僕の知るかぎり本作はウィル・スミスが授賞式で司会者を殴って以来、初めてスクリーンの前に姿を現した作品だ。あの件への賛否はともかく、ひとまず業界追放は免れたようで安心した。僕は「バッドボーイズ」と「メン・イン・ブラック」に端を発する割と熱心なウィル・スミスファンである。あまり挙がらないが「アイ,ロボット」のスプーナー刑事役もなかなか良い味が出ていた。
「幸せのちから」で息子と共演を果たしてからというもの、なにかと自分の子供と出演したがる悪癖がついて回り一時期はだいぶ心配していたが、本作の出来栄えを見るにどうやら杞憂だったらしい。実在の脱走奴隷を演じる大役を彼は見事にこなしてみせた。暴力の代償ゆえアカデミー賞関連行事には10年間出られないが俳優としては今後もきっと安泰だろう。彼に復帰の機会を与えてくれたAppleほか関係各位に感謝したい。
「その鞭と杖が私を力づける」
本作の主人公ピーターはキリスト教を篤く信仰する黒人奴隷だ。奴隷主から日々課せられる重労働や理不尽な仕打ちを、妻子とともに信仰に身を捧げることで耐えてきた。曰く、神は見ている。現在の労苦は試練であり永遠の宿命ではない。いつか必ず良い日が訪れる……そう信じ続けた。
ところがピーターは南軍によって家族から突然引き離されてしまう。連れてこられた先は元の奴隷主よりもさらに過酷な軍の鉄道建設現場だった。作中の時代は南北戦争のまっただ中。少しでも健康を害したり、怪我を負ったりして働けなくなった者は即座に銃殺される。反抗した者は激しい拷問に晒され、やはり殺される。
毎日、南軍の聖職者が聖書を引用して、叫ぶ。それはピーターの信仰とは異なり、神の前の平等は謳わなかった。むしろ奴隷は主人によく仕えるべきだと説いた。南軍は奴隷制度を正当化するための道具としてキリスト教を用いていたのである。そこにはアガペーはひとかけらも存在しなかった。
聖書の解釈を取り巻く争いは現代アメリカ社会にも通じている。聖書はそれを手に取る者の信仰次第では、人権と博愛を尊ぶものにも、迫害と差別を呼ぶものにもなりうる。殊にアメリカ合衆国において厳格なキリスト教徒たちが、しばしば後者に近い姿勢を持つことは誠に遺憾ながら否定できない。
とはいえ聖書が非常に多様な解釈に富む書物である以上、こうした論争は避けがたく人民の前に横たわる。合衆国憲法の礎はキリスト教だが、壊そうと目論むのもまたキリスト教徒なのだ。本作ではこれらの問題提起が南軍の聖職者が掲げる解釈と、ピーターが信じる神意の対比をもって示されているように思う。
「なにか企んでいる二ガーは殺さないと」
本作は極度に退色したモノクロ調で作られている。草葉の緑や血漿の赤など一部の色はかろうじて判別がつくものの、ほとんどの色合いはモノクロ階調の領域に閉じ込められている。これは伝記性を強調する意図がある一方、黒人奴隷の視界に広がる艱難辛苦を表しているようでもある。少々陳腐な見立てが過ぎるかもしれないが、高精細な4KHDRでシャープな画作りをしておきながらなおモノクロ調にこだわった理由は一つだけではないはずだ。
作中序盤、ピーターはエイブラハム・リンカーン率いる北軍が目前に迫っているとの噂を耳にする。なんでもリンカーンの軍隊がいる場所にたどり着いた黒人は自由の身になれると言う。当初は隙を窺っていたピーターだったが、処刑される兆候を感じとった彼は急きょ脱走を敢行する。スコップで白人兵士を殴り殺し、同胞とともに逃げ出したのだ。
後を追うは脱走奴隷狩りを専門とする「ハンター」である。疲労に顔を歪ませながら必死に逃げる奴隷と、冷笑を浮かべながら獲物を抹殺していくハンターたちの様子は、モノクロ調の画面も相まって静かな恐怖を湛えている。本来は豊かな大自然に彩られたアメリカの原風景も、その画作りのためかかえっておどろどろしい。
彼らの脱走を妨げるのは白人ばかりではない。普段は避けて通らない沼地や溜池、水底に潜むワニも機に乗じて容赦なく牙を剥く。ピーターは道中でワニを殺し、樹に登りはちみつの巣をもぎ取って栄養を蓄え、あたかも水中で息継ぎをするかのように逃亡生活を続けていく。すべてが色褪せているスクリーンの中でも彼の奮闘ぶりは手に汗を握らせる。
「パンを与えたら国も奪われる」
中盤に差し掛かると、うってかわって「ハンター」の側の視点が描かれる。今頃もう死んでいると早合点する仕事仲間とは裏腹に、ハンターの一人はワニの死骸や隠れた痕跡を巧みに見つけ出す。夜半、焚き火にあたって休息をとる最中に仲間が叩いた軽口を窘めたのも彼だった。
「無知なのは(黒人ではなく)お前だ」……そのハンターは幼少期に母親を喪い、父親が所有する奴隷の少女に面倒を見てもらっていた。家族同然の親しみを覚えていた彼は、彼女と夕食の席をともにしたいと父に申し出る。父は理由を問いただしながらも彼の心境をはっきりと見抜いていて、こう忠告した――「パンを与えたら、次は仕事を取られ、やがて土地も奪われるんだ」 そして繰り返した。「パンを与えたら、国も奪われる」
彼は恐れをなして、奴隷に時々食事を分けていたことを告白した。そうすると父親はただちに奴隷少女を引っ立て、目の前で彼女を銃殺したのだった。この一連のシーンには彼らが黒人の支配に拘泥する本音が詰まっている。そもそも単に黒人がいけ好かないなら、逃がすままにしておけばよいだけなのだ。黒人とて元は無理やり連れてこられたのだから、わざわざ虐げられる場所に居たりはしない。
にも拘らず、なぜ私人の財産たる奴隷を執拗に追い立てて、殺さなければならないのか? すなわち、それこそが白人たちが黒人を差別しながらも恐れていたことの証拠なのである。たとえよその国、よその土地だとしても、自由にさせていたらいつか力をつけて襲いかかってくるに違いない――そんなパラノイアじみた発想が、おそらくは奴隷制度を維持する動機の一つだったのだろう。
綿花の生産需要は歴史教科書にも記されている根拠だが、法的合意に基づく労使関係の方が効率的なのは当時でも既知の事実だ。いくら単純労働といっても奴隷を使い潰してばかりいたら、最低限の技術継承も行われず生産高は低い位置に留まる。奴隷制度の実施が地場産業の要請にのみ基づいていたとは僕は思わない。理屈抜きでも、白人は黒人を支配したかったのだ。
「完全な自由とは言えない」
ピーターは追手のハンターたちと果敢に戦うも最終的には追い詰められてしまう。拳銃を突きつけ、膝をつくピーターを前にした最後のハンターは、あえてすぐには引き金を引かない。胸ポケットから干し肉を取り出すと、こう言った。「ほらエサだ。 ねだれ。俺が神だと言っただろ」 しかしピーターは死に瀕してなお眼前の男を睨み続けた。
運命の瞬間、鳴り響いた銃声とともに崩折れたのはピーターではなくハンターだった。息も絶え絶えにもたれこんできたハンターに彼は告げた。「お前は俺の神ではない」 ……どうやらピーターはからくも北軍の進軍先にたどり着いていたらしい。まもなく立派な軍服に身を包んだ黒人兵士たちが姿を現した。「われわれはルイジアナ郷土防衛隊である」
こうしてピーターは北軍の一員に加わった。北軍では黒人も軍服とライフル銃を手渡されて戦っている。読み書きも許可され、恩給も得られる。だが、彼は見抜いていた。許可が必要ならまだ完全な自由ではないと。北軍が黒人を一人前に遇するのも、本気で対等だと信じてのことではない。あくまで人手を有効活用したいがためだ。
他方、それでもピーターには使命があった。妻子のもとに戻らなければならない。もし妻子と再開できて、かつ奴隷主からも解放させられるならもっと望ましい。その意味で北軍と彼の意向は一致していた。これに乗らない手はない……ところが、戦場の光景は凄惨を極めていた。
映画「ハリエット」などが好例だが、この時代の黒人奴隷を描く作品で戦争描写そのものまで踏み込む作品は多くない。大抵は黒人奴隷が解放されるまでの過程を詳細に映し、戦争についてはエピローグで補完される場合がほとんどだ。ハリエット・タブマンも奴隷解放者としての描写が主で、北軍の黒人女性指揮官としての姿はさほど描かれていない。
対して本作は黒人の兵士たちが、解放されて間もない元奴隷たちが、すぐさま砲弾や銃撃の餌食となって朽ちていくさまを圧巻の映像で映し出している。これほどの命を燃やさなければ自由は得られないのか。ここまでしてもついぞ自由を得られぬまま屍と化す者たちがいるのか。
現代のわれわれが空気のごとく享受している自由は、この時代のこの場所では何百挺のライフル銃よりも大砲よりも、夥しい数の死体よりも重いのだ。激戦の末、生き残ったピーターは無事に妻子と再開を果たす。彼と家族は神に感謝を捧げた。奴隷主は北軍によって処刑され、物語は幕を閉じる。
しかしながら、合衆国に住まうすべての黒人が完全な自由を勝ち取ったのは作中の時代からおよそ100年後、1965年のことである。そして未だ完全な平等にはほど遠い。
総評
本作は南北戦争時代の奴隷を描くというややありふれたプロットを採用しつつも、一風変わったモノクロ調の画作りと、相反する高画素な映像がある種の特別な映像体験をもたらしてくれた。それは不気味なようでいて美しくもあり、野卑で酷薄なようでもあるが気品と風格にも満ちている。
ストーリー部分に関しても伝記映画につきまといがちな淡白さをうまく退け、ウィル・スミスの魅力を活かしたヒロイックな英雄譚に仕立てられているように思う。実在の人物に脚色を加えるのは賛否がありそうだが、僕個人の見立てでは伝記映画の体裁を崩さない水準を保っていると感じた。
現代アメリカ社会にも通ずる宗教解釈の問題、人種差別の根底に潜む恐怖心の表れ、自由を求めて戦う者たちの勇姿と犠牲、戦場のダイナミックな躍動感と悲壮感、いずれもよく作り込まれており、伝記映画としてはもちろんエンターテイメント作品としても傑作の名にふさわしいと言える。