2023/06/14

ショットガン装備

 通学路の道すがら、通りかかる交番にはショットガンが架けられている。大人が三人も入ったらぎゅうぎゅう詰めになりそうな手狭な空間の中で、それはいっそう神々しい異彩を放って僕を釘付けにした。まるで御神体みたいだと思った。
 「熊が出るからな」と言葉少なめに言うのは僕の兄だ。長老みたいなお爺さんと入れ替わりに兄が警察官になったのが十年前で、僕がショットガンに惹かれたのも同じ頃だった。
 「じゃあ兄いは熊が出たらこれを使うの?」と前のめりに質問すると彼はやや間をおいて、やはり手短に「まあな」と認めた。壁に備えつけられた透明な箱に鎮座するショットガンは、アクション映画に出てくるものとそっくりに見えた。これで撃たれたらひとたまりもなさそうなのは当時でもなんとなく想像がついた。
 学校でも、家でも、近所でも、大人は口々に「山さ入ったら死ぬぞ」と僕を脅した。この村ではどんな子供も熊の存在に脅かされて育つ。『行くなと言われて行った子、みーんな死んだ』という題名の絵本も発行されていて、どの家にも人数分置かれている。悪事を働いた際の殺し文句はもちろん「熊に食わせる」だ。
 毎日、登校するたび僕は「御神体」に祈りを捧げた。熊が人里に現れた時には、これが僕たちを守ってくれる。兄が朝の巡回で交番を空けるこの時間、誰もいない直方体の家屋の奥に佇むショットガンはいよいよ超然としてきて、あたかも交番が聖なる祠と化したかのように感じられた。
 ところが、そんな厳かな儀式も巡回を早く切り上げて戻ってきた兄に見つかると、昔の調子でめちゃくちゃ馬鹿にされた。
「きしょすぎるよお前」
「だって、熊をやっつけてくれるわけだし」
 僕はもごもごと口答えをした。
「ていうか、兄い、こんなごついの本当に撃ったことあるの?」
「当たり前だろ。じゃないと本番で使えねえ」
 兄は室内に置かれた書類棚をいじりながら背を向けて答えた。僕の脳裏には、たちまち大きな射撃練習場かどこかでショットガンを構えている兄の姿が描き出された。「すっげえ」と息を漏らした。
「村の”守人”だからな、俺は」
「もりびと?」
「守る人って意味だ」
 兄はそう言って振り返り、細い紐で首に下げた金色の小さな板を指でつまんで見せた。
「これがそのお守りだ」
 語彙不足だった僕はまたもや「すげえ」と答えた。
「お前、銃好きなん?」
 兄の顔はいつになく真剣そうだった。
「うん、まあ」
 質問の意図が掴めずに応じると、彼は途端にいたずらっぽい笑みを浮かべてこう言った。
「いいか、内緒だぞマジで。バレたらクビだからな、俺」
 一旦、僕を室内に押し込んでから外をきょろきょろと見回した兄は、まもなく戻ってきて透明な箱の鍵穴に鍵を差し込んだ。中を開けてショットガンを取り出すと、僕の方へゆっくり差し出した。
「ほら、持ってみろ」
 思いがけない出来事にどぎまぎして銃身を両手で掴んだが、兄の手が離れるやいなやずっしりとした重みと、ごつごつした感触が一挙に伝わってきて危うく取り落としかけた。「馬鹿、気をつけろ」彼は後ろに回り込んで僕の両腕を掴んだ。
「構え方はこうだ」
 自分の半身をはるかに上回る大ぶりの銃身は、兄の補助なしではとても一人で支えきれなかった。兄のたくましい胸筋と両手にほとんど身を任せて、僕はなんとかショットガンを装備した。
「お前も警官になれよ。俺が楽できる」
 背後でおどける兄の言葉にほのかな高揚を覚えた。
「僕になれるかなあ」
 あの時の僕は無邪気に笑ってそう答えたものだった。


 スマホで設定した時刻の三十分前には目が覚めていたが、布団の底でもぞもぞやっている間に結局アラームが鳴り響いた。やむをえず部屋を這い出て、平屋に典型の細く長い廊下をだらだらと歩いた。一歩歩くたびにみしりみしりと大げさに木材が軋む。思えば、昔からそうだ。今日こそは床が抜けると淡く抱いていた期待はいつしか忘却の彼方に追いやられた。
「おはよ」
「あんただけだよ食べてないの」
 食卓はすでにあらかた片付けられていた。机の隅にぽつんと一食分の朝食が取り残されている。
「兄いは?」
「巡回じゃないの」
 交番勤務の兄は毎日決められたスケジュールで朝晩に巡回をしている。乾いた目をこすりながらのろのろと食卓について、まず冷めたトーストにかぶりついたところでのしのしと足音が迫ってきた。我が家では誰かが近づくとすぐに判る。この重量感たっぷりの足音は父に他ならなかった。
「今さら朝飯か」
 頭をごく短く丸めて顔いっぱいに皺を刻んだ父は、もうツナギをそこそこに汚して農作業を終えた様子だった。父は早朝に兼業農家としての仕事を済ませると、手早く着替えて街のスーパーに出勤する。農業の経験を買われてあてがわれたスペシャルアドバイザーとかなんとかいう特別手当によって、他の従業員よりも給料が二万円高いのが父の自慢らしかった。
「部活、引退したから」
 わざとパンを口に含んだ状態で答えると、父はふんと鼻を鳴らした。
「だからってだらだらしてんなよ。お前はじきに巣立つんだ」
「まだ夏休みも冬休みもあるじゃん」
「あっという間に終わるぞ、そんなの」
 中年にしてはたくましい巨躯をどしんと食卓の椅子にあずけて、父は母に向かって短く伝えた。
「茶を淹れてくれ」
 それから母が持ってきた湯呑みを一回すすり、ふう、と息を吐くと、急に態度を変えて言い直した。
「まあ、あんだけヤンチャしてた清一が警官になったんだ。陸上がダメでもなるようになるだろ」
 自他に言い聞かせるような言い草に少々苛立ちを覚えたものの、折りよく朝食を食べ終わったおかげで顔に出る事態は避けられた。
 しかし事実、兄の暴れん坊ぶりは県下に轟く勢いだったらしい。家業もろくすっぽ手伝わずに毎日、先輩から強奪した単車で街に繰り出しては夜遅くに帰ってきた。顔にも身体にも生傷が絶えなかったが、喧嘩で負けたことは一度もないという。当時の僕はそんな時間にはとっくに寝ていたから、兄と顔を合わせる日は週に一度あるかないかだった。街の美容室で髪を金ピカに染めてきた時などは、家に他人がいると勘違いして悲鳴をあげかけた。
 兄は「馬鹿、俺だよ。これ、街で流行ってんだ」と屈託なく笑いかけて、勝手に冷蔵庫を漁って食べた後の容器を放ったまま単車でまたどこかへ出ていった。子供心ながら、厳格な父はいずれ兄に厳しい制裁を加えるだろうと予想していたが、なぜだか父は「やりすぎたら俺が言うからほっとけ」と言うだけで事実上の黙認を決め込んだ。なんでも兄は「そういう時期」で、誰しもそうなる場合があって、一段落つくと急にまともになるのだとか。こうして日々、不規則な時間に残置される食器や洗濯物の始末に追われる母の不満が蓄積された。
 ところが結果的に父の予言は成就する形となる。ある日、兄は髪を短く切って黒く染め直し、めっきり街に出かけなくなった。「警察官になる」と食卓で宣言して以来、見違えるように生活態度が変わって、とうとう本当に警察に就職してしまった。この時ばかりは父も涙を流して兄を抱きしめ「お前は自慢の息子だ」と言ったとか言わないとか、そういう話を母から聞いた。
「俺は兄いじゃねえんだよ」
 食卓を離れる寸前につぶやいた僕の一言が父の耳に入ったかは分からない。
 家を出て数歩も歩かないうちに鬱蒼と生い茂る山々が遠方に見えた。まばらに点在する家屋や田畑を窪地に、この一帯は山に取り囲まれている。他には特になにもない。スマホが言うには、こういう地域を限界集落と呼ぶそうだ。味気ない山々の緩い稜線を目でなぞりつつ、視界の端に村で唯一の診療所や商店、神社が映ると視線はいくぶん直線的に移動した。
 もっぱら登校中はこんな時間の潰し方しかできない。歩きスマホなんてしていたら即座に隣近所に噂されて、父の耳にも高校の先生の耳にも伝わってしまう。毎年、毎年、根気強くねだって「部活も終わったしな」とずいぶん投げやりな名目でようやく買ってもらえたスマホを、むざむざしょうもない理由で取り上げられたくはない。
 昨日は道路の脇を流れる――流れているのを見た覚えは一度もないが――用水路のぴくりとも動かない水面を観察しながら登校した。部活を引退してからというもの、登校中に眺める景色のローテーションがだんだん固まってきたように思える。昨日は用水路、今日は山、明日は家のはずだったが、しかし今日はうっかり浮気して両方見てしまった。
 道路を直進すると、定型句の掛け声と共に朝練のランニングをしている集団と出くわした。僕の姿を認めるやいなや集団は大声で「清二先輩! チーッス!」と叫んだ。「うっす」と雑に返すと集団は一人ひとり会釈してすれ違っていく。しばらくして振り返ると、神社の鳥居に向かって集団が一礼する様子が見えた。
 ついこないだまでは僕もああしていたのだ。毎朝五時半に起きて、学校で朝練をして、授業が終わると部活動をして、グラウンドから集落の路面という路面を走り倒して、行き交う人々のすべてと挨拶を交わして、神社の鳥居に一礼する。そういうルーティンが約二年半続いたが、最後の県予選で敗退した瞬間にあっけなく終わった。世間では当たり前に行われている受験や就活とも縁遠い僕は、もはや消化試合的学校生活を後に残すのみとなった。
 そうこうしている間に、兄が勤める交番に通りかかった。実質、人生のメインコンテンツと言っても差し支えない「御神体」は、今日も変わらずそこに架けられていた。
 フランキ・スパス12。イタリアのフランキ社が設計した散弾銃。装弾数は最大で八発。スパス(SPAS)とは"Special Purpose Automatic Shotgun"の頭文字で「特殊用途向け自動式散弾銃」の意味を表す。スマホのおかげで銃にはかなり詳しくなった。透明の箱の中で垂直に鎮座するごつごつしたそれは今もなお僕の信仰対象だ。
 写真を撮りたい。
 鞄の奥底にしまいこんだスマホをにわかに取り出したい誘惑に駆られた。写真を撮っておけばいつでもショットガンを見られる。実物を拝まなくても済むということにはならないが、土日にまでわざわざ出かけるのは気恥ずかしい。
 僕は左右を入念に見回した。誰もいない。
 鞄の奥からすばやくスマホを取り出してカメラアプリを起動した。できれば角度をつけて”映え”を意識したかったが、そんな余裕はない。
 無難に被写体を中央に収めて、撮影ボタンを押しかけた、その時――
「おい」
 交番の奥から痩身とはいえ父譲りの体格をもった兄が、ぬうっと前傾姿勢で現れた。交番は奥の部屋が畳でできた仮眠スペースになっている。
「スマホしまえ」
 有無を言わさぬ命令に気圧されて僕はスマホを鞄に押し込んだ。「兄い、巡回は?」醜態をごまかす引き笑いを伴って尋ねると、彼は言葉少なめに「もうやった」と答えた。だが、話はそこで終わらず「見るのはいいけど写真は撮るな。マジで」と鋭い眼光で釘を刺してきた。
「なんで撮っちゃいけないんだよ」
「なんでもだ。次やったらぶっ飛ばすからな。いいから学校行け」
 元不良の剣幕で言いつけられた僕はそそくさと場を後にした。
 高校は集落の終端に小中学校と向かい合う形で建てられており、ただでさえ狭いグラウンドを小中学校と共有している。だから「走れればいい」と見なされている陸上部はグラウンド以外のどこかで走らされることが多い。
 言うまでもなく劣悪さを極めるこの教育環境からは、小学校、中学校、高校と進むたびに多くが街の学校へいち抜けしていく。平易な難易度で知られる街の公立にも受からず、無条件入学のバカ私立にすら入れてもらえなかった素寒貧の子息だけが、環境にふさわしい悪性を携えて我が校の門をくぐるのだった。
 敷地に入ると、さっきまで遠景だった山々が間近に迫っているのが感じられた。稜線にぐるりと取り囲まれてどこに行っても出口がないかのようだ。空を覆う灰色の雲と夏の蒸し暑さに頭を抑えつけられている。
 まるで檻みたいだな、と思った。


 たった一つしかないクラスの教室に入ると、前半分を数名の生徒、後ろ半分を別の数名の生徒で占めている日常の光景が目に入った。淀みのない動作で後ろ半分の集団に加わり、予定調和的に「うす」「おす」などと言い合う。
「あいつらすげーぞ、さっきからずっとカリカリ勉強してんの」
 懸命に髪型を成形した努力が垣間見える跳ね頭の良也ことリョウが、こちらに背を向けてシャーペンを走らせる一群を顎でしゃくった。部活引退後、厳しかった頭髪規制はなし崩し的に解禁されて整髪料や染髪さえ許されるのが当校の伝統的習わしだった。そういう事情だからか両隣に座る重信も圭佑も、なにがしかのヘアセットを施した形跡が認められる。
 みんな、小学校からの腐れ縁で部活も同じ陸上部に所属していた。野球もサッカーも人数不足でチームを組めないから仕方がない。リョウがもっとも速く、僕が二番手だ。しかし所詮はこの中の序列であって、どんな脳筋も必死で目指す街の高校はもちろん、県下の高校が一堂に介する県予選においてはてんで話にならなかった。
 人間関係もえてして振るわず、小学校、中学校のうちは親しく付き合っていた友人たちも、街の学校へ進学した途端にことごとく交友が途絶えた。とはいうものの、僕も逆の立場ならそうしていたと思う。
「受験まであと半年だ、当然だろ」
 僕はため息をついて近くの席に座った。一学年一クラスしかなく合計十名にも満たないここでは、定められた座席につくルールがない。おのずと真面目な生徒は前に固まって、授業を聞く気などさらさらない我々は後ろへと集まる格好となる。
「俺なら秒でギブだね。ていうか教科書の漢字が読めねえ」
 禁断のツーブロックに手を出した重信ことシゲは自嘲気味に笑いを漏らした。
「でもやつらだって一年の頃はそう大差なかったぜ、数学は九九から始まったしな」
 ロン毛育成中の圭佑ことケイが応じた。実際、その通りだった。最低限の勉強ができれば誰もこんな吹き溜まりには来ない。彼らもその点はおおむね同様だった。だが、三年もあれば人間は大いに変わる。やればできるという言葉はきっと眼前に並ぶ四角い頭たちのためにあるのだろう。噂によれば、恐るべきことに国立大学を受験する猛者もいるという。一生に一度だってそんな場所に立ち寄る機会が訪れるとは考えられなかった。
「俺らどうするんだろうね将来」
 シゲがぼそりと言う。
「こんなとこには求人票も来ないしな」
「まあ少なくとも清二は兄貴と同じ警官じゃねえの、なりたがってたし」
「俺は……どうかな、あれだって試験がある」
 僕は自信なさげに答えた。常に背中を追っていても自分と兄は大きく違っていた。兄は小四で最初の不良伝説を打ち立てたが、同じ年頃に僕は図書館で漫画を読んでいた。せめて小難しい本を読めるくらいにもっと違いがあればよかったのに、なぜか地頭の悪さはしっかりとそっくりだった。その一方で、いきなり不良を辞めて警官に転身するような即決即断の決断力はどうやら受け継がなかったらしい。
「俺はインフルエンサーがいいな、スマホ一つで成り上がるとかカッケエじゃん」
「寝言は寝てから言えよ。お前のTikTokとInstagram、どっちもくそつまんなすぎ」
 リョウの高らかな宣言に食い気味でケイがつっこみを食らわせた。彼は決まった時刻になるまで先生が教室に入ってこないのをいいことに、尻ポケットから真新しいスマホを取り出すとリョウの投稿動画を再生した。五百ミリリットル入りのコーラを五秒で一気飲みするという内容だった。確かに五秒以内には飲めていたが、だからなんだという話ではある。飲み切った後のリョウのドヤ顔がむしろに癪に障る。再生回数はたったいま二桁に届いた。
「これ姉貴にもやらせてみたら自信満々だったくせに途中で吐きやがった。でも再生回数は一瞬で三桁いったんだよ。ありえなくね?」
「やっぱ女かあ」
 ケイの諦めきった口調につられて、みんなそれぞれお互いの顔を見合わせた。ついでに、やればできる四角い頭たちの方も見やる。
 この高校に女は存在しない。下の学年にもいない。今後も入ってくることはまずない。なぜなら、親がなんとしてでも街の公立に入れるようあの手この手で尻を叩くし、なんだったら塾にも通わせる。そこまでやって万策尽き、それでも公立に落ちたら渋々バカ私立に行かせる。絶対にここには通わせない。こんな底辺校に娘をやったらどんな目に遭うか分からないというのが村全体の総意だった。なにしろ堅物の父でさえ「お前ら二人が男で本当によかった」とことあるごとに言うほどだ。
「女って得だな」
 シゲがつぶやいた。
 Instagramも代わり映えしなかった。街にある全国チェーン店の定番メニューを撮っているか、川か山の写真がのっぺりと並んでいるだけだった。「せめて喫茶店とかさ……」たまりかねた僕が助言しようとすると、リョウは「やだよ、俺、コーヒー飲めないし」と遮った。「スタバなんてここいらにはないしな」シゲがとどめを刺した。
「インフルエンサーとか無理じゃね? 生まれる場所間違ったわ」
 かつんかつんと廊下から先生の足音が響いてきたので、話はそこで終わった。みんなはすかさずスマホを鞄にしまい込んで、同時に前半分の連中も自習をやめて一限目の教科書とノートに切り替えた。
 滞りなく五限目まで終わると我々は校舎から一斉に排出された。向かいの小中学校では、村じゅうからかき集められた子供たちがまだ賑やかに校庭で嬌声をあげていた。おおよそ普段は中高年しか見かけないこの地域にも一応は子供がいる。彼らもいずれ進学に伴って濾されて散り散りになっていくのだろう。最後の最後まで濾し布の上に残った沈殿物が、三角コーナーよろしく我が校にまとめて投棄せしめられるのだ。
 三年生は部活を引退したので当然、放課後の活動は一切ない。中学生の時分より夢見ていた膨大な自由時間が手に入ったのに、期待していた喜びはついぞ得られなかった。引退直後こそリョウたちと連れ立って街に繰り出したり集まってなにかをやろうとしたものの、全員揃って金なし知恵なし彼女なしではどうにもならず、結局は横に並んでのスマホいじりに終始した。それなら家に帰ってやればいい。だからどうせ今日もスマホを触って一日が終わる。
 せめて帰る前に「御神体」を拝んでおこうと交番に顔を出したら、そこにはあるはずのものがなかった。透明の箱が開け放たれ、中身が空になっていた。ショットガンがない。
「兄い、おらんの?」
 おそるおそる奥の畳の部屋に向かって声をかけたが、反応はない。兄もいない。
 夏の放課後の日差しに鋭く照りつけられていても、なぜだか影が差し込んでいるように思われた。
 きっと、射撃練習だ。
 兄は言わなかっただけで、今日は射撃練習の日なんだ。これまでにも何回もあって、残念がったりしたじゃないか。なんてことはない。
 しかし、自分にそう言い含めても開け放たれたがらんどうの箱が放つ不気味さは拭えず、僕は足早にそこを立ち去った。
 事の真相が判明したのは翌日の朝だった。


 いつものようにのそのそと布団から這い出てみしみしと床を軋ませながら居間に入ると、普段はいない兄がそこにいた。制服姿のまま、供された朝食を貪っている。
「兄い、仕事は?」
「いま終わった」
 兄はぶっきらぼうに応じてトーストを口に押し込んだ。見るからに疲れきった顔をしている。
「今日、学校を休んだ方がいいかもしれないね、いや、休みなさい」
 それぞれの湯呑みに煎茶を追加した母が、心配そうな声色で話した。
「は? なんで?」
「熊が出たんだよ」
 トーストの咀嚼を終えた兄が代わりに答えた。
「お前、村の端に住んでる加山の爺さん、覚えてるか」
 加山と言えば、退職した小学校の先生だ。勤続四十年余りの教員生活にピリオドを打ったのもだいぶ前の話で、今は親から相続した山の一角に通い詰めていると聞いた。雑草まみれの他の山々と違って、そこは山菜類が豊富に採れるという。
「死んじまった。熊にやられて。俺はその捜索に行ってたんだ」
 兄の口調はごく淡々としていた。もともと出没地域ゆえ、熊に殺される人間が出てくるのは誰しも想像することではあったが、実際に耳にするのはやはりショックだった。
「ああ、だから銃がなかったのか」
 僕は努めて平静を装って、自分のトーストを食べはじめた。びびっているとは思われたくなかった。
「それで、熊は……」
「仕留めた、と思う。たぶんな。でも死骸が見つかっていない」
 最初の母の話に繋がった。どうやら熊は手負いだが生きている可能性がある、ということらしい。手負いの獣が危険なのは狩猟に詳しくなくてもよく知られた話だ。
「なんだ……じゃあ寝てればよかった」
 ていうか、食べ終わったらもう一回寝よう。学校に行かないのに朝早く起きて、外にも出られないとなったらなにをすればいいのか分からない。
「私はちょっと加山さんちに行かないといけないから、ちゃんと家にいなさいよ」
「いや、母さんだって出ちゃダメでしょ」
 僕はすばやくつっこみを入れた。「あんたと違ってこっちは葬式の段取りとか色々あるの」と母はまくしたてて台所に引っ込んだが大方の予想はついていた。それにかこつけて噂話を収集するのが目的なのだ。今日の加山邸には村じゅうの暇人が集結することだろう。ここいらでは誰かが生まれたか死んだという他にはニュースらしいニュースが存在しない。最近、前者の方はめっきり聞かなくなったのでニュースバリューはしばしば後者に偏りがちだ。
 母との応酬をよそに、もっとも事情に詳しいはずの兄は黙々と増量された朝食を食べ続け、食べ終わると服を脱いで浴室に向かった。熊が出てショットガンを持ち出した事例は別に今回が初めてではなく、むしろこれまでに何回もあったが、人々はあれこれと噂を立てても誰も兄本人には聞きにいかない。たとえ勤続十年の警官でも人々にとって兄は未だ村一番の荒くれ者であって、軽口を叩いたりあれこれ詮索するのに適した相手ではないと見なされている。
 そうでなくても兄は仕事を終えるといつも自室に引きこもって、次の出勤までなかなか表に出ない。不良時代に働いた悪事の咎を一身に引き受けているかのような仕事人間ぶりだ。
 朝食を済ませた後は予定通りに二度寝を決め込んだ。再び目が覚めたのは昼前で、スマホを見るとLINEの未読メッセージがいくつも溜まっていた。例の「後ろ半分」で結成したグループチャットだ。良い名前が思いつかなかったのでグループ名を「なし」としたが、これほど我々にふさわしい名称はない。現時点であらゆる将来がないからだ。
『おい、熊殺しの弟、情報よこせ』
『清二の兄貴強すぎだろ』
『昔は番張ってたって親が言ってた』
『街の高校も全部一人で仕切ってたからな』
『素手で熊殺したらしいな』
『ついでに加山もムカつくから殺したらしい』
『やば』
 ものの見事に噂に尾ひれがついて出回っていた。色々と訂正したい部分はあったが、まずもって優先すべき情報は一つしかない。
『熊死んでないかもだってよ。だから今日は休んでるんだ』
『マジか』
『やば』
『メシ食ったら帰ろうかな』
 リョウのやつはさっきから「やば」しか言っていない。その語彙力で本当にインフルエンサーとやらになるつもりがあるのか甚だ疑問だ。それからしばらく会話を交わした結果、尾ひれを切り落とした後の情報量は僕も彼らもそう大差ないことが判った。じきにシゲが『俺も五秒でコーラ飲めた』と言いだしたので、呆れてLINEを閉じた。
 寝て、起きて、用意された昼食を食べて、また布団に潜る動作を繰り返しているうちに夜を迎えた。夕食の席では近所の情報を集めてきた母と職場で噂話を耳にした父が、互いに独り言のような調子でまるで噛み合わない会話を行っていた。しかし総合すると、兄が熊殺しの異名を手にしている点は揺るぎなかった。父は兄の肩を叩いて「で、そいつはどんだけでかいんだ? 二メートルくらいはあったか?」などと問い詰めた。母は母で、食事時にもかかわらず「加山さんの遺体、食べられちゃってほとんど骨しか残ってないって」と力強く囁いた。うかつに目をやったホッケの干物の骨が、人体の肋骨に見えた。
 一方、兄がもたらした情報は端的だがこの上なく確かなものだった。
「熊の死骸が見つかった」
 僕は両親二人の声を意識的に遮断してしゃべった。
「そうか、じゃあやっぱり兄いが仕留めたんだ」
「まあな」
 兄は増量された米をむしゃむしゃと頬張った。
「ってことは明日は登校しなくちゃいけないのかあ」
 大げさに残念がると、意外にも両親ではなく兄が反応した。
「行くだけ行っとけ。卒業できなかったら困るだろ」
 そう言う本人は温情で卒業させてもらったくせに、公に仕えると性格まで説教臭くなるらしい。
 こんなに間近で生活を共にしているのに、兄の背中はどんどん遠のいていっている。


 翌日、一日間が空いたのでセーフの理論を適用して、視線を診療所や商店の建物に沿わせながら登校した。交番の「御神体」は以前と変わらない姿で箱の中に戻されていた。つい一昨日、熊を殺したばかりの武器と思うといかにも神々しさが強まる。
 教室につくと、いきおい面食らった。受験勉強に勤しんでいる前半分と変わらない真剣な表情で後ろ半分の面々がなにやら話し合っていたからだ。「早くこっち来い」とリョウが急き立てたので「なんなんだよ」と身体を寄せると、彼は手元のスマホをずいと突き出した。
「お前、兄から熊を殺したって聞いたのか?」
「ああ。即死じゃなかったみたいだけど」
 リョウのスマホには県内の報道情報を伝える地方新聞社のWebページが映っていた。
「でもな、ニュースになってないんだよ。普通、熊が出て人が死んだらニュースにならないか?」
 ケイが口を挟んだ。
「そりゃ……そうだけど、一昨日の話だし」
「本題はそこだ」
 リョウがブラウザのタブを切り替えた。今度はGoogle検索の結果が並んでいるページが映った。
「ここって熊が出る出る言われてるじゃんか。でも、いくら検索したって熊が出たなんて話は引っかからない。昔の歴史が出てくるだけでよ」
「なに言ってんだお前、俺の兄貴がホラ吹いてるとでも言いたいのかよ」
 僕は声を低くして凄んだ。だが、インターネットで調べても情報が出てこないというのは疑わしい話だった。この村では毎年のように熊が出没している。いくら僻地でも誰かが報せるはずだ。
「ちげえよ。逆に、もっとすごい話かもしれないって言ってんだ」
「すごい話?」
「その熊は凄まじく凶暴なやつだから誰にも手が出せなくて、死んだことにしているとか」
「そもそも熊じゃないとか」
「山で探せばはっきりするだろ」
 僕はこれまでで一番呆れた顔を作った。
「お前らインターネットのやりすぎだよ」
「本題はそこだ」
 リョウがまた決まり文句を言って、両手を拳銃の形に真似て指を差す珍妙な仕草をとった。
「ようやく俺様がインフルエンサーになる日が来たというわけだ」
「最後の夏休みだしな」
 シゲが興奮気味に言った。
「あいつらはカキコウシュウとやらで街の塾に缶詰めなんだとよ。だが、俺たちには俺たちなりの成り上がり方がある」
 ケイも俄然乗り気の姿勢で前半分の連中を引き合いに出した。
「アホくせえ、お前ら家に絵本ねえのかよ。みんな死ぬやつ」
 僕は彼らに背を向けて一限目の支度をはじめた。あまりにも見え透いた抵抗だ。授業の事前準備などした試しは一度もない。
「ちょっと山行って、遠くから動画撮って、さっさと帰ればいいじゃんか」
「お前、すげえ動画が撮れたら兄貴を越えられるぜ」
「いくら街で番張ってたって、世界中からいいねを貰えるインフルエンサーには勝てないからなあ」
「どうせ夏休み中にやることなんてないだろ」
「もしかして清二クンさあ、びびっちゃってる?」
「びびってるならしょうがねえか」
 背を向け続けるつもりだったが、こうした挑発が延々と飛んできて振り返らざるをえなくなった。
「あのな、俺の兄貴がそんな真似許すわけないだろ。全員ぶっ飛ばされるぞ」
 ついに兄を持ち出して脅かすとみんなは待ってましたと言わんばかりの顔を作った。
「だからお前が頼りなんだよ。兄貴が寝てる時間とかに行けばいい」
 どうにかして言いくるめようとしたが思いつかなかった。僕が手伝わなくてもこいつらはやりそうだ。となると、事情を知りながら無視した僕はどのみち兄貴にシメられるのではないか。かといって、先んじてチクっておくのも気が進まない。びびりだと思われたくない。それに、夏休み中にどうせやることがないという指摘はもっともだった。
 僕だって一つくらいは伝説を持っていい。最強の兄を出し抜いた伝説を。
「つまんなかったら即帰るからな」
 本当は「危なかったら」と前置きしたかったのに、威勢を張った言い回しが口を衝いて出た。
 リョウが僕の肩に手を置いた。
「そうこなくっちゃ。となると、軍資金がいるな。色々と用意しておきたいものがある」
「金は一円も出さないぞ」
 他の面々もそこは何度もうなずいて同意した。
「お前らは当てにしてねえよ、まあ見てろ」
 リョウは勢いよく立ちあがると、わざと足音をたてて前半分の領域へと近づいた。そしてその中の一人の首元にぐいと腕を回し、こっちにも聞こえるほどの大声で話しかけた。
「よう、コウちゃん、勉強捗ってる?」
 コウちゃん、と呼ばれた前半分の一人は急速に背中をこわばらせた。ぶつぶつとなにか返事をしたようだが、声がか細すぎてろくに聞こえない。
「おー、すげえ、俺にはなに言ってんのかわかんねえや。ところでさあ、金、貸してくれねえ? すぐ返すからさ」
 またぶつぶつと声がした。あまり気の良い返事ではなさそうだ。すると、リョウの声のトーンが一段低くなった。
「すぐ返すって言ってんじゃん」
 首に回した腕の力がやや強まったことが遠くからでもうかがえた。他の前半分は我関せずの態度でシャーペンを走らせている。ややあって「コウちゃん」は観念して、ぶるぶると震えながら財布を取り出した。持ち主が中身を開ける前にリョウがそれを横からひったくり、五千円札を一枚抜き取ると机に放り投げた。
「サンキューな! マジで助かるわ」
 コウちゃんはしばし机の上の財布を見つめていたが、リョウが後ろ半分に離れると財布を片付けて勉強を再開した。
「な?」
 リョウはTikTokの動画と同じドヤ顔をして五千円札を見せびらかした。
「ほどほどにしないとチクられるぞ」
 動揺を隠しつつ忠告すると、悪びれもせず彼は笑った。
「心配すんな。ちゃんとローテーション組んでるから。コウちゃんからは二回しか借りてない」
「いや、俺が借りてるから実質三回だな」
 シゲが言った。
「なんだよ、それいつの話? だったらタケちゃんにするんだったな」
「そいつからは俺が二回借りてる」
 今度はケイが言った。


 日が経つにつれてリョウたちの語った与太話は次第に現実味を帯びてきた。当初、こんな計画の約束はいつでも気分次第で反故にするつもりでいた。しかし毎日、スマホで県内の最新ニュースをチェックしても、ワードを絞ってGoogle検索をしても、この村で熊に人が殺された情報は出てこなかった。それどころか彼らの言う通り、熊出没のニュース自体どこにも見当たらなかった。Wikipediaに「江戸時代から戦前にかけて熊の生息地として知られていた」とおざなりに記されているのがこの村の最大の情報だった。
 スマホを買ってもらった時、父も母も知ったふうな口で散々警告してきた。「頭でっかちになるな」「鵜呑みにするな」というのも、二人ともどこか――おそらくは近所か職場――で、スマホ依存の子息がどうなったか、あまり体裁のよくない話を聞きかじったせいだと思われる。
 だが、あるはずの情報が存在しない事例についてはなにも聞かされていない。この村で熊は現に何度も出没していて、今回だって加山先生が死んで騒ぎになっているにもかかわらずだ。
 一週間と少しが経ち、人生で最後の夏休みに突入する頃には僕は彼らの言い分にかなり寄っていた。インフルエンサーうんぬんはどうでもよかったが、生きている熊の実物を目の当たりにできればきっとすっきりする。
 当日、日勤を終えた兄は家に帰ってくるなりシャワーを浴びて自分の部屋に閉じこもった。いつも通りの行動だ。僕はさっそくグループチャットで行動開始を告げて、予め決めてあった場所に向かった。両親に不審を悟られないよう、あえて街にでも出かけそうな軽装で余計なものは持っていかない。
 集合場所ではやる気満々の顔ぶれが揃っていた。リョウは得意げに黒い棒状のなにかを投げてよこした。
「これは?」
「自撮り棒だ。夏休み前に街で人数分買っておいた」
 見ると、シゲもケイもすでに自撮り棒にスマホを装着している。「お前が撮るんじゃないのかよ」とつっこみを入れるとリョウは肩をすくめて「別に動画は誰が撮ったっていいじゃんか。ストリーミングはギガが足りなくなるから無理だ」と言った。彼は他にもスナックやら軽食やらスポーツドリンクやらがたんまり入ったコンビニの大袋を携えていた。
 まるで遠足か観光気分だ。とは言うものの、一理はなくもなかった。全員で動画を撮れば成功率が上がるのは間違いない。結局、僕も仕方がなく棒の先端に自分のスマホをくくりつける運びとなった。
 山への侵入には加山先生の私有地を経由した。熊がいるにしても、それ以外のなにが隠されているにしても、前回出没したとされる場所の周辺を探すのが効率的と判断された。先生を殺した熊はとっくに死んでいるが、このだらだらと間延びしきった山の連なりに一頭しかいないとは考えられない。
 山を登っていくと夏特有の蒸し暑さがいっそう際立った。背の高い木々に覆われたこの空間では、空を見上げても太陽の光は草木に裁断された形でしか入ってこない。おかげで地表の気温自体は低かったけれども、いかんともしがたい湿気が肌という肌にまとわりついて、もう僕は彼らの計画に応じたことを後悔しはじめていた。セミの甲高い鳴き声が気に障る。
 村の悪ガキが山に入る事例があまり表沙汰にならないのは、なんの面白みもない山を登っているうちに疲れて帰ってしまうからだと悟った。
「そろそろ録画開始だ」
 リョウの指示に倣って、みんなは横にして持ち歩いていた自撮り棒を縦に構えた。起動したカメラアプリを動画モードに変えて撮影ボタンを押す。足元に注意していてディスプレイを直視できないためどんな映り方をしているのかは検討がつかない。山の道なき道を長い棒切れ片手に歩く集団の様子は、さながら落ち武者狩りに赴く農民といった風体だ。
 まばらに輝く太陽が傾いて夕暮れの色を作り出すと、元陸上部の面々もさすがに疲労を隠しきれなくなってきた。スマホと合わせても数百グラム程度しかない自撮り棒が、本物の鉄でできた槍の重さを演じている。
 熊どころか気の利いた花や風景の気配さえない。延々と雑草と木々ばかりが続いていて、どこまで進めば納得がいくのかも定かではなかった。時々交わされていた雑談も、一時間、二時間と経つにつれて疲弊した呼吸音に取って代わられた。
「ちょいと休憩、休憩しようぜ」
 一番足の速いリョウがとうとうそう言ってくれたおかげで、ようやく適当な木陰に集まって座り込むことができた。彼は手持ちのスポーツドリンクをめいめいに配り、スナックの袋を破った。外気に晒されたスポーツドリンクはずいぶんぬるくなっていたが、今の我々には極上のスイーツにも等しかった。
「夜になるぞ」
 一息つくと、シゲがぽつりと言った。
「今日はやめにしないか」
「なんだ、もうへばったのかよ」
 ケイは汗まみれの顔をニヤつかせて煽った。しかし、彼も彼であてがわれたスポーツドリンクを一気飲みして空にしていた。
「マジな話、いい加減に帰らないと兄貴に気づかれるかもしれない」
 僕はシゲの援護をした。部活動の引退によって損なわれた体力は想定以上だった。
「うーん、それはまずいな」
 リョウがスナックを頬張りつつ神妙にうなった。
「お前の兄貴、明日はどうなんだ」
「明日も日勤だからたぶん同じだ」
 どうやらみんな帰りたがっていたらしい。もっともな口実を与えるやいなや俄然食いつきがよくなって、話はいきおい解散の方向に傾いた。
「しゃあねえな、明日はマジにやるぞ」
 リョウの鶴の一言で方針は決した。各位、さっそく重荷でしかない自撮り棒を畳んでスマホを引き剥がした。すると、ケイが素っ頓狂な声をあげた。
「すげえ、ここ圏外じゃん! 初めて見たわ」
「俺のもだ」
 まさかと思って自分のスマホを見たら、確かに圏外だった。
「……まあ、来た道を戻れば復活するだろ」
 僕は平静を装って言った。我先に歩き出した理由は、自信ではなく不安の表れからだった。太陽は空を見上げて分かる位置にはもうなかった。来た道を引き返している間にも徐々に景色が暗闇に侵され、おのずと視界も狭まっていく。暗闇に覆い尽くされそうな恐怖がじわじわと押し寄せてきて、嫌でも早足を止められなかった。
「なあ、なんかおかしくねえか」
 ぜえぜえと肩で息をしたシゲが言った。「いくらなんでも着いていいだろ、加山のセンコのとこに」すっかり夕闇に溶け込んだ周囲を見渡しても、どこまで戻れたのか判らない。
 焦りが足を急がせた。
「おい、待てよ」
 今度はケイが歩を止めたので、僕は疲れからか苛ついて返事をした。
「お前もへばったのかよ。マジで夜になるぞ」
「ちげえよ。こんなのあったか?」
 振り返ってケイが指し示す方向を確認した。木々に紛れて太い支柱が二つ立っている。上を仰ぐと、それらは互いに繋がっていた。これは、鳥居だ。山のなんでもない傾斜に、人間の身長よりもはるかに高い鳥居が立っている。
「いや、こんなのがあったら気がつくはずだ」
 リョウも息を荒らげて答えた。
「清二、お前が道を間違えやがったんだ」
 僕はかちんときて反論した。
「ついてきたのはお前らだろ。それに、見落としただけかもしれない」
「こんなくそでけえ鳥居を見落とすわけねえだろ」
 こうしているうちにも暗闇は僕たちを取り囲んでいる。半分は恐怖に衝き動かされ、半分は口論に押し負ける兆しを察して、僕はさらに歩き出した。リョウは「マジでそっちであってんだろうな」とぶつくさ言いながらもついてきた。だが、ほどなくして僕の誤りは決定的に裏付けられた。
「おい清二、じゃあお前、これも見落としだと思うか?」
 シゲが責め立てる口調で側面を指差した。
 やたら大きい岩壁に埋め込まれた形で、ずらりと地蔵が並んでいた。それぞれ同じ背丈で、同じ見た目をしていて、そのどれにも頭がなかった。横薙ぎにえぐりとられた首なしの地蔵が並んでいる。僕はここへきて、自分の呼吸が現役時代の十本ダッシュ後よりも荒くなっていることに気づいた。否が応にでも目につく禍々しい地蔵の一群を見て、誰もが言葉を失っていたのだ。あるいは、日が暮れるまではあんなにうるさかったセミの鳴き声がいつの間にかぱたりと止んでいたせいかもしれない。
「時間見ろよ、折り返してから二時間以上歩いてる」
 全員の視線が僕に集中した。こうなっては失態を認めざるをえない。
「……くそ、俺が悪かったよ。こんなのを見落とすわけがない」
「ふざけんなよ、また戻るのかよ」
「崖を滑り降りたら地上に下りられないかな」
「馬鹿、こんな山でも標高三百はあるんだぞ。死にてえのか」
 はっきりと、辺りには夜と言って差し支えのない帳が下りていた。数メートル先すら見えない視界の狭さでは歩行もおぼつかない。僕は短くした自撮り棒にスマホを取り付けた。設定画面から「懐中電灯」のボタンを押して、背面カメラのライトが点灯し続けるようにした。その時だった。
 本来は暗闇に閉ざされていた空間の奥、不意に照らされた木々の隙間を、なにかが通り過ぎた。僕は反射的に叫んだ。議論中の三人が一斉に視線を合わせたが、そこにはもうなにもなかった。
「脅かすなよ、そういうのつまんねえから――」
 シゲのつっこみは途中でかき消された。最後尾に立っていたシゲ自体もその場から消え失せた。突進してきたなにかに彼が襲われたのだという認識は、何秒も後にやってきた。不吉な静寂が一帯を支配した。
「シゲ?」
 ケイが震える声で呼ぶも、悲鳴一つ返ってこない。我々は本能的に事態を悟った。ここには得体の知れない化け物がいる。
 どこかの草木が揺れた音か、あるいは些細な環境音か、そんな音が聞こえた直後に、三人はてんでばらばらの方向に走り出した。習慣的に陸上選手のフォームをとっているせいで、片手に握られた自撮り棒付きスマホのライトがちかちかと周りをランダムに照らした。これでは格好の餌食だと解っていても、足を止めると怪物に襲われそうな気がしてどうしようもなかった。
 どれだけ走っても山道に終わりは訪れない。五分経ったのか、十分経ったのか、それさえも定かではない。
 スマホのライトに照らされたものが次々と目に入った。靴のつま先より小さい大量の鳥居、子供なら這って通れそうな鳥居、その後に見た鳥居は、地蔵が真下に置かれていた。やはり首はなかった。次にライトが偶然、正面を照らした時、巨大な岩壁が目の前に立ちふさがっていたために足を止めずにいられない状況に追い込まれた。
 その岩壁には首なし地蔵が横一列に埋め込まれていた。
 来た道を一周して戻っている。ありえない。なにかがおかしい。
 絶望の中、岩壁を背に寄りかかって立ち止まり、慌てて左右をライトで照らすも暗闇が深すぎて見分けがつかない。はあはあとなけなしの吐息が絞り出される音と、自分の心臓が早鐘のごとく響く音が嫌らしく聞こえる。
 ぽたぽたと頭に水滴が垂れる。雨が降ってきたようだ。地面が濡れればいよいよ逃走は難しくなる。一つ明らかとなった事実は、加山先生の死因はあの化け物のせいに違いないということだ。これはきっと公にされていない事件なのだ。だからニュースでは報じられないし、村でも熊のせいにされている。そう考えると納得がいく。
 ショットガンもそうだ。あれは熊を殺す武器なんかじゃない。化け物を殺す武器だ。兄は事情を知っている。知っていて、理由があって隠している。
 水滴が額にぬるりと垂れ落ちてきたので、僕は手で拭った。拭った手元がふと目に入ると、それは毒々しく真っ赤に染まっていた。
 雨じゃない。これは血だ。
 見上げると、岩壁の上に乗った毛むくじゃらの怪物が、醜い顔貌に備わった無数の眼球を全部こっちに向けて凝視していた。血は、人間の腕ほどもある太い鉤爪から滴っていた。
 僕が恐れをなして倒れ込んだのと、怪物が飛び降りて襲いかかってきたのは、おそらく同時だった。ついさっきまでいた場所を鉤爪が空振りして、勢いのあまり背後の岩壁をさらにえぐりとった。
 もはや他に選択肢など選ぶすべもなく、僕は真横に這うようにして崖の先へ飛び出して一寸先も見えない暗闇に落ちていった。


 目を覚ました瞬間に直前の光景がフラッシュバックして、僕はその場でじたばたと暴れた。じきに落ち着くと暗闇の遠景にぽつぽつと点描のような明かりが見えた。それらが家屋の明かりと判ると、冷えた腹の底がじんわりと温まっていくのを感じた。と同時に、得体の知れない化け物が今もなお、リョウたちを追い詰めているかもしれないという危機感に急き立てられた。
 はたと思い起こして暗い地面をまさぐると、そう遠く離れていない位置に自撮り棒とスマホを見つけた。限界集落でも山の中でなければしっかり電波が通っている。通知はない。慌ててグループチャットを開くも、新規のメッセージは届いていない。こちらから送っても、既読件数は一向に増えなかった。
 あいつらはまだ山に取り残されている。
 僕は疲労をおしてがむしゃらに走った。どうやら小中学校の裏手の敷地に落下していたらしく、ほとんど記憶に任せた足取りで交番に直行できた。この異常事態を解決できるのは兄の他に思い浮かばなかった。たとえ後でぶっ飛ばされるとしても、あるいはどんな罰を受けるとしても、当然の報いと覚悟を決めた。
 しかし、交番には誰もいなかった。「兄い! 兄い!」大声で叫んだが、奥の畳の部屋から反応はない。明かりが灯り引き戸が開かれた空間には、垂直に架けられた「御神体」が鎮座するのみだった。ショットガン――そうだ、ショットガンがある! 透明の箱を開けようとして机の引き出しや書類棚をまさぐったが鍵は見つからない。
 僕は痺れを切らしてパイプ椅子を掴み、突起部分でもって力いっぱい箱を叩きつけた。鋭い振動が手に伝わったが音は鈍く、壊せそうな手応えはない。それでも構わず二度、三度と繰り返し叩いた。実のところ、どんなに頑張っても人力で、ましてやパイプ椅子ごときでこの箱が壊せないのは半ば承知していた。もしショットガンが盗まれたら大事だ。それこそ銃で撃っても壊れないような特殊素材でもおかしくはない。
 手の感覚が薄れるほどに箱を叩きまくり、激しく息を荒らげていると背後から力強く肩を掴まれた。振り返ると、険しい顔をした兄がそこにいた。ぎょっとして、なにをどう話そうか考えあぐねているうちに、兄の殴打によって僕は床に押し倒された。手に持ったパイプ椅子が投げ出されて、軽さの割に派手な音をたてた。
「ガキどもが登山口をうろついてるって聞いたから来てみれば……お前、気でも狂ったのか?」
「山で……山で見たんだ。でもあれは、熊なんかじゃない」
 なんとか言えたのはそれだけだったが、兄の表情はみるみるうちに険しさを増した。
「山の奥に入ったのか!」
「ごめん、ごめん、でも、リョウも、他のやつらもまだ山に――」
 兄は僕を押しのけて制服のポケットから鍵を引っ張り出し、箱の鍵穴に差し込んだ。すばやくショットガンを取り出すと、箱の内部に備わった引き出しから実包を抜き取り、一発ずつその薬室に押し入れていった。とても慣れた手つきだった。
「お前、あれを見たんだな?」
 僕はうなずいた。やはり兄は知っている。
「じゃあついてこい。いずれ知らせるつもりだった」
 心臓がびんと跳ねあがった。あんな恐ろしい化け物が潜む山に、また行かなければならないのか。だが、今ここで兄についていなければ、知られざる情報を一生見失うかもしれない。なにより、僕には兄の「仕事」を見届けたい気持ちがあった。そのショットガンで撃つ化け物とは一体なんなのか、なんでそんな怪物が存在するのか。
 そしてそれは、僕にもできる仕事なのか。
 僕は兄をじっと見据えて、改めてうなずいた。
「なにがあっても俺から離れるなよ。黙ってついてこい」
 兄はショットガンを装備した。
 彼の選んだ出発地点は僕たちとは正反対に違っていた。小中学校の裏手の、よく注意しなければ見えない木々の奥にうっすらと通る細道が入口のようだった。「知ってたか? ここには昔、城が建ってたんだ」歩きながら兄は言った。考えてみれば、四方を山々に囲まれた一帯は城を築くのにうってつけのロケーションだ。「なんで今はないの」と尋ねると「さあな」とつれない答えが返ってきた。
 じきに細道は消失したが、兄は明らかに明確な意志を保って道なき道を進んだ。三十分と歩かないうちに村の明かりが暗闇に隠され、途端に視界が狭まった。彼は握っていたショットガンをまっすぐ構えると、備え付けられたライトを点けた。
 光源の先には、巨大な岩壁があった。埋め込まれた首なし地蔵の一群が、僕たちを出迎えているようにも、逆に追い払おうとしているようにも見える。地蔵の一部はさっきの怪物の一撃で胴体をもえぐられていた。
「これ! さっき見たんだ! あいつもここで――」
 兄は振り返って、立てた人差し指を口元にあてた。そうしてから、小声で囁いた。
「ここが入口で、出口だ。俺についてくればやつらは出ない」
 言われたことの意味はよく解らなかったが、首なし地蔵の壁を横切る際、自分の身体が薄い膜を突き破る感覚を覚えた。
 ふとスマホを取り出すと、予想通り電波が圏外になっていた。
「ここ、圏外なんだ。だから助けを呼べなかった」
 兄に倣って小声でささやくと、彼は振り返らずに応じた。
「ここはそういう場所だ。やつらの天然の檻だからな。音も光も外には漏れない」
 奥へと進むたびに彼の歩行は慎重さを極めた。あたかも軍人が戦場を歩くように、腰つきはいくぶん重心が下がり、足の動きはすり足に近かった。
 移動の方向も奇妙だった。道なき道を左に行ったかと思えば右に行き、時には踵を返して戻ったりした。なんでもなければ迷っているようにしか見えない。しかし、僕は兄が的確な道順を進んでいると確信した。
 突如、木々の向こう側でがさがさと音がした。兄の背筋が機敏に動き、上半身ごと銃口がすばやく軌跡を描いた。すわ、あの化け物かと慄いたが、ライトに照らされたのは狼狽しきった顔のリョウとケイだった。二人とも、僕たちの姿を認めると顔がほころんだ。たぶん僕もそうなのだろう。お互いに名前を叫び合った。安堵の気持ちが身体じゅうに広がった。
「これで全員か? 他に死傷者はいるか?」
 再会を喜ぶ抱擁もそこそこに、銃口を下ろした兄はため息をついて問いただした。最強の元不良を前にすっかり萎縮しきったリョウがぼそぼそと答えた。
「シゲ――重信ってやつがいるんです……あいつはたぶん……」
「化け物に襲われて、消えちまったんです」
 ケイが後を続けた。
「死体は見てないんだな?」
 兄はなおも不躾に問い詰めた。むっとして、僕は言った。
「兄い、そんなの見られるわけないだろ。みんな必死で逃げてたんだ」
「そうか……面倒なことになったな」
 誰に話すわけでもなく、淡々と言う兄からは明らかに場違いな雰囲気が漂っていた。ショットガンを片手にぶら下げ、なにかを考え込んでいる様子だった。
「お前らスマホ出せ。清二、お前もだ」
 僕も他の二人も言われるままにスマホを差し出した。
「ここ圏外っすよ」
 ケイの発言を無視して兄はそれらを手早く奪い取ると、まとめて地面に投げ捨て、ショットガンの銃床で叩き割りはじめた。
「あーっ!」
 絶叫したリョウが制止しようとするも、彼は無言で押し飛ばされた。まもなく、真新しい三台のスマホが物言わぬ金属の残骸と化した。兄は僕たちを睨みつけ、顔を歪ませてまくしたてた。
「お前らみたいなクソガキがやりそうな真似はお見通しなんだよ。あれを撮ろうとしたんだろ? 面倒くせえ時代だ。毎年、毎年、そういうやつらが来るようになりやがった」
「兄い?」
 唐突な豹変ぶりに驚いて呼びかけたが、兄は応じず首から下げた金色の板――”守人”の「お守り」をつまんで高く持ち上げた。
 刹那、暗闇の奥から音もなく「それ」は現れた。もしかすると今までずっとそばにいたのかもしれない。無数の眼球と、裂けた口から溢れる牙と、両腕の太い鉤爪が暗闇でもひどく際立つ。三メートルはある巨体に生えた眼が、ぎょろぎょろと別々に動いて四人を捉えた。
 僕も、他の二人も、声にならない悲鳴をあげた。逃げ出したかったが、突然の遭遇に足がすくんで動けない。だが、兄はまるで馬か牛を相手にする態度で「それ」に堂々と近寄った。すべての眼が彼ひとりに向けられた。
「なるほど、なるほど。あーよかった」
 兄はぶつぶつとつぶやいた。信じられないことに、得体の知れない化け物と意思疎通を図っているように見えた。
 彼は振り返って僕たちに告げた。その時の兄の顔つきは心からの安堵を示していた。
「そのシゲとかいうやつはこいつが全部食ったとさ。手間が省けたわ」
 兄は片手にぶら下げていたショットガンを構え直した。


 直後、リョウが背を向けて駆け出した。僕たちの中でもっとも速いリョウの加速は、この状況下でも、いや、県予選の本番よりもすばらしく理想的に映った。彼の姿が暗闇に紛れた矢先、兄はショットガンを前方に向けた。指向性を帯びるライトの光が消えたばかりのリョウの背中を明瞭に捉えた。
 あれほど想像していた、兄がショットガンを撃つ光景は、友達が撃ち殺されるシーンとして眼前に実現された。ダシン、と銃声が響き、続けてダシン、と計二発の散弾が放たれた。フランキ・スパス12は自動式散弾銃なのでコッキングなしで連射できる。ライトに照らされたリョウはその場につんのめって倒れ込んだ。ぴくりとも動かない。
「あいつ速くね? 二十メートルはダッシュしたぞ」
 兄の口ぶりはグラウンドでたまたま見かけた後輩にかける言葉と、なんら変わりがなかった。硝煙の立ちのぼるショットガンを下ろすと、ごくおだやかな表情で僕に尋ねた。
「焦って二発撃っちまったよ。あいつ、お前より速いんだっけ」
 なにもかもが異常だった。得体の知れない化け物が目と鼻の先にいて、一縷の望みを託した兄は、日々祈りを捧げていた「御神体」を使って友達を撃ち殺した。そういう光景を間近で見ていながらにして、僕はなにもできず、なにをする気も起きなかった。目の前で繰り広げられるすべてに圧倒されていた。全身の震えが止まらなかった。
「なっ、んで……」
 しゃべろうとしても、湿った空気が喉に張りついてろくにしゃべれなかった。
「前に言わなかったか、俺は村の”守人”だって」
 もりびと。守る人。
 そういえば兄は、あの時に「なにからなにを守っているのか」は言わなかった。
「じゃ、じゃあ、守ってるのって」
「ああ、こいつを守ってるんだ。役人連中が使い道を模索しててな。それがバレるとまずいんだわ」
 言いながら、彼はショットガンの銃口をケイへと向けた。一連の出来事を前に同じく固まっていた彼は、銃口を向けられてついに悲鳴をあげた。大きく姿勢を崩して、地面に尻もちをついて後ずさった。
「やめっ、やめてくれよ先輩、お、俺、なにも言わねえ、言わねえからさ」
「そういう問題じゃねえんだよ。役人ってのは神経質だからな」
 兄は僕に語りかけた。
「おっと、まずいな。ルールは守らねえと。まあ、お前に言っておきたいのはな、でかい組織に仕えて学んだこともあるって話だ。決まったルーティン、決まったルールに従っていると、身体がぴしっとする。なんていうかな、あまり乗り気じゃなくてもとりあえずやろうかなって気になってくるんだ」
 そう言うと、もってまわった口調で法律の条文を暗誦しはじめた。
「秘密立法――特殊生物保護法第五条、第一項に基づき、本件を機密情報の漏洩を未然に防ぎうる実力行動と認定し、直ちにこれを実行する――ほら、な? もうやる気が出てきたわ」
 後はあっという間だった。蛇口をひねる気軽さで兄がショットガンのトリガーを引くと、至近距離で散弾をまともに受けたケイの全身から血が吹き出した。裂けた腹からこぼれた臓腑が、這って逃げ出そうとする軟体生物のように地面に散らばった。その生暖かい血肉の熱気と臭いにあてられて、僕は身体をくの字に曲げて吐いた。あらかた吐いてから、ゆっくりと兄を見上げた。兄の雰囲気はいつもと変わらなかった。
「俺も……俺も殺すのかよ」
「普通ならな」
 兄はショットガンを構えるそぶりを見せたが、すぐに下ろした。
「お前には俺の後を継いでもらう。これまでずーっと、それを当てにしてやってきた」
 ふうっ、ふうっ、と怪物の息遣いが荒くなった。「あ、忘れてた。食っていいよ」と兄が許可すると、すさまじい俊敏さで三メートルの巨体が動き、ずたずたのケイの死体をさらにぐちゃぐちゃと貪りだした。
「警官になれ。昔はなりたがってただろ? この村出身の警官は、必ずここに配属される。お前が後を継げば、俺はようやくこの仕事から解放される。そういうしきたりなんだ」
 兄はショットガンを斜めに持ち上げ、銃身をさすった。
「俺もお前と同じだ。いつもこいつを眺めてた。ドスを振り回すやつには勝てても銃には勝てねえからな。それで警官のジジイがこれを持ち出した時に、こっそり後をつけたんだ。そしたら化け物と出くわした」
 深く息を吐くと、彼は忌々しげに言った。
「俺は選ばされたんだ。死ぬか、”守人”を継ぐか」
 父の言葉が脳裏に去来した。とんでもない不良だった兄が、急に真面目になって警官を目指した。事実は違った。兄は因習に強いられ、村に閉じ込められていたのだ。
 僕はあえて嘔吐の姿勢を保ちつつ、注意深く兄の装備を観察した。ショットガンは奪えない。力勝負になったら負ける。腰のホルスターの拳銃はカールコードで繋がっている。これも奪えない。他にあるとすれば……。
 抵抗したら、兄は弟でも容赦なく殺すだろうか。
「俺な、ずっと東京に出たかったんだよ。ちょいと遅くなったがまだギリ二十代だし、元警官ならなんとかなるだろ」
 まるで食卓で家族とセカンドキャリアについて相談するような口調だった。
 僕はなにも答えず恨めしげに兄を睨んだ。
「なんだよ、ツレが殺されてムカついてるのか? どうせろくな奴らじゃねえよ。お前だって仕方がなくつるんでただけだろ。こんな村の連中なんてどうだっていいわ」
 図星だった。彼らに対して、特別な友情を感じたことはない。ただ学校が同じで、部活が同じで、落ちこぼれ具合が同じで、その後も落ちこぼれ続けたから一緒にいただけだった。僕は彼らと違ってカツアゲも喧嘩もしたことがない。最強伝説を持つ兄の威光を借りて不良気取りをしていたに過ぎなかった。
「そういえば加山のジジイな、あれも俺が殺したんだ。だいぶ手間取ったけどな。あいつ、知ってやがったぜここのこと。よそ者と違って命乞いもしなかった。ひょっとしたら村じゅうの年寄りが――」
 僕は兄の身体の重心が傾いた隙を狙って、中腰で思い切りタックルした。期待が叶い、二人揃って地面に激しく倒れ込んだ。そのままショットガンを掴み取ろうと手を伸ばすと、たちまち兄のたくましい片腕に制された。兄弟の手と手でショットガンを握りしめながら、マウントポジションを奪い合う戦いがしばらく続いた。毎秒ごとに強まる劣勢の気配を刻一刻と捉え、頃合いを見計らってショットガンを握る手を緩めた。
 勝利の兆しを察知した兄はすかさず僕の腹を足で蹴飛ばし、強引に引き離した。おそらくは警察仕込みの体術で倒れ込んだ姿勢からすばやく立ちあがると、なめらかな動作でショットガンを構えて僕の挙動を封じた。
「お前、ちょっと調子に乗ってんじゃねえの?」
 不意の乱闘にさしもの兄も息を弾ませて言った。
「お前が俺に勝てるわけねえだろ。おとなしく後を継げ」
 僕は蹴られた腹の痛みをこらえてのろのろと立ちあがり、手中に収めたそれを開いて見せつけた。
 ”守人”を証明する金色の板だ。
 銃を狙っていると見せかけて、首の紐をちぎって奪ったのだ。
「てめえ……」
「誰も兄いには勝てないよ。だから怪物とやりあってくれ」
 僕は金色の板を高らかに掲げた。
 激昂した兄がショットガンの引き金を絞った瞬間、死体を貪っていた怪物が兄の前に立ちふさがって散弾を受けた。
 しかし怪物はびくともせず兄に一歩、のしりと迫った。僕は後ずさりして近くの木陰に逃れた。
 ダシン、ダシン、と連続して銃声が聞こえた。
「俺はこんなクソ田舎で終わらねえぞ!」
 断末魔の絶叫が辺りにこだました。
 冷静に発砲音をカウントする。フランキ・スパス12の装弾数は最大で八発。リョウとケイに計三発使い、さっき三発使ったので、残り二発。日本の警察に支給されている拳銃――ニューナンブM60の装弾数は、五発。
 暗闇の向こう側でちかちかと光が明滅するのが見えた。
 二発の銃声の後に続く、種類の異なる銃声を五回数えたところで、僕は木陰から歩いて兄のいる場所へ向かった。硝煙と血の臭いと、荒い息遣いを辿れば容易だった。
 五十メートルも進まないうちに兄は見つかった。地面に突っ伏している三メートルの巨体の傍らで、入口であり出口でもあるという首なし地蔵の岩壁に背中をあずけている。
 拳銃は左手に握られていたが中身は空で、なにより今の彼には正しく構えるための右腕がえぐりとられていて存在しなかった。肩口から袈裟切りに彼は身体の一部を失っていた。おびただしい量の血が岩壁にべったりとついて、地面にまでだらだらと流れ出している。「御神体」は血の海に沈んでいた。
「よお、見たかよ、ぶっ殺してやったぜ」
 兄は死相の濃い顔を湛えて一言ずつゆっくりと言った。
「じ、実は一度やりあってみたかったんだ。俺に殺されるようじゃ、まだまだだな」
 僕はなにも応じなかった。ただ兄を、兄の仕事ぶりを、最期まで見届けようと思った。いくら数々の伝説を持つ兄でも、腕を肩ごと削がれていてはあとわずかの命に違いない。
 黙っていると、兄がまた口を開いた。
「さ、最後に一つ、訊いていいか?」
「……なに?」
 一つくらいなら構わないとも思った。
「お前、いつから自分のことを”俺”っていうようになったんだ?」
 質問は聴いたが、答えはしなかった。兄もたぶん、僕の声を聞きとれる状態ではなかっただろう。それから十秒か、二十秒か、少なくとも一分と経たないうちに兄は死んだ。岩壁の下で自身の血に浸って死ぬさまは、首なし地蔵たちに生命を吸い取られたかのようにも見えた。僕は血の滴るショットガンを拾い上げた。御神体をあるべき場所に戻さないといけない。
 その時、突っ伏していた三メートルの巨体がぬるりと動いた。
 いや、動いたのではない。変形した。
 うつ伏せの背中からスライムのように伸びる不定形の物質が、空中で塊を形成してみるみるうちに姿を変えていく。地面の巨体は塊が体積を増やすごとに失われていった。じきに三メートルの、まさしく熊に似た体型だった怪物は、さらに背が高く、代わりにひょろりと細い不気味な姿に変化した。
 それには足も、手すらも生えていなかった。かつて円形に集合していた無数の眼球は今では棒状の胴体に縦一列をなし、そのすべてが僕を凝視していた。
 ややあって、僕の手に握られた金色の板に視線が移された。
 それは一言もしゃべらなかったが、僕は明確に意志を読みとった。
<これからもよろしく>
 確かにそう命じられた。


 その交番にはショットガンが架けられている。大人が三人も入ったらぎゅうぎゅう詰めになりそうな手狭な空間の中で、それはいっそう神々しい異彩を放つ。
 早朝の巡回を済ませて戻ってくると、外から交番の中を覗き込む子供の姿が見えた。「やあ、銃が好きなのかい?」と声をかけると、子供はびくりと肩を震わせた。おずおずと「ごめんなさい」と言って立ち去ろうとしたので「いやいや、別に怒らないよ。こいつを見てたんだろ」と指を差した。透明の箱に収められた、我が村の御神体だ。子供は顔を伏せがちにうなずいた。
「あの……パパから聞いたんですけど、お巡りさんは伝説だって」
 僕はぷっと大げさに吹き出した。
「伝説だって? 君のパパはユーモアがあるね」
「でも、熊と戦ったんですよね?」
 さっきまでの遠慮がちな態度はどこへやら、急に前のめりな姿勢を伴って尋ねてきた。
「まあね」
「すごいや。いっぱい死んだのに、一人だけ生き残って――あっ、すいません!」
 僕の表情が翳ったのを察してか、子供は前言を撤回して身体を直角に折り曲げて丁寧な謝罪をした。
「いいよ、気にするな。それに、生き残れたのは僕の力じゃない。兄貴のおかげさ。兄貴がこいつで僕を守ってくれたんだ」
 再び僕は御神体を指差した。子供もショットガンの黒々とした銃身に視線を沿わせた。
「お兄さん、とても立派だったって、聞きました」
「ああ。十年間もここを守っていたからね。彼は”守人”だった。今は僕がそうだ」
 手際よく、首から下げた金色の小さな板を指でつまんで見せた。
「これがそのお守りだ」
 子供の目つきが好奇心を帯びはじめたのが判った。
「あの、お巡りさんも、一人で熊をやっつけたことがありますか?」
 僕はじいっと子供を見つめた。彼がまた謝罪の言葉を口にするかしないかの間際で「うん、あるよ」と答えた。すると、彼はぱあっと顔を輝かせた。「すげえや」とその子は言った。
「まだ答えを聞いてなかったな」
 僕は立ちあがって、制服のポケットから鍵を取り出した。いたずらっぽい笑みを浮かべてそれを揺らし、もう一回尋ねた。ごく自然に、決して気取られないように。
「君は、銃が好きか?」

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