2024/04/03

コメディ専の彼

かつて僕の友達に「コメディ専」がいた。文字通り、コメディしか書かない。学内のありとあらゆる文芸サークルや合同誌企画に出没しては、矢継ぎ早にコメディ作品を投下していく誠に恐るべき人物であった。というのも、あからさまにシリアス路線の企画ばかり狙い撃ちにしていたからだ。

その内容ときたら寄稿者たちが念頭に置いているであろうテーマや価値観を殊更に当てこすり、混ぜっ返し、笑い飛ばす意欲に長けており、うっかり紙面に目を通そうものならたちまち顔をしかめること請け合いの代物だった。輪をかけて恐ろしいのは、これらの作品がどれもそれなりに面白かったところである。

彼は話作りのみならず会話にも長じていた。どんな理知的な人物も――いや、あるいは理知的であるからこそ――まともに向かっていけば、受け流した刃を切って返すがごとくおちょくられてしまう。ならば決して小馬鹿にされまいと押し黙っていると、それはそれで正面から突っ切られる。明らかにアウェーな場でもその軽妙な振る舞いはまったく不利を感じさせない。僕の見聞きする限り、彼は無敵だった。

かくいう僕も、当時の作品を頭のてっぺんから足のつま先の隅々までおちょくられ倒した後、苦し紛れに彼を挑発したことがある。「そんなにコメディが好きならそういうところで書けばいいじゃないか。もしや自信がないのか?」彼は身じろぎもせずに答えた。「笑おうとしているやつを笑わせるのはただの奉仕だ。それのなにが面白い?」笑ってはいけないからこそ面白い。彼はそう飄々と言ってのけたのだった。

彼の伝説は続いた。極左団体の女を寝取り「転向させてやったぞ」と民青の丸眼鏡に自慢したり、mixiでしきりに創作論を語る先輩を「でもまだ一作も書けてないっすよね」となじって面目を潰したりと、やっていることは邪悪なのに、そこはかとない痛快さが彼の名声を絶妙に高めていった。

一体、彼ほどの人物はどんな人生を歩むのか。人々の大方の予想を裏切り、イケイケの起業家でもインフルエンサーでも女のヒモでもなく、全然普通に不動産大手の営業マンとして働いている。昨年、子どもが産まれたとLINEで報告が来た。ちなみに彼の妻は転向させた元極左活動家でもなければ、僕の知る大学内のいずれかの女性でもなく、きっちりお堅い社内交流で知り合った人らしい。

彼は不定期に僕のブログや小説を読んでは感想をくれる。一例を挙げるとこんな感じだ。『まだ合同誌とかやってんだ笑笑(いくつかの絵文字)』つまり、今も相変わらずおちょくられている。そんなわけで僕は彼に誘われて会食に赴いた。たとえ残業続きでも家族サービスとジム通いを決して絶やさない完全無欠の彼の悩みは教育費だという。30歳にして一本越えの預貯金を持ち、資産運用をしていてもなお子息に十分な教育を受けさせるには心もとないとのことだ。

僕の方といえば、特にこれといった話はない。それなりに効率性の高い仕事にありつけて、物書きをするのに不自由がなければ構わない。45分のランニングでぼちぼち10km以上走れるようになった、とささやかな自慢話を漏らすと、珍しく彼は素直に感想を言った。「マジか。俺はそこまで速くない。すげえな」そりゃあ、その分厚い大胸筋を揺らしながら走るのは辛かろうよ。彼は笑う。

「合同誌、出たら俺にも一部くれよ」彼は言う。僕は即答する。「嫌だよ」頭の中では余分に一部もらう算段がついている。「ネットで変な感想を書いたらさすがに怒るからな」「書かねえよ。そもそもどこに書くんだよ」「ツイッ……Xとかさあ」「アカウントどっかいっちまったし」「そういえばそうだった」彼のXアカウントは10年前を最後に更新が止まっている。Facebookに仕事関係の付き合い、Instagramにご飯と夜景の写真を上げる以外にはSNS上で誰とも交流を持っていない。

そして、僕が『ツイッター』と言いかけたのをしっかり拾い上げて「XでもTwitterでもどっちでもいいけどわざわざ言い直すやつらって(自主規制)」と、いつものおちょくりが始まる。僕がSNSで知り合った人々はきっと、彼を嫌いになるまでに5分とかからないだろう。生まれついての水と油だ。誠に遺憾ながら僕たちは油の方に違いない。ヌトヌトヌメヌメしていて、火をつけるとよく燃える。

そんな彼にも、意図しておちょくらない相手が少なからずいた。もちろん会社の上司や取引先相手にそういう真似はまずしないだろうし、彼の店員に対する細やかな気遣いにはこうして飲食を共にするたびに深く感心させられている。それとはまったく別に、当時、彼はおちょくろうと思えばおちょくれるのに、あえてそうしない時があった。

当然、僕は問いかけた。「あいつの作品は気に入ったのか」彼は首を振る。どんなに持って回った言い回しでも彼が文脈を違えたことは一度もない。「いや、あいつはいっぱいいっぱいだからな」しかし回答はたまに物足りない。こうした応答が何度かあった。僕はただ釈然としない日々を送り、都度おちょくられていた。

ある日、僕も参加している合同誌企画の場で刃傷沙汰が起きた。彼がまさにコメディ作品を投下せんとしていた、その時だった。寄稿者の一人がカッターナイフを取り出して彼に襲いかかったのだ。突然の出来事に誰もが動けないでいた。けが人は、一人だけ出た。加害者である。

彼の筋力によってあっという間に制圧せしめられた加害者は、ねじりあげられた腕を捻挫したとかなんとかで全治一週間の怪我を負った。互いに法的な手続きをとらなかったため表沙汰にはならなかったが、曰く「身を守りたかった」と襲撃の理由を述べていたと言う。だが、彼は件の人物とはろくに話したことがなかった。

大勢がおちょくられ倒していた部屋の中で、彼が「いっぱいいっぱい」であろう、と判断した人間だったのだ。一件落着を経た後の彼はわずかに表情に翳りを見せて「ちょっとしくったな」とつぶやいた。彼はもう作品を書いていない。その瞬間、僕は曖昧模糊としていた基準の一端を垣間見た。以来、おちょくられるがままにしている。

彼がなんの躊躇いもなくおちょくってくるうちは、僕はたぶん大丈夫だ。「いっぱいいっぱい」になっていない。感性が肉体から突き出ていない。思考を持て余していない。もし、いつか僕がそうでなくなった時、きっと彼はとても優しくなるのだろう。

誰しも人には説明しようのない羅針盤を懐に潜ませている。言うまでもないが、この話は全部嘘だ。こんないけ好かないやつがのさばっていいはずがない。最後は必ず、語り主の華麗な一言にやり込められて押し黙る。……そうであるべきだろ?

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Bluesky | Keyoxide | RSS | 小説