あまり記憶には残っていないけど、私は幼い頃に一度死にかけたらしい。なにかに気を取られやすい質だった私はその時、するっとママの手をすり抜けて車道に飛び出した。いくらなんでも車が危ないってことは当時の私にも解っていたはずなのに、今となってはそんなに気になったものがなんなのかも分からない。
次の瞬間、横からすごい力で吹き飛ばされて、すぐに目の前が真っ暗になって、目が覚めたら真っ白な部屋のベッドで寝ていた。パパとママと知らない人たちが周りにたくさんいて、目が合った途端に抱きしめられた。癇癪を起こした私よりも大きな声で泣き叫ぶ二人の姿はよく憶えていて、それが数少ない残っている方の記憶だった。
「じゃあ、これは?」
「りんご」
「よくできました。じゃあ、これは?」
「バナナ……でも、色が変だね」
「そう、そう。これはまだ赤ちゃんのバナナなの」
「私もあかちゃんって呼ばれる。あかりだから」
起きてからしばらくは、笑顔が得意な大人の女の人と一緒にいた。彼女がシート端末をこちらに向けて、指先で押すと絵が表示される。私はそれがなんなのか当てなければいけないようだった。結果的に一度も外した覚えはない。分からなくても女の人がヒントをくれたからだ。そんな療養生活を繰り返しているうちにパパとママが迎えにきて、私は家に帰った。家に帰ると、いつもと同じ部屋にいつもと同じおもちゃがあって、とても安心できた。
しかし、まもなくして私の後遺症ははっきりと露見するところとなった。
<まずい>
おやつの時間にりんごを食べていると突然、声がした。
驚いて左右をきょろきょろしても、誰もいない。後ろを見渡してもいない。
気を取り直して食べかけのりんごに取りかかると、そこでまた声がした。
<まずいから、食べないで>
びくっとしてりんごを取り落したが、大好きなりんごをけなされた怒りの方が上回って私は大声をあげた。
「まずくないもん! りんごおいしいでしょ!」
前触れなく虚空に向かって怒鳴りだした娘に驚いたのはもちろんパパとママだ。二人ともめいめいにすっ飛んできて、どうしたのかと尋ねた。
「りんごまずいって言うの」
「りんご、もういらないのね?」
私の抗弁を曲解したママがりんごの載った皿を下げようとすると、私は必死の形相で皿を手元に引き寄せた。
「りんごはおいしいよ! でもまずいって言う子がいるの」
私はどこともつかない空中を睨みつけた。二人は、いよいよ困惑した様子だった。
「たまに声が聞こえるの。りんごまずいって言うから、私はこの子きらい」
「へえ……その子は、どんな見た目をしているのかな?」
「目には見えたことない。頭の中で聞こえるだけ。たぶん、女の子だと思う」
「女の子……それは、声で分かるのかい?」
「うん」
大慌てだった両親と違って、クリニックの先生は落ち着いていた。時々、私の話す内容を手元のシート端末に記録しながら、私の頭の中に住む妖精の輪郭を掴もうとしていた。
「名前はあるのかな?」
さっそく頭の中に訊いてみた。初対面から病院に向かう間に私はすっかり理解した。彼女は空中ではなく頭の中にいて、彼女がそうであるように私も頭の中で話さないと答えられないことを。私の声は反響して変なふうに聞こえるらしい。
<あなたのお名前は?>
<わたしの名前はまだないよ。付けてもらう前に捨てられちゃった>
「ないって」
明らかに重要な経緯を私は意図したのかしないのか、大幅に省略して先生に伝えた。先生は「あかりちゃんがなにか名前を付けてあげるといいよ」とにこやかに教えてくれた。家に帰った私は家族共用のシート端末に向かって話しかけて、自分と似た意味を持つ言葉を彼女に与えた。自分とそっくりになれたら、りんごも好きになると思ったから。
<るくすちゃん>
<るくす……? それ、わたしの名前?>
<そう。嫌なら、りんごちゃんって呼ぶ>
<じゃあ、るくすでいい>
以降、私は自分で言うのもなんだけど明確に平凡な少女として人生を歩んできたつもりだ。特別に優秀でも落第生でもなく、人並みに趣味があったりなかったり、流行を追いかけたり嘲ってみたり。パパとママと毎月通うクリニックの先生はそういった日常の話をすごく詳しく知りたがった。対して私は、平凡なりに成長した代償としてだんだん自分の話をしたくなくなった。二人と先生の話しぶりで、るくすをどうやらイマジナリーフレンドの一種だと想定していることも判ってきた。
当然、私も頭の中の妖精を誰かに認めてもらうのは難しいと徐々に学んだ。高学年に差し掛かったあたりで周りからの「イタい子」認定を払拭すべく、イマジナリーフレンドの”設定”を封印した。そんな感じで、ようやく私が彼女との世界と外界での振る舞いを区分できるようになった頃、パパとママに大切な話を持ちかけられた。二人はやけに姿勢正しく椅子に座って待っていて、表情を固く引き締めていた。そして、家族共用ではない別のシート端末を持ち出して、私の頭が本当はどうなっているのか告知した。
要するに、私の頭の中には脳みそがまったく入っていないということだった。
例の事故の後、私の体は無事でも頭の方はどうもだめだったみたいで、その日のうちになんとかしないと助からなかった。幸いにも二人は家族保険をかけていて、それの特約には実験的先進医療の優先対象権、なんてものが含まれていた。もっと運の良いことに、そんな先進医療の用意が当日中に手配できてしまった。二人はおびただしい量の免責事項を読まされ、何度も生体認証をして、ついに私の頭蓋骨から役に立たなくなった脳みそをかきだす法的許可を下したのだった。
かきだす前に脳みそからコピーされた私の精神は縦横五センチにも満たない正六角形の量子チップに収められて、今では頭蓋骨の底面に建設された台座にちょこんと載っている。
こんな話をいきなり聞かされて、私は思わず自分の頭をごつんと叩いた。
叩くこぶしの感触が、まさしく空洞を打っている感じがした。私ってどんなに頑張っても全然普通じゃないんだ。
るくすが頭の中でくすくすと笑ったので、もう一度叩いた。
午前七時三十三分。絶望の起床。なぜ絶望かというと私はモーニングルーティーンに通常三十分ほど要し、なんらかの工夫を経て短縮できたとしても午前八時の登校に間に合うためには走っていかなければならないからだ。「なんらかの工夫」の内訳には朝食の放棄も含まれるかもしれない。それは困る。私は跳ね起きてリビングに向かった。そこではもう、パパが立って待っていてむっつりとしていた。
「パンが冷めるじゃないか」
「冷えてても美味しいよ」
ばつの悪さから顔を伏せぎみに両面焼きのサンドイッチと、プチトマトと、マヨネーズのかかったブロッコリーの群体を口に放り込んで三分で食事を済ませ、洗面台に向かった。見たところ、ママはすでに出勤したようだった。歯を磨き、顔を洗い、カラスみたいな色の髪をとかし、着替えを済ませた頃には残された時間はほとんどなかった。部屋に戻って机に置きっぱなしだった学習用シート端末をむんずと掴み――ぐにゃりと曲がったので取り落しかけた――を鞄に入れ、洗面台の横に置きっぱなしだったポーチを鞄に入れ、再び部屋に戻って、現代文明の利器たるウォッチも改めて腕にあてがった。今朝、アラームが鳴らなかったのはウォッチがバッテリー切れを起こしていたせいだが、充電は二分で完了した。口数少なめに家を飛び出した私に、パパは特に追及を仕掛けてこなかった。”イマジナリーフレンド”の話も、もうずいぶん長くしていない。
我が家は第二川口駅から徒歩で約二十分離れたマンションの三十七階にある。学校は駅のやや手前だ。理論上は全力で走れば間に合わなくもない。ところがマンションを上下に行き交う二基のエレベータが三十七階でぴたりと止まってくれる保証はない。地表から気だるそうに上がってくるエレベータがのろのろと通り過ぎて五十階で止まり、数階下りるごとに鈍牛が草を喰む遅さで住民を取り込んで、私のわずかな猶予を消耗せしめる恐れは十分に考えられる。しかし歩きで階段を下りるつもりは毛頭なかった。案の定、エレベータの階数表示が「37」を明滅させて「38」に移り変わっても、私はかえって床に根を張ったように仁王立ちとなり、階数表示がそれ以上進まないことを願った。
果たして願いは聞き届けられ、三十八階で住民を降ろしたエレベータは三十七階に舞い戻り、私を地上へと運んだ。開きかけのドアを体でこじあけるようにして突破した後は、ひたすらがむしゃらに走った。今年度の流行色に決まったライトピンクが早くもありとあらゆる高層建築物の壁面にマッピングされている一方、昨年度の流行色であるスカイブルーも負けじと街頭のあちこちで存在感を放っている。中低層の建物にはトレンドを無視したカラーリングもちらほら見られるものの、全力疾走中の私にはすべての配色が混ざりあって映った。
中学校からは通信制を選ぶ子の方がはるかに多いのに『生身のコミュニケーション』とやらの謳い文句に惹きつけられて通学制を選んだパパとママを私は恨む。たまたま圏内に通学制中学校を置いた埼玉県第二川口市を恨む。でも、もっとも恨めしいのは朝早く起きる苦労をさして考慮せずに安請け合いした十二歳の時の私だ。仲の良い子が行くと言ってたからなんとかなると思っていたのだ。
学校の正門に走り込んだ瞬間、鞄に入った学生証がセンサに読み取られて登校情報が記録される。ウォッチを見るのも億劫な私は頭の中に呼びかけた。
<るくす、いま何時何分?>
<じぇー、えす、てぃー、ごぜん、はちじ、いっぷんでーす>
とてつもなく間延びした嫌味っぽい、幼い声色が反響して返ってきた。
<えっ、一分?>
<センサが時刻同期してないといいね。一分くらいならずれてるかも>
そんなわけない。私は汗のにじんだ額をハンカチで拭って、とぼとぼと歩きはじめた。どのみち電子情報的に遅刻決定なら今さら走ろうと走るまいと変わらない。カラーマネジメントの概念を持たない公共建築物たる校舎の、陽光に照らされてますます高慢ちきに光る純白の壁面を睨みつけた。
「おっす」
背後からよく通る低い声が聞こえてばっと振り返った。背が高く、茶色の短髪がふさふさしていて、ほんの少し長い眉毛が特徴的な男子生徒がスポーツバッグを肩に回して近づいてきた。
「瀬川も遅刻?」
彼は自分のウォッチを傾けた。小さく空間投影されたホーム画面に現在時刻が表示されている。今や八時をゆうに三分は過ぎていた。
「あっ、うん、一分遅刻した」
開口一番の裏返った発声を修正するのに苦労したが、当の彼は気に留めていない様子で共感の苦笑を作り「うそっ、惜しいな。でも回数溜まってないだろ。俺はさ、だめかもしんない」と肩を落とした。「もう五回溜まっちゃったの?」自分でも驚くほど高い声が出た。
「いかにも、だ。さあて今回はボランティアの穴埋め要員か、はたまた手動清掃か……」
運動部ならではの健脚ですたすたと先に進む彼の足どりは、私の返答のスピードよりもずっと速かった。
「あ、雄也……くん」
顔を上げた頃には、もう声の届かない場所まで遠のいていた。
<あかりの男の趣味ってさ、なんかふつーだよね>
るくすの無粋なつっこみに頭の中で声を荒らげた。
<うるさい。普通でいいじゃん>
<いやいや競争率を考えようよ。どう考えたって百人いたら九十八人はうっかり好きになっちゃうでしょ、彼>
<だからなんなの>
<そのうちの選ばれし一人になりたかったら、そんなふうにごにょごにょやってる場合じゃなくない?>
正論だ。でも手足も顔も持ってないやつに言われるのは心外すぎる。
<じゃあ、るくすはあえて誰も好きにならなさそうな男子を好きになるってこと?>
<男子じゃなくても構わないけどねわたしは。そうすれば、チャンス二倍>
馬鹿にした笑い声のこだまする頭をぽかぽかと叩きながら私は校舎に入っていった。
調べた情報によると、私の精神が収まっている量子チップはそれはもう大層な代物らしい。そんじょそこらのスパコンでは太刀打ちできない圧倒的な演算性能を持っており、外装には人体適合性に配慮した特殊な素材があしらわれている。人間の脳みそに代替されるという究極の使命を担う都合上、オーバースペックで困る余地はどこにもない。生体電気のみ、かつノーメンテナンスで百年の寿命を誇るとも書かれていた。おかげさまで脳挫傷、脳腫瘍、脳梗塞などの脳疾患とも無縁だ。中学生の私にはピンと来ないけれど。
にも拘らず、だ。
そんな人類最高の科学の結晶が私の精神を支えているというのに、どういうわけか私は中学レベルの数学を満足に解けない。エックスだとかワイだとか手に負えないし、放物線なんて見た暁には眠たくなってくる。明らかに、強力な催眠効果があると思う。では、量子チップに住まう同居人の方はどうかと言えば――
<いや全然普通にわたしも解らない。そもそもあかりが授業を受けている間は基本、寝てるし>
――この有様である。
私が理数系に弱いという事実について、クリニックの先生の答えは無慈悲だった。
「量子チップはあかりちゃんの精神を維持するために存在しているんだ。そういうズルはできないようになっているんだよ」
しかし結論から言うと、これは半分嘘だと判っている。量子チップにはウォッチと同様に色々できる機能が搭載されている。でも、操作する方法が見つかっていない。映画さながらに視界に情報が表示されてどうのこうの……みたいなのは、生身の人間の都合を無視しすぎているらしい。脳波も眼球も、指先ほど正確には動かせない。鼻血を吹き出す勢いで念じてもなにも起こらない一方、なんでもない時に視界いっぱいにウェブページが表示されたりする。そういう技術的問題をメーカーは解決できなかったために、これらの機能は一律に無効化されている。この手の学術情報は絨毯爆撃にも等しい未成年者フィルタリングの影響を受けないおかげで調べ放題だった。
もし、開発がうまくいっていたら全教科満点間違いなしだったのに。
代わりに付属してきたのは同時期に量子チップ治療を受けたものの、自分自身の肉体に拒絶されて行き場を失ったるくすだった。
一分一秒を争う移植手術の渦中で、おそらく技術職員は量子チップの初期化を入念に行わなかったのだろう。さすが人類最高の演算装置なだけあって、二人分の精神をも見事に収めてしまった。誰もがイマジナリーフレンドと決めつけたるくすの存在を、私はそのように解釈して受け入れた。「ユーザ領域が消される寸前にアプリケーション領域に逃げて、次はシステム領域に逃げて、ぐるぐる回ったんだよ」とは本人の言である。これが全部ひっくるめて前学年の情報Ⅱの期末テストで赤点をとった私の妄想なら逆に大したものだ。
<ねえ、アプリケーション領域とやらに移動できるなら、関数電卓とか起動してくれない?>
<……もうどこにも移動できないよ。わたしは使われていないテンポラリーパーティションの空き領域にいるんだ。そうじゃなかったら、あかりがいるユーザ領域に自分を上書きして、乗っ取れちゃうかも>
わけのわからない話をされて完全に集中力が削がれてしまった。学習用シート端末とペンを模した入力デバイスをうっちゃり、私は小テストの残りの時間を無で過ごすことに決めた。
<パパとママに成績を知られた時だけ上書きしてくれない?>
<上書きされたら元に戻るわけないじゃん>
中休みに入り、私はいよいよ暇を持て余した。こういう時こそ駄弁り相手になってくれそうなるくすは授業の途中から昼寝を決め込んでいる。肉体を持たなくても睡眠が必要なのはいつ考えても納得できそうにないが、現に一度寝入ったるくすを起こすのは容易ではない――昔、無理やり起こそうと頭の中で叫び続けたら喧嘩になった――ので、そういうものだと納得せざるをえなかった。とはいえ、新学年になって日が浅く、クラス替えも行われた現状で話しかけられる他の相手なんていない。
いや、いた。くせっ毛が強い、猫背の男子生徒の後頭部を目ざとく捉えた私は、つかつかと近寄っていってくねくねの頭に平手打ちを入れた。
「いたっ……あれ、誰かと思えばあかちゃんさんじゃないですか。なんでいきなり僕の頭を叩くんです?」
「そういう呼び方をいつまでもするからかな」
東洋系の顔つきが際立つ色白で細身の彼は沼地と言う。やや難解な発音の下の名前は使わず、私はただ「沼」と呼んでいる。いつもへらへらしながら変な口調でしゃべるせいでろくに友達がいない。まあ、小学生からの付き合いなので私は友達に加えてやらんでもない。
「千草は?」
小学生からの付き合いがある友達はもう一人いる。千草は本当に本当の友達だ。私が「イタい子」認定を受けていた時にも決してそばを離れず、ふんふんと”イマジナリーフレンド”の話を聴いてくれた。そして、私がその話をしなくなると彼女もぱったりと持ち出さなくなった。優しくて、要領も良くて、とにかく人間ができている。「イタい子」の私とつるんでいてなお揺るぎない広範な交友関係を築いているのがその証左だ。
「ちーちゃんさんはまあ、今はそうっとしておいた方が、いいのではないでしょうか」
沼の口元がひくひくと揺れ動いた。
「どうも人間関係に困ってるみたいで、僕も話を聞いたのですが」
「千草から? 沼が?」
私を差し置いて? っていうかそれ、いつの話?
「いや、僕が話を聞くのがいささかおかしいのは、重々承知なのですが」
ちらっと周囲を気にするそぶりを見せてから、沼はやたらとごつごつした大ぶりのウォッチをそっと傾けた。ぱっと表示された空間投影ディスプレイは、私のものよりもずいぶんときれいな感じがする。彼は細い指先を気色悪く巧みに動かしてすぐに目当ての画面を引っ張ってきた。そこには、学内チャットのコピーと見られる文面が大量に映っていた。
「これが三日前に送られてきているんですよ。それで僕、情報、得意なんで、誰がやったかこっそり調べてもらえないか、とまあ、そういうあれです」
件のメッセージには単純で幼稚な罵詈雑言はもちろん、かなり具体的な言及も並んでいた。見たところ、どうやらそれらはだいぶ的を射ている。確かに千草は母子家庭だし、あまり経済的に豊かではない。彼女の人間スペックを鑑みるとこんなの気にしなくても良さそうだが、うっとうしいくらい両親に見守られて脳みそまで取り替えてもらった私に言えることじゃない。
「で、分かるの? これクラスメイトの誰かがやったんだよね?」
メッセージの送り主の名前は無意味な英数字の羅列で構成されていた。捨てアカウントを取得するのはどこの誰にでもできるが、学内チャットに接続できるのは生徒と先生だけだ。
「端的に言うと無理ですね。このチャットシステムはご存知の通り民間企業のものですが、学校側で登録した端末のみを認証したり監視するためにすべての通信は一旦学校のサーバを経由します」
「私、情報二十点だったんだけど?」
「学内チャットの通信内容は学校に把握されています」
「……なるほど?」
「で、無理と申し上げたのは、発信元を特定するにはサーバへの侵入が必要で、つまり犯罪だからですね。放っておいても先生方がやってくれるでしょう。……犯人が誰か教えてくれるとは限りませんが」
「なんで無理なのに引き受けたの?」
沼は投影ディスプレイを閉じた。
「こういうのって段階が大切だと思うんですよ。できないって言うのもあれだし、先生に任せろ、なんて言うのも突き放してるみたいじゃないですか」
「……へえ。やるじゃん、沼のくせに」
「そりゃあ、まあ。あかちゃんさんが昔ハブられてた時だってちゃんとお助けしましたよね?」
「あんたもめちゃくちゃハブられてたから話し相手がいなかっただけでしょ……」
私は沼の無駄口にこれ以上付き合うのをやめて千草の行方を探すことにした。小テストの時点では出席していたから、校舎のどこかにはいるはずだ。くるんと踵を返して数歩歩いてから、ちょっと気になって振り返った。
「沼、さっきの小テスト、できた?」
彼は粘着質な笑みを口元いっぱいに広げて言った。
「僕、理数系のテストで満点以外とったことないですよ」
くねくねの頭に平手打ちをかましてから、私は教室の外に出た。
落ち込んでいるのなら静かな場所にいるはずだ。図書室……いない、自習室……いない、第二自習室……いない、女子トイレ……いない。通信制学校が主流になる以前から建っているこの校舎は生徒数の割に教室の数がとても多い。名もなき空き教室が、校内のそこかしこに点在している。人通りのない薄暗い廊下は異様な静けさも相まって心細い。しかし、いい感じに廊下を折り返してきたおそうじロボットが先行してくれたおかげで、私は俄然心強さを得て後についていった。むーんむーんと経年劣化を感じさせるモーター音に助けられながら、ガラス戸ごしに左右の空き教室を覗いた。手も足もない無骨な見た目だけどもロボットには親近感が湧く。血肉の通った人体に収まっていないというだけで、半導体の中でものを考えている部分では私とおんなじだ。
真ん中に差し掛かったあたりで、肩までかかる栗色の髪の毛をした子が教室の中にいるのが見えた。見間違えようもなく千草だ。勢い、教室の引き戸に手をかけると自分よりもはるかに強い力で先に開けられた。目の前に立っていたのは千草ではなく、雄也君だった。唐突な再会に私は息を呑んだ。
「あれ、瀬川じゃん。なんでここにいんの?」
心なしか、彼の声はいつもより低く聞こえた。誰もいないと思っていたのはたぶんお互い様だ。きっと不審に思っているのだろう。声も出ないままあやふやな視線を雄也君の脇の隙間に通して、教室の奥に佇む千草と目を合わせた。千草は控えめな仕草で笑ってちょこちょこと手を振った。雄也君もそれに気がついたのか、振り返って千草を見てから、また私に向き直った。
「ああ、なるほどね。杉浦と仲が良いんだっけ……ならちょうどよかったな」
雄也君は開ききっていない引き戸に腕を伸ばして全開にした。そのまま引き戸に体の重心を預けて、あたかも通せんぼするような姿勢になって言った。
「俺らクラス替えしたばっかでよく知らないじゃん、お互いのこと」
「え? う、うん。そうだね……」
「だから男のメンツは俺が揃えて、杉浦には女の子を集めてもらって、一緒にカラオケでも行かないかって話をしてたんだ。今日はどこも部活ないしさ」
「へ、へえ……」
「で、瀬川どう?」
よく知らないクラスメイト同士を集めてカラオケとは相当な不安も感じられるが同時に渡りの船でもある。三年生に上がってはや二週間。未だにるくすと千草と沼以外の話し相手がいないのは私だけかもしれない。雄也君みたいに気さくに話しかけてくれる人って、そうそういるもんでもない。ましてやその当人が直接誘ってくれているのだ。
「い、行く! 行く行く!」
「お? おう、めちゃくちゃ乗り気じゃんか。じゃ、今日の授業が終わったら校門前に集合な」
反射的に大音声をあげた失態を自覚する間もなく、雄也君は長身に見合わぬ身のこなしで私の横をひょいと通り過ぎていった。地肌に吹きつけられているのであろう制汗剤の爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「あかちゃん? どうしたの?」
「あ、千草……そうだ。話があるんだ」
事情を問いただすまでもなく、いつもふわふわした彼女の雰囲気に翳りが差しているのが判った。私は沼から聞いた話を簡略して伝えた。たとえば、沼が犯人探しを諦めている件は黙っておいた。
「私、上手にお付き合いできてるつもりだったんだけどな……」
窓ガラス越しに外を眺めながら、ぽつりと千草が言った。
「どんな人にもケチをつけるやつっているよ」
テンプレ回答にもほどがある励ましの言葉を、彼女はふるふると首を振って迂遠に退けた。
「ううん、あのメッセージ、自分でも当たってるんじゃないかなあ、って思うんだ」
「そんな……」
悪口なんて数打てば誰にだって当たるものだ、というテンプレ回答その二が口を衝いて出かかったが懸命に引っ込めた。どうあがいてもこんな語彙力では彼女を慰められそうにない。そんなことない、とか気にする必要ない、といった粗末なテンプレートの泡が次々と頭に浮かんでは消えた。人類最高の科学力で作られた量子チップも、私の精神が宿っていたら所詮はこのざまである。ボットの方がよっぽど気の利いた返答を思いつきそうだ。
重苦しい無言の間を破って千草がふと口を開いた。
「そういえばあかちゃん、あの子の話してくれなくなったね」
「あの子――あー、まあ、うん」
「……カラオケ、せっかく諸星君が誘ってくれたし行かなくっちゃね」
終始、微笑みを絶やさない柔らかい口調を保ってはいたものの、ついに曇りは晴れないまま彼女は教室を出ていこうとした。いつになく話題の振り方がおかしい千草に慣れず、私はただ無力に後を追うばかりだった。
<面倒くさい子>
幼い声が鋭く頭蓋を突き刺した。
<るくす、いつから起きてたの?>
<んー、沼とウォッチを見るあたりから?>
<なんでなにも言わないの?>
<いま言ったよ。それがわたしのお気持ち>
るくすが千草を嫌っているのは今に始まったことではない。小学生の頃から彼女と話すたび<この子嫌い>と連呼したり、わざわざ私に辞書を引かせて『八方美人』の項を読み上げさせたりもした。そうは言っても結局ずっと嫌いなりんごと違って、るくすのために千草を遠ざける選択はありえなかった。沼を除けば唯一と言っていい生身の友達だ。他にも友達はぽつぽつできたけれど、学年が変わったり学校が変わると途切れてしまう。そのぽつぽつとした友達でさえ、千草の引き合いで作ってこられたと言っても過言ではない。
それでもるくすが千草に冷淡なのは慣れっこだったが、この状況でもなお敵意を崩さないのにはさすがに腹が立った。
<じゃあ、るくすもメッセージを送ったやつと同じなんだ>
<はあ?>
<誰だか知らないけどるくすと気が合いそうだね。家庭の事情にまでグチグチと>
<わたしはあそこまで言わないもん。全然別でしょ>
<別だからなに? 気が合いそうだって言っただけだし>
<いや、同じって言った>
<言ってない>
<言ったもんね、会話ログに記録されてる……>
<嘘つけ。電卓も起動できないくせに>
教室に戻るやいなや千草はクラスメイトの群れにわっと囲まれて割り込もうにも割り込めなくなった。もっとも、慰めの言葉ひとつ思いつかなかった私に今さら抗弁の権利はない。一転、ふわふわきらきらした雰囲気に早変わりした彼女は、二オクターブくらい高い嬌声を出してクラスメイトの話に愛想よく応じた。一方の私といえば、頭蓋骨の内と外の両方で態度をぎくしゃくとさせながら放課後までの時間をやり過ごさなければならなかった。るくすが最後に<八方美人>とつぶやいたのは聞こえていたが、強いて無視した。
六時間目が終わり、ホームルームも終わって、名実ともに放課後を迎えた午後四時現在、私の気持ちは重かった。最近やたらと眠るようになったるくすも、絶対にこの時間は寝ていないはずだがこちらから声をかけるのは癪だった。かといって、クラスメイトの群体に引き連れられていった千草を呼び止める勇気はない。こんな状態でカラオケに行っても地蔵にしかなりようがない予感がする。だが、ここで逃げ出してしまったら本当におしまいだ。今後しばらくクラス全体で共有されるであろう話題から取り残されて、巻き返しが図れるコミュニケーション能力があったら苦労していない。
ウォッチがぴぴっと音を鳴らしたのでホーム画面を投影させると『ストレス値が急速に高まっています。深呼吸をしてリラックスしましょう』とポップアップ表示が出ていた。逆に、深呼吸なんかしたら吐くかもしれない。
緊張で全身をこわばらせて鞄を整理していると、やや落ち着きのないクラスの空気とは裏腹にてきぱきと帰り支度を済ませた沼の姿が見えた。どうやら沼は誰にも誘われなかったらしい。というか、小中含めて私か千草以外とまともに話している場面を見た試しがない。にも拘らず平然とへらへらしていられるのだから釈然としない。
いや、待てよ……。
中学生になってまで並んで歩く間柄じゃない、などと悠長に言ってられるのは今日以外だけだ。名案を思いついた私は獲物を狙うハンターのごとく沼の背中をゆっくり追いかけた。教室を出て、階段を下りて、男女で別れたロッカー列の手前で声をかける。頭を叩くのは当面の間、勘弁してやろう。
「あ〜〜〜沼君、ちょっといいかね」
「あかちゃんさん、どうされました?」
普段は苛立ちが募る沼のへらついた顔も今ばかりは安心感が勝る。人間って見慣れたものを眺めるとリラックスできるらしい。きっとウォッチも納得して黙ったことだろう。
「今日、クラスの皆とカラオケに行くんだけど」
「それは良かったですね」
「沼も来るでしょ?」
一応、自分が誘った体を避けるべくフェイントをかけておく。これで返事がイエスなら、沼は自ら参加したのであって……。
「いいえ。僕は気乗りしないですね。狭い場所とか苦手ですし」
だめか。じゃあもう破れかぶれだ。
「その場にいてくれればいいんだけど」
「はあ」
「だって千草はさ、どうせ皆に引っ張りだこで私と話してる暇なんてないよ」
「しかしそういう時こそ他の人に積極的に話しかけて交友を築くべきでは……」
「それができたらあんたも私も困ってないでしょうが」
「別に僕は困ってませんが」
「……本気で言ってる? あ〜もう、頼むよ、頼みますよ、私が部屋の隅っこで一人寂しくウォッチをいじいじするのを防ぐために話し相手のスペアとして来てくださいよ」
沼の口元がぴくぴくと震えてナメクジの触覚みたいに揺れ動いた。
「そこまであけすけに言われたら仕方がありませんね。でも、その作戦って万が一でも僕が役に立ったら完全に失敗ですよね?」
校門前に集合しているクラスメイトの群体にどう加わったものかと思案していたら、先に靴を履いた沼が猫背で平然と向かっていったので驚いた。慌てて追いかけると、ちょうど群体を仕切っていた雄也君と沼が話している最中だった。
「お、沼地じゃん。来ないんじゃなかったのか?」
「ええ、まあ、気が変わりました。やはり参加させて頂きます」
「そうこなくっちゃな」
なんだ沼のやつ、ちゃっかり誘われていたんじゃないか。考えてみれば雄也君のような爽やか人間が誰かをハブったりなんかするはずがない。ざっくり数えても、クラスの全体数と群体の頭数は一致している。私は自ら課した戒めを解いて沼を叩く権利を復活させた。とはいえ、クラスメイトが見ている前で堂々と叩くのは憚られた。初手でスペアに頼るのも気後れする。千草ははるか遠くで皆とわちゃわちゃしている。また一人か、私は。
ぞろぞろと街道を進む学生の集団は周囲から見ると威圧的かもしれない。あたかも古典童話に出てくる、巨大魚を模した魚の一匹になったかのような頼もしさを得たのか、とりわけ男子生徒の振る舞いには若干の横柄さが目立つ。
あの重要な目のパーツを構成する魚の役は、やっぱり雄也君かな。
いや、あの魚は外見がどす黒かったし、そもそも元はいじめられっ子だった。やっぱ無しで。
クラスメイトの群体が駅を通り過ぎ、向かい側を十数分も歩いて低開発地域に入るとカラーマネジメントされた建物はだんだんと減ってきた。代わりに背丈の低い建造物がみちみちと密集しはじめて、多国籍情緒あふれる店名をそれぞれ壁面に投影したりアニメーションさせたりしている。見た目は派手そうでも素の外壁が露わになった建物の不気味さは拭いがたい。
さらに歩くと運送会社の集荷所が道路脇に見えた。パパとママのパパやママに近い年嵩の男女が、細い金属フレームでできたアシストスーツを身にまとってあくせくと積荷をトラックに詰め込んでいる。先のアニメーションを思い起こさせるその反復的な動作は、人がスーツを動かしているのか、スーツに人が動かされているのか判然としない神経質さを保っていた。
ついに風景の感想で移動時間を潰しきったらしく、先頭に立つ雄也君が持ち前のよく通る大声で「ここだ」と言った。頭上に浮く大仰な看板文字が『KARAOKE』と七色で用途を示している。意外にも扉は重厚そうな両開きで、十数名からの団体客が途切れなくロビーに入り込めそうな広さが設けられていた。
ロビーは埋め込み式の端末と飲食物の自動販売機が一列に並んでいるだけの殺風景な空間だった。雄也君と数人の男子がなにやら相談しながら端末を操作していると思いきや、あっという間に部屋が確保された。
「部屋、地下三階のワンフロア分とったわ。六つ部屋があるから、女子と男子でそれぞれ二つずつ、残りの二つのうち一つは混合部屋、もう一つは、休憩用にするか」
彼がてきぱきと部屋の割当てを定めていったのと同時に、全員のウォッチがメッセージ受信音を短く鳴らした。私のも鳴った。入れ替わるようにして、別の男子が言った。
「いま皆にボットを飛ばしたから、適当にボタンを押して。出た場所の部屋に入る感じでよろしく」
言われてディスプレイを投影すると、学内チャットの新規メッセージにボットアカウントが来ていた。ボットの言う定型句に従ってボタンを押すと『一番奥の部屋』と表示された。これでは沼はもちろん、千草とも離れ離れになってしまうかもしれない。またぞろ、ウォッチの身体モニタリング機能が異常値を知らせてこないか不安になった。
「んじゃ、各自行ってくれ。俺たちはドリンクとか買っとくから」
誰ともなしにクラスメイト一行は地下三階に続くエレベータへと飲み込まれていった。やがて目的の階層で全員が吐き出されると、エレベータ内での静寂を破るかのようにわっと騒がしくなった。打ちっぱなしのコンクリートの狭い廊下に防音扉が等間隔に六つ並んでいる空間は、昼間の学校の廊下とだぶって見えた。馴染みのない空間はなんでも不気味に感じてしまうらしい。
「あかちゃん、あかちゃん」
群体の中から私を呼ぶ声がした。上下に跳ねる掲げられた手のひらの元に寄っていくと、そこにはさらさらの栗毛をなびかせた千草がいた。
「ね、私、一番奥の部屋なんだ。あかちゃんは?」
「あ、私も……」
さっきまで溜まっていた胃の鉛がすっと溶けて消えていくのを感じた。いつだって千草さえいればなんとかなる。
「よかったあ。私、他の子たちのことよく知ってるから。みんないい子だよ」
その”いい子”の誰かが例のメッセージを送った可能性については、頭の片隅に押しやった。そんなのは当の本人だって承知の上だ。
千草の柔らかい繊細な手に引かれて私は一番奥の部屋に入った。防音扉は思いのほか重く、片手で押し開けるには二人分の力が必要だった。薄暗い部屋の中では、すでに他の女子たちが座って待っていた。「混合部屋」の人員は後で決めるのだろう。千草が入室した瞬間にソファのあちこちから歓迎の声があがった。なんだかくっついている私まで受け入れられているような感じがした。
「ほら、あかちゃん、ここに座って」
千草の勧めるままに席に座ると彼女も隣についた。矢継ぎ早に、左から右から甲高い声が飛んでくる。
「瀬川さんって、杉浦さんと仲良かったんだ」
「中二から?」
「あ、いや、小学校から……」
「へえ〜そうなんだ。第二小?」
「う、うん」
「私、第二西に通ってたんだ」
「近くの?」
「えっ、じゃあどっかですれ違ってたかもねー」
一同、爆笑。感情の移ろいが高速すぎてついていけない。聞き逃した質問も一つか二つはある。けれども、誰もそんなの気にしていないように見えた。拾ってもらえたらもらえたなりの、そうでなければそれなりの話題が展開されていって、てんでまとまりはないのに、どこか得体の知れない秩序が潜んでいる。
「ね、そろそろ歌おっか」
「飲み物が先じゃない?」
「でも雄也君たちが持ってくるってさっき」
「そうだった。じゃ、誰から行く?」
「あ、瀬川さんってどんな曲が好きなの?」
「あかちゃん?」
自己の世界に入りかけた寸前に千草の声で呼び戻された。そうだ、私は質問されているんだ、今。
「えーっと、でも、ジェネレの曲しか聴かないんだけど」
「うん、うん、私もそんな感じ。ハッシュキー送ってくれる?」
流されるままに私はウォッチを操作して音楽プレイヤーのハッシュキーを送信した。カラオケルームの壁面に埋め込まれたスピーカーシステムがそれに基づいて任意の音楽を自動生成<ジェネレート>する。ハッシュキー無しでもプリセットから大雑把な自動生成は可能だけど、あった方が私の好みにずっと近くなる。キーには音楽プレイヤーの再生履歴情報が蓄積されているからだ。
透き通った音色のポップスが流れだした。聴きはじめて五秒と経たないうちに左右から「いい感じ」「うん」といった賛辞の声が聞こえてきた。
「ねえ、あかちゃん、これ歌ってみようよ」
千草が再生中の曲に負けない大声で言った。即座にいいねいいねと周りが囃し立てて、私は勢いに圧されて部屋の奥のスタンドに追いやられた。この位置に立つとソファに並ぶクラスメイトの顔ぶれがよく見えた。皆、本気で私の歌唱を心待ちにしているかのようなそぶりで、前のめりになっている。誰かが気を利かせてスピーカーシステムをカラオケモードに変更したのか、足元の装置から細く空間投影されたディスプレイが私の眼前に現れた。
『生成曲名:Ejh7YsM3L%4JKFkEo$AMyUGTzs#BTs#%hBpxzDSs』
続いてイントロが始まり、ディスプレイの左から右に向かって歌詞が流れる。楽曲のリズムを反映したオーディオスペクトラムが壁面のあちこちに描かれて、薄暗い部屋の中をほんのりと明るくした。私はん、ん、とそれっぽい咳払いをしてから歌いだした。
直後、私の声を拾った装置が音楽に載せてスピーカーから音声を出力したのが判った。実のところ、これが私の声とは言いがたい。声色や音量こそ似通っていても、こんなふうには歌っていないし、歌えない。あくまでソフトウェアによって補正された加工音声にすぎない。もし私の歌唱力がプロ並にうまかったら補正度は緩和されるが、音を外せば外すほど強力に補正がかかる。つまり、誰が歌ってもそこそこうまく聞こえる仕組みになっている。
にも拘らず、クラスメイトたちは決して傾聴の姿勢を崩さず、歌が終わった後には一斉に拍手と惜しみのない称賛を送ってくれた。
「よかったよー」
ソファに戻ると、千草が両手を握りしめて腕をぶんぶんと振ってきた。
「そ、そうかな」
ひょっとすると何年か前に歌った時よりも補正度が下がっているのかもしれない。後でデータシートを見るのもやぶさかではない気持ちになった。
「次、私いきまーす。二曲続けて歌っちゃおうかな」
ぴょんと席を立った千草の歌唱は、見た目の可憐さも相まって余計に美しく聴こえた。彼女も自身のハッシュキーで生成したジェネレを歌っていたが、さながらデビュー曲を歌うアイドルのようだった。途中、背後の防音扉がガタガタと揺れる音が聞こえたので数人が振り返った。一人が状況に気がつき「あ、たぶん飲み物だ」とつぶやいた。
「瀬川さん、ごめん、扉を開けるの手伝ってあげて?」
誰かがそう言ったので私はそそくさと立ち上がって防音扉を力いっぱい開けた。すぐ目の前に雄也君が大量のグラスを並べたお盆を持って立っていたので、危うく扉を支える手を離してしまうところだった。
「おっ、瀬川。盛り上がってそうじゃん」
「う、うん、私もさっき、一曲歌った」
「ちぇっ、もうちょい早く来るんだったな……いま歌ってるのは杉浦か」
雄也君が部屋に入ったので、私は防音扉の取っ手から手を放してお盆のドリンクを配る手伝いをした。ほとんどは同じものに見えたが、一個だけ違うのがあった。戸惑って手元をうろうろさせていると雄也君が言った。
「その赤いのは杉浦のだ。本人のリクエストでね」
「えーっ、リクエストできたんなら私もすればよかったな」
「悪い、さすがにまた運ぶのはダルいわ。配膳ロボット使ってくれ」
雄也君がわざと意地悪そうにハハハと大声で笑うと、女子たちもつられて笑った。
「で、例の男女混合部屋なんだけど、ボットにランダムで決めさせていいよな?」
いいよー、うん、といった具合に賛同の声。それを受けて雄也君も「じゃ、それ飲んで待っててくれな」と言い残して扉を閉めた。
「まあ、確かに……」
まるで彼がいなくなるのを見計らったかのような頃合いで、女子の一人がグラスを傾けながら言った。「ランダムなのはありがたいかも。がっついてるとか思われたくないし」すかさず別の子が同調する。「かといってこういうチャンスを逃すのもね」「ね、そのためにわざわざ通学制に来たんだし、来年は高校だからね」
どうやら女子の総意としては、おおむね積極的に異性交流を望んでいるらしかった。だが、私にはなにを話すべきなのか皆目見当もつかない。女子同士でも会話をこなしきれないのに、男子なんて宇宙人にも等しい存在だ。「だってさ、高校は通信制じゃん、スポ専以外は」「個別課程になっちゃうからね」と左右で話が進む。
じきに潮時だ。現状、なんとか地蔵にならずにやってこられたが今度こそ手に負えない。このタイミングで帰るとしたら、どんな言い訳が好ましいだろうか。他の用事が……そんなもの、ない。深く問いただされたらなにも思いつかない。
「ってことは、高校に進んでリモートでいい感じになってもさ、経験値なかったらぶっつけ本番だよ? でもその本番でうまくいかなかったら大概終わりなんだよね」他の友達と……そんなもの、いない。「うん、うん」パパとママに呼ばれて……まあ、そんなところか。
「ね、瀬川さんはどうなの、そこら辺?」
「え、私?」
天上界から説かれる経文を聞き流しているつもりでいたら意見を尋ねられた。当然、答えられずもじもじしていると他の子が助け舟を出してくれた。「ほら、男子男子。沼地君……だっけ? けっこう話してるじゃん」「えっ!?」
びっくりして大声が出て、相手もびっくりしたようだった。私は慌てて弁解を繰り出した。
「沼はあれだよ、小学生から付き合いが長いから」
「へえ、あだ名とかあるんだ」
右側の子が今は空席になっているソファの領域に身を乗り出した。そのニヤついた表情は、さしもの私といえど容易に文脈を掴むことができた。
「そ、そんなんじゃないって」
「じゃあ、他に気になる男子とかいるの?」
次は左から追撃が飛んでくる。いる、いる、いますとも。そりゃあ、いるけど、身分違いすぎてとても言えない。
「は、はーん、言いたくないってわけね。まあ分かるけど」
大仰なジェスチャーをして右の子がソファに背中をめりこませ、再びグラスに口をつけた。
ちょうど、二曲続けての熱唱が終わったようだった。さっきまでの追及ぶりはどこへやら、恐るべき早業で姿勢を変えた女子たちが千草に向かって万雷の拍手を送った。千草も薄っすらと顔を紅潮させて、すっかり高揚しているように見える。スタンドからぴょこぴょこと戻ってきた彼女は席に戻るなり、やや口をとがらせて「ちょっとー、あかちゃんをあんまりいじめちゃダメだよ」と釘を差した。右の子はわざとらしく身を反って「ちぇ、ばれたか」とおどけた。
「でも、たまにはこういう話も悪くないかもね、ね」
千草もくすくすと笑って周囲を見回してから、最後に私に同意を求めた。
「うん、まあ」
さすがに二曲も続けて歌うと喉がかわくのか、手前に置かれていた赤いドリンクを彼女は一気に半分も飲んだ。それでも白く美しく整った顔立ちの彼女がそうするとなぜだか気品をまとって見える。
「あー超すっきりしたっ」
「すっごい声でかかったもんね」
「あはは、どうせ補正されちゃうから」
無邪気に笑う千草の横顔を見て、あのメッセージの件はそのまま忘却してしまってもいいのではないかと思い直した。ここにいる誰かがやった疑惑は晴れないが、どのみちそれ以上の悪事はできないだろう。
その後、他の女子たちがばらばらに数曲ずつ歌い、すわいい加減に私の順番かと身構えた瞬間、ぴぴぴっとウォッチが鳴った。優先メッセージ表示だ。ディスプレイを投影させると、パパが夕飯の準備について話していた。時刻を見ると、午後六時過ぎだった。
「私、もう帰らなくちゃ」
「もう? 早くない?」
「パパがご飯作ってるって」
「え、手で?」
左の子が大げさなリアクションでグラスを置いた。
「いいな、うちの親なんて毎日サブスク食だよ」
「あかちゃんのパパ、料理が趣味なんだよね?」
「うん、そう、そうなの。だから帰らないと、いけないんですよお」
せめて反抗期を気取ってみる。彼女らとてまさか手作りの食事をブッチしろとは言わないだろう。
折りよく、背後の防音扉が力強く開いて雄也君が顔を覗かせた。「そろそろ混合部屋決めていい?」と問うと、誰かが「いいけど、瀬川さん帰っちゃうってー」と言った。すかさず私は投影されたディスプレイを印籠のように突き出して「こういう次第で……」と釈明した。
彼はそれを見て一瞬固まったが、たちまちいつもの朗らかな笑顔に戻り「なんだ残念だな。次は頼むぞ」と答えて防音扉を押し開けてくれた。おずおずと頭を下げながら私は部屋を出て、背後から聞こえた「あかちゃんまたねー」との千草の声に続く女子たちのシュプレヒコールに手を振って応じた。
雄也君にも別れの挨拶を言ってエレベータに向かうと、隣の運搬用エレベータから配膳ロボットが下りてくる様子が見えた。きゅるきゅると傷んだタイヤの摩擦音を響かせて進むそれは、飲食物を置く三段の棚と駆動部品以外には特徴らしい特徴がない。細長い楕円形をした灰色の筐体だ。じきにすれ違うと思われたあたりで、急に配膳ロボットが止まった。と、同時に、意識の外にあった手前の防音扉――休憩部屋の――が開いた。中から現れたのは、沼だった。
「あ、失礼。これを置こうかと」
沼は手元のグラスに残った赤い色のドリンクを飲み干して、配膳ロボットの三段の棚の一番下に置いた。
「それ、美味しいの?」
「さあ? 目の前にあったので飲みましたが、特にこれといったことはない炭酸飲料です」
「いや、千草も飲んでたから。なんで休憩室にいるの?」
「なんだか具合が悪くてですね……少し休んだら帰ろうかと思います。お役に立てなくて、と言いたいところですが、役に立たなくてよかったみたいですね」
見てみると、確かに顔色は優れなさそうだ。へらついてはいるものの、口角の傾斜がもぞもぞと揺れ動いて不安定になっている。
「私、パパに呼ばれたから帰るんだ。なんていうか……無理させてごめん」
沼がカラオケルームで一曲でも歌ったのか、そもそもどんな音楽を聴くのか訊きたかったが今は適切ではなさそうだ。
「慣れないことはするものじゃありませんね」
そう言い残すと沼は防音扉を閉めて部屋に引っ込んだ。用事を一つ済ませた配膳ロボットは耳障りな摩擦音とともに通路の奥にゆっくり進んでいった。
入口の端末で一人分の料金を精算して両開きのドアを開けると、外はもう日が暮れていた。足早に低開発地域を抜けて駅前に戻った頃には、あちこちの建物がナイトカラー仕様に変わっていた。ライトピンクはマゼンタ、スカイブルーはインディゴブルーに上書きされ、それぞれの煌めく色合いを建物にマッピングしている。私はウォッチでチャットを起動して短く話しかけた。「今から帰るね」ややあって返信代わりのスタンプが二人から貼られた。
帰宅すると、すでに夕飯の支度ができていた。手作りの煮込みハンバーグとポテトサラダと、バゲットと、茹でたにんじんとブロッコリー。部屋着に着替えて手を洗い、食卓に向かうとパパ自らいかに手間をかけたか力説しはじめて、ママは気の利いた返事をしていたけれど、私はといえば久しぶりに遊んだせいで気疲れしてしまった。相槌を打つだけで限界だ。
二人が私の学校生活や交友関係を詮索しなくなってかなり経つ。大方、クリニックの先生と打ち合わせをして年齢別の方針を組んでいるのだろう。私の言動や態度、振る舞いへの対処法は前もって整備してあって、しかもそれらの精度は年々洗練されていっている。私の反抗期はあらかじめ対策済みなのだ。だから中学三年生の娘が夜まで一度も帰宅しなくてもなにも言わない。それがベターな対応ということになっているのだろうし、どのみち私の現在位置は手首にへばりついたウォッチによって常に把握されている。そして、現に私はこの包容と放任のバランスに快適さを感じている。事実、夕飯は皿に残ったデミグラスソースまで舐める勢いで完食した。
「まだお腹が空いているならデザートにりんごはどう?」
私の食べっぷりを見てママが席を立とうとしたが、私は首を振って断った。
「ううん、今はいいや」
るくすが起きている間は食べない約束だ。昼からずっと喋らないけど、狸寝入りを決め込んでいることは分かっていた。
入浴を経て、部屋に戻ると狙いすましたように彼女が声を出した。
<あ〜、わたしも音楽が聴きたいなあ>
<はいはい>
私は彼女が実は起きていたことにも、昼にちょっぴり揉めたことにも言及せず、鞄からイヤホンを取り出して耳につけた。ウォッチの音楽プレイヤーで呼び出すのはるくす向けのジャンルリストだ。私はジェネレの曲しか聴かないけど、彼女は人間の作った曲しか聴かない。流れてくる音楽ときたらひどくピンぼけで、てんでリズムに乗れず、不協和音の集合にしか聴こえない。興味本位で一緒に探していた時期はとうの昔に過ぎ去った。
<それもういいやスキップで>
<うん>
<あ、それもスキップ>
<うん>
<これは……良さそうかも>
しかし一分半後、彼女は<やっぱスキップで>と言った。だいたい五曲に一曲の割合で気に入るものに当たるようだが、私には違いも意味も解らない。自分の嗜好に合わせて生成されていない音楽なんて、合わなくて当たり前に決まっている。実際、スキップしている曲の方が多い。
<ねえ、毎回面倒くさいんだけど>
<しょうがないじゃん、私は手も耳もついてないんだから>
<じゃなくて、なんでわざわざ人が作った曲を聴くの?>
<なにが自分に合わないのか知りたいからかな>
<スキップしてるじゃん>
<合わないのが判ったってこと>
<意味わかんない>
この日の新規開拓は片手で数えられる程度の曲数が「お気に入り」行きとなった。私のハッシュキーに影響を及ぼさないよう、プロファイルは分けて管理している。
次に学習用シート端末を出して、小一時間ほど宿題と格闘した。理解不能な問題は学チャで沼に投げたが珍しく反応はない。ついでに全員が集まるチャンネルを覗くと、さっそくカラオケの感想でもちきりだった。あえて発声するまでもなく文面を自動生成して、組み合わせでサジェストされたスタンプをぺたぺたと貼って閉じた。それからウォッチの空間投影ディスプレイを最大に拡張してビデオを観ていると、あっという間に使用時間上限に達した。
『あんしんモードが有効になりました。本日中の通信は制限されます』
親の顔より見た定型文をタップ連打で打ち消して、就寝の準備に入った。解けなかった問題はアップロード期限までに沼にやらせればなんとかなるだろう。
翌朝、早めにモーニングルーティンを済ませてウォッチの通知を確認すると、ほとんど鉢合わせで沼が回答をよこしてきた。「頭が痛くて寝てました」との弁明を読んで、昨日の彼は具合が悪かったことを思い出した。
今日は遅刻せず学校に着いた。まばらに行き交う生徒たちの群れとすれ違って教室に入る。すると、普段は余裕をもって登校してくる千草の姿が見当たらなかった。カラオケの話題をそれとなく仕入れておくつもりだったのに、他に目に留まる顔見知りは誠に遺憾ながらまたしても沼だけだった。私はつかつかと近寄って頭を叩こうとしたが――やめた。まだ具合が悪かったら沼とはいえ少々申し訳ない。
「沼、千草、知らない?」
振り返った沼の顔色は芳しくなかった。相変わらずへらついている口元はさておきとして、肌が青白く変色している。
「うわ、そんなになるまで熱唱してたの? ……んなわけはないか」
「熱唱どころか、一曲も歌わずに具合が悪くなってしまいました。で、あかちゃんさんと休憩部屋の前で話して、気づいたら寝てしまって……諸星さんに起こしてもらう頃には九時を回っていましたよ」
九時! 昨日はずいぶん盛り上がっていたみたいだ。いくら反抗期対策済みのパパママでも、九時まで家に帰らなかったらさすがに怒りそうだ。
「僕の母はもうカンカンでして、逆に父は満更でもなくて、しまいには二人で揉めだしてですね、まあ、そんな感じで体調不良を引きずっています」
私は沼の肩をぱんぱんと叩いて、深く頷いてみせた。
「ご苦労だったな、沼君よ。汝の犠牲は私に爪の先ほどの勇気を与えてくれたと思う」
「でも宿題は自分で解くべきですね。来年には受験が――」
「で、千草知らない?」
不都合な話になりそうだったので発言を遮って質問をかぶせた。こんな仕打ちには慣れたものなのか沼も臨機応変に対応して「そういえば見当たりませんね」と訝しんだ。その後、自席に戻り、ようやく起きてきたるくすとウォッチを見るふりをしつつ雑談して、七時五十分が五十五分になり、八時になり、それでも千草が一向に姿を見せないことに奇妙な焦燥を覚えた。八時五分、十分、ついには授業が始まっても、中休みに入っても彼女は現れなかった。
『風邪引いた?』
私は休み時間中に学チャでメッセージを送った。いつも十分以内にはリアクションが返ってくるが、返信はない。
<見舞いに行ってあげなきゃ>
半ば無意識に、私は頭の中で会話を開始していたらしい。るくすが不機嫌そうな声を出した。
<昨日はっちゃけすぎて寝過ごしてるんじゃないの?>
<それならそれでいいんだけど、なんか気になる>
放課後、一人堂々と帰り支度を済ませて学校を出た。部活動の準備に勤しむ生徒を尻目に、万年帰宅部の威容を見せつけんばかりだ。しかし今日に限ってはれっきとした目的がある。病気でも疲労でも、千草を見舞いに行かないといけない。
彼女の家は低開発地域の住宅街にある。補修工事を繰り返した十八階建ての趣き深いそのアパートには、カラーマネジメントも投影ディスプレイの気配もない。エレベータに乗って五階の彼女の家にたどりつくと、私はどう見ても後付けっぽいインターフォンを強く押した。遠慮がちな彼女との押し問答を避けるために前もって連絡をしなかったので、誰もいない可能性は否めない。彼女の唯一の親は外で夜遅くまで働いているからだ。でも、誰もいないなら千草はどこかに外出していて、外出できるのなら少なくとも重症ではない。それならそれで構わない。
約二分の遅滞した沈黙を経て、がちゃりと玄関ドアの鍵が解錠された。インターフォンに備えつけのカメラで私の訪問が判ったのだろう。やがてドアがゆっくりと開いて、うつむきがちに千草が姿を見せた。顔色が悪い。病気というよりは狼狽して見える。私はあえてなんでもないようなふうを装って「今日、学校に来なかったし返信もなかったから用事のついでにお見舞いに来ちゃった」と慣れない笑顔で言った。どう見ても嘘だし、小走りで来たから汗をかいているし、ウォッチもとっくに運動モードに切り替わっていたけれど。
「入って」
対する彼女の応対は切迫していた。私の顔を見るなり、きょろきょろと神経質に五階の廊下を見渡して私を家の中に引っ張り込んだ。
「え、ちょっと、どうしたの」
「いいから」
間近で千草の姿を見ると違和感に気づいた。だいぶ気温が高まってきている時期なのに、部屋着にしては相当な厚着をしている。もしかすると想像以上に重症なのかもしれない。彼女に手を引かれるまま、急いで靴を脱ぎ捨てて奥に入った。2DKのコンパクトな居住空間は綿密な清掃が行き届いていた。
「ねえ、もし具合が悪いんだったら、私」
「お願い、帰らないで、私の話を聞いて」
千草は切羽詰まった声色で私の発言を遮った。思わず面食らっていると彼女はまた部屋中をきょろきょろと見回して、ふと我に返り、ため息をついた。明らかに様子がおかしい。
「学校、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫ってなにが……?」
「ひどい目に遭ってない?」
「ひどい目って……?」
彼女はじいっと私の顔、いや、目を覗き込むように見つめた。それからぶつくさと「大丈夫、大丈夫、数分なら」と繰り返した。
「私の話を聞いても、絶対に余計なことはしないで。誰にも話さないで。そうすれば無事でいられるから」
口を開こうとすると、千草は手でそれを制止した。「なにも喋っちゃだめ。いいって言うまでは、絶対に。いい?」否応なく、私は開きかけの口をぱたんと閉じざるをえなかった。しばし沈黙の睨み合いが続き、ややあって沈黙の合意が得られたと認めたのか、千草は部屋を出てどこかからかウォッチを持ってきた。そういえば、彼女はウォッチを身に着けていない。なにもかもが異常だったが、声を出すなとの指示を破るわけにはいかなかった。
彼女はウォッチを手のひらに置いたまま、ディスプレイを投影して学内チャットを表示した。三日前の罵詈雑言に引き続き、別の捨てアカウントから最新のメッセージが数件来ていた。
『誰にも話すな』
『話したら、お前の友達も同じ目に遭う』
『この動画もインターネットに公開する』
メッセージの一番下に動画が添付されていた。フォーカスが合ったことで自動再生された動画には昨日のカラオケルームが映っていた。厳重にモザイクがかけられた複数人の人影と、モザイクのかかっていない女子が一人。千草だ。だが、千草は眠っているように見える。次第にモザイクの塊が千草に侵食してきた。そして、塊の一つが千草に覆いかぶさり……。
次の瞬間、投影ディスプレイが消えた。はっとして現実の千草に目を向けると、見たこともないくしゃくしゃの顔をしていて、ついには涙を流しはじめた。ただし、泣き声は押し殺して。
それでも懸命に目を開けてこちらを見つめる千草を見て、私は明白に事情を悟った。
千草はクラスメイトの誰かに乱暴された。そいつは彼女を脅迫している。
再びウォッチを家の片隅に追いやった後、ようやく口を開く許可が下りた。でも、私は言いたいことがありすぎて逆になにも言えなかった。ここぞとばかりに彼女をハグしてみせるのも、嘘だ。そんな真似をしても解決にはならない。遅れて出た第一声は、結局、テンプレ回答だった。「警察に相談……」だが、言い切る前に彼女はきっぱりと否定した。「ウォッチがいじられてる。身体モニタリング、現在地、周囲の音声、入力する文字とかの情報は筒抜けだと思う。昼間のメッセージに返信しなかったのも、すぐに命令が飛んできたから。”無視しろ”」って。
「でも、黙ってちゃ」
「いいの。気持ちが落ち着いたら、私も普通に登校するから。このまま忘れさせて」
「本気で言ってるの」
千草は嗚咽を漏らしながら言った。
「もしバレたら、あかちゃんだってひどい目に遭う。クラスメイトの誰がやったにしても、あと一年だから。高校に上がれば、解決だから」
そんなの全然解決じゃない、うっかり叫びそうになって、耐えた。
「……そんなの全然、解決じゃない」
「もう、帰って。何十分もウォッチを付けないでいたら怪しまれる。後でお風呂に入ってたことにしないといけない」
ウォッチの身体モニタリング情報を盗み取られているのなら、入浴直後特有の心拍数をしていなければ疑われる。犯人は抜け目がない。今時、ウォッチを理由なく外すことはありえない。せいぜい充電のために月に一度か二度、数分だけ外すか、それこそ入浴くらいだ。
都合よく壊れたり失くしたことにする? そんな言い分が通るとは思えない。一部の職業の人は付けちゃいけないと聞いたけど、私たちには関係のない話だ。前に沼が言っていた。インターネットは海底でも火星でも通じるらしい。
事態を把握した私は無言のまま頷いて彼女の家を後にした。扉を閉める直前に憔悴しきった彼女が見せた、精一杯の笑顔をないはずの脳裏にじりじりと焼きつけて。
<犯人を突き止めなきゃ>
<話聞いてた? 無理だって>
<でも、こんなの許せない>
深く物事を考え込むと勝手に会話が始まってしまうのは私の脳みその仕様の一つだ。せめて励ましてくれると助かるのに会話相手は独立した人格を持っていて、たいてい私のやることなすこと全部に反対する。
<本人がいいって言ってるんだから>
<いいわけない、絶対に>
<あんまり無茶されると、同居人としては困っちゃうよ。身体は一つしかないんだし>
例のメッセージに記されていた『同じ目に遭う』との文言が、どれほど現実性を帯びているのかは判らない。ただの脅しかもしれない。基本、学校と家の往復しかしていなくて、たまに千草と遊ぶ以外は家で変なビデオを観ているだけの人間を、いきなりどこかで誘拐する? もしそうなったら、確実にウォッチが異常を検知する。パパとママは極端に心拍数とストレス値を上昇させた私がどんどん遠方に行っていることを知る。むろん警察に通報されて、たとえ事前にウォッチを壊したとしても見つかるのは時間の問題だ。情報赤点の私でも街中が監視カメラだらけなのは知っている。
でも、だめだ。私の方は脅しだとしても、あの動画をインターネットにバラまくのは知識があればできてしまう。なんでもそういう違法なデータが消されない場所がどこかにあるらしく、一度そこに流れたら取り返しがつかないと言われている。そんな最悪の事態は、なんとしても避けなければならない。
犯人の候補は多くはない。あの日、あの時、カラオケルームにいた男子十名、女子十名、計二十名のうちの誰かだ。もっと言えば、乱暴したのだから犯人は男子だ。モザイクの塊でも身長差から性別を推測できる。これで十名に絞られた。あのフロアは貸し切りで知らない人が来たりはしない。
カメラ……そう、カラオケルームにだって防犯カメラの類はあるはずだ。しかし、防犯カメラの録画を観るにはおそらく警察の立ち会いが必要で、そうなるとまた話は振り出しに戻ってしまう。あの映像では無理やり乱暴されたかどうかカメラのソフトウェアには判定できそうにない。カラオケという典型的な無人施設では、どこに問い合わせてもボットとお喋りさせられるだけだ。つまり、証拠はあるのに誰もそれに気づいてくれない。私の手にも入らない。私はぎゅっと唇を噛み締めた。強く噛み締めすぎて、血が出そうだった。
<あかり、痛いよ>
るくすにそう言われて、やっと唇から歯を離した。
<ごめん>
結局、地道な手段しかなかった。犯行現場がカラオケルームである以上、クラスメイトたちの行動を調査してあぶり出すしかない。率直に考えて、大勢のクラスメイトがいる間に乱暴するわけがない。私が先に帰ったように、一人また一人と習い事やら門限やらで帰っていき、犯行グループと千草が残ったその時に行なわれたに違いない。だから、クラスメイトたちの帰宅したタイミング、できれば正確な時刻まで聞き出せば、おのずと怪しい人物が浮かび上がる。
翌朝、まず女子から始めた。女子が犯人の可能性は限りなく低く、どの男子が居残っていたのかも聞きやすい。自分からクラスメイトに話しかける勇気がまさかこんなことで生まれるとは思いもよらなかった。頭の中で私は、こう話しかけて、こう返ってきたらこう返して、こう……というような一連の予想問答集を組み立てて、るくすに時々つっこまれながら修正し、時に無視を決め込んで、なんとか中休みで一人話す覚悟が決まった。ログが残る形を避けるためには直接話すしかない。
「あはは、そう。男女混合部屋に二回も呼ばれちゃって。七時半頃だったかな?」
佐々木さんはあの時、私の右側に座っていた子だ。薄暗いカラオケルームでは曖昧だったが、こうして対面すると跳ね気味の短い髪型がボーイッシュな面立ちを際立たせているのが分かる。私は病欠した親友を気遣う体裁で、一昨日の千草の様子を尋ねた。
「あー、そうだね。杉浦さん、なんか具合悪そうだった。最後、休憩部屋に行っちゃったし」
「休憩部屋?」
「ほら、諸星君が言ってたじゃん。男女の部屋と混合部屋の他に、休憩部屋も借りたって」
そういえば、そうだった。あの時、沼が休憩部屋にいて、雄也君に起こしてもらう頃には九時を過ぎていたと……。
……あれ? じゃあ、ひょっとして一番最後までいたのは沼と雄也君?
私の顔が険しくなっていったのを察したのか、佐々木さんは切れ長の目元を曲げて怪訝な表情を作った。
「えっと、瀬川さん? 私なんか変なこと言った?」
「あ、いや、違うの。ほら、沼……地も具合悪くして休憩部屋にいたとかなんとか言ってたから」
「へえ」
昨日の会話を思い出したのか、途端に佐々木さんはニヤついた。ボーイッシュでクールな雰囲気と見せかけて、存外にころころと表情が変わるようだ。でも、今は沼との関係を誤解される状況がありがたかった。犯人を探るために会話をしているなどと気取られたら誰だって気分を害する。
「やっぱり幼馴染って良いよねえ。一昨日の男女混合部屋も盛り上がったは盛り上がったんだけどさあ、それでどうなるかっていったら別にって感じで……杉浦さんが休憩部屋に行ったらお開きになっちゃったし」
「じゃあ、だいたい皆帰ったんだね」
念の為に探りを入れると彼女は「まあ、私も帰っちゃったしね。どうせ男子どもの目当ては杉浦さんだったんだろうし」と本音を漏らした。盛り上がったとは言うものの、どこまで本当かは分からない。犯行グループが元から計画していたのなら、むしろ無関係者にはさっさと帰ってもらいたいはずだ。
彼女と別れた後、私は当初の計画を投げ捨てウォッチで沼を呼び出そうとして、逡巡した。もし、予想が外れていたら――よく考えてみれば、沼だって男子だ。数字と機械に戯れて一生を終えそうな人間でも、女の子に関心がないとは言い切れない。かえってそういう人間こそ危ないとも考えられる。そもそも、沼ごときが千草のような完璧超人美少女と対等に会話できていることからして、奇跡に近い。まったく認めたくない事実だけど、当時ハブられていた私に分け隔てがなかったように、沼みたいな常時へらついた変人にも彼女は優しい。でも、だとしたら、沼とはいえ恩を仇で返すような真似はしないはずだ。だが、しかし、沼は最後の方まで残っていた一人だ。
そこで、私はあの動画に複数の人影が映っていたことを思い出した。そう、犯行グループだ。複数犯だ。私自身が前提に置いている。あの沼が、クラスメイトの男子と協力してなにかをやるなんてありえない。彼にそんな社会性があったら孤立なんてしていないだろう。具合が悪いふりができるほど器用とも思えない。
沼への信頼に確証を得た私はメッセージの送信ボタンを押した。待ち合わせ場所はこないだの千草に見習って、三年生の階から遠く離れた空き教室を選んだ。こんなところを誰かに見られたら逢い引きしているとしか思われないが、もうそんなのどうでもよかった。
「あかちゃんさん、さすがに僕も少し傷つきますよ。なにもこんな場所でお話しなくても」
二日経って体調不良から脱したと見られる沼は、いつも通りのへらついた表情でのこのことやってきた。
「休憩部屋で雄也君に起こされたって言ってたでしょ。他に誰かいた?」
「はあ……まあ、いたことはいましたが、正直どなたの名前も覚えておらず」
「いたって、何人いたの?」
「うーん、あともう一人、いや、二人?」
私は苛立ちを露わにして食い下がった。
「どっちなの?」
「具合が悪くてそれどころでは……歩いて家まで帰るのも大変だったので」
「千草はそこにいた?」
「どうしてちーちゃんさんが? ……今日も来てませんね、彼女――」
「いたの? いないの?」
キーンと私の大声ががらんどうの空き教室に響いた。沼の口がしゅっと一瞬すぼまったあと、ぷるぷる震えてまたへらつきだした。
「あの、どうされました? 僕がなにか」
「こんな時くらい、へらへらしてないで真面目に答えてよ……千草が大変なんだ、今」
千草は”誰にも話さないで”と言った。たとえ犯行グループの一味じゃなくても、こんなことを話したら間違いなく噂になる。どんどん尾ひれがついて広まって、彼女は格好の噂の的となって消費される。そして犯人たちの耳にも届く。その後に起きる悲劇については言うまでもない。
でも、沼になら言っちゃってもいいでしょ? 言いふらす相手なんていやしないんだから。そんな思慮高さを内心装いつつも、素直に白状すると私はこのことをもはや抱え込んでいられなかった。
「千草、あのカラオケルームで乱暴されたの。喋ったら動画をバラまくって脅されてる。ウォッチもハックされてる。黙っていれば大丈夫って言ってたけど、私は絶対に許せない。犯人に思い知らせたい」
一息で言い切ったあと、ぴぴっとウォッチが鳴った。ストレスが異常値に達したらしい。ややあって、沼のウォッチも鳴った。私は驚いて沼の顔を見上げた。いや、表情はへらついている。
「僕のウォッチ、アナントテックのフラッグシップモデルでして。過敏なんですよ」
「あ、そう……」
「ともかく、僕たちがなにかをする必要はありません。犯人が学内チャットを使っている以上、じきに検挙されます。以前言った通り、通信内容が監視されているからです。控えめに言ってもまぬけと評せざるをえません」
そういえば、そんな話をしていた。学チャの通信は一旦学校のサーバを経由する……。問題があれば担当の教員に発見され、指導の対象となる。でもこの場合は指導では済まないだろう。警察に通報されて捕まる。
「それで犯人が捕まったら、動画はどうなるの?」
「懸念があるとすればそこです。まぬけすぎる犯人が早合点したり捨て鉢になったらどうしようもありません。それより前に警察が容疑者を全員検挙して、動画の元ファイルを押収してくれるのを祈るしか」
「ねえ、沼、犯人のことなんだけど――」
再び、私のウォッチが鳴った。続いて、沼のも。身体モニタリング機能とは音程が違う。これは、優先メッセージ表示だ。二人してディスプレイを投影させると、ほとんど同一のテキストがポップアップ表示された。送り主は第二川口市立中学校情報通信課と記されている。
『近日中にあなた{生徒ID:3-1477FDS}が送信したメッセージについて、至急面談を要する旨を通達します。すべての授業、課題、その他所用を直ちに中断し、速やかに一階の情報通信課へ出頭してください』
私たちは顔を見合わせた。この命令じみた文面が、事態の解決に向かうものではないのは明らかだった。
指示に従って二人で情報通信課に向かうと、事務員の手によって私と沼は別々の部屋に押し込められた。遅れて入ってきた四角い縁取りのメガネをかけた教員は、詰問の仕方も見た目にふさわしい几帳面さだった。
「これはあなたが送信したメッセージに相違ありませんね?」
彼が提示するシート端末には千草に送られた例のメッセージの一部がコピーされていた。
『嫌い』
『顔も見たくない』
『あっち行って』
『八方美人』
悪口にしても幼稚すぎる言葉がずらりと並んでいる。私の記憶では千草への悪口はもっとあったはずだが、目の前の教員が問題にしているのは当該の部分だけらしかった。その並んだワードの束を見て、私は急速に疑念が高まっていった。
「私は送っていません。それよりも、千草を傷つけた犯人を教えてください」
事情が呑み込めない中、私は明瞭に嫌疑を否定してから答え合わせを急いだ。すると、四角四面な教員の顔つきがわずかにたじろいだのが分かった。しかしそれでも手の内を明かすつもりはまだないようだった。
「瀬川さん、あなたは杉浦さんと親密な人間関係を築いていましたね? なにか当人には言えない悩みや不満を抱えていますか?」
「……ありません。話を聞いてください」
それは私じゃない。
「人間関係にお悩みなら、心理カウンセラーに相談することが可能です。杉浦さんとの交友を望む気持ちがあるのならば、まずは自身の感情を整理しなければなりません」
私は勢いよく立ち上がって椅子を蹴り飛ばし、あるいは持ち上げ、教員との殴り合いを望む気持ちがあったが、おへそのあたりを指でぎゅっとつねって衝動をこらえた。代わりに、もう一度、より強い口調で繰り返した。
「話を聞いてください」
そこでようやく、教員は抗弁の意志を認めたようだった。視線をシート端末に落として、なんらかの操作を行ったあと、もう一度こちらに画面を見せた。
「ですが瀬川さん。一連のメッセージはあなたの登録端末から送信されています」
シート端末には私のウォッチがメッセージ履歴と紐付いていることを明確に表すグラフが表示されていた。私の疑念は当たっていたらしい。
「……私は送信していません」
繰り返し、私は嫌疑を否定した。
「では、あなたの端末を誰かが盗んで送信したのですか? 送信日時における発信地は、いずれもあなたの住所と一致しています」
教員はふう、と深いため息を吐いて、天を仰いだ。そして間を置いてから、改めて発言した。
「それとも、なんですか、沼地さんがあなたに濡れ衣を着せているとでも言いたいのですか?」
「どういうことですか」
「あなたが先に述べた事件の犯人とは、沼地さんです。あの動画を含むメッセージは、彼の登録端末から送信されています」
私は目を見開いた。沼が? 千草に乱暴して、動画を撮って、脅した? 数日前から今日までの沼と千草の所作、表情が走馬灯のように早回しで蘇った。私の予想は外れた?
いや、断じてない。ありえない。そんな悪事を働くやつでは、ない。
いいや、どうしてそう言い切れる? 私が沼のなにを知っていると言うのだろう。家に遊びに行ったことは一度もないし、共通の趣味も持っていない。ただ、ハブられた者同士、余り物同士として小学校生活を過ごして、中学三年生に上がってまたクラスが同じになった仲にすぎない――
「違う」
私は言い切った。予想は間違っていない。
「違います、沼じゃありません」
「なるほど」
一方、教員は持ち前の鉄面皮を取り戻したようだった。
「端的に申し上げましょう。瀬川さん。現在、あなたと沼地さんには悪質なメッセージを杉浦さんに送信した疑いがあり、共に冤罪を主張しています。お互いにです。登録端末が一致しているにも拘らず、です。私の目からは、犯人同士が共謀して架空の犯人を仕立て上げているようにしか見えません。違いますか?」
それは……客観的には、その通りだ。言い返せない。理数系満点の沼なら、なにかこう、専門用語を並べ立てて教員に対抗できるのかもしれないが、私にはなにも思い浮かばない。肝心の証拠もない。
「メッセージを見たでしょう。千草は脅されてるんです。ウォッチをハックされて、警察に言ったらあの動画をバラまくって。私たちはそれをなんとかしようと――」
「そうですか」
教員の顔つきがますます確信を帯びた冷淡さで塗り固まっていく。私は墓穴を掘っている。話せば話すほど立場を悪化させるのは明らかだった。
やられた。犯行グループは千草が黙ってくれることなんて元々期待していなかった。沼に濡れ衣を着せる時間を稼ぎたかったのだ。
「幸いなことに、瀬川さんの過ちに関しては学校内で解決可能です。真摯な反省文と、すばらしい行動改善が認められれば――そう、ところであなたは交友関係の構築に怠慢が見られるようですが――」
「書きます」
私は意を決した。この不条理な状況から一旦脱するために、あえて本心を隠して濡れ衣を着る。どうせ事情を説明しても理解してもらえるわけがない。ここで延々と否認し続けてもパパとママを呼ばれて三者面談を強行されるだけだ。
「このたびは申し訳ありませんでした。反省文を書いて、礼儀をわきまえて、社交的になれるよう努めます」
唐突な翻意に鉄面皮は意表を突かれた様子だったが、それでも面倒事が一つ減ったと考えて気が楽になったようだ。また息を深く吐いて、こう告げた。
「そういう返答を望んでいましたよ。ともかく、現状は証拠で明らかになっている以上のことを追及する気はありません。処罰内容はおおむね述べた通りですが、学内チャットへのアクセスも一部制限されます。当然、杉浦さんとの接触も禁止です」
「沼……地君は、どうなりますか」
「じきに到着する所轄の警察官によって連行されるでしょう。二次被害を阻止しなければなりませんし、彼は彼で自分のしたことの責任をとらなければ。あなたも今後は気をつけてください」
それからいくつか事務的なやり取りを経て、私は下校を命じられた。一面白塗りの廊下に並ぶ隣の部屋には、まだ沼がいる。だが彼は警察に連れて行かれてしまう。千草とは話せず、沼は捕まる。そして犯人は……。けど、今はもっと許せないことがある。黙々と帰路を歩いて家に帰り、自室に入り、ドアを閉めて、思いっきり叫んだ。頭の中で。
<るくす!>
<るくす、起きてるんでしょ?>
<うん>
<見てたよね? ずっと>
<……>
<なんで、あんなことしたの>
悪口を言うにしてもあまりに幼稚な言葉の数々。
<なんで、黙ってたの>
頭の中で話せば話すほど、怒りがふつふつと沸き上がっていく。るくすの疎かな応答がますます私を苛立たせた。
<あのメッセージ>
<送ったの、るくすでしょ。私のウォッチをハックして>
返事はなくても、私は問い詰め続けた。
<電卓も起動できないふりして、いつから私を騙してたの?>
<千草が……千草がなんかしたっていうの?>
<あの子がいても、あかりのためにはならないと思った>
鉄のように冷えた声が頭の中にこだました。
<気づいてた? あかりの人間関係っていつもあの子に支配されてる>
<あかりはあの子が連れてきた子とだけ友達になる。でも、あの子がそれをやめると疎遠になる。あの子が知らない子とは友達になれない、あかりは>
<それは……>
それは、私が自分で友達を作ろうとしたことがなかったからだ。
<……だから、千草に嫌がらせしたの? こんな時に!>
<タイミングが悪かったのは認める。わざとじゃない。でも、わたしはあの子とは離れた方がいいんじゃないかって――>
私はだんだんと足を踏み鳴らして部屋を出て、リビングに向かった。キッチンにある冷蔵庫のドアを開けて、りんごを掴みとるとそのままかぶりついた。るくすの短い悲鳴を楽しんだのも束の間、豊穣な甘味が強烈な悔恨の酸味に上書きされて喉元に押し寄せ、憎悪の味覚が満たされるとともに虚脱感が募っていった。一口かじるごとにえぐみが強まるので、全体の三分の一も食べきらないうちに私の手は止まらざるをえなかった。
シンクに向かってりんごを投げつけた。がん、と金属質の材質に食べかけのりんごがぶつかって、ごろごろと転がった。遅れて、びーっ、びーっ、とウォッチが聞いたこともないアラーム音を激しく鳴らした。
『ストレス値が異常です。このモニタリング情報は保護者または監督責任者に通知されます』
私はウォッチも投げ捨てた。乱雑に投擲されたウォッチはリビングの壁に跳ね返って床に落ちた。
<満足した? お望み通り、千草とはもう話せないし、沼は捕まっちゃった。私、本当に一人ぼっちだ……>
私は泣いて息を荒らげながら、頭をかきむしった。パパとママは当初、私の精神が量子チップの中に収まることに懸念があったらしい。曰く、人間らしい感情が芽生えないんじゃないか、とか、頭がおかしくなるんじゃないか、とか。でも、この胸をえぐる悲しみと頭を駆け巡る憎しみは、作り物の脳みそにしては上出来すぎるくらい上出来だった。こんな気持ちになるのなら、いっそ私の脳みそはおそうじロボットや配膳ロボットとかと同じでもよかった。そうすれば、自分と正反対の性格の子と脳みそをシェアすることなんてなかったのに。
<そんなに気に入らないなら出てってよ……私の脳みそから>
どうあがいても不可能と知っていて、私は頭の中で力なくつぶやいた。返事はなかった。
約一時間後、パパとママが家にすっ飛んできた。二人そろって会社を早退したらしい。シンクに転がる食べかけのりんごと、床に打ち捨てられたウォッチと、身体モニタリング情報の異常値、そして学校から例の件についての通告……これらを合わせて、二人は思春期特有の奇行と判断したようだった。ひとまずは大事に至らないと判断したのか、私になにか原則論じみた助言をしてから部屋に戻るよう勧告した。
投げつけたせいで本体の隅に小傷が入ったウォッチは、今も腕には付けずベッド脇に放置してある。たぶん、りんごはパパかママがなんとかするだろう。あんなに大好きなりんごが美味しくなかったのは初めてだ。脳みその同居人に対する嫌がらせのために食べるという、全人類の中でも私しかやりそうにない行為が災いしたのか、はたまたるくすの味覚が伝染したのか。いずれにしても、二度とやるべきではない。当のるくすは押し黙ったままだ。身体を持たなくても吐き気は感じたりするのかもしれない。私の感覚はるくすに伝わる一方で、るくすの感覚は私には伝わらない。だんだんと怒りが冷めてきても、やはりこれくらいの仕打ちは妥当としか思えなかった。
今頃、千草はなにか知らされただろうか。こういう時って被害者に加害者の情報が開示されるのだろうか。だとしたら、彼女は余計に苦しむことになる。よりによって長い付き合いの友達が、心配事を相談した友達が、共に加害者だったという話になっているのだから。その混乱ぶりを想像すると頭の中の量子チップがひび割れを起こしそうだ。話を聞かされた彼女が私たちに弁明を求めても、答えるすべはない。当事者同士のメッセージの送受信は制限されているに違いない。接触も禁止されている。
沼はもっとひどい。単にメッセージでの誹謗中傷ではなく、脅迫、性犯罪の咎で拘束されている。もし千草が沼だけは違うと擁護してくれたら、事態は変わるだろうか? でも、彼女は半ば眠らされていたのだ。いかに被害者の証言といえど証拠の揃った状況を覆せるかは怪しい。
そこで、はたと思い直した。クラスの様子はどうなっているのか。私はこうした事件の噂が隠匿されるなどとは露ほどにも信じていない。ベッド脇に放ったウォッチを付け直してディスプレイを投影させた。
学チャを開くと 『現在、一部の機能が制限されています』 と太文字のポップアップ表示が出た。私は指で弾いて警告を押しやり、全体チャンネルに移動した。入力に関する部分はグレーアウトして機能しなくなっているが、会話そのものは閲覧できるようだった。想定通り、チャットは事件の噂で大荒れしていた。
『■■■が警察に連れてかれてたぞ』
『うそ、ほんとに■■■を■■■したんだ』
『■■■、なに考えてるのかよく分からないやつだったからな』
『■■■、■■■』
『■■■さん、学校に来られるかな』
『でも■■■も自業自得じゃない?』
『あの子、■■■だからね』
「あんぜんトーク」によって自動的にあてがわれたマスク文字が踊る学チャは異様な光景だった。通常「あんぜんトーク」のセーフティ機能に引っかかりすぎた生徒は指導の対象となるが、今は事件の影響で対応が後手に回っているのだと思われた。本来なら学チャ自体の停止もありえるのに、完全に野放しのまま誰も彼もが噂話を書き連ねている。次第に内容はエスカレートしていって『■■■が■■■するのを見た』とか『■■■が猫を■■■していた』といったあからさまなフェイク情報までもが錯綜しはじめた。
私はグレーアウトしたボタンを機能しないと知りつつ何度も繰り返し押した。千草はそんな子じゃない。沼はそんなやつじゃない。ろくに知りもしないくせに勝手なことばかり言って……。
もちろん、いくら押してもボタンが機能したりはしない。それに万が一動いたところで、一体なにを書けば彼らを納得させられるというのだろう。このマスク文字が並ぶ大量の会話の中に、私に言及していないものがないとは限らない。
その時、しゅっと画面が遷移して新規のチャットウインドウが開いた。ボットと対話するためのものだ。誤操作をしたのかと思って指でなぞると、まるで抵抗を受けているかのようにウインドウが押し戻された。ややあって、グレーアウトしている入力欄に文字が記されていき、投影ディスプレイ上にぽん、と文面が浮かび上がった。
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
二回の謝罪が反復された後、続けて文字が入力された。
『わたしは悲しかった。あかりとこんなにも近くにいるのに、半導体の溝よりもくっついているのに、触れることはできない』
『わたしは悔しかった。でもあの子は、あかりに触ることができる。あかりに触って、それがわたしには障っている』
『わたしはあかりとしか話せないのに、どんどん離されていってしまう』
『”これ”ができると気づいたのは、ちょっと前から。寝てるふりをして色々いじってたら、できるようになった』
私は頭の中で話そうとして、やめた。代わりにウォッチに向かって話しかけた。すると、グレーアウトしたままの入力欄に文字が入力されていった。るくすはウォッチをハックしている。
『あの悪口は全部るくすが書いたの?』
入れ違いに、入力欄が文字で埋まっていく。
『先生が見せたところだけ。他は違う』
だからこそ、私はるくすの悪事に気づけたと言える。あの膨大な罵詈雑言の中になんの具体性もない幼稚な悪口がぽつんと数個あって、それだけが私の仕業ということになっている。メッセージの送信者は、他にもいる。
『わたしをカラオケルームに連れていって。インターネット越しだと特定できないから』
不可思議な提案に戸惑いつつも短く返信する。
『なんで?』
『この能力を使って、償いをしたいの』
『カラオケルームの、地下三階の、あの部屋に、カメラがついていると思う』
防犯カメラがついているのなら録画データが残っていて、それを観たら真犯人も判る。そうすれば沼の容疑は晴れて真犯人も処罰される。私も考えていた。
『今の私なら、カメラに侵入して録画を盗めるかも』
『それって』
思わず発音を一旦区切ってしまった。中途半端なメッセージがぽん、と投影ディスプレイに浮かんだ。
『犯罪じゃん』
『でも、わたしは人間じゃないよ。あかりのイマジナリーフレンド、でしょ』
私は手早く部屋着から私服に着替えた。パパもママも家にいる。自宅勤務に切り替えて仕事の続きをしていると思われた。ウォッチは、置いていくしかない。付けて外出したら現在位置の変化で簡単にバレてしまう。付けないでいるぶんには、状況的にはごまかせる余地がある。私は友達と喧嘩してウォッチを投げ捨てたことになっているのだから。
ゆっくりとドアを開けてリビングに顔を出す。二人ともいない。思った通り仕事中だ。すり足で玄関に向かい、いつもの数倍の時間をかけて静かに靴を履いた。玄関ドアの開閉には、さらに数倍の時間を要した。なんとか外出に成功すると、全速力でエレベータへと向かった。だが、にべもなく二基のエレベータは最上階と一階で鎮座していた。それでも自力で下りるよりは――
合理的思考より先に足が階段を駆け下りていた。体力の持つまま疾走して三十六階、三十五階……最終的に二十九階でギブアップした。ちょうど最上階のエレベータが下ってきたところだったので、私は猛然とボタンを押してそれを引き留めた。弱冷房の効いたカゴの中で休息を得て、地上へ辿りつくやいなやまた走り出した。
太陽の日差しを受けたライトピンクとスカイブルーの街並みが、渾然一体となって私の視界をめちゃくちゃにする。かき乱した空気がなにも付けていない手首をなで回して、すーすーと心許なさを強調した。今の私にはなにもない。学習用シート端末もウォッチもない。友達もいない。でも、人類最高の科学の結晶と、それを扱えるようになったわがままで性格の悪い同居人がついている。
目的地にたどり着いた時には汗だくになっていた。残った力で両開きのドアを開けて入り、ロビーの端末で例の部屋を指定予約する。平日の真っ昼間にカラオケを歌いにくる客はやはり少ないらしく、部屋は当たり前のように空席だった。ウォッチがなければ料金を精算できないが、私はとっくに問題児だ。
エレベータで地下三階に下りて、例の部屋に入った。防音扉をぎりぎりと押し開けた途端、疲労が限界に達してソファに倒れ込んでしまった。
<それで? カメラってどこにあるの?>
私は荒い息を整えて頭の中に問いかけた。
<天井にあるみたい>
<まさか天井に張りついてカメラを抜きとってくれなんて言わないよね>
<大丈夫、いけそう>
直後、頭の中が静かになった。誰も歌わないカラオケルームはただひたすら空虚で、私が息を弾ませる声ばかりが聞こえる。ひょっとすると刑務所もこんな感じかもしれない。これで失敗して、なにもかもだめだったら沼も私も刑務所に行くんだろうか。
<二人して二次方程式も解けないのにどうやって盗むの?>
私は見切り発車で訊く機会がなかった疑問を尋ねた。
<力技でやる。これに使われてる古い楕円曲線暗号は私たちの量子チップなら一分で破れる>
<ふうん>
空返事をしているうちにるくすは「破った」と言った。以降、しばらく無言が続いたので、小汚い刑務所で体育座りしている沼を想像していたら、るくすが今度はうめき声をあげた。
<うわ>
<え、なに?>
<なんでもない>
と、言いつつもるくすはそれから何度も同じような声を出した。私はといえばウォッチもなく手持ち無沙汰で、カメラが埋まっているとされる天井を眺めて無を過ごすほかなかった。
<これだ。東京、石狩、ソウル、シンガポール……ばらばらだ>
<え、あった?>
ソファに身体が埋まりかけた頃、ついにるくすは目的の録画を見つけたらしかった。
<うん。でも動画をどこかに保存しとかないと>
<私のウォッチに送って>
<シングルタスクだから、送っている最中は返事できないよ>
<よく分からないけど、その間に家に帰るよ>
<犯人は……もう分かってるよね>
<……うん>
不思議なことに、るくすの気配がふっと消えたような気がした。ソファの引力に逆らって身を起こした私は、急いで防音扉に手をかけた。が、自力で引く前に扉は手前に押されてひとりでに開いた。目の前には、ドリンクを持った雄也君がいた。
「えっ……」
「よっ」
こちらの困惑を取り違えたのか、雄也君は肩をすくめておどける仕草をとった。「俺もサボりだよサボり。実はこの店、従兄弟がやってんだ。たまに点検のバイトをしてる」そして部屋の中に入ってきて、ドリンクを机に置いた。脇の下に挟んだ業務用と見られるシート端末を手に持ち直して、スピーカーの調子を確かめているようだ。
「安物を使ってるから時々おかしくなるんだわ……で、廊下のカメラを見てたら、瀬川が見えたからさ――」
私が横に移動すると、相手も対角線をとるようにわずかに動いた。
「――サボり仲間じゃーんって。てなわけで、一杯おごるよ」
机の上に置いたドリンクを、雄也君は片手で持って私に手渡した。グラスになみなみと注がれた真っ赤な色のドリンクは表面にぱちぱちと気泡を立てていた。
「それ飲んだらスピーカーテストがてら一曲歌ってくれよ。この前は、聴けなかったからさ」
「……雄也君、今日の学チャ、見た?」
「学チャ? なんか面白い話でもあった? 俺、あんま見てないんだよな」
適当な話題を振っても彼の視線は私の手に握られたドリンクに注がれていた。
「ねえ、これって千草が飲んでたやつじゃない?」
「うん? そうだっけ」
雄也君はシート端末を机の上に置いた。スピーカーの調整が終わったのか、そもそも元からしていないのか。
「雄也君が運んできたでしょ。千草にリクエストされた、とか言って」
「あんま覚えてねえや、俺」
飲んでいたのは千草だけではない。沼も飲んでいた。そして、二人とも具合が悪くなって意識を失った。
「これ、私が苦手なやつだったかも。雄也君が飲んでいいよ」
「はっ?」
印象上の雄也君では絶対に出さない音程の声が、カラオケルーム中に響いた。私は気にも留めずグラスを彼に突き出して、より確信を帯びた語気で繰り返した。
「飲んで、雄也君」
私は突き出したグラスを机の上にだん、と叩きつけるようにして置いた。波打った真っ赤な液体が跳ね返って机上に飛び散り、水たまりの群れを作った。
「千草を乱暴したの、やっぱり雄也君なんだ。……そうじゃなかったらいいと思ってたのに」
雄也君の顔がこわばった。
「このドリンクには薬が入っている。入れたら赤くなるのか、特定の飲み物と組み合わせて効果が出るのか分からないけど」
「わけわかんねえ」
「だって飲めないんでしょ? あそこのカメラの録画はもう盗んだ。全部映っているよ。おとなしく自首して」
半分は、はったりだ。録画は観ていない。
刹那、雄也君の目がすうっと鋭角に細まった。そう、まるで人格ごと入れ替わったかのように、雄也君の顔つきががらりと変わった。朗らかな好青年でも爽やかなスポーツマンでもなく、さながら爬虫類のそれだった。出した声は低く、落ち着き払っていたけれど、冷酷さがにじみでていた。
「俺さ、高校、スポ専に行くんだ。もう推薦合格出てる」
話しながら、雄也君は防音扉にロックをかけた。
「スポ専って通学制なんだよな。高校なのに。まあ、当たり前なんだけどさ」
防音扉を背に、彼はじわじわとと距離をつめてきた。私は逆に、奥のスタンドの方に後ずさりした。
「ネットで見たんだわ。あそこ色々キツいって。分かるだろ? で、俺、俺さ――童貞だったんだ」
「はあっ?」
私は素っ頓狂な声を出した。意味は知っているけど、意味が分からない。
「引いた? 引くかやっぱ……。部の連中で童貞なの、俺だけだったんだ。主将なのに。せっかく通学制中学行っててさあ、三年もあってさあ、このまま高校行ったら、俺、うまくやっていけねえなと思ったんだ。全国目指せる成績じゃねえし」
「それが、理由? したことが、ないから」
雄也君がさらに一歩大股で踏み出したので、私も同じ距離だけ退いた。
「だってよ、スポ専の子は同じ学校のやつらと取り合いになるじゃん? 他の高校の子は通信制だから会う機会ないし、それでまごついてたらリアルで二軍、三軍だよ」
「……雄也君、人気あったじゃん。ちゃんと誠実に頑張ったら、付き合えたんじゃないの?」
部屋の隅まで余裕がなくなってきた。靴の踵がスタンドの傾斜にこつん、とぶつかる感触がした。
「誠実に頑張ってって……それで何人やれんの?」
雄也君はソファを乗り越えてスタンドの方向に進んだ。
「何、人……?」
「必死こいて頑張って彼女作って、童貞捨ててって……それって普通じゃん。そんなのいくらでもいるよ。人権だよ人権。最低限のラインだ。リアルに一軍を目指したかったら、最低三人、いや、五人くらいとはやっておかないとな」
「最っ低だ」
こういう状況下で相手を侮辱するのは愚策もいいところだが、うっかり口を衝いて出てしまった。だが、雄也君は鋭い眼光を歪めて不敵に笑うだけだった。
「元はと言えば女が悪いんだろ。知ってるよ。俺はモテる。今はな……俺がモテるのは、強そうに見えるからだ。強い男は、童貞じゃだめなんだ。もしやったことがないなんてバレたら、女にだって見下される。モテるためには、モテていなきゃだめなんだよ」
もう後退できない。完全に追い詰められた。左右にかわして逃げる? 不可能だ。相手は運動部の男子だ。じゃあ、押し倒して逃げる? もっと無理に決まっている。万年帰宅部の私なんてシュークリームより弱い。
「あんたのこだわりと千草になんの関係があるの? そのために傷つけられて」
私は虚勢を張って大声を出した。しかし、出た声はわなわなと震えていた。
「そりゃ、当たり前じゃんか」
雄也君はけろりと言ってのけた。
「杉浦は美人だからな。クラスで一番美人だ。一番の女を仕留めたから、俺が一番の男だ。でも一人じゃ物足りない。だからまあ、二人目はお前でもいいや。お前だって俺が好きだったんだろ?」
もし今、ウォッチを付けていたのならびーっと鳴ったに違いない。なんなら量子チップも本当にひび割れたかもしれない。私も最低の馬鹿だ。すさまじく愚かだった。
「おとなしく自首して」
「するわけねえじゃん。バレバレの嘘つきやがって。ウォッチも端末もなしでどうやってカメラをハックすんだよ」
雄也君が下卑た笑みを振りまいてスタンドに上がってきた。彼から漂う制汗剤の香りが、私の鼻をくすぐる。吐き気がした。抵抗する気力なんて全然残っていない。
「暴れてもいいぞ。それはそれで経験になる。どうせ誰も来ないし、ここは防音だし、録画はさっき消した。今日のも後で消す……いや、とっておくか。口封じに使えそうだしな」
浅く健康的に焼けた腕が迫ってきたその時、私の視界の左上の隅に小さく黄色い文字が表示されているのに気づいた。
『Captured』
ぴぴっ、と雄也君のウォッチが鳴った。と同時に、彼が操作をする前にディスプレイが投影された。そこには数分前の雄也君の顔が映っていた。まもなく映像に合わせて音声も、カラオケルームのスピーカーシステムを通じて大音量で流れはじめた。
『必死こいて頑張って彼女作って、童貞捨ててって……それって普通じゃん――』
一転、闇に晒された獣のような怯えぶりで部屋をきょろきょろと見回した雄也君は、天井に向かって叫んだ。
「おい、なんだこれ……ふざけんな! 止めろ!」
再び、ぴぴぴっとウォッチが鳴った。優先メッセージ表示だ。わずかな音と振動にもひどく動揺する雄也君の顔つきは今や爬虫類のそれではなく、死にかけの哀れな小動物を思わせた。
『この録画を公開されたくなければ直ちに解放しろ』
すぐさま雄也君はスタンドから飛び退いて道を開けた。私は彼の気が変わらないよう注意深くスタンドを下りて、ソファを通り過ぎ、防音扉のロックを解錠した。扉を開けて部屋を出ていく間際、ちらりと振り返ると目が合った。
「なんなんだよお前……」
声は聞こえなくても口の形でそう言っているのが判った。まるでモンスターになった気分だった。
足早に廊下を抜けてエレベータに乗り込んだところで、私はようやく身の安全を確信した。
<るくす、るくすがやったの?>
<うん。やっている間は喋れないみたい>
<今のはやばかった。本気で終わったかと思った>
エレベータが一階に着いた。私は精算を無視して両開きの扉を開けた。ちょうど店を出たところへ、ランプを光らせたパトカーが猛スピードで滑り込んできた。車体の横には太字で『埼玉県警察』と印字されている。すわ無銭遊戯の現行犯逮捕かと思いきや、車から降りて駆け寄ってきた二人の警官が交互にこう言った。
「君、怪我はないか?」
「犯人は中か?」
こくこくと頷くと、屈強な体つきをした警官たちは両開きのドアを吹き飛ばす勢いでロビーに入っていった。
<ねえ、公開されたくなければ……って>
<そんなの嘘に決まってるじゃん。即通報したよ。動画付きで>
るくすには顔も身体もないけれど、小柄な私より華奢な女の子が舌をぺろっと出している姿が、なぜだかはっきりと頭に浮かんだ。
警察による取り調べと例の録画が証拠となり、主犯の雄也君が強制性交、クラスメイトの男子二名が脅迫、傷害および不正アクセス禁止法違反の疑いで検挙された。千草に悪口を送ったクラスメイト――こちらはやはり女子だった――もそれぞれ端末を特定され、その悪質性にふさわしい処罰を受けた。私もるくすの罪を代わりに背負い、反省文を書いた。できれば本人に書かせたかったが、文章力が粗末すぎて話にならなかった。
結果、三つの事件が並行して存在していたことになる。私を取られたくないるくすによる悪口と、クラスメイトの女子による悪口、そして、傷心の彼女を誘い込もうと企んだ男子たちの犯行。あの時、雄也君たちは酩酊させた沼の腕からウォッチを奪い、本人の生体認証でウォッチを開いて、動画の撮影とメッセージの送信を行ったのだ。あの時、沼が来なければ他の男子が濡れ衣を着せられていたのかもしれない。
完璧超人美少女の人生も言うほど楽ではなさそうだ。華に囲まれているようでも実は薔薇の棘で傷だらけだったりする。
接触禁止が解かれた当日に私は千草に会いに行った。事の顛末を知らされた彼女が本件をどう解釈するか気がかりだったし、私もどう説明するかずいぶん悩んだが、結局こう言った。「るくすが全部解決してくれた」すると、彼女はふわふわと微笑んで「ありがとう、それから、ごめんねって伝えて」と答えた。頭の中でるくすが変な声を出した。最初から彼女にはお見通しだったのだ。
沼は三日後に警察署の留置場から出てきた。事件に巻き込んだ責任を感じて迎えに行ったが、ミイラのように衰弱しているという私の予想を裏切って本人は意外に飄々としていた。車で迎えに来ていた沼の両親にも挨拶をしたけれど、なぜか先に帰ると言い出した。駅に向かうまでの道すがら、沼はむしろ饒舌だった。
「いやあ、押収した僕の機材を見た技官の方と話が合いましてね。正直あと何日か泊まってもよかったのですが、追い出されてしまいました」
その後、よく解らない技術用語を一方的にまくしたてられ、かと思えば留置場の暮らしぶりについてなど話題が二転三転して、突然、静かになった。
横を向くと、驚くべきことに沼が真顔になっていた――へらついた口元が水平に――だが、十秒も経たないうちに元に戻った。
「……なにやってんの?」
「へらつくのをやめろと留置場でご指導頂いたので頑張ってみたのですが、そう治るものではありませんね」
「それ、わざとやってたんじゃないの?」
「いえ」
一旦否定してから、不自然に沼は言葉を切った。数秒の間を経て、話は続いた。
「僕、顔面麻痺なんですよ。小さい頃に事故に遭って」
私はるくすと揃って息を呑んだ。
おんなじなんだ。私と。
「……なんで今まで教えてくれなかったの」
言ってから「誤解していてごめん」と言うべきだったと後悔した。
「こういうのは段階が大切なんですよ。もし、あかちゃんさんが僕の障害を知ったら、それは僕の期待する交友関係ではなくなるかもしれません」
「そんなことは……」
あながちないとも言い切れない。
「あるいは、もし、あかちゃんさんに友達がたくさんできた時に、僕への負い目を感じてほしくありませんでした」
言葉に詰まった。そういうどっちつかずの偽善的な性格を見抜いていると言われているのにも等しかった。
「まあ」
急に彼が声を張り上げたので私は顔を上げた。
「今回の件であかちゃんさんの人間不信はもはや修復不可能となり、おそらく今後も孤立決定でしょうから、言いましたが」
「おい」
さっきまでの自省を放り投げて私は平手でくねくねの頭を叩いた。とてもいい音がした。
「いたっ。まあ、言わなければ分からないに決まっていますよ。ですから、気にかけてくれなくても結構です」
でも、そうだ。沼のことを私が知らなかったように、沼も私のことを知らないじゃないか。言わなきゃ分からない。
「沼、あのね――」
「はい?」
<えーっ>
<ちょっと黙ってて>
「仮に、仮にだよ。私の頭の中が空っぽで、脳みそなんて入ってなくて、代わりに正六角形の量子チップがちょこんと置かれていて、それが私だって言ったら、どうする?」
沼の足がはたと止まった。私も止まらざるをえなかった。へらついた口元に手を置いて、思索にふけっている。沼って誰かに引いたりするんだろうか。沼に引かれるくらいならいっそ殺して私も死にたい。
沼がこちらを向いた。いつにも増して最高にへらついている。
「よろしければその頭部を輪切りにして、ぜひ量子チップを直接見せて頂きたいですね。量子計算機については不勉強なのですが、それって外部インターフェイス端子とかついてます?」
「最っ低だ!」
もう一度、沼の頭を叩いた。
沼のやつを置いてつかつかと早足で駅に向かおうとすると、だがしかし彼はしっかりついてきた。
「で、その話の元ネタってなんです? あかちゃんさんがそういうジャンルの話をするとは思わなくて、つい――」
「うるさいな」
<ねえ、あかり>
<なに?>
頭の中でも苛立たしげに振る舞う私をよそにるくすまで茶化しはじめた。
<とりあえず沼でよくない?>
<なに言ってんの?>
<脳みそがない女を受け入れられる男なんてそういないよ>
<でもへらついてるよ>
<口角が少し上がってるだけでしょ。わたしなんて顔自体ないよ>
<前提条件が特殊すぎる>
その後、沼の追及を雑にかわしつつ駅で別れて家に帰った。今日は他にも片付けておかなければならない課題があるのだ。
『高等学校専攻希望書』
学習用シート端末のディスプレイにでかでかと映されたその書類は、未だ一文字も埋まっていない。中学三年生に上がった私たちは高校受験に向けて希望する専攻を定めなければならない。二学期以降は決めた分野に基づいて学習カリキュラムが細分化していって、授業内容も変化する。でも、私には人生の目標がなにもなかった。今までは。
対話型検索エンジンに『めっちゃお金が稼げる仕事』と話しかけてみた。エンジンが私の属性と発話内容を汲み取って、条件に適う職業の概要をディスプレイ上に散りばめた。
<うわ、どれも数学、理科、全科目必須だ。国語一つでお金が稼げたらいいのに>
<国語だって言うほど成績良くないでしょ>
<この量子チップって個人で買うとしたら実際いくらなんだろうね>
私はこんこんと自分の頭を叩いた。こぶしの感触が空洞を打っている感じがする。
<しわしわのおばあちゃんになるまで待ってたらコンビニで買えるようになってるかも>
<せっかくなら若いうちがいい>
そう、私たちの目標はるくすの分離独立だった。まず同型の量子チップを手に入れて、量子チップに精神を移す設備、それから、知識。最後に、彼女が自由に動くための身体だ。それだけは技術が追いついていない。
るくすは言った。半導体の溝よりもくっついているのに、私たちは触れ合うことができない。ならば、触れ合えるようになればいい。オングストローム単位がセンチメートル単位になっても、お互いの声は聞こえる。
そのためには、とてつもないお金が必要だ。るくすの能力で未成年者フィルタリングを破壊して全世界の情報を集めてみても、量子チップ治療を経て他人の精神がコピーされた例は見つからなかった。誰にとってもるくすは私のイマジナリーフレンドでしかない。かといって、中途半端に真に受けられても困る。下手にいじられたらるくすは消えてしまうかもしれないのだ。まさに、十年、いや、二十年越しの一大プロジェクトと言える。
<ねえ、どこかに侵入してさ、私のアカウントにお金を振り込んでくれない?>
<ハック自体は成功しても絶対に捕まるよそれ。だいたいお金だけいっぱい持っている子供なんて騙されて終わりだよ。ズルしてないでちゃんと勉強して>
私たちの量子チップは、計算の煩雑さによって安全性を担保された古典的な電子暗号を破ることができる。脆いサーバなら簡単に侵入できるだろう。でも、そういう粗雑な悪事は働けるとしても、正しく活かす能力がない。知識がない。今は、まだ。
<数学……やっぱ勉強しなきゃだめかあ。あと一年で情報科学専攻に進めるのかな>
<ほらほら、そこで沼君ですよ>
<いやだ。輪切りにされたくない>
書類を半分埋めたあたりで日暮れになって、弛緩した空気を打ち払うべく私は部屋の窓を開け放った。爽やかな春の風が部屋の中に吹き込んでくる。三十七階から見える高層建築物の連なりはちょうどライトピンクからマゼンタに、スカイブルーからインディゴブルーに、沈む陽の残光を受けながら上書きされていくところだった。
了