はじめに
巨大国家ないしは企業による執拗な管理統制、秩序が過剰に行き届いているがゆえの圧政、支配に慣れきった登場人物たちの狭量、諦観に満ちた思考様式――これらは俗にディストピアSFと呼ばれるジャンルが共通して持つ要素である。天を衝く勢いで異常発達した高層建築群や、都市機能を支える緻密な社会インフラ、高度な科学技術、それらの合間合間に点在する監視装置の存在もまた、ジャンルに馴染み深い象徴として知られている。
だが、SFファンの心を踊らせるこういった数々の設定は一体どこから現れたのだろうか? 多くの人はジョージ・オーウェル著の「1984年」を挙げると思われる。いやいや、オルダス・ハクスリー著の「すばらしい新世界」こそ先達だ、と主張する人もかなりいそうだ。言うまでもなく、どちらもたいへんな名著に違いない。今時分、新しいディストピアSFを読むにしろ書くにしろ、この両者を意識せずに行うのは極めて難しいだろう。え、まだどっちも読んでないって? 僕のブログなんて後回しでいいからさっさと読みたまえ。
……ところが、この二つの歴史的名著にさらなる先駆者が存在していたことはあまり知られていない。1949年に出版された「1984年」よりも、1932年に出版された「すばらしい新世界」よりも早く、本作はなんと1924年に出版されている。エヴゲーニイ・ザミャーチン著の「われら」はまごうことなきディストピアSFの嚆矢なのだ。まだボリシェヴィキの掲げる科学的社会主義の理想が信じられていた時代に――よりにもよってソヴィエトに住まう当事者たる彼が、作品を通じて堂々と専制を批判してみせたのである。
結果、ザミャーチンは当局から睨まれて文壇での地位を失い、失意のなか亡命を余儀なくされたが、その間に西洋社会で出版にこぎつけていた「われら」は人々にまったく斬新な未来予想図を与えていた。それは、人間の知性がもたらす計画性や合理化がかえって人類を家畜同然に貶め、科学技術の際限のない発達が人類の自由と尊厳を奪い尽くすという、当時にしてみればとんでもない逆張りの着想であった。ソ連批判のみならず、近代の西洋知識人の間で幅を利かせていた科学万能主義にも警鐘を鳴らしたこの作風は、たちまち熱心な読者を獲得した。
なにしろ、他ならぬジョージ・オーウェルが「われら」を読んだ上で「1984年」を書いたと自ら語っているほどだ。本作はディストピアSFの原点を知る上では欠かすことのできない小説と言えるだろう。なお、作品の解説は書籍のあとがきにすでに詳しく記されているので、本エントリの内容はあくまで個人的な感想に留める。
あらすじ
舞台は26世紀の未来。人類は〈緑の壁〉で四方を守られた美しいガラスの都市で暮らしていた。構成員に深く敬愛されている〈恩人〉が治めるこの〈単一国〉は、その名の通り、世界で唯一の国家である。数百年前に起こった最終戦争で一切の敵対勢力を滅ぼしたため、他に国家は存在しないとされているのだ。長き戦いの末に誕生した〈単一国〉は管理社会の理想を謳い、都市内の至るところには盗聴器が張り巡らされ、すべての構成員は割り振られた番号で呼ばれている。
〈単一国〉ではどの構成員も同じ時間に起床して、同じ服を着て、同じ食事、同じ咀嚼回数を経て、命じられた仕事を決められた規則に基づいて完遂しなければならない。性交渉にも事前の申請が求められる。自由時間もあるにはあるができることはひどく限られていた。主人公のД-503は宇宙船〈インテグラル〉の造船技師として働く忠実な構成員だったが、ちょっとした思いつきから自由時間を使って日記を書き記すようになる。本作はその日記形式によって進行する。
最初のうち、日記の内容は「管理社会の素晴らしさを理解できないであろう未知の地球外生命体に向けて書く」という体裁で記されている関係上、〈単一国〉や科学技術への無邪気な崇拝で埋め尽くされていたものの、ある時に出会った女性の構成員I-330に感化されて以来、徐々に価値観が変わっていく。
やがてI-330は革命を画策する国家反逆者だと判明するも、Д-503は彼女への恋慕から活動に加わるようになる。しかし最終的に計画は頓挫し、首謀者のI-330および関係者は処刑される。彼は同時期に新開発された「想像力を摘出する脳外科手術」を他の構成員たちと同様に受けさせられ、彼女への愛情や自由につながる思想を完全に失ってしまう。そしてД-503は再び〈単一国〉を崇拝する構成員の一人に立ち戻り、合理性の欠如たる日記もそこで終わる。
本題
さすがに100年近くも前の、それもロシア文学ということも影響してか、文章はやたら回りくどい比喩が多すぎてだいぶ読みづらい。訳者も翻訳作業には相当な苦労を要したらしい。間違いなく気軽な気持ちで読める作品ではない。かくいう僕も読み終えるまでに何ヶ月もかかった。
特に人物の形容表現は難解で「角が下を向いたピンクの三日月の口」とか「暗い窓の向こうで暖炉が赤々と燃えてきた(目つきを表している)」とか「二度カーブした男(背筋の特徴を表している)」といった言い回しが前置きなく繰り返される。一度さらっと読んだくらいでまともな読解に及ぶのはおそらく難しい。
とはいえ、本作(Д-503の日記)は無意味に冗長に書かれているわけではなく、それ自体が当人も自覚していないД-503の創造性を示唆する伏線として機能している。というのも、あらすじで述べた「想像力を摘出する脳外科手術」を受けさせられた後に彼は一回だけ日記の続きを書くのだが、そこにはうってかわって無味乾燥な淡々とした文章しか綴られていないのである。あまつさえ、過去の自分の日記を酷評する始末だ。
つまり、Д-503はI-330の国家転覆に加担する以前の、〈単一国〉に忠実な造船技師であった頃でさえも、ひとたびペンを持てばおのずと創造性を発揮するユニークな人物だったのだと考えられる。もしかすると、他のひとりひとりの構成員たちも一見は管理統制された無個性の集団のようでいて、なにか他の分野では十分に個性的で創造的だったのかもしれない。
これらの描写から僕は、どんなに抑圧的な社会であっても人間からそれらを奪い去ることは容易ではない、という作者の自負心が読み取れるような気がしてならない。反面、容易ではないが人々があまりにも科学技術や社会体制を盲信しすぎれば、究極的にはやはり奪われてしまいかねないとの警鐘も、想像力を摘出された後のシーンによって存分に打ち鳴らされている。
ディストピアSFに典型のプライバシーが損なわれている様子を、美しいガラスの都市景観でもって表現したのは時代柄を感じさせつつも面白く感じた。建築物がガラス製でできているがゆえに、外からも隣室からも自分が家でなにをしているのかほぼ丸見えなのだ……唯一、当局から性交渉の認可を得た場合に限り、自室のブラインドを下ろすことが許されているものの、それさえも同衾の催しを周囲に通知しているのと同義である。
本作から10年近く後に出版された「すばらしい新世界」では薬物による洗脳が、さらに20年近く後の「1984年」ではテレビ装置が、それぞれ国民のプライバシーを侵している。このように、現実の時代が進むにつれてディストピアSFにおける監視体制の描写もより抜け目なく進歩していっているのだが、それでもなお常に衆人環視に晒されるガラス製の住居は、いざ想像してみると決して色褪せない不気味さを湛えている。
一方、ディストピアSFの登場人物たちが自由を求めて闘争していく様に、昔ほど素直な共感が寄せられなくなってきているのも事実だ。なるほど確かにディストピアSFで描かれる管理社会は圧政に他ならない。だが、代わりに餓えない程度には衣食住が保証されていて、就活の手間なく仕事もあてがわれ、とにかく言う通りに従っていればある意味で平穏無事な暮らしが営めるとも換言できる。
自由の旗印の下、生まれつきの能力や環境を元手に競争を強いられ、過程に関わらず自己責任を問われる現代の社会よりは、いっそなにも考えないでも生きていられる管理社会の方がマシだとの言説は、とりわけ近年にはありふれている。あるいは管理社会下での暮らしが相応に苦痛であったとしても、全員が等しく苦しむのならかえって溜飲が下がると考える向きも今時は珍しくない。
本作を読んだジョージ・オーウェルやオルダス・ハクスリーがディストピアSFを広め、後の世代の作家たちがジャンルを育てあげていったように、より新しい書き手が現代社会の要請に応えるディストピアSFを築く時期が来たのかもしれない。しかしそれには物事の開闢を知らなければならず、原点からよく学んでおかないといけない。そうした意味でも「われら」は良き教科書であり、良き古典であると思う。