その洞穴は足腰まで浸かる水たまりを越えた先にあった。両脇を切り立った高い崖に囲まれ、道は狭く、反対側は鬱蒼と茂った山の森林に遮られている。ゆえに侵入経路はここ一つしかない。昨夜の雨露と思しき雫が両脇の崖を伝って落ち、できあがった水面が陽光をてらてらと反射している。
ウィリアム・ソイル隊長率いる王家の守護隊〈ロイヤルガード〉は崖の手前に整列していた。黄金色の輝きを放つ板金鎧と兜に身を包んだ金髪碧眼の剣士が五名、馬車に運ばせた梯子で崖の上に登った弓兵も他に十名いる。
しかし、剣士たちが洞穴にすぐ歩を進めることはなかった。まず歩を進めるのは、彼らの前に無造作に並ぶ汚い身なりをした十数名の男たちだ。実のところ、元は正確に何人だったのか守護隊長は覚えていなかった。道中で逃走を試みて処刑された者が数名、獣に襲われて重傷を負ったために捨て置かれた者が数名いて、もはや頭数の把握に意味はない。
「よし、貴様ら。彼方に見える洞穴に例の怪物――セイレーンが棲んでいる。この中の誰か一人でも見事それを討ち取ってみせたなら、貴様らはみな自由の身となるであろう」
ウィリアムは威厳を込めた声で高らかに宣言した。体じゅうを泥や土埃で汚し、ボロきれを着込んで防具の一つも身に着けていない男たちは、それでも目を爛々と輝かせている。万が一の成果を期待してなまくらの剣を握らせたが、剣術の心得がある者は一人としていないことを隊長は知っていた。
「セイレーンって、あの神話のセイレーンだよな……下半身が魚で、上が美女だとかいう……」
「なんでそんなのが洞穴にいるんだ。海にいるんじゃねえのか。へっへっ、旦那ァ、もしよければだがよう、そいつ、殺す前に俺らで犯しちまっても構わねえかい」
もともと歪んだ顔をさらにひどく歪めながら、一人の男が言った。他の男たちも同調してへらへらと不敵に笑った。
「……ああ、構わんとも。好きにするがいい」
やれるものならな。
ウィリアムは侮蔑の態度を露わにしないよう注意を払った。
「貴様らの任務はとにかくセイレーンを殺し、彼女が守る金銀財宝を我らが王の下に結集せしめることだ。われわれも後に続く。さあ、行け!」
守護隊長の号令とともに男たちはどたどたと洞穴に向かって駆けだしていった。多少の間をおいて〈ロイヤルガード〉も進軍した。
「今回のやつらは強姦魔や物盗りの類だ。前ほど長くは持たない。〈ロイヤルガード〉、抜剣しろ!」
すうっと優雅な音をたてて鞘から次々と引き抜かれたその剣には、きらびやかな赤と青の宝石がはめ込まれている。刃は白金のごとき美しさで、汚れ一つついていない。
ウィリアム守護隊長は笛持ちに目配せをした。角笛が短く二回、長く一回鳴らされると、崖の上の弓兵たちはすばやく弓に矢をつがえた。洞穴の奥に蠢く人影が見えたのだ。
セイレーン……南方の伝説によれば歌声と美貌で船乗りを魅惑し、海底に引きずり込んで食い殺そうとする海の怪物だという。少なくとも、南方では……。
ついにセイレーンが姿を現した。
裸体に金、銀、ありとあらゆる宝飾品を巻きつけているものの、骨と皮しかない痩身の貧しさはいかんともしがたく、生気の失せた青白い顔には濁った灰色で塗りつぶされた眼、口には黄ばんだ歯がまばらに生え、唇はあるのかないのか判然としないほど薄い。もちろん、下半身は魚ではない。あまりの醜さに囚人たちも動揺を隠しきれない様子だった。
彼女はぎょろぎょろと周りを見渡すと、眼前に群がる男たちに口を歪めて威嚇のうなり声をあげた。
「各自、防御体勢をとれ!」
守護隊長の指示に従って〈ロイヤルガード〉は兜で守られた頭部をさらに板金鎧の両腕で覆った。またある者は、崖の壁面に退避した。一方、事情を知らされずにいる囚人たちは牙も鉤爪も持たない怪物と見て油断したのか、彼女に向かって我先へと突進していった。しかし、足腰まで浸かった水たまりのせいで誰も思うようには接近できていない。じゃばじゃばと足で水をかく音ばかりが威勢よく響く。
一旦、ウィリアムも進行を諦めて壁面へと逃げた。後の結果はあえて見るまでもない。前回も、前々回も、見たからだ。そう、彼女の口が、あたかも虚ろな顔を占めるかのように大きく開き……。
――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!!
頭蓋を突き刺す呪いの悲鳴が耳に押し入ってきた。板金鎧がぐわんぐわんと共鳴し、頑丈な岩でできた崖にも亀裂が刻まれた。不運にもセイレーンの悲鳴の直線上に立っていた囚人たちは、口、鼻、耳の穴という穴からおびただしい量の血を吐き出した。陽光で輝く水面は一転、鮮血で真っ赤に染まった。たまたま範囲外にいた囚人も無事では済まず、頭を抱えてうずくまる者が続出した。
「弓兵!」
残響でほとんど聞こえなくなった耳に構わずウィリアムは崖の上に向かって叫んだ。幸い、弓兵たちは聴力を失うほどの被害は受けていなかったらしく、守護隊長の命令に応じて即座に矢を放った。矢は十本のうち二本が巻きついた金、銀、宝飾品の隙間を通り抜けてセイレーンに突き刺さった。ぎえっと汚い声を漏らした彼女はしかし、全身を器用にくねらせて崖の上の弓兵たちを睨みつけた。守護隊長は急ぎ回避を命じようとしたが、間に合わなかった。
二回目の悲鳴は崖の上の弓兵を直撃した。大半は即死し、何人かは遁走を図って崖から転落した。蛮勇に長けた数名は命と引き換えに反撃の矢を射たが、放たれた矢は金縛りを受けたかのように彼女の眼前で留まり、ややあって粉微塵に粉砕された。
その間、ウィリアムは板金鎧と水の抵抗に阻まれながらも全力で前進を続けていた。宝石のきらめく美しい剣がセイレーンに振るわれた時、かろうじて彼女の口は開ききっていなかった。その喉笛が膨らむ寸前に城打ちの鋭い刃が首筋を切り裂いた。一太刀で断ち切られた頭部が、宙を舞って水たまりにぼしゃんと落下した。主を失った胴体は溺れた人の振る舞いでしばらく暴れた後、急速に静まった。
「なんとか、やりましたね……」
〈ロイヤルガード〉の剣士たちが守護隊長に近寄ってきた。剣士の一人がセイレーンの濡れた生首を掴んで、高らかに掲げた。とはいうものの、五体満足に生き残っているのは板金鎧と兜に身を守られた〈ロイヤルガード〉だけで、囚人たちと弓兵はいずれも死んだか、手負いの者しかいなかった。
「いや、無駄骨だった……帰るぞ」
討伐の成功に一瞬、表情を緩めかけたウィリアムは洞窟の奥に目をやって再び顔をこわばらせた。セイレーンが、もう一体現れたのだ。黄金色の板金鎧をがしゃがしゃと言わせながら〈ロイヤルガード〉の剣士たちが逃げ出す最中、半死半生でもがいていた囚人たちの怨嗟の声がこだましていたが、崖から離れると耳に届かなくなった。だが、セイレーンの悲鳴は遠くでもはっきりと聞こえてきた。
『黄金国』との名が伊達ではないのは玉座の間の床を見れば分かる。内装の絢爛さもそこそこに、入口から玉座の足下に至るまでの床がすべて純金で作られているのだ。どんな遠方の国の使者もこの床には称賛の言葉を惜しまない。およそ五百年に渡るゴールデンドロップ家の栄華は、地金の価値と等しく永遠に続くと思われていた。
少なくとも、今の国王が即位するまでは。
現国王、エレクセス・ゴールデンドロップの代になってからというもの、黄金国は他国との争いにことごとく敗れた。豊穣な実りある土地を奪われ、清らかな水源を奪われ、ついには金脈をも危ぶまれている。政治も外交も解さないエレクセスの曖昧模糊な態度に友好国はしびれを切らし、気がつけば周りは敵だらけ。付いたあだ名は「縮地王」〈ショーティン〉――まさしく領土を縮める愚王と公然に噂された。
ウィリアム守護隊長は薄汚れた生首を床に投げて転がした。悲鳴の途上を保存したセイレーンの顔貌が、磨かれた純金にぼんやりと浮かぶ。王の脇に立つ国軍の長と執政官がかすかにたじろいだ。
「一体は仕留めました。……が、成功ではありません。セイレーンはもう一体いました。どういう怪物なのか存じませんが、二体いるなら三体、四体もありうるのが道理です。もはや訓練を受けていない囚人の手には余ります。どうか国軍のさらなる助力を」
エレクセス王は齢五十にしては若々しく整った顔を、憂い深しげに傾けて礼を言った。
「まことに大儀であった。お主なら必ずやってくれると思っていた。百か二百くらいの兵なら……」
「お言葉ですが、陛下。それから、普段は城内に住んでおられる〈ロイヤルガード〉の守護隊長殿にもさぞ不愉快な話でしょうが――」
よく通る声で王の発言を遮ったのは国軍の長、ロンメルだ。
「今は戦争中でございます。四方八方から敵が襲ってきておりますゆえ、余分な兵などたったの一人もおりませぬ。隊長殿にお貸しした弓兵はどうなりましたか? 我らは十二の諸侯から兵を任されているのですぞ」
王の声を妨げる無作法も筋の通った直言の前には叱責を免れた。エレクセス王は遠慮がちにロンメルを見やった後、憐憫の眼差しをウィリアムに向けた。
「ですが、洞穴の奥に眠る金銀財宝はセイレーンを滅せねば手に入りませんよ。王の勅令でしょう。莫大な財宝があれば、海の向こうの傭兵を雇うこともできます」
守護隊長ウィリアムは執拗に食い下がった。
「金銀財宝、大いに結構。結構ですとも。しかし百や二百の兵で今度こそ確実に成功する見込みはおありで? よしんば死体の山を築いて財宝を手に入れたとしても、海の向こうとやらから傭兵がやってくる前にそれらはたちまち敵軍の懐に収まってしまうのではないですかな」
強面のロンメルの威を借りてミンスター執政官も批判の手を強めた。両方の側近の顔を窺ったエレクセス王はしばし考え込むように唸ったが、やがて深いため息とともにウィリアムに告げた。
「ウィリアムよ。すまないが、やはり兵は割けない。現状の範疇でうまく事を成してくれ。我の理想であるならば」
側近に支配された玉座の間を体よく追い払われたウィリアムは、為すすべもなく広大な城の中を歩き回った。
また囚人どもをけしかけたところで二体も三体も殺せるとは到底思えない。セイレーンの悲鳴はまるで災いのごとしだ。嵐のような大群も、雨のような矢も、彼女の前ではなんら意味を持たない。臨機応変な対応に長けた手練の兵が大勢いれば御しきれるかもしれないが、その期待は今しがた露と消えた。ロンメルの言い分は認めざるをえない。
ただでさえ〈ロイヤルガード〉には味方が少ない。黄金色の板金鎧と獅子の毛皮で裏打ちされた厚手のマントに身を守られ、剣には宝石、食事は三食。肉、魚、果物。ベッドは上等な綿でできている。王は戦や政治はからきしだが、英雄伝の類は好んで読んでいた。さしずめ守護隊は王の理想を体現した動くおもちゃと言える。おもちゃに金を注ぎ込むのは王の特権だ。そんな〈ロイヤルガード〉を嫉妬、軽蔑こそすれ心から尊敬する者はいない。
中でも守護隊長ウィリアム・ソイルはエレクセス王の最高のお気に入りだった。家柄は下の上で、剣の腕前はせいぜい中の上だとしても、彼には輝く金髪と碧眼、古の勇士の銅像と見紛う筋骨隆々の体躯が備わっていた。十五歳で剣を覚えて国軍に入隊し、王に見初められて〈ロイヤルガード〉に引き立てられたのは二十歳の時。エレクセス王の即位式と合同で行われた。翌年には、騎士にも叙任された。並みいる似たりよったりの平民出をごぼう抜きにしたのだ。以来、十年余に渡って王の理想であり続けた。
その立場が今、揺らぎつつある。
騎士〈ナイト〉と言えば聞こえは良いが、所詮は贔屓で成り上がった平民に過ぎない。王の権力が弱まれば二人の側近は容赦なく追放を企てるだろう。
くそ、二度と藁のベッドなどで寝てたまるものか。
なにか打開策を見出さなければ……セイレーンは呪いの悲鳴で人や物を壊す。音に姿形はない。戦場で降り注ぐ百の矢でさえ盾と鎧で防げるが、目に見えない音を避けるすべはない。どんなに頑丈な板金鎧で身を守っていたとしても音は耳に入り込んでくるのだ。不用意に近づきすぎれば命を落とす。音、音をどうにかしないことには……。
黄金色の板金鎧をがちゃがちゃと言わせながら守護隊長が城内を闊歩している様子は甚だ異様だったが、周囲の奇異の目を気にせずウィリアムはうろつき回った。そのうち、一度も来たことがない廊下に突き当たった。廊下の奥は行き止まりで、居室にしては大仰な両開きのドアが備えつけられている。ドアの上には金文字を彫った鉄板が打ち付けられており、部屋の主を端的に示していた。
『宮廷魔術師ケビン・クセノンの音楽研究室』
歩を止めて騒がしい鎧の音を鎮めると、一風変わった弦楽器の音色が聞こえてきた。
「おや、珍客ですね。〈ロイヤルガード〉の守護隊長殿がお見えになられるとは」
部屋の中では一人の青年が椅子に腰掛けていた。壁の至るところには多種多様な楽器が並んでいるが、大抵は分解されていたり、壊れていたり、奇妙な形に作り変えられていたりした。青年は背丈が低く、焦げた茶色の頭髪は短くくしゃくしゃで、いかにも実年齢を想像させにくい風貌をしている。上着代わりに着込んでいる黒のローブは丈が余り、彼が立ち上がると布の端が床をこすりそうになった。
「誉れ高い宮廷魔術師であるケビン殿に折り入ってご相談があります」
ウィリアムは腰を低くして体裁を取り繕った。宮廷魔術師は貴族待遇で王に雇われている。しかし、当の魔術師ケビンは悲しげに苦笑した。
「やたらと持ち上げますね。言っておきますが、雷雲を呼びだして敵兵を一掃するとか、大地を揺らして地割れを起こすなんて芸当は無理ですよ。国軍長殿にもそれを解って頂くのにずいぶん時間を費やしました。魔術とは小さなものを操る程度の力だと」
堅物のロンメル国軍長に切々と魔力の限界を説く魔術師の姿が浮かんだ。確かに天災を自在に引き起こせたら戦局を大きく変えられるのは間違いない。古の英雄伝にはそうした魔術を扱う魔術師がしばしば登場する。数千年前の魔術は本当に強力だったのか、はたまた英雄の物語が大抵そうであるように彼らの伝説も大げさに記されたものなのか、今となっては知る由もない。
「では、宮廷ではどういった魔術を?」
ケビンは見た目に似つかわしくない咳払いをおほんとついた後、壁面に並んだ楽器を一つ持ってきた。外見こそ弦楽器に近いが、とても小さく頼りのない不安定な形をしている。彼は細枝のような弓を弦にそっと押し当てた。魔術師に特有のオーラが彼の手から紫の光を帯びて流れ出し、細枝の弓を伝って弦にまとわりつく……。
直後――部屋中に巨大な弦楽器の音色が響きわたった。凄まじい轟音に思わずウィリアムは身体を怯ませた。期待通りの反応が得られたのか、ケビンはニヤリと子供じみた笑みを作った。
「これは〈アンプリファイア〉という魔術を取り入れた楽器です。楽器の大小に依らずとてつもなく大きな音を出すことができます」
体勢を取り戻したウィリアムは感心したふうに頷いて調子を合わせた。
「なるほど、こんなにも大きな音が出せるのなら奏者も疲れずに済みますな――魔術の心得があれば」
「いえ、ところが音は大きくできても決してきれいにはならないのです。残念ながら失敗作ですね」
そう言うとケビンはさほど思い入れのなさそうな手つきで魔術弦楽器を壁面に押しやった。
「私がとりわけ意欲的に取り組んでいるのは、こちらの方です」
次に持ってきたのは茶色い円筒の上に針と角笛が備えつけられた、奇妙なからくり仕掛けの道具だった。円筒は木枠と軸で固定されており、あたかも城の調理場に配されたロースト用の回転機を連想させた。
「今から魔術で蝋管を回しますので、そうですね……では、勇猛な剣士らしい雄叫びをお願いします。そう、その角笛に向かって……」
魔術師ケビンが手をかざすと淀んだ紫のオーラが軸を包み込み、ゆるやかに円筒――蝋管が回りだした。どうやら魔力が充填されたらしい。唐突な指示ではあったが、ウィリアムはエレクセス王の前でよく演じさせられた古の勇士風の雄叫びをあげてみせた。そうすると、針が激しく揺れ動いて回転する蝋の表面に溝を彫りはじめた。雄叫びを終えると次第に針の揺れも収まり、ケビンの魔力が薄れるとともに蝋管の回転も止まった。
「一体なにが……?」
ウィリアムが訝しんでいると、ケビンは木枠から蝋を取り出して頭上に掲げた。
「音の姿形を捉える魔術道具〈フォノグラフ〉です。守護隊長殿の勇猛果敢な雄叫びはたった今、この蝋の表面に写し取られたのですよ」
迂闊にもウィリアムは冷笑を漏らした。
「それが私の雄叫びの形だとおっしゃるので? その蝋が?」
宮廷魔術師の奇人変人ぶりは噂通りだ、と彼は内心で呆れた。よもや魔術師なら一騎当千の打開策を提案してくれるのではと当て込んで訪ねてみたものの、ご機嫌とりに話を聞いてやったが最後、どんどん調子づくばかりでセイレーンの話題を振るどころではない。しまいには、蝋の塊が音の写しだとか抜かす。王も王だ。こんながらくた作りに国庫を浪費しているから側近にやり込められる。
とはいえ、その点ではウィリアムも似た者同士に違いなかった。黄金色の板金鎧と宝石の剣を与えられているのに、戦争には参加せず王の理想のために怪物退治をさせられている剣士。片や、王の道楽好きにかこつけて魔術を奇妙ながらくた作りに用いる魔術師。城から追い出される時はきっと二人一緒だと彼は思った。
「まだ驚くには値しませんよ。この蝋管の表面をもう一度針になぞらせましたら、なんと角笛を通して先ほどの雄叫びを再演〈プレイ〉させることができるのです」
「……ふうむ、すばらしい。そうなれば陛下もいちいち名うての吟遊詩人を招聘せずに済みますな。では、私はこれで」
神にも勝る偉業を成したと言わんばかりの宮廷魔術師をよそに、ウィリアムはそそくさと部屋を後にしようとした。これ以上、奇天烈な妄想には付き合っていられないとの判断だった。
「いやいや、守護隊長殿。貴殿のご相談を聞いておりませんよ。せっかく私の話に付き合ってくださったのだから、こちらもお話を伺わないわけには参りません」
しかし、彼が両開きのドアノブに手をかけた辺りで魔術師はきっぱりとそう告げた。ウィリアムにはケビンが当初の訪問理由を忘れている確信があったが、想定を裏切る形で誠実な人柄を思い知らされた。
やむをえず、ウィリアムはセイレーン討伐のあらましを説明した……セイレーンとは棲息地に近づいた人間に呪いの悲鳴を聞かせて殺し、持っていた金銀財宝を奪う怪物であること。奪った財宝は棲家の洞穴に永年蓄えられているとされ、回収できれば戦局に大いなる貢献を果たせること。同時にそれは〈ロイヤルガード〉に下された王の勅令でもあること。そのためにはセイレーンを殲滅しなければならないが、用意できる兵力は〈ロイヤルガード〉と剣術の心得のない囚人のみで、呪いの悲鳴をやり過ごせなければ任務の達成は極めて難しい……ということ。
話を聞き終えたケビンは頭を上下に揺らして考えにふけった後、急になにかを思い出したように得意げな顔でこう言った。
「ひょっとしたら、先ほどの私の魔術が役に立つかもしれません。ぜひ現場に同行させてください」
いかに文字通り王者の風格を湛えていても、齢五十の裸体には衰えを感じずにいられない。ウィリアムが腰を前に突くたびに絞りだされる声もまた、さながら年老いた獣の嘶きを思わせた。獣といえば、不潔な男に典型の獣臭も寝室中にたちこめている。大方、また何日もずっと英雄伝の類を読みふけって湯浴みを怠ったのだろう。豪華な天蓋付きベッドの脇に積まれた本がおのずと物語っている。ウィリアムはわざとベッドを揺らして本の山を崩そうと試みた。王のベッドは格別に弾み心地が良い。
「待て、ウィルよ。待て。強すぎる」
はあはあと息を荒らげながら黄金国の国王ことエレクセス・ゴールデンドロップが言った。「もう少しゆるりと……そう、そうだ。いい感じだ」一旦、本の山を諦めて腰の動きに気を払うと、途端に王の声音はなめらかな虹色に変わり、ウィリアムも一応の機嫌を取り戻した。
それはそれとして、次からは必ず湯浴みをしてもらうか、さもなければ強い香を炊いてもらわなければならぬ。
彼が十六の時のエレクセスは三十半ばの壮麗な王子で、シルクのようなきめ細かい肌と磨いた大理石の筋肉、白花に似た甘い色香を併せ持っていた。それでいながら時折見せる猛獣の迫力に、ウィリアムは自らの蕾がはっきりと開花せしめられたのを感じた。エレクセスもウィリアムを唯一の男と定め、以降はどの男にも手を出さないとわざわざ彼に誓った。
「ウィルよ、先の件はすまなかった。だが、どうしてもロンメルのやつが言うことは正しいとしか思えなかったのだ」
尻を出しながら詫びる王の姿を見るのは、後にも先にもウィリアムだけに違いなかった。彼はその光景をたっぷりと目に焼きつけつつも、あえて「今言うのは卑怯ですよ」と低い声で脅した。萎びた臀部を手のひらでぐっと掴むと、彼の王は「ああっ、すまん」と嗚咽を漏らした。
「……ですが、セイレーンの討伐はなんとかなりそうです」
奇怪な宮廷魔術師ケビン・クセノンの童顔をふと思い浮かべて、即座に打ち消した。
「まことか。やはりお主は余の金の盾、真の〈ロイヤルガード〉だ」
エレクセスは振り返るとおもむろに対面座位の体勢に移り、衰えた手でウィリアムの張り詰めた胸筋をゆっくりと撫で回した。
「すまんな、ウィル。お主を戦争に行かせないのは余の身勝手ゆえだ。お主には剣や矢で死んでほしくない。けれども、どこかでは英雄のごとく美しく戦っていてほしい……」
「分かっておりますよ。前も、その前のもっと得体の知れない怪物も、きっちり首を獲ってご覧に入れたでしょう?」
ウィリアムは白髪の目立つ王の頭に手を置いた。
「ああ、ウィル……余だけのウィル」
なんと愚かな王だろう。
ウィリアムは再び体勢を変えた王の尻を突き上げながら、そして王の弱々しい嘶きを聞きながら、深く感じ入った。
きっと真に国家と民草を想うのならば、直ちにこの愚王の首を刎ねてロンメルとミンスターの前に差し出すべきなのだろう。二人は驚くかもしれないが、間違いなく受け入れる。なにしろエレクセス王には嫡男がいない。兄弟もいない。できる予定もない。そうなれば玉座は空位として、側近の二人が実権を握ることになる。道楽に溺れる王なぞ、いっそいない方が好ましい。愚王の首を刎ねた見返りに国軍の職位を要求するのも悪くない。〈ロイヤルガード〉ほどの待遇は望めないが、綿のベッドは手に入るかもしれない。寝室の隅にちらりと目をやると、丁寧に立て置かれた宝石の剣が妖しく輝いて見えた。
そんなウィリアムの反逆の着想をよそにエレクセスの息遣いは急速に高まり、いよいよ絶頂の兆しが訪れたようだった。
「ああああああっ、来る、来るぞ、頼む、余の一物を握ってくれ。強くだ。手加減したら承知しないぞ」
普段は側近にもやり込められるエレクセスだが、この絶頂の瀬戸際に至っては王の威厳に満ち足りた怒声を張った。命令通りにウィリアムが手を回して王の一物を握りしめると、さほど力を込めないうちに彼は慟哭して、粘ついた”ゴールデンドロップ”をその先端からぼたぼたと滴らせた。
本当に、愚かな王だ。
情事を終えて着替えを済ませたウィリアムは剣を手に取った。悲哀と興奮の嵐が過ぎ去ったエレクセス王は、今やとても安らかな顔で眠りについている。
だが、こんな愚王でも愛してしまったのだから仕方がない。
〈ロイヤルガード〉の守護隊長は宝石の剣を手にしかと携えて王の寝室を後にした。
ケビン・クセノン宮廷魔術師の「下準備」には丸一ヶ月を要した。城下町の熟練工が作った複数の大きな蝋管と、それを収める丈夫で太い樫の木枠と軸、大の男の半身ほどもある角笛などが一切合切、馬車に積み込まれた日には戦況がだいぶ悪化していた。黄金国の南の地はすでに敵国に制圧され、一帯は新しい領主の支配下に置かれた。占領地から逃げてきた兵士曰く、かつての領主とその正妻、十歳にも満たない嫡子たちの首が城門で晒されていると言う。ロンメル国軍長は「ならば我らはやつらの生皮を剥いでやる」と怒り狂って兵を南に差し向けた。エレクセス王は側近たちの進言をただ曖昧に頷いて追認するばかりだった。
〈ロイヤルガード〉の剣士たちは囚人を運搬する檻が乗った馬車と、荷物と宮廷魔術師が乗ったもう一つの馬車を牽引することに注力した。今回は囚人の頭数が少ない代わりに、生きて洞穴の前まで運ぶ必要があった。ケビンは「どうもご面倒をおかけします」と慇懃に礼を言いはしたものの、一度たりとも徒歩で歩きはしなかった。
そうして一週間後、ようやくセイレーンの洞穴にたどり着いた。ウィリアムは檻から一人の囚人を下ろし、国軍の騎士が用いる板金鎧を着せた。次にケビンが馬車から蝋管と木枠と軸、鉄針を持ってきて〈フォノグラフ〉を組み立てた。組み立てられたそれは板金鎧の背中に鎖と金具で固定され、最後に長い角笛が背面から肩口を通って前に飛び出すように取りつけられた。
「なぜこんなに大きく作らせたので?」ウィリアムが問うた。「写し取る声が大きければ大きいほど針は激しく揺れて深く溝を彫りますので、相応の厚みと幅がなければセイレーンの悲鳴は写し取れないと考えたのです」
「旦那、あっしはなにをやれば赦免されんですかい」
されるがままに魔術道具を取りつけられた囚人がたまりかねて口を開いた。戦時の城下町にいらぬ噂が出回らないよう二人は囚人には一切目的を告げていなかった。ここへきて騎士らしい口ぶりでウィリアムが「それを守って洞穴の奥まで歩くんだ。道中、変な女に出くわすが……とにかく歩き続けろ。われわれが良しと言うまでやり遂げたら、赦免してやろう」と告げると、囚人は歓喜した。
「では魔力を充填します……頭の中で三十まで数えたら歩いてください」
ケビン・クセノンが蝋管に手をかざして魔力を充填した。音楽研究室の時とはうって変わり全力を出しているらしく、ほとばしる紫のオーラは秒を追うごとに色濃く蝋管を覆っていった。囚人が歩き出す直前にケビンは手を下ろし、駆動力を得た蝋管がじわじわと回転をはじめた。
囚人の足が水に浸かった辺りで、洞穴の奥からセイレーンが姿を現した。例によって金銀の宝飾品を全身に巻きつけているが、かえって醜さが際立っていた。魔術師は率直に感想を述べた。
「あれが……セイレーンですか。なんと醜悪な……」
間近で姿を目の当たりにした囚人も同様の感想を抱いたのか、はたと足取りが止まった。しかしすぐに指示を思い出したのか、あるいは危険はないとたかをくくったのか、再び囚人は歩きだした。間もなく遠目に見ても判るほどにセイレーンの口が開き、そして……。
離れていても悲鳴の圧力が板金鎧に叩きつけられるのを感じた。鎧を着ていないケビンは遠くの馬車の陰に隠れてやり過ごした。劇的な十数秒が過ぎ去った後、洞穴の方に顔を向けると、歪んで潰れた鎧とばらばらに破壊された〈フォノグラフ〉がそれぞれ水たまりに浮かんでいる様子が見えた。鎧はまるで中身を失ったかのように突っ伏し、ぴくりとも動かない。
「あー、失敗ですね。やはり近づきすぎると〈フォノグラフ〉ごと壊されてしまうみたいです。次、行きましょう。今度は距離をとって」
馬車の陰から戻ってきたケビンが飄々と言った。馬車には〈フォノグラフ〉の部品が複数積まれている。下準備に丸一ヶ月も費やしたのはこのためだった。ウィリアムは、事情を悟って抵抗する囚人に剣を突きつけて無理やり引きずり下ろした。
『TEST1:被験者Aを至近距離に接近させる……失敗。〈フォノグラフ〉が破損。被験者Aは即死。
TEST2:被験者Bを距離Zまで接近させる……失敗。被験者が悲鳴に耐えきれず遁走。〈ロイヤルガード〉が被験者を処分。〈フォノグラフ〉は処分の過程で破損。
TEST3:被験者Cを距離Yまで接近させる……失敗。被験者は健在。ただし〈フォノグラフ〉が働かず。
TEST4:被験者Cを距離Y’まで接近させる……失敗。TEST2と同様……』
宮廷魔術師が羊皮紙に細々と刻みつけた走り書きはウィリアムを焦らせた。檻の中の囚人はあと一人を残すのみとなり、〈フォノグラフ〉も二つ分の部品しかない。境遇を同じくした他の三人が無慈悲に死に追いやられていくのをまざまざと見せつけられたせいか、最後の囚人は正気を失って両手の爪を歯で食いちぎってしまった。目は虚ろで、話しかけてもまともな反応は得られない。数の限られた〈フォノグラフ〉を託すにはとても頼りなかった。
「この様子ではまっすぐ歩くのもままなるまい」
ウィリアムが囚人の病態を見てそう言うと、ケビンは残念そうにため息をついて羊皮紙を巻いた。
「ということは、今回は諦めて撤退ですか」
ウィリアムはしばらく逡巡して、答えた。
「いや」
彼は待機させていた〈ロイヤルガード〉の剣士たちを睨んだ。
「まだこいつらがいる」
突然の指名にあからさまに動揺した仕草で剣士たちは互いに顔を見合わせた。
「いえ、しかし……我ら〈ロイヤルガード〉は陛下の盾ですぞ。こんな作戦で無闇に命を落とすわけには」
「こんな作戦だと?」
一人の剣士の失言を守護隊長は険しく捉えた。そして、突き放すように言った。
「この作戦は、王の勅令だ。たとえ死んでも陛下の誇りとなろう。……いいからやれ」
だが、剣士は引き下がらなかった。
「一旦戻って囚人を訓練させれば――」
ウィリアムはずかずかとその剣士に詰め寄ると、なにも言わず片腕を首に回して締め上げた。安全圏にいると見て兜を脱ぎ去っていた金髪碧眼の彼は、たちまち板金鎧の圧力を首元で受ける羽目となった。純白の肌が徐々に紅く染まっていく。ウィリアムは首を締めながら他の剣士たちに向き直って怒声を飛ばした。「おい、いいか間抜けども。よく聞け」
「洞穴から王都に戻るまでに一週間はかかる。〈フォノグラフ〉の部品を作るのには丸一ヶ月かかった。並行して囚人の訓練をやれたとしても、またここに戻ってくるのに一週間かかる。最短でも仕切り直しに一ヶ月半だ。最短でだぞ。その頃には王都で籠城戦が始まっていてもおかしくない。そうなったらな、我らが偉大なる陛下の代わりにロンメルやミンスターの野郎が実権を握っちまう。おれたちは良くて追放、悪けりゃ死刑だ。王都が陥落してもそれは変わらん。王家直属の護衛を生かしておく敵がどこにいる? つまりな、今ここでセイレーンをぶっ殺して財宝で傭兵を呼ぶか、後で死ぬかなんだよ。だったら、今すぐ死ね」
ウィリアムは締め上げている剣士の無防備な顔面に拳を叩き込んだ。長く高く整った鼻が無残な音をたててひしゃげ、前歯が二本、根元で折れた。剣士の血まみれの口から許しを乞う旨の嗚咽が途切れ途切れに漏れ聞こえてきたが、ウィリアムは無視してもう一発殴りつけた。ようやく気が済んで彼を解放すると、吐き捨てるように言った。
「どいつもこいつもおれそっくりの見た目をしやがって。貴様らがエレクセスと寝ているのを、このおれが知らないとでも思っているのか?」
エレクセス王の愛の誓いは真っ赤な嘘だった。ウィリアムはとっくに気づいていた。知りながら、ずっと黙殺していたのだ。〈ロイヤルガード〉の剣士は、昔のウィリアムに似た容貌の少年が国軍の門を叩くたびに増えていく。万が一、ウィリアムが王の理想の英雄伝を築く途上で命を落としたとしても、他の金髪碧眼の誰かが代わりを果たせるように。二十代のウィリアム、十代のウィリアムを、王が気分次第で味わえるように。
「〈ロイヤルガード〉はおれさえいればいいんだ。貴様ら、さっさと兜をかぶって横一列に進め。おれが〈フォノグラフ〉を背負って後に続く。運が良ければ、死ぬのは一人で済む」
狂気をまとった守護隊長を前に、剣士たちは従う他なかった。飄々とした宮廷魔術師も無言で黄金色の板金鎧に〈フォノグラフ〉を組みつけた。魔力を充填する際の「では三十数えたら……」という単純な指示にも震えを帯びていた。
〈ロイヤルガード〉の剣士たちが等間隔の距離をとって横一列に進軍した。三十数えて、守護隊長も進んだ。彼は背中で鉄針が蝋の表面をなでるのを感じた。先立つ剣士たちが水たまりに足腰を浸らせると、囚人の死体をまさぐっていたセイレーンが顔を上げてぎょろぎょろを左右を睨め回した。そして、じきに標的を見定めると前傾姿勢をとり、口を大きく広げた。対してウィリアムは、狙われた剣士とは正反対の方向に退避する。セイレーンの喉笛がぶくっと膨らんだ辺りで、ウィリアムも他の〈ロイヤルガード〉も兜を両腕で覆った。
直後、セイレーンの呪いの悲鳴が一人の剣士を貫いた。黄金色の板金鎧は戦鎚で打ち据えられたかのように潰れ、崩折れて水たまりに没した。狙われなかった剣士たちは苦痛に耐えながら、あくまで等間隔の歩行を保った。ウィリアムもまた激しい頭痛と出血に抗って直立を維持した。たとえ聴力が一時的に失われていても、背中では〈フォノグラフ〉の鉄針が蝋管に溝を穿っているのが分かった。
永遠にも感じられた呪いの悲鳴が終わると、ややあって魔力を失った蝋管も回転を止めた。ウィリアムは即座に反転してセイレーンから逃げだした。その姿を見て他の〈ロイヤルガード〉も後に続いた。
セイレーンの悲鳴は、蝋管に写し取られた。
「私どもの魔術は大きな力は出せませんが、小さきものを操るのは得意です。お役に立てそうな魔術とは、先ほど申し上げた〈アンプリファイア〉でございます」
昨月、得意げな顔をしてケビン・クセノン宮廷魔術師が紹介したのは、失敗作と言ってのけた魔術の方だった。
「〈フォノグラフ〉ではなく?」
「ええ、〈フォノグラフ〉も重要ですが、肝心要は〈アンプリファイア〉です。われわれの世界では、目に見えないほど小さな小さな妖精がそこらじゅうを飛び回っているのですよ――」
唐突に絵物語のような話を語りだした魔術師だったが、ウィリアムは黙って聞いていた。というのも、ついさっき頭ごなしに否定していた〈フォノグラフ〉の角笛から、自分自身の雄叫びが再演〈プレイ〉されるのを聞いたためである。蝋の表面の溝が、まさしく音の写しだということの動かぬ証拠に他ならなかった。
「魔術は工夫次第でその小さき妖精たちを楽しませることができるのです。あっちへ行かせたり、こっちへ行かせたり、ある妖精と別の妖精を一緒にしたり、離したりしてやると、どういうわけか音が大きくなって出てくる……それが〈アンプリファイア〉の仕組みでございます。もしかすると、音と妖精にはなんらかの繋がりがあるのかもしれません」
輿に乗ったケビンはひと呼吸をおいてさらに話を続けた。
「本題に入りましょう。ある日、いつものように妖精を操って〈アンプリファイア〉を発動させようとしましたら、動く向きをうっかり真逆に教えてしまったのです。これは、確かな感覚でした。しかしながら……楽器を弾いて出た音はいつもとまったく変わりがなかったのです。おかしいと思われませんか。単なる勘違いなのか、はたまた……いずれにしても、さっそく私は音の写しを得るべく〈フォノグラフ〉を使いました。守護隊長殿、それぞれの溝の形はどうなったとお考えになられますか?」
不意に質問されてウィリアムはぎょっとした。蝋の溝が音の写しなら、溝の形が変わるのは音が異なる場合に限るはずだ。
「音が同じなら……溝も変わらないのでは?」
「いえっ! いえっ! それがですよ、違うんです!」
誤答されるのが本望だったと言わんばかりにケビンはぴょんぴょんと跳ねて叫んだ。
「蝋の表面をつぶさに観察しましたら、なんと溝の形がぴったり左右対称だったのです。つまり、言うなれば逆の音だったのですよ。にも拘らず、てんで同じ音にしか聞こえない……。それからというもの、私は色々な音の”逆”を作っては研究を重ねました。〈フォノグラフ〉を二つ並べて、聞き比べをしながらです。そこで、ある発見をいたしました」
魔術にも絵物語にも疎いウィリアムでも話が核心に迫りつつあるのを理解した。
「正しい音と、逆の音を同時に再演〈プレイ〉すると、どちらの音も聴こえなくなるのです」
ウィリアムは崖の外側まで走り込むと、息を切らせて兜を脱ぎ捨てた。馬車で待つケビンに「早く蝋管を……」とだけ言い、取り外された途端に板金鎧も脱ぎ去った。布切れを耳や口に突っ込んで、出血の具合を確かめた。〈ロイヤルガード〉の剣士たちも鎧こそ外しはしなかったものの、耳鳴りや疲労のために馬車に寄りかかったり膝を突いたりしていた。他方、魔術師はすぐ仕事に取り掛かり、セイレーンの悲鳴が写された蝋管を馬車に積んであった〈アンプリファイア〉の部品と組み合わせ、ぶつぶつとなにかを念じながら魔術のオーラを流し込んだ。
――キイイイイイイィィィィィィエエエエエエエエェェェェェッ!!!!!!!
呪いの悲鳴が角笛から再演〈プレイ〉されるやいなや、剣士たちは恐れ慄いて両手を反射的に耳に押し当てた。「声の写しなので呪いはかかっていません」ケビンがそう告げると彼らは動きを止めた。
「これがセイレーンの悲鳴の”逆”ですか?」
ウィリアムは慇懃な態度に戻って訊ねた。
「いかにもそうです。妖精たちを逆に動かしました。この音の写しをセイレーンの悲鳴に被せられれば――完全には一致せずとも――呪いが薄れ、致命傷を負う前に彼女を殺すことができるはずです」
「この取手は?」
完成した即席の魔術道具の木枠には今まではなかった取手が配されていた。見た目は水車を回すクランクに似ている。
「音の写しを得る場合とは異なり、音を打ち消すにはセイレーンが悲鳴を叫ぶまで発動を待たなくてはなりません。事前に魔力で蝋管を回すわけにはいかないのです。したがって、この魔術道具を扱う者自身が頃合いを見計らって蝋管を回さなければいけません」
「ということは、もし頃合いを逸すれば――」
「呪いの悲鳴が直撃して死にます。あるいは鳥の鳴き声のように、セイレーンの悲鳴に大きな違いがあった場合でも」
ウィリアムは魔術道具を凝視した。
他に手はない。
下準備に時間をかけられるのならもっと安全な方法を思いつくかもしれない。だが、戦局がそれを許さない。王の権威、黄金国の戦力、〈ロイヤルガード〉の名声、どれも取りこぼさずに知らしめるには、今日ここでセイレーンの財宝を奪うしかない。
「そして、その奇妙な道具のせいで、また誰かが殺されるのか」
すうっと優雅に空気を切り裂いて、背後から宝石の剣がウィリアム守護隊長の肩口に当てられた。他の〈ロイヤルガード〉も剣を構えているようだった。
「なんの真似だ」
ウィリアムが十分に意図を悟りつつも探りを入れると、剣を突きつけてきた一人がわなわなと震える声で言った。「もうあんたにも王にも付き合ってられないんだよ」ブッと地面に唾を吐く音。発声の不自然さからすると、声の主は折檻で歯を折った相手らしい。「では、どうする? 敵方につくか? 〈ロイヤルガード〉と知れた瞬間に貴様らの首は胴から離れるぞ」彼は平然と挑発した。
「あんたと違って、おれたちはまだ若い。御大層な鎧と剣はさっさと売っぱらって、どこか遠くに逃げる。いっそ海の向こうでもいい。そこで一からやり直すさ。だが、あんたと魔術師には死んでもらう。追手を差し向けられたら敵わないからな。まとめて消えれば、あの愚王はセイレーンに皆殺しにされたとでも早合点してくれるだろう」
剣士の一人がケビンを抑えつけた。小柄で丸腰の宮廷魔術師にもとより抵抗の意思はなく、素直に両手を掲げ「降参、降参です」とわめいた。しかし、別の剣士が厳しい声で「魔術師に油断するな。なにか仕掛けられる前に両腕を切り落としてしまえ」と叫んだ。当の彼は短い悲鳴をあげて「なにもしませんって、なにもしませんよ」と繰り返した。
「貴様ら、英雄伝の類を読まないのか。魔術師は眼力で雷雲を呼び起こす。貴様らは死んだも同然だ」
ウィリアムが挑発を重ねると、とうとう業を煮やした剣士が肩を怒らせてケビンに近づいた。
「では目も潰そう。おれがやってやる」
「ちょっと、なにを言って――」
すかさずウィリアムは横を通り過ぎようとした剣士に突進した。振られた肩口の切先を躱し、押し倒した男の持つ剣を奪い取った。二撃目はかろうじて剣で受け止めた。華麗な回避術に怯んだすきっ歯の剣士に、彼は事ここに至って上官らしい物言いで告げた。「貴様ら、まだ耳が治りきっちゃいないだろう。おれより近くで悲鳴を聞いたからな。だから踏み込みが甘い」受け止めた剣を弾き返すと、片足ですきっ歯の剣士を蹴飛ばした。平衡感覚を失っていた男は、板金鎧の重量も相まって容易く後ろに倒れた。その隙に、よろめきながら立ち上がろうとする一人目の男の首に剣を突き刺した。
入れ替わりにケビンを抑えていた三人目、別の四人目の剣士も襲いかかってきた。背丈の低い方は少年にしか見えなかった。その容貌は、やはり金髪で碧眼だった。ウィリアムは緩い剣筋の上段を難なく躱した直後、すれ違いざまに首筋を一閃した。シューッと血しぶきが噴き出し、少年の剣士は咄嗟に切られた箇所を手で抑えたが、間もなく倒れ込んだ。四人目もさほど手間をかけずに切り伏せた。
「こ、このっ……」
果たして未だ起き上がれないでいるすきっ歯の剣士の喉元に切先が突きつけられた。
「おれはな、愛する男と一緒に綿のベッドで寝ていたいだけなんだよ。それこそ本物の英雄なら非の打ちどころなく成し遂げられたのかもしれんが、生憎おれはこんなやり方しかできない」
「よせ、やめろっ、勘弁してくれ」
すきっ歯の剣士は哀願の眼差しで上官を仰ぎながら、板金鎧の両手で剣身を握った。当然、寝転がった体勢で刺突を留めることは叶わない。叶わないと知って、延命を試みていた。
「貴様は陛下の道楽に付き合わされて死んでいった囚人どもに一度でも同情したか? これっぽっちもしなかっただろう。……おれもだ」
ウィリアムが剣を前に押し出すと、男の両手の力に関係なく切先がめりめりと喉に突き刺さっていった。苦悶に歪んだすきっ歯の口からごぼごぼと血の泡があふれ、柄を握る手が地面を感じる頃には物言わぬ屍と化した。ウィリアムは、あえて宝石の剣で串刺しになった死体を放置した。そして、返り血を浴びた顔でケビンに言った。
「英雄伝を完成させよう。我らが王のために」
ウィリアムは出陣する前に背中に取りつけられた〈フォノグラフ〉のクランクを、後ろ手で回せるか入念に確かめた。動力を得た蝋管が回りはじめると、角笛と連結した特製の兜の穴からセイレーンの悲鳴が聞こえてきた。兜の内側で音が間近に響いて、あたかも空間が悲鳴で満たされたかのようだった。角笛の内部ではすでに目に見えない妖精たちが〈アンプリファイア〉を真逆に発動させている。宮廷魔術師の説明によれば、この音は逆転しているのだ。
ケビン・クセノンが重々しく言った。
「正の音を打ち消すには”逆”の音をしっかり聞いていなくてはなりません。これは呪いから貴殿の身を護る盾だと思ってください」
気づけばセイレーンの洞穴の一帯は屍にまみれていた。前々回の時の死体はとうに骸に変わり果て、前回の死体は腐敗したまま捨て置かれている。今回の死体はまだ鮮血の赤が艶めかしい。ウィリアムは水面をざぶざぶと荒らして屍を貪っているセイレーンに接近した。片手には宝石の剣、もう片手にはクランクを握りしめて。
彼女が生きた人間の気配に勘づいて顔を上げると、おのずとウィリアムのクランクを握る手の力も強まった。〈フォノグラフ〉に影響はないが人体には致命的な距離Y’に到達したのだ。濁った灰色で塗りつぶされた二つの眼がウィリアムを睨めつけ、セイレーンの口がじわじわと開いていった。
いや、まだだ。まだ悲鳴は出ない。
ウィリアムはクランクが軋むほど強く握りしめながらも、決して回転させようとはしなかった。剣豪同士の果たし合いにも似た沈黙が二人を覆いつくしかけたその時、セイレーンの喉笛が膨らむのが見えた。
今だ。
ウィリアムはクランクを力強く回した。ぎりぎりぎりと音を鳴らして鉄針が蝋管の溝に沿い、兜の内側が逆転の悲鳴で満たされる――同時に、セイレーンの呪いの悲鳴がウィリアムに襲いかかった。
悲鳴は、聞こえてこなかった。
ウィリアムの前方には、前傾姿勢で口をあんぐりと開けっぱなしにしているセイレーンがいた。生存本能のすべてが託された左手はクランクを一心不乱に回し続けている。にも拘らず、どちらの音も聞こえない。彼の足が水たまりをかき分ける音だけが、場違いに響いた。
ウィリアムはクランクを回す力を緩めないように気を張って、なおも呪いの悲鳴を絞り出すセイレーンにじりじりと迫った。途中、板金鎧がべきべきと歪んだが彼は構わなかった。距離Y’を越えて距離Zに到達した辺りで、やっと悲鳴は止まった。
剣の間合いにウィリアムが踏み込んだ刹那、宝石の剣を握る右手に力が与えられた。剣の切先は無駄のない動きでセイレーンの喉笛を切り裂いた。直後、彼女のごく短い断末魔が耳に入り込んできた。しかし、もはやそれに呪いはかかっていない。
ウィリアムはすぐに左手を後ろに回して蝋管の位置を元に戻し、速やかに後退した。洞穴の奥から三体目が現れたのだ。やはりセイレーンは群体だった。先の動作を何回、何十回と成功させなければ、金銀財宝にはありつけない。財宝が手に入らなければ、海の向こうの傭兵を呼べず、〈ロイヤルガード〉の地位は失墜する。奇跡が起こり、戦争を和平に持ち込めたとしても二人の側近の権勢が強まり、彼は綿のベッドを失う。戦争に負ければ王も彼も土の中で眠ることになる。彼の脳裏に幾度となく反復された最悪の想定が走馬灯のごとく流れた。
だが、待てよ。
ウィリアムは三体目のセイレーンと相対しつつも、ことのほか冷静に考えを巡らせた。
セイレーンの洞穴に蓄えられている財宝で、どれだけの傭兵を雇えるのだろうか。仮に千人の傭兵を雇えるとして、快進撃を続ける敵国を打ち倒してくれるだろうか。忠義もへったくれもない傭兵風情に、そんな窮状極まる戦争の前線が務まるのだろうか。むしろ裏切られて金銀財宝はもちろん、玉座の間の金の床も根こそぎ奪われるのが関の山ではないのか。
三体目のセイレーンの喉笛を捉えた切先が、ぴたりと止まった。
代わりにウィリアムは彼女の喉を締めるように片手で強く掴んだ。たとえ百の兵を屠る呪いの悲鳴も、喉笛を抑えられたらどうにもならない。
そう、セイレーンの呪いの悲鳴は百の兵をも屠る。
おれたちだけは呪いを防ぐ方法を知っている。
一人の気狂い囚人と、即席の猿ぐつわが嵌った三体のセイレーンを乗せた馬車が王都に凱旋した時、〈ロイヤルガード〉の守護隊長と宮廷魔術師の奇行ぶりは街中に知れ渡った。二人の側近は今が好機と見て守護隊長の免職を王に進言した。エレクセスは本人の釈明を望むとして、玉座の間にウィリアムを呼びつけた。ここからの出来事は四百年の年月を経て編纂された「黄金帝国の栄華と滅亡」に詳しく記されている。
『英雄ウィリアム・ソイルは国軍長ロンメル・トライデインの嫌疑に答えて曰く、 ”国軍長殿、私ごときの剣の腕では、あなたを相手に一分と持ちますまい。ですが、そんな貴殿も百人の兵を前にしては、やはり一分と持ちますまい。しかしセイレーン(脚注:特定危険生物の項にて詳述)の呪いの悲鳴は、百の兵を屠るのに一分と要しませぬ。洞穴には、まだ何体もセイレーンがおります。” 国軍長は言葉を失うばかりであった。(中略)……セイレーンの使役には然るべき管理基準が設けられ、電気の働きを先取りした魔術道具は戦争に革命をもたらした。魔術師ケビン・クセノンの生み出した新規の魔術の数々は、まさにセイレーン戦術の要と言える。以来、黄金国の攻勢は留まるところを知らず、わずか三年で版図を元の領土のみならず大陸全土にまで押し広げた。拡大帝〈エクスパンス〉エレクセス・ゴールデンドロップは、古の英雄伝から着想を得てこれら一連の計画を指導したとされる。……』
戦勝後に黄金国は「帝国令」を発布し、エレクセス・ゴールデンドロップは大陸全土を統べる初の皇帝となった。戦争の過程で南の新領主は妻子、騎士、配下、使用人ともども全身の生皮を剥がされ、亡骸は敵国に送りつけられたと言う。この報復の様式は後に「エレクセス外交」と呼び表される。
国軍長と執政官の職位は地方別に分割され、ロンメルとミンスターはそれぞれそのうちの一人に任じられた。〈ロイヤルガード〉は皇帝を護る唯一の盾となり、救国の英雄ウィリアム・ソイルただ一人がその地位を終生認められた。ケビン・クセノンは魔術の提供と引き換えに無制限の研究費を確約させ、数多の魔術師を従える帝国魔術師に叙任された。
むろん、これらの偉人たちが、帝国の覇道により集められし最高級の綿でできたベッドで寝ていることは、あえて言うまでもない。すべての敵を滅ぼした帝国の夜は静寂に包まれている。
了