2024/02/19

書くやつは傲慢、書き上げないやつはもっと傲慢

今更言うまでもない話だが、自分の頭の中を曝け出して人に読ませようなんて傲慢にもほどがある。通常、思考というのは曖昧模糊としていて取り留めのないものだ。一説によると高度な知能を持っているとされる人間様もすべての行動に前もって思考を割り振るのは難しいらしく、実際には事後承諾を余儀なくされている。

思考の事後承諾とはすなわち、まず神経と筋肉の反射があり、思考が結果を評価するという仮説だ。つまり行動に即応性が伴っていればいるほど、人間の思考は後回しになる。なんであれすでにやってしまった行いを後から正確に評価するのは難しいので、人間の思考はしばしば自己正当化を図るか、逆に過度な内省に陥ってしまう。

とはいえ、いつまでも”評価”にリソースを割くわけにはいかない。人生は我々に絶え間なく行動を迫る。そこで我々の脳味噌は適当なところで過去を希薄化させ、どんな行動をしたのかも、行動した後の評価も、一切合切を曖昧にしていく。何日、何ヶ月、何年と経るごとに当時描き出した精細な像は失われて、なんかいい感じの、さもなければ、なんか悪かった感じの、いわば思い出だけが残る。

しかし人類は文字を発明した。文章にしたためておくことで自己正当化を図ったなら図ったなりの、正確に記録を試みたのならそれなりの、言語化した像の姿かたちが築かれる。人類は過ぎ去りし人間の記憶や情動を掘り起こす術を手に入れたのだ。いずれにしても、とんでもない行為である。

なにもかも曖昧にしておけば思考の責任を取らずに済むのに、あえて形に残して検証可能性をもたらそうというのだ。こんな不都合な話はない。にも拘らず、人間、しきりによく文章を書く。千年以上も昔の中国の書物では早くも「こんなにものを書く人間が増えたら世の中は文字であふれかえる」と心配する一文もあったらしい。

翻って、現代。彼の懸念は的中した。今の世の中には文字があふれている。あふれかえりすぎている。秒を追うごとに文字が矢継ぎ早に視界を通り過ぎていくから、大抵はなにを書いても下へ下へと埋もれていく。確かに記録されてはいる――それも、無数の複写で記録されている――のに、埋没する気楽さ、センテンスの短さ、文脈の不確かさが、思考の責任を取り除いている。今や言語はずいぶん柔らかく飲み下しやすくなった。

ところが、そんなご時世にあってもわざわざ長文を書くやつがいる。ブロガー、エッセイスト、小説家、物書き。肩書きはなんでも構わないが、いずれにしてもとんでもない連中である。せっかく言語から頭と骨と腸を抜き、小綺麗で美しいパッケージに包んでデザインせしめたこの時代に、あえて硬く筋張った臭みを味わわせるつもりでいる。

文章は長ければ長いほど個人の痕跡を残す。思考の過程が刻まれる。多くを語らなければ曖昧でいられた部分が、隠しきれない粗として露呈する。誰も見ていないようで誰かが見ているインターネットの世界において、そうした行為が半ば自傷癖や露出狂の一群に分類されることにもはや疑いの余地はない。

それでもなぜか書かずにはいられない。インターネット上に公開して、あわよくば読んでもらおうとさえ画策する。目をそむけたくなる汚い粗や、鼻をつまみたくなる臓腑の臭いも、まるごと受け入れられるつもりでいる。未来の自分の眼差しでさえ恐ろしいのに、他人の目にも裸体を曝け出して平然としている。物書きに勝る傲慢な人種はそういそうにはない。

だが意外にも、物書きを上回る傲慢さを備えた連中が近くにいる。書いているのにいつまでも書き上げないでいる人々だ。せっかく築いた数千文字、数百行にわたる作品を、ついに完成させることなく打ち捨てる人々だ。彼らにはまだ狂人の自覚がない。文章に粗と澱が染み出していく自分自身の汚らしさに嫌悪を抱いている。

彼らは究極に非の打ちどころのない、未来の自分にも、他人の目にも永劫に称賛されうるような、洗練された彫刻のごとき完成品を望んでいるのである。それは絹の柔らかさと大理石の剛健さ、花々の芳しさをもまとい、賢者の叡智、武人の勇猛、美姫の色香を併せ持つとされる。いつか偶然にもそんな文章が生まれると信じて、結局、ただの一回も完成させないでいるのだ。

これが度を越した傲慢と言わずしてなんという。思考の過程を長々と見せびらかすだけでも十分な傲慢さに値するのに、あまつさえ際限のない美化を試みている。キーボードの上で止まった両手はさながら暗闇をさまよい歩く亡者のようだ。そのような心づもりででっちあげた文章はまさしく骸への死化粧で塗り固められたいっそう寒々しいものとなり、それがますます本人の自己嫌悪を誘う。そしてまた、研鑽の糧になりえた作品が一つ打ち捨てられる。

ことここに至っては腹をくくるべきである。娯楽が氾濫しきったこの時代に、己の意思をもって、己の文章を数千文字にわたって刻みはじめた時点で、その人物は言語化の欲望に取り憑かれた狂人なのだ。一度こうなったら、もう書き上げるしか救済の道はない。狂人なら狂人らしく取り繕わず、自らの粗と澱を元に腐臭のたちこめる像を創造せしめ、未来の自分からの避けられぬ軽蔑の眼差しを堂々と睨み返さなければならない。

そうして出来上がった汚穢の立像はおよそ日の目を見ない。だが、実は僕がこっそり読んでいる。僕のRSSリーダには淀みに満ちたブログや個人サイトが大量に登録されていて、めったに更新されない次の数千文字、数百行の慟哭を心待ちにしている。そんな奇特な人物がそういるものか? しかし君もこうして僕の胡乱な文章を最後まで読んでくれたじゃないか。

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