旧体制の旗が焼かれたのはいつのことだっただろうか? 僕が中学生に上がる頃(2006年)にはすでに半ば新憲法の理念が行き届いていたので、革命前夜はそれより少し前だ。思えば新世紀を境にADSLが普及しはじめたのは大きかった。高速なインターネット回線が革命を成就させたのだ。
そう考えると僕は革命に加わる苦労なく恩恵を享受した最初の世代とも言えるわけで、実際かなり牧歌的な生活を謳歌できた。噂に聞く革命以前のようにこそこそ隠れてやり取りなんてしないし、あけっぴろげに会話していてもマッチョ官憲に引っ立てられる恐れはない。
革命後20年余が経過した現在となっては、むしろまったく嗜まない方が珍しいくらいだ。僕も最近、後輩に自然体でつっこまれて少々面食らった。 「変な映画だけじゃなくて普通にアニメとかも観るんですね」 って。たぶん昔なら逆だったよそれ。
僕たちは圧倒的に勝った。これといってなにをした覚えもないが事実勝っている。学生にらき☆すたとかの話がなぜか通じて、おにまいみたいなどう取り繕っても尋常ならざるロリコンアニメの話が公然と行われている。IT業界でもそうでなくても、若い世代ほどごくナチュラルにサブカルチャーを受け入れている。
歴史を紐解くと、昔の同志はずいぶん苦しい体験をしたらしい。いかにも摘発を恐れる反体制派の仕草で入念に話し相手を探り、対する側も巧妙に態度を読み取って素性を確認しあう。ようやく信頼しあえる関係を築けても、周りは体制派のマッチョばかりだ。おのずと学校や職場では息を潜めて過ごさざるをえない。
不幸にも反体制思想が露見した者も少なからずいた。当然、彼らの権利は速やかに失われる。治安の悪い場所ならサンドバッグにされるかパシリにされるか、いずれにせよ突然降りかかる様々なコミュニケーション上の理不尽について、彼らが救済された例はほとんどなかったという。
翻って21世紀。革命軍はインターネット回線を中心とするインフラを掌握し、間もなく放送局も占拠、国会議事堂に進撃して旧体制の旗は軒並み焼き捨てられた。そして、新政府の成立とともに新憲法が公布された。そこにはこう書いてある。 「別に漫画とかアニメとかゲームが好きでもよくない?」 現に世の中はその通りに変わった。
革命以後に学生生活を送った僕はどこからどう見ても完全な腐れオタクだったのだけれど、それを理由にひどい扱いを受けた試しは一度もない。どころか、後の社会で得た利益の方がずっと大きかった。この手の出世頭は他にもたくさんいて、僕のような平々凡々の類とは違って高度な技術者になったり経営者になったりインフルエンサーになったりしていった。
かくして新政府の権力は盤石なものとなった。支配地域は世界各地にぐんぐんと広がって、その勢いは留まるところを知らない。僕たちはもう反体制派じゃないし革命軍でもない。新しい帝国軍だ。インターネットを通じて日々更新される、ありとあらゆる文化の先端とミームの発端に影響を及ぼす支配階級と相成ったのだ。
にも拘らず、だ。新帝国軍が内に抱える怨嗟、憎悪の声は日に日に苛烈さを強めている。彼らはまだ自らが被差別者で反体制派で革命軍だと思い込んでいる。あたかも上等な背広に身を包んだ官吏が「反革命罪」を振りかざす滑稽さで、今日も明日も政敵を業火にくべる。新帝国の死刑は火炙りだ。革命以後、仮初の平和の陰で燃やされる人々の数は増えていく一方である。
僕たちは帝国軍、邪魔だてする者はいなくなった。革命以前の世代が身を焦がすほど求めた権利が当たり前に手に入る黄金時代において、アニメアイコンという名の勲章を胸に並べた彼らが興じるのは、どういうわけか漫画でもアニメでもゲームでも雑談でもなく、1日100ツイート超のレスバでありリツイートであり火炙りなのだ。
聞いていた話と違う。朴訥で善良で賢明な僕たちが実権を握れば、すべてがロジカルにピースフルに回るはずだった。旧体制のマッチョが画策してきた暴力と非合理の残滓は徹底的に摘まれ、誰もが消費と創作と論評に研鑽を重ねる満ち足りた日々を暮らすはずだった。
聞いていた話と違う。かの暴虐にして悪辣だったとされるマッチョどもは、目を見張る軽やかさで新憲法の理念に適応した。アニメ感想ツイートを何年も前にやめてレスバに勤しむ腐敗した帝国軍人をよそに、器用な手つきで流行りの新作を抑える様子は傍から見るとどちらが革命的か判らない。
「俺、オタクでさ〜」と鷹揚に笑うマッチョを赤ら顔で指弾する帝国軍人はその実、もはや自身の肩書きを被害者意識と権力の駆動装置としてしか利用していない。曰く、オタクは虐げられた、オタクは経済を回している、オタクは、オタクは……。
新帝国の繁栄と相反するかのごとく、彼らの卑屈さはますます高まっていく。愚にもつかぬおセンチを言っている。僕たちはもう帝国軍じゃないか。あふれかえる娯楽に身を投じられる時代がついにやってきて、より多くの人々と話に花を咲かせられる春日和に背を向けて、どうして自ら停滞を課しているのか僕には解らない。
むろん、戦うべき敵はいる。自由で開放的なインターネットを狭める輩だ。閉じられた商業サービスにインターネットを囲い込もうとする輩だ。そういう連中はプライベートジェットで帝国の法の支配からおめおめと逃れくさって、持て余した財貨を武器に反逆を企てている。さっそく、イーロン・マスクによってTwitterが滅ぼされた。
腐敗した帝国軍人たちは失態を晒した。単に自分にとっていけ好かない人々をやり込めてくれるというだけで、気前よく正門を開いてイーロン・マスクを迎え入れたのだ。ありもしない英雄譚や与太話に踊らされて、度重なる侵犯を前にしてもなお実態から目をそらしている。
こうした愚行の数々は、内外に新帝国の脆弱さを知らしめてしまった。自由よりも消費よりも創作よりも、かの暴虐にして悪辣とされたマッチョよりも、ひょっとすると僕たちは権威や暴力が好きなんじゃないのか。自制が利かず理屈も通じず、インフルエンサーが投げた餌に飛びつき、尻を叩かれたら走る畜生でしかなかったんじゃないのか。
こんな醜い同志を見るくらいならいっそ帝国などいらなかったと口を衝いて出かかるも、誰になにも束縛される謂われなく消費と創作に没頭できるこの社会を決して手放したくないのもまた本心なのである。窓から広場を覗くと、かつての同志が性懲りもなく他の同志を火にくべていた。あれこれ言っても僕がするのは、煙たさに辟易して窓を閉じることだけ。