数ある「ざまあ」系の中でも、ツンデレヒロインに対する「ざまあ」を見た際には相当な激情を覚えた。要するに、物語上でしばしば主要な立場を占める横暴な彼女らに冷や水を浴びせてやろうという趣向だ。率直に言って、なんてひどいことをするんだと思った。
この手の話では優しく健気な女神のごとき真ヒロインがツンデレヒロインに取って代わる。そうして主人公は彼女らに三行半を突きつけ、さしものツンデレキャラも過去の行いを反省するがもう遅い、といった顛末で物語は幕を閉じる。ひどい、ひどすぎる、あんまりだ。分かった、じゃあ僕がそのツンデレとよろしくやろう、などとモニター越しに絶叫してみるものの、当の彼女らが愛しているのは他ならぬ主人公なのだった。
時に、90年代後半から00年代。空前絶後のツンデレブームが巻き起こった。この時代、ありとあらゆる作品で正ヒロインがだいたいツンデレという圧倒的な優遇ぶりに拍車をかけて、ついに彼女らは暴力系ヒロインを一つの到達点として迎えるに至った。文字通り、暴力を容赦なく振るうヒロインである。幸か不幸か、こんな時勢にジャパニーズ・サブカルチャーの洗礼を浴びたオタクどもは、多分にもれず女の子にいびられるのが好きだ。
それはもともとオタク各位が持ち合わせていた消極性ゆえの弱みを、いびつな形であれうやむやにしてくれる需要に下支えされていたに過ぎなかったのかもしれないが、実のところ一定数のオタクは確実に女の子にいびられるのを好むようになったし、今でもどこかで目尻の尖った美少女に無理難題を言いつけられるのを待ち望んでいる。
しかしここで問題となるのは我々の加齢とは無関係に、任意のツンデレヒロインが常に美しい少女であることだ。彼女らが高慢で男子顔負けの暴力を駆使するとしても所詮は10代のティーンであり、その感性や意識はあくまでティーンの領分に留保されている。
もし我々の需要が個々の内面の方にこそあるならば、我々のライフステージの変遷に合わせて対象も成長させて然るべきではないのか。30代、40代の彼女らを想像していいはずだ。加齢に伴い価値観が変わりゆく彼女らを想像できるはずだ。そういう向きもあるところにはあるらしいが、ついぞ僕には獲得できなかった。
僕にとって彼女らはいつまでも10代のままだ。最初に出会った時はむしろお姉さんだった彼女らと気づけば歳が並び、追い越し、すでに妹扱いも険しくなりはじめ、いつかは親子ほどの年齢差を隔てると解っていてなお、老化していく彼女らの姿を受容できない。これは現実で年相応の異性と褥を共にしていても決して頭から離れない、呪いにも等しい宿痾なのだ。
ルッキズムとエイジズムの呪いだ。いついかなる時でも、脳裏に永遠の美少女が居座っている。イマジナリーフレンドではないが、今までに蓄えた属性、表象の総和として彼女らはデータベース的に存在する。一見、それぞれに確かな性格や特徴が付与されているようでいて、僕はこの子らの若く美しい部分にもっぱら惹かれている側面を否定しきれない。
なるほど僕はそばかすが生えた女の子が好きだ。声が低くくてだみ声っぽい女の子が好きだ。髪質がごわごわで毎朝のヘアセットに手間取っている女の子が好きだ。だがこれらはどう言い繕っても顔の左右対称性や均整のとれた体型といった素地の豊かさに支えられている。いわば、味変用に供されたエスニックソースのような代物にほかならない。いっそ純白の肌を湛えた黒髪ロングストレート一択の方がどんなに潔い態度か僕はこのほど思い知らされている。
というのも、脳裏に居座りし美少女はキャラクターを造形する際にも強く影響を及ぼす。いかに複雑で凝った人物をこしらえても、なにがしかの美少女表象を経由した疑念が拭えない。すべてを受け入れる美少女の素地はその実、あらゆる設定をたちまち骨抜きにしてしまう。本来込められたメッセージを打ち消して物語と属性を消費的に発散させるのだ。ひとたび扱いに依存すると、なんであれ美少女はエモく、クソデカ感情を喚起させ、わかりみが深いという画一的な軽薄さに陥る。
僕は創作で「美しい」とか「可愛い」に類する語句を人物に極力用いていない。せめて想像の余地を残して、美少女表象を引き剥がそうとする試みだ。むろん、結果は芳しくない。作者が「一言も可愛いとは書いてない」と言い張ったところで、具体的に指定していなければ凹凸の少ない左右対称の顔つきが想定されるのは明らかである。
このように、無限大の想像を可能にするはずの文章でさえ美少女表象は強力に物語を支配する。ルッキズムに抗おうとあれこれ策を講じても、逆に上塗りにしかならない。こんな紀元前から繰り返されてきた議論をあえて蒸し返す背景には、僕自身がアダルトどころかミドルエイジを目前に控えている状況がある。少年少女の当事者性を失ってだいぶ久しいのに美少女表象を擦る現状には、単なる趣向を離れた依存じみたものを懸念させる。
現に自ら紡ぎ出した物語が僕の脳裏の美少女をますます強固にして、今まさに足を組んで得意げに居座っている様子がありありと浮かぶ。いつか表象なくしては物語が書けなくなってしまう前にどうにか彼女らを追い出さなければならないが、およそ半生に渡り蓄えられ続けたそれに打ち勝つのは容易ではない。僕は日々、想像の隅々にまで押し入ろうとする彼女らを相手に一進一退の攻防を繰り広げている。
ところで冒頭の「ざまあ」の話に戻ると、あれはひょっとするとルッキズムに対する一つの回答なのかもしれない。もし件の作品群が特権的な美少女表象とその支持者に頬を張る戦略的意図で書かれているのだとしたら、僕はなんとも反論のすべなく引き下がるしかない。