2022/12/22

論評「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」:映像革命再び

「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」を観た。いつも映画の感想は1ツイート程度で抑えていたが、本作についてはもう少しなにか書けそうな気配があったのでブログ記事に起こすことにした。以降、分野ごとにいくつかの見出しに分けてそれぞれ論じていく。なお、本エントリはネタバレありとなる。各自注意されたし。

CG/VFX

まず着目すべき点は映像の美しさである。先日、前作「アバター」を復習した際も13年の年月を疑う映像美に唸らされたが、本作にとって過去の自分を乗り越えることはあまりにも容易だったらしい。IMAXレーザーで強化された視覚音響効果も相まって、まさしくエンターテイメント作品の新しい頂点を築き上げたように思う。

中でもとりわけ絶賛に値するのは動植物の生々しさだ。昨今のCG技術は背景や建物、戦闘機などを描くぶんには十分な説得力を観客に与えるまでに進歩したが、他方、動植物の再現にはまだ若干の嘘臭さが否めない。しかし本作では異星に棲まう架空の動植物たちが、あたかも本当に実在するかのような迫真のリアリティをもって描写されている。これは後述する物語のテーマを踏まえると、決して成金趣味の過剰投資ではなく必要な努力だと分かる。

特に今回は舞台が森の中から海の上へと移っている。海や水面の動きを自然かつエンターテイメントに適合する形に作り込むのはさぞCGクリエイター泣かせの仕事だったに違いないが、本作の出来栄えを見るに彼らの苦労は大いに報われたことだろう。どれほどの賛辞を尽くしても1フレーム分の映像もろくに伝えきれないのは誠に歯がゆい気持ちである。こればかりはもう映画館に足を運んでもらうしかない。

HFR(ハイフレームレート)

本作の意欲的な取り組みはCGに限らない。かつて様々な作品群が挑戦したHFR(ハイフレームレート)を本作も採用している。通常、秒間約24コマで撮影される映像を2倍の秒間48コマで制作しているのだ。もっとも、これ自体に映像技術的な先進性があるわけではない。過去には秒間60コマの映画や、秒間120コマ制作の映画さえ存在した。

そもそも現行の秒間24コマは「画像が動いている」と人間が最低限認識できる秒間16コマを勘案して、様々な試行錯誤の末に決められた業界基準値ではあったが、科学的な理論というよりは慣習的な側面が大きかった。秒間60コマ(60fps)の3Dゲームに慣れている世代からすれば当然カクついて見える上に、当時ですら被写体の挙動によっては違和感が拭えない問題を抱えていた。

そこで映像技術の発展に合わせて秒間コマ数を順次増やしていく実験が進められたが、これはこれで思うようにはいかなかった。ゲーム業界では諸手を挙げて歓迎されることでも、どういうわけかコマ数が増えた映画は明らかに安っぽく見えてしまうのである。まずは下記の動画を観てほしい。

この映像はHFRを全面採用して制作された映画「ジェミニマン」のアクションシーンだ。主演はアカデミー賞の授賞式で司会者を殴ったウィル・スミス。観る前にプレイヤー右下の歯車アイコンを押して、末尾に「****p60」と記されている画質設定に変更してほしい。そうすると秒間60コマの映像が観られる。

……どうだろうか? 正直言って、馬鹿みたいに滑稽な映像に見えないだろうか? あたかも旅行番組に乱入してきた外タレが突然サバゲーをやりはじめたとでも言わんばかりのチープさ加減だ。予め断っておくが、ウィル・スミスは誰もが知る一流の俳優である。セットや小物、撮影技術については言うまでもない。

つまり、この映像がしょっぱい理由は秒間コマ数が多すぎるという一点に尽きるのだ。「ジェミニマン」は2019年公開の映画だが、同様の実験は「ホビット」(2012年)や「未知との遭遇」(1977年)、「2001年宇宙の旅」(1968年)でも都度実施され、そのどれもが総スカンを食らってきた。

これらの一連の施策は「秒間60コマを越えるとフリッカーやモーションブラーが低減される」などの技術的発見に繋がり、後に他の業界では役立ったものの肝心の映画業界のスタンダードを覆すには至らなかった。こうした歴史的経緯から、ジェームズ・キャメロン監督は前作「アバター」ではHFRを一旦諦めたのだという。

しかし本作ではついにHFR導入に踏み切った。より高度なアクションシーンを実現するには滑らかな映像が必要不可欠との結論に至ったのだろう。だが、秒間60コマ以上ではどうあがいても安っぽくしかならないと考えたのか、「ホビット」を撮ったピーター・ジャクソン監督の前例に倣って秒間48コマが採用されている。ただし、部分的に。全面採用ではなく、動きの速いシーンにのみHFRを適用したのだ。アニメ制作ではコスト節約のために会話シーンの映像を秒間8コマ前後まで削る場合があるが、それの逆を行ったことになる。

実際に映像を観た感想としては――こいつはけっこう意見が別れそうだ、と思った。フレームレートが倍も違えば、どの瞬間に切り替わったのかはさすがにすぐ判ってしまう。判ってしまうということは、今まさに作品世界に没入せんとしている脳裏に、物語とはまったく無関係な雑念が浮かび上がり続けるということだ。しかも割とまめに切り替わるので一度や二度では済まない。もしかすると人によっては不快に感じるかもしれない。

一方、HFRそのものの恩恵は確かに優れたものである。おそらく秒間24コマだったら飛び飛びになって観づらかったであろうシーンが、滑らかに動いているおかげではっきりと目で追える。神経質に作り込まれたCGは秒間48コマの世界でもかろうじて威厳を保っていた。ちょっとでもCGがしょぼかったり、あるいはわずかでもフレームレートが高かったら全部ぶち壊しになっていたかもしれない、極めて絶妙な隙間を貫いている。キャメロン監督と制作スタッフはずいぶんとこの調整にリソースを割いたに違いない。

反面、そのような曲芸的技巧に支えられた画作りと引き換えに、作品世界への没入感は残念ながらやや犠牲になっていると評せざるをえない。これをどう捉えるかは人によるだろう。僕としては秒間48コマを全面採用したバーションも試しに観てみたいと感じた。

ストーリー

前作「アバター」のプロットは白人による世界各地の植民地化、ベトナム戦争での米国の侵略行為などを下敷きにしていると見られる。異星人種ナヴィの文化からはネイティブ・アメリカンをはじめとする土着民族のモチーフを垣間見ることができる。傭兵を従えてやってきた企業が希少鉱石の採掘を目的としている設定も、かつてのゴールドラッシュや東インド会社と重ね合わせているのかもしれない。

本作ではそこからさらに一歩進んで、環境保護、動物愛護的なテーマが中心に描かれている。前回と異なり大軍勢を引き連れてきた地球人、アバターとなって復活した前作の悪役たちを前に主人公は逃げ回ってばかりいたが、最終的にはナヴィと精神的繋がりを持つ海洋生物が囚われた子息とともに痛めつけられるさまに心を揺さぶられ、再び故敵と対決を果たす。

物語冒頭、地球人の追手から逃れるために一族の仲間と袂を分かち、主人公は家族と一緒に遠方の隔絶された諸島へと向かう。そこには海上での暮らしに特化したナヴィたちが住んでおり、主人公一家は彼らに同胞として受け入れてもらうべく海の文化に適応しようと奮闘する。やがて海の生き物たちと融和し、絆を育み、共存するすべを学んでいく。

この動物愛護的なテーマだが、一部の日本人にとってはだいぶ気の乗らない筋書きだと思われる。なにしろその「ナヴィと精神的繋がりを持つ海洋生物」とは姿かたちこそ微妙に違うものの、どこからどう見ても鯨を元にしているのだ。本作の地球人たちは「日浦」と日本語が印字された射出装置を操り、脳髄に蓄えられた不老不死をもたらす成分を目当てに海洋生物を乱獲している。

そう、本作のテーマをぼかさずに言えば、それはすなわち反捕鯨である。本エントリは映画記事なので捕鯨の是非についての見解は控えるが、そもそも前作で「無慈悲に森を燃やし巨木を倒す悪の地球人類」を描いたことを踏まえると、海の舞台でこうしたテーマが扱われるのは半ば必然だったと考えられなくもない。SFと反捕鯨の組み合わせは意外に多い。古くはスタートレックの映画でも取り上げられていた。

そういった政治的ないし社会的なメッセージ部分はひとまず脇に置いて、無害な生き物を私利私欲で殺す悪人をやっつける物語として観れば相当に濃密な作品だったのではないかと思う。主人公と息子、最強の悪役たるクオリッチ大佐とその息子のすれ違いを表し、未熟ながらも旺盛な行動意欲に突き動かされる若い世代と、守るものの多さゆえに足踏みする親の世代の対比をうまく表現している。アクションムービーのみならずファミリームービーと捉えても上出来と言える。

前作に引き続き悪役を張ったクオリッチ大佐のキャラクター像も相変わらず素晴らしい。シンプルな二項対立の物語では悪役がしばしば暴君に堕してしまう傾向が否めないが、本作の大佐は残忍かつ狡猾な強大さを備えつつも、息子の前では多少の手加減を加える人間臭さや、付き従う部下には鷹揚さを示すリーダーシップがしっかりと映し出されている。映像美の権威にみだりに寄りかからず、キャラクターの造形にも手抜かりがないのは率直に好ましい。

主人公の妻、ネイティリのバーサークぶりも見逃せない。前作で獅子奮迅の活躍を見せた彼女はうってかわって本作序盤の襲撃に参加せず、息子の失態を叱責する主人公をむしろ「あなたは父親であって上官じゃないのよ」と嗜めていた。僕はこの時、母親となったことで色々と「落ち着いた」のだろうと早合点してしまった。ところが家族の危機に際して彼女は再び一族の弓を手に取り、悪の地球人を次々と屠る狂戦士と化したのであった。クライマックスでは大佐の息子を人質にとり、子供の解放を要求する鬼気迫った形相をも見せつける。

思えば、キャメロン監督がやたらと戦闘力の高い母親を登場させたがるのは「ターミネーター2」や「エイリアン2」からの伝統芸にして性癖。後者に至っては別の監督(リドリー・スコット)が撮った前作でたまたま運良く生き残ったに過ぎない女性が、一転してエイリアンと死闘を繰り広げる姿を描いている。そんな彼が自前の新作でそのような機会をみすみす逃すわけがなかったのだった。

対して気になった部分はナヴィの現地語と英語の扱いだ。主人公一家が英語を話すのは父親たる主人公自身が英語圏出身の元地球人だからで話が済むし、主人公と暮らす一族が英会話に長けるのも、もともと地球人が懐柔策の一環として英会話学校を設立していたり、今では主人公が族長でもあるため文化的な差し支えがないとの理屈で一応の納得ができる。

しかし、隔絶された諸島の海上に住むナヴィたちがのっけから英語ペラペラなのはてんで説明がつかない。前作の戦争にも参加しなかったほど頑なに交流を避けていたのに、憎むべき敵の言語を積極的に話すなんて意味不明すぎる。主人公は物語冒頭で「ナヴィ語はもはや母国語」と語っており、作中でもナヴィ語と英語の両方が使われている様子から「本当はナヴィ語で話しているけど英訳されている設定」みたいなごまかしは通用しない。

種を明かせば「全編を架空言語で通すと字幕映画に慣れない英語圏の動員数が落ちる」とか「架空言語で長回しの発話訓練を役者全員に課せられない」などが理由だろうが、侵略と植民地化のテーマにおいて言語文化はえてしてセンシティブな文脈を持ちうる。そこを特別な説明もなく軽々とスルーしてのけたのは詰めが甘いと批判せざるをえない。それだけで作品が台無しになりはしないが、いわゆる玉に瑕というやつだ。

前作では植民地戦争、本作では環境保護と動物愛護を中心に扱ったことから、順当に行けば次回作では内戦、紛争、テロリズムあたりをテーマに据える余地が大きいと僕は見ている。アバターシリーズは最大で5部作となる見込みで、すでに3作目が制作中らしい。クオリッチ大佐は息子の手を借りて今回もまたしぶとく生き残った。復讐の過程でナヴィの文化を吸収した彼が次にどう動くか見ものである。

総評

様々な技術的課題を乗り越え、再び映像革命を成し遂げた本作の歴史的意義は計り知れない。前作がそうであったように、本作も今後10年以上に渡って多くの映像クリエイターの目標として君臨し続けるだろう。ジェームズ・キャメロン監督68歳。まだまだその勢いは衰えを知らないようだ。ターミネーター:ニュー・フェイトのことは忘れてやる。

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