明記されていない」 とのことで「黒人エルフ」の存在がトールキン本人の不興を買うかどうかは客観的には判断できない。目下、議論は平行線を辿っている。

■9月6日追記
どうやら決着がついたようだ。僕は原作の記述に関係なく権利者が認めている限りは、雇用均等と市場原理の観点から有色人種の起用は理に適うとの立場だが、少なくとも原作準拠を振りかざして反対していた人たちは考えを改めなければならないことが確定した。以降の文章は一つの業界論として読んで頂きたい。

–追記ここまで–

しかし、実のところこの議論はやるだけやっても意味がないと僕は思う。なぜなら、トールキン作品の著作権を保有するトールキン財団が「力の指輪」の制作に協力しているからこそ、本作はわれわれの前に姿を現したのだ。 権利者が合意している以上はどんなに頑張っても”お気持ち”にしかなりようがない。僕は別に構わないが、いわゆる「反ポリコレ」な人たちはやたらと”お気持ち”を嫌っていた気がする。

いずれにせよ、一般論としてはこれが唯一の結論である。Twitterでよく見かける「黒人エルフを出すなら他でやれ」とかいう言い草はちゃんちゃらおかしい。むしろ逆じゃないか。気に食わないならそっちがトールキン財団を納得させろ。なぜ権利者より優先して新作の制作方針を指図できるとナチュラルに思い込めるのか僕には不思議でならない。

それらを踏まえてなお”お気持ち”の方でやっていくつもりなら、あえて止めやしない……だが、故人の価値観や生前の記述内容がなによりも尊重されるとしたら、戦国武将や過去の偉人を改変したアレとか昔の作品をアニメ化したアレとかはだいたい全部吹き飛んで塵と化すことになりはしないか? 他にも探せばいくらでもヤバそうなのが見つかりそうだ。ちゃんとそこまで考えたか?

いいや、どうせろくすっぽ考えちゃいないだろう。今回の件で叩きに回っている連中はなんとなくポリコレを腐したい人たちの集まりで、たまたま「原作準拠」という決戦兵器が手に入ったから調子づいただけに過ぎない。その兵器の強大さ、射程の長さ、範囲の広さなんてちっとも考慮しちゃいない。あ、これ使えそう。ポチっとな。ちゅどーん。 そんな雑なノリでは困る。ちなみに前作の「ロード・オブ・ザ・リング」もだいぶエンタメに寄せた作りで原作通りではない。

そろそろ僕の見解を話す。「黒人エルフ」が登場した理由は、それが映画業界における雇用均等の実践だからだ。 厳密には雇用ではないが、主要な役柄に一定数の有色人種を起用するのは現代の映画業界の慣習になっている。え、それって結局ポリコレじゃん、と感じたかもしれないが、そこは本質じゃない。

問題の本質は労働闘争だ。映画文化が盛んな西洋、特にアメリカ合衆国では日々信じられない数の映画が制作されている。われわれが目にしている洋画はその中のごくごく一部、なんて話はたぶんみんなも聞いた覚えがあると思う。それくらい産業がデカいと俳優の需要も大きくなる。需要が大きくなれば供給も増える。

ところが一般の労働者派遣とは異なり、俳優と役柄のマッチングは少々厄介だ。基本的には女性の役に男性俳優をあてがうわけにはいかないし、逆もまた然り。さらには人種や民族、俳優の顔つき、体格など条件は多岐にわたる。一方、緩い条件の役柄にはたいてい白人の俳優が抜擢される。

2022年現在の合衆国における白人の割合はせいぜい6割にも満たない程度なのに、スクリーンを通して観るアメリカの風景にはまだまだ白人の姿が多い。そこへいくと、合衆国の市場において有色人種の俳優はどうしても不利に陥ってしまう。最近の洋画は黒人やアジア人ばかりなどと言われつつも、雇用均等の実現にはほど遠いのが実情だ。有色人種の俳優たちはより少ない椅子をめぐって競っている。

したがって、彼ら彼女ら有色人種の俳優にとって座れる「椅子」の数を増やすことは極めて重要な関心事となる。 俳優の仕事でうまく食い繋げられたらそのぶん順当にキャリアを積めるが、さもなければ他の仕事で糊口をしのがなければならない。実家の太さとてアメリカ白人とそれ以外では雲泥の差だ。当然、俳優業と無関係な労働に従事している間、演技力は微塵も上がらない。

これは現代の映画業界にとっても真に憂慮すべき問題である。有色人種の俳優がキャリアの犠牲を余儀なくされると彼ら彼女らの技能は相対的に低く留まり、ますます起用しうる余地が小さくなってしまう。起用できる人種の幅が狭まればおのずと実写映画の表現力は減退していく。だからこそ、当人にはもちろん、映画業界にも有色人種の俳優がキャリアを維持することは実益に適う話なのだ。

喜ばしくも映画業界は右肩上がりに成長を続けており、有色人種の出演は同じアイデンティティを持つ消費者の視聴意欲を増大させている。合衆国国民の4割強は有色人種で、地球上においてはもはや言うまでもない。雇用均等を促進できて金も稼げているのならそっちの方が労働環境として望ましいに決まっている。

今や空前のファンタジーブームであり時代劇ブームだ。莫大な予算を投じて作られるこれらの豪華絢爛なプロジェクトに有色人種の労働者、すなわち俳優が一切参画できないとなれば、彼ら彼女らのキャリア育成は少なからず妨げられる。ベテラン俳優も有能な労働者と同じでひとりでに生えてきたりはしない。業界全体で育てていかなければならないのだ。繰り返すが、権利者たるトールキン財団は「力の指輪」の制作に協力している。

「黒人エルフ」を叩く「反ポリコレ」な人たちは、きっと頭の中で 「クリエイターの生み出した作品を蹂躙する悪の圧力団体」 みたいなストーリーを描いているのだろう。しかし、いま説明した通りあくまで本質は雇用均等であり、企業にとっては市場原理でもあり、時としてポリコレ的なフレーズを利用するのもキャリアとメシの種を両立させるための決死の理論武装なのである。

この補助線を用いると類似の問題も説明できる。たとえば、原作で有色人種のキャラクターを白人が演じると問題視される(ホワイトウォッシュ)のに逆の場合はそうでもないのは、前者のみが雇用均等の取り組みに反するゆえだ。近年、活発化しているアニメキャラクターの属性と声優のそれを一致させようとする動きも同様の理由と考えられる。

以上の説明に対して 「でも俺は有色人種の俳優のキャリアとかどうでもいいし、美しい白人の男女だけ見たい」 と言い返すのは実は不当ではない。 どんな要望でもそれが消費者全体の相当数を占めれば映画業界は確実に対応する。ビジネスとはそういうものだ。白人を贔屓して出演させてもなんら法律違反ではない。

かくいう僕が語気を強めてここで「黒人エルフ」叩きを叩いているのも、対等な消費者の要望を互いにぶつけあって打ち勝ち、雇用均等をさらに促進させたい”お気持ち”があるからだ。どうせなら僕は色んな人間の演技が観たい。

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