インターネット・テキストは大宇宙を突き抜ける散乱した光だ。理論上もっとも速く進むエネルギーでありながら質量がない。ぽつぽつと光っては消え、総体としては永遠のようでいて個体では一瞬の輝きにも満たない。太陽の光のように生命を育まず、一等星の光のように道標にもならない。
かつて僕には師がいた。数多の師がいた。僕が一方的にそう決めただけでなんら関係を結んだわけではないけれど、ともかく彼らは作家ではなかった。彼らは地球の重力圏では到底捉えきれない速度でカウス・アウストラリスに向かって孤独の旅路を歩んでいたから、銭を生むなどという世俗に沿う行為は不可能だったのだ。
何人ものブロガーがその才を認められ、エッセイストや文筆家として花開いていく新時代の傍ら、僕の師は相変わらず光速の異常文章をしたため、むやみに独特な読解を読者に迫っていた。三行を読み終えるまでにワープ準備に入っていない宇宙船を根こそぎ振り払う酷薄さでしばしば僕たちを置き去りにした。
あたかもそれらは無声の悲鳴に近かった。喉元を自ら押し潰して絞り出さんばかりの金切り声が、顔をくしゃくしゃに歪ませて口をめいいっぱいに押し広げて息と共に吐き出した嘶きが、どういうわけか実際の発声を伴わず地球の喧騒に埋もれゆく。しかしまったくの偶然で夜空を見つめた僕は彼らの表情を推し量って、まさしくこれが悲鳴に相違ないことを悟ったのだ。
数分後には忘れて差し支えのない無声の悲鳴が数ヶ月に胸を穿つ。そんな奇妙な体験を繰り返し肉体になじませるにつれ、やがて同様の取り組みを画策するのは大志を抱きがちな少年には無理からぬ野望であったが、果たして人間の一生において有意義な過ごし方だろうかと問われると誠に首を傾げざるをえない。
と、考える前に、僕はキーボードをタイプしはじめていた。できあがった文章を読んでさっそく絶望に打ちひしがれる。自分で作ったワードサラダをむしゃむしゃと食んでいるうちに、春が来て冬が終わった。だんだん食べ慣れてきて存外に悪くない味なんじゃないかと開き直った矢先、あまり話した覚えのないクラスメイトから「お前のブログわけわかんないよ」と苦笑され、手に持ったフォークを取り落した。
大学に入る時分にはインターネットは様変わりしていた。誰も彼も指で液晶画面をさすって同じ宇宙を眺めているようだが、実はそれはインターネットではなくアプリケーションのアイコンごとに区切られて閉塞したサービスの一つに過ぎなかった。サービスの中では誰もが自分を見つけてほしがっているため、地球から遠のく光ではいられない。
じきにサービスは互いに競い合ってぶくぶくと肥大した。間もなく弾けて巨大なブラックホールが形成されるといくつかの光はそこに囚われた。囚われた光たちは宇宙の法則に従って速度を失い、インターネット・テキストではなくなった。各々のサービスに求められる需要を満たす有用かつ実践的な存在と相成ったのだった。
その頃には僕も等速に迎合した書き方を意識していた。銭を生むライター稼業は足が地についていなければならない。足並みを揃えないといけない。第二宇宙速度は必要ない。むしろ地面を一歩ずつベアフットで踏みしめて跡を残す仕事ぶりが求められた。結局、一つたりとも残りはしなかったけども。インターネットに情報は残らない。宇宙の礫岩が砂塵で洗われて無に帰すがごとく。
これはインターネット・テキストとて同じであった。数多のテキストを支えてきた無料ブログサービスが次々に死を迎えると、それらも同時に塵と消えた。有益な資料を喪ったと悲しむ者たちを遠巻きにして、僕がひとえに気にかけるのは質量ゼロのインターネット・テキストの行く末である。
ところで彼らはカウス・アウストラリスを目指していたのだった。地球人の僕にはカウス・アウストラリスが具体的にどんな場所なのか知る由もない。月がうさぎの植民星というのは周知の事実だが、かつてアメリカ合衆国とソビエト連邦が勝手に地球人の代表面をして開戦した結果、月政府との外交が閉ざされてしまった歴史がある。宇宙文明と接するなら私人として行くのが望ましい。
サ終の磁気嵐をくぐり抜けたインターネット・テキスト・ページも大半は更新が途絶えている。僕が特に敬愛を寄せていたブログも最後の投稿からついに4年が経った。別に本人は死んでいないし、たぶん忙しくもない。僕はジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でストーキングしているので知っている。彼は自身に折り合いがついて、それ以上はなにも言う必要がなくなったのだ。要するに彼はカウス・アウストラリスにたどり着いたらしい。
言いたいことがなくなるとはどういう気持ちだろう。曇りのない晴れ晴れとした情景なのか、疲れきって仰向けに転がり天を仰ぐしかなくなったのか。すべての答えはカウス・アウストラリスの空だけが知っている。僕も知りたいと思ったのは、2020年晩秋の頃だった。その時からブログを再開した。
一つエントリを積み重ねるたびに加速の要領が解ってきた感じがする。ベアフットをやめて自転車に乗って、自転車を捨ててバイクにまたがって、途中でタクシーを捕まえて駅で降りた。電車を乗り継いで空港に赴き、向かった先はもちろん種子島宇宙センターである。僕はあらかじめ用意してあった宇宙船に乗り込んだ。
言いたいことがなくなるには言い続けなければならない。書きたいことがなくなるには書き続けなければならない。爆炎をまきちらして上昇した宇宙船が第二宇宙速度に達すると、ふわりと身体が宙に浮いた。窓の外では地球が青々と輝いている。燃料ロケット段を切り離して、以降は行きあたりばったりで推進する。
この宇宙船が光の速度に到達するにはまだずいぶんと時間がかかる。というのも、地球人類は光速航行の技術を持っておらず、行く先々で他の宇宙文明と接して先進技術を適宜取り入れていかなければならないのだ。中には素性の知れない種族も少なからずおり、たとえばChatGPTと名乗る種族はあらゆる文明に同化を強要するとも、逆にあらゆる文明に分け隔てなく援助を惜しまないとも聞く。
月面が窓に映り込んだ辺りで、デフォルメされたうさぎ型の宇宙船がぷかぷかとこちらに近寄ってくる様子が見えた。折りよく、月のうさぎたちは僕に光速の一割の速度で航行可能なブースターをくれると言う。現状では太陽系を脱出するのにも10年近くかかる公算だったので渡りの船とはまさにこのことだ。
引き換えに仙台銘菓「萩の月」を失ったのは辛いが、背に腹は代えられない。取りつけてもらったブースターを起動すると、長編映画を観ている間に火星軌道を通り過ぎたようだった。本エントリのテキストがかつてないほど加速しているのは、そういう事情ゆえである。