たまにはSNS上の騒動にも首を突っ込んでおく。先日、なにやら「焼肉の食べ放題で50人前の上タンを頼んだら店長にブチギレられた(大意)」とのポストが炎上していたらしい。この出来事をめぐって「食べ放題と言ったからには何人前であっても応じるべきだ」という意見と「常識をわきまえるべきだ」という意見が対立している。
根っからの全身インターネット人間であるところの性分としては、”常識”だとか”マナー”だとかを振りかざされるとやはり反射的に闘争心がわいてしまう。全身がインターネットでできているだけあってあらゆる物事は0か1かではっきりさせたいし、そうでないものは非論理的だと鮮やかに断罪したい。先の問題も「ルールがあるならすべて明文化すればいい」と言い切れば、いかにもすっきりできそうな気がする。
だが世の中、誠に遺憾ながら少々複雑だ。ある言明に他者がなんらかの反応を示して、それらが連鎖的に繰り返された末に”常識”と呼ばれる我々にとっての悪の権化が醸成されている。「食べ放題」と名乗る数多のサービスは実のところ、どうあがいても誇張以外の何物でもない。そもそも提供物が有限の物質なのだから字句通りの「食べ放題」には絶対になりようがない。現実的にはせいぜい業務用冷凍庫の一区画が上限と考えられる。
にも拘らず、我々は「なにがし放題」の謳い文句をかなり柔軟に受け入れている。情報量に過ぎないインターネット回線の「使い放題」でさえ理論上の無限にはほど遠いのに、詐欺だ誇大広告だと騒ぎ立てるほどまでには違和感を抱いていない。0か1ではっきりさせたいのなら、世間に蔓延る「なにがし放題」の正確な定義を求めて飽くなき闘争を開始すべきじゃないか? しかしなぜだか、そこまでする気にはならない。
というのも、全身インターネット人間である我々にもやはり”常識”はしかとインストールされており、おおむね一つの認識が共有されているからだ。これを”程度問題”と言う。だからこそ大抵は自分自身と同伴者の胃袋が十全に満たされ、かつ値段が一定であれば、それはまさしく「焼肉食べ放題」であった、と認められるのである。ここで「他の誰にでも当てはまるか」や「サービスの名称は厳密に真であるか」というような疑念は通常入り込まないし、腹が膨れた後にそんな話はいちいち考えない。味が秒で消えるしけたガムをもらって帰るだけだ。
そこへ、無理やり0か1かをはっきりさせようとして――「ルールを完全に明文化せよ」――といった具合の法律――が仮に施行されたらどうなるだろうか? 当然、あらゆる事業者はコストをかけて厳格な検証を行い、真に提供可能な最低限度にサービスを絞らざるをえない。違反者として検挙されたらどんな目に遭うか分からない。検証コストそのものを嫌って法律の施行と同時に撤退・閉店もありえる。
結果、巷には全身インターネット人間待望の0か1で明文化された店舗のみが残る。店に入るとまずルールがぎちぎちに記載された文書が手渡され、署名のうえ承認するところから始まる。逆に「食べ終わったら丼を上げる」だとか「帰りにテーブルを拭く」だとかいう”マナー”はこの社会では一掃されている。どの位置に丼を置くのかセンチメートル単位で指定されていないし、どの程度の清掃が望まれているのかも判然としないためだ。”常識”があてにできないのでルールの数も非常に多く細かい。
以上の理由から、これまで客の協力で賄われていた労務奉仕はすべて商品価格に転嫁されている。誠に理に適った明快なルールとしか言いようがない。そうしてようやく注文を済ませると今度はカウントダウンが始まる。料金あたりの滞在可能時間を明示しているのだ。超過した客は追加料金を支払わなければならない。他にもセルフサービスだった飲料水は持参容器で10L飲もうとする客を警戒して一人あたり250mlに制限され、上着をかけるハンガーなどにも然るべき規制が逐一加えられた。
だんだん怒りが湧いてくる。なぜなにかにつけて客を縛ろうとするのか? こんなの店員がよしなにやってくれればいいじゃないか? 長居しすぎているのならそう伝えてくれれば対応するし、色々とこっちでうまくやってやらんでもない。いやいや、そういうのはもう違法になったんだ。実は長居されてもそんなに困らない時間帯はなくもないし、どこからが長居なのかも時と場合によるが「前もって明文化していない方が悪い」と取り決められたからには常に最悪を想定しなければいけない。
ところで、ラーメン屋などでは一般的な「大盛り無料」や「トッピング無料」も、こういう社会では存在しえない。なぜなら誰もが”常識”を越えて最大効率を追求する社会では、自分の胃袋のサイズに関係なく最大量を取得して残すのが最善の戦略だからだ。なんなら余ったら全部持って帰ればいい。「持ち帰るな」と書いていない限りは可能であるべきだ。まあ言うまでもなく、どの店も無料サービスはやらなくなった。
したがって、一人前以上の分量を希望する客は例外なく追加料金を支払わされる。一事が万事、そうならざるをえない。はてさて、すべてが0か1で明文化されたこのような社会は果たして住みやすいだろうか。たまに間違えて恥をかいたとしても、互いに配慮を欠かさない努力をしていた方がかえって低いコストで済むんじゃないか?
当然、こんな話は屁理屈だ、発想の飛躍だ、との反論もあるだろう。それはそうだ。実際、僕は屁理屈をこねている。でも、だったら「焼肉食べ放題」なんて謳い文句を真に受けたふりをして、50人前の上タンを要求する方も大概屁理屈じみているんじゃないか。自分だけが食べ散らかしていたら他の客のぶんがなくなるなんて容易に予想できそうなものだ。法的解釈においてはおそらく、際限なく要求できる方が正しい――だが、その”正しさ”の代わりに失われるサービスは決して少なくはない。
実はすでに気前の良いサービスは消え去りつつある。一見、お得そうに見えてもやたら小さい字であれこれと条件が記されていたり、座席ごとに注文用タブレットを設置している店なら端末単位で追加注文枠を管理していたりする。先手を打って画面上に「品切れ」表示を並べ立ててお引き取りを願うなんて”対策”も今時では可能だろう。本当ならだいたい5、6人前は食べられたはずが、50人前を平然と要求する一部の客のせいで一律3人前以下に制限されているかもしれないのだ。
全身がインターネットに侵されると、だんだんこういう二歩先、三歩先のことが理解できなくなってくる。目先の出来事を真偽値で捉えて、以降を短絡評価ですっ飛ばす考え方ばかり好むようになる。矢継ぎ早に世界中の事件が毎分ごとになだれ込んでくるこの時代では、そうしたインスタントなリアクションの作法に適応しなければインプレッションを効率的に獲得できないからだ。まるで味が秒で消えるしけたガムみたいな話だな。