2024/01/16

論評「THE CREATOR」:王道と向き合う勇気

はじめに

この映画自体が公開されたのは昨年だが、様々な事情の末に僕が本作を視聴したのはDisney+を通じてだった。というのも、本作のあらすじにはどうにもぬぐいがたい不信感が潜んでいたからだ。もったいぶるまでもなく簡単に説明すると、本作は高度に発達した機械(人工知能)と人間が対立を余儀なくされる話である。

うわあ、なんて斬新な世界観なんだろう! 今すぐ映画館に駆け込んで、どんな物語なのか観なくちゃ!……と、思うような人は、たとえSFに明るくなくても今時いないだろう。誰でもすぐにターミネーターやマトリックスを脳裏に描くことができる。もう少し詳しい向きなら、ブレードランナーやアシモフ作品を連想するかもしれない。

被創造物による逆襲全般に尺度を広げるのならフランケンシュタインやゴーレム、世界各地の神話や寓話までもが射程範囲に収まり、どうあがいてもこのテーマが有史以来、散々こすり倒されて擦り切れている事実を悟らざるをえない。そういった万にものぼる記録されし歴史的名作の裏にはジャンルのファンが支える作品群が無数に存在し、現在でもそれは尽きることがない。

つまり、描かれるべき要素はすでに十分すぎるほど描かれており、今も残っているのは「でもこれが好きだから」という、食べ慣れた味を再現なく求める習慣性から来る代物でしかないのが実情だ。かの「ローグワン」の監督を任された大人物がそんな反復作業のために新規企画を立ち上げ、各方面の関係者から莫大な制作資金を引き出させたのはどうにも奇妙に映る。

実際、Youtubeで観た予告編は立派な作りに見えたが想定を上回ってくれそうな筋書きには見えなかったし、核爆発によって荒廃した都市、ゴシック体の下手な日本語が並ぶ摩天楼、いい感じの人型ロボット、とあけすけにパターン化されたエモで満ちあふれていた。僕が本作を映画館で観るべき作品ではないと見なしても誰も責めはしないと思われる。唯一責めるのは、観た後の僕だけだ。

妥当な言い訳

日曜日の堕落した昼下がり、Disney+の灯りをともした僕の目に留まった本作はあらゆる意味で「ちょうどいい」映画に見えた。そういえばこんなのがあったな、きっと金にものを言わせたリッチなCGで僕を楽しませてくれるのだろう。それ以上の期待は一切持たなかった。堕落した休日にふさわしいのは食べ慣れた味であり、できれば味付けは濃い方がよく、食べるのに手間がかかるべきではない。

物語冒頭では、本作がさほど遠くはない2060年代の未来を舞台としている割に、人間そっくりの見た目をした高度な人型ロボット(模倣人間)が存在する経緯をほのめかす各種ニュース映像が流れる。本作の世界は映像がモノクロの時代に早くもロボット工学が発達しており、カラー映像に切り替わる頃にはもう二足歩行のロボットが人間の代わりに労役を担っている。

大胆なアプローチながら、なるほどうまい言い訳を考えたな、と率直に感心を覚えた。なにしろ、生真面目に考証を練れば練るほど人間と瓜二つのロボットを登場させていい時代は後ろにずれていかざるをえない。人間の思考部分――ソフトウェアの方面はじきになんとかなるかもしれないが、人間同様に自在に動く関節や四肢、高効率のバッテリーといったハードウェア部分を勘定に入れると、僕だったら最低でも100年は後ろにしたい。

ところが、100年、200年と時代設定をずらしていくと当然、ロボット工学以外の科学技術も並行的に進歩しているべきなので、その世界の社会体制や人々の在り方、共通認識はもっと複雑かつ予想が困難な代物になる。もはや舞台は地球上に限らないだろうし、つじつまを合わせるためには物語の範囲を狭くするか、意図的に隔離された空間を持ち出すしかない。

しかしまったく都合の悪いことに本作は人工知能の殲滅を画策する西側諸国と、共存を願うニューアジアなる連合体との軋轢を描いた話である。舞台のスコープが人類の生存圏全域に及ぶ以上はどちらの手段も使えない。そこで、最初からロボット工学が発達した別の世界をでっち上げる方法を選んだのだと考えられる。40年程度の未来なら他の分野の進歩はまだ想定の範疇に収められなくもない。

こういう「妥当な言い訳」が本作にはよく散りばめられている。たとえば、物語全体にわたって事実上最大の敵として立ちはだかる衛星兵器はまさにSFさながらな圧倒的暴力を我々に見せつけてくれるが、レーザースキャンのような超技術で地表を解析できる割に、攻撃は全然普通に昔ながらの弾道ミサイルで行うのだ。

インパクトを重視するならそこはすごいビームみたいなやつでビビーッとやってくれる方が安牌なはずだ。だが、本作はそれをしない。登場する通常火器も頑なに実弾志向でトリガーハッピーなガジェットはまず出てこない。おかしいぞ、と僕は思った。この映画は食べ慣れたあの味じゃなさそうだ、変わったスパイスの風味がする。塩もきっと岩塩だ。

静謐な画作り

物語が進むと嫌でも分からせられる。彩度の抑えられた画作りで描かれる静かなカットインの数々が、これはお前らが期待した単純なマルゲリータ・ピザやチキン・ナゲットではないと宣告する。小麦と肉が焼ける匂いで誘っておきながら、隠し味を加えた特別メニューを食わせようという魂胆だ。

予め言っておくと、本作では想定を裏切るような、機械対人間の殿堂に新たな解釈を刻み込むアプローチはほぼ行われていない。物語の展開はおよそ予想可能であり敵は確実に倒される。だが、あくまで一つ一つの仕事を丁寧にやってのけている。難しい言葉で観客を煙に巻かずとも、説得力のある静謐な映像の動きで機械や構造物の働きを示唆している。

これは簡単なようで実はなかなか難しい。明瞭に描きすぎるといかにもわざとらしく、トランスフォーマーやマーベル作品に似たパリピな画作りに寄ってしまう。あれはあれではっきりと食べ慣れたチーズ・バーガーの味なのでなんの問題もないが、本作はこだわりシェフの隠し味を引き立てる必要がある。

かといって、あまりにも落ち着きすぎていると純粋に面白くない。どうあれ娯楽作品として提示したからには娯楽作品なりの視聴覚的満足感を観客に与えなければならない。そこを履き違えると映画作品はたちどころに「2001年宇宙の旅」の失敗したバージョンに堕し、その味わいは限りなくハンバーガーの包装紙に近いものとなる。

他方、本作は均整がとれている。それでいて、観客が期待していた味わいの輪郭はちゃんと満たされている。昼食を摂りながら観ていた僕の箸はすっかり静止せしめられ、映画が終わる2時間の間、ついに食器は空になることがなかった。本作が胃袋以上の充足感を与えてくれたからだ。

とりわけ後半のミサイル弾頭が装填されるシーンなどは、異様な描き込みの細かさに思わず恐れおののいてしまったほどだ。大して長回しではないはずなのに、ミリタリーの素人でも衛星兵器からミサイルがどんなふうに発射されていたのかひと目で分かる。いや、分からせられてしまう。

これこそが読者の想像力に依存せざるをえない小説と、視聴覚に訴えかけられる映画の決定的な違いに他ならず、本作は自らの持ち味を賢く活かしていると言える。本作には説明らしい説明はほとんどない。すべてが当たり前のように進行して、われわれ観客は観たもので十分に納得できる。

王道と向き合う勇気

彼らがあえてありきたりなテーマを再構築した理由は今になってみれば理解できる。よく知られた材料でも演出次第で観客を感心させられると確信していたのだろう。王道と向き合う勇気はどんなに工夫を凝らしていてもそう簡単には持てない。

なんにしても二番煎じの扱いを受けるのは嫌なものだ。ましてや本作のテーマは二番どころではなく200万人くらいは前に煎じている人々がいる。もはや出涸らしとかそういう状態ではない。虚無を煎じているに等しい。だから誰もわざわざ王道には挑まない。ひねくれた解釈で逆張りするか、隙間産業的な小粒の話作りに終始するのがせいぜいだ。

対して、本作はマルゲリータ・ピザにもチキン・ナゲットにもチーズ・バーガーにも見える体裁を維持しつつ、いつもの味わいに良質な隠し味を含めてみせた。作り手のエゴが強すぎても弱すぎてもこういう仕事は決して成しえない。僕は今年度のベストムービー賞を本作に贈りたい。

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