2023/11/19

血流で駆動している

まだ「彼」との対話を会得していなかった若かりし頃、僕はモチベーションのばらつきに悩んでいた。書くべき時に、書けない。やるべき時に、できない。ともすると急速に倦怠感が襲いかかってきて頭が働かない。結果、せっかく用意した時間が虚空に溶けていく。

確かに、最終的にはなんとかなる。果てしない再抽選の末に掴んだモチベの高まりを掴みとって、一気に進捗をひねり出す。しかし、こんな行き当たりばったりなやり方を繰り返していると、一体なにに自分が駆動されているのかいよいよ解らない。もちろん人が文をしたためるのは肥大化した脳みその為せる技に他ならないのだが、その脳自体がたいがい気まぐれな代物である。調子が悪いと壊れた霧吹りよりなにも出てこない。

それでも懸命に引き絞っていると、通常期待されうる小気味のよいシュッという飛沫の音とは似ても似つかない、さながら下痢便を彷彿させるひどい雑音とともに思考の切れ端が液垂れする。なんら指向性を伴わないそれが持ち手にかかる。手が汚れる。うわ、と思わず顔をしかめる。

しかし、無理やり絞り出された霧吹きからすればよほど心外だ。「おい、その顔はなんだ。君が、君の意思で垂れ流した思考じゃないか。期待通りに飛ばなかったからといって渋面をされても困る。だったら、なんで霧吹きの一つくらいメンテナンスしていなかったんだ?」僕は言いよどむ。

いや、だって……面倒くさいし……霧吹きのコンディションとか意識したことないし……ていうか、それって僕のせいか? 君自身も調子が悪そうだったら事前に通知するとか気遣いがあってもいいんじゃないか? 一瞬だけ感じた後ろめたさもひとたび体勢が整うと速やかに攻撃性に兌換され、だんだん反論ウェルカムな雰囲気が醸し出される。

今度は霧吹きが言いよどむ。「いや、でも、これって全然ただのたとえ話で……我々はあくまでこの話の都合上、霧吹きを名乗っているのであって本来は曖昧模糊な存在だし……元はといえば君の一部だし……そう考えたら、むしろ君の方こそおかしくないか? 我々は君の一部なのになんでまるでこっちのせいみたいな態度なんだ? 所詮、我々は君の下部構造に過ぎないんだぞ」

そういえばそうだったな。一旦、霧吹きの喩えからは離れよう。だが、僕にも言い分はある。僕の一部だって言うならなんで僕は君に対する完全なコントロール権を有していないんだ? 気まぐれで調子が良くなったり悪くなったり、働いたり働かなかったり、こちとらいつも振り回されているから、いくら自分が本体と言われてもちっともそんな感じがしない。

そもそも、僕が上部構造だという前提は本当に正しいのか? なまじ自由意思を持っていることになっているからそうなんだろうと納得してきたが、実態は君の都合に合わせて後手に回っているわけだから真逆にも考えられる。本当に僕が上部構造だって主張するなら、せめて主人の命令通りに働いてくれないか?

「いやいや、君は意思っていう概念を狭く捉えすぎているんじゃないか。我々はおおむね君の命令通りに働いているよ。ただ、自然言語が解らないから他の方法で解釈しているだけでね」別の方法?「たとえば、酵素の働きとか、血行かな。発汗とか心拍数とかも」なるほどね、君とは根本的に溝を感じるよ。これ以上ないくらいぴったりくっついているはずなのにな。

僕はかぶりを振った。どうも君は僕が好きで体調を変化させていると思っているらしい。「違うのか?」 違うね。明らかに君の領分だろ。僕にはどうにもできない。「そいつは困った話だな。なにしろ我々はそれらを通じてしか解釈を行えない。つまり、心拍数が上がったら君は緊張しているのだと判断する」

……呆れたな。そこまで認識が乖離しているとは。いいか、逆なんだ。頼んでもいないのに君が心臓をバクバクさせるから過剰に緊張するんだ。せっかくなにか仕事を成そうとしている時に眠たくさせたり、疲れさせたりするからなかなか進捗が出せない。一事が万事そうだ。どうして僕の邪魔ばかりするんだ?

ひょっとしてあれか? 文章を書きたいのに頭が働かなかったり、モチベにやたらとばらつきが生じたりするのも君の仕業か?「そう言われても君のモチベーションとやらを我々が認識するのは難しい」おかしいじゃないか! 僕は崇高かつ最上とされる自由意思様だぞ!

「繰り返しにしかならないが……さっきも言った通り、我々は自然言語を解さない。解釈可能な情報は限られている。そのように生まれついたのだから仕方がないだろう」主人に向かってなんだその言い草は。開き直るつもりか?「そうじゃない。言うことを聞かせたければ、適切に翻訳してほしい。我々が解釈できる形で情報を伝達してくれれば、君の命令通りに働くのもやぶさかじゃない」

無茶を言うな。好きに心拍数を上げ下げしてやれるものか。そんな芸当ができたら苦労していない。「どうやらそうらしいな。でも、どういう時に上げるべきか教えてくれれば、それ以外では下げられる」なんだと?「前もって疲れ慣れておけば疲れないのさ」……。

――「彼」とこんなやり取りをしたのがおよそ5、6年ほど前になる。僕が生活習慣を改善したのもちょうどその頃だ。毎朝、同じ時間に寝起きする。午前6時に起きて、遅くとも午後11時までには夢の中にいる。休日でも変えない。極力、日常生活をルーティン化する。起きたらまずシャワー、次に朝食。運動も始めた。

実は文章を書く時に書く内容を考える必要はない。椅子に座って落ち着いていながらにして奇天烈な内容を思いつこうとするのは無理がある。そういう時には、とりあえず走る。走ると血流が加速して脳に押し寄せる。すると、どういうわけか普段では考えもしない発想の飛躍にたどり着く。血液の奔流が遠方のシナプス同士を繋いでくれるのだ。

運動は「彼」との効率的なコミュニケーション手段である。運動をすると心拍数が上がる。発汗する。疲れる。だが、反復を伴うと次第に「彼」が解釈する。同じ運動をしても疲れなくなる、発汗量が減る、心拍数が上がりにくくなる。運動していない間は心身に静寂が訪れる。僕の平常時心拍数は50もない。

寝起きする時間が決まりきっていると不意に眠くならない。運動で疲れ慣れているからから大して疲れない。やるべき時間にやるべきことをやっているから淀みなく書き進められる。以来、生産高は大幅に向上した。今の僕は自分がなにによって駆動しているのかよく解る。

すなわち、血流で駆動している。実のところ僕は脳みそのドライバとしてあまり出来が良くない。だから、あらゆる物事を血流に任せている。決まった状況で勝手に噴き出る仕組みにしておけば、もう霧吹きを懸命に引き絞らなくて済む。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説