2024/06/13

「しかし……」と末尾に付け加える

僕の新しい職場は田町にある。三田、港区と言い換えた方が通りがいいかもしれない。週の半分ほどここに通勤するたび、いかにも毛並みの良さそうな慶應義塾の学生や東京工業大学附属科学技術高等学校(権威はしばしば名前の長さや画数に宿る)らしき生徒たちの群れとすれ違う。

その時、薄暗い身分に生まれ落ちた自分が迫りくる才気の波に削り落とされ、人混みをくぐり抜けた後には骸と化しているのではないかと恐怖に駆られる。洗車機は巨大なブラシで車をピカピカに磨いてくれるが、自分が汚穢そのものだとしたら残るは無垢な白骨ばかりと相成る。

しかし……恥知らずにも光り輝く波の終端から躍り出てみれば、特に身体に変わったところはない。どうやら僕は割に身綺麗らしい。毎日汗を流してスキンケアもしているしな、などととひとりでに納得して意気揚々と通勤を再開する。そういう不可思議な儀式が僕の中に存在している。

さて、昨今、インターネットの各所を巡るにつけある態度が目立ってきたと感じる。端的に言えば、ひどく投げやりに見える。ブラキオサウルスが浦和パルコの角で歯磨きをしていた時代からインターネットの治安の悪さはよく知られていたが、まだそこにはぎらついた熱意というか、ある種の情動が滾っていたように思う。

今日の電子言論空間にはそれが急速に失われつつある。気に食わない意見にわざわざ物申す謎のモチベはそのままに、情動だけが減衰しているのでなんだか拗ねたような極論が際立つ。たとえば男性の側にも弱者はいる、といった話一つをするのにもとことん惨めな立場に甘んじる。対する相手方も、これまた阿吽の呼吸めいた見計らった冷酷さで痛罵を繰り出す。

こうした応酬全般にもどことなく芝居がかった不自然さが散見され、書いている方とて特に説得するつもりはなさそうな気配が伝わってくる。なんらかの失調や性格上の問題ではなく、建設的に論じられる物事をわざとやけくそに言い直しているかのような、そんな養殖臭さが立ち込めている。

事実、彼らは演技しているのだろう。なぜなら真っ当に論じてしまうと話は真っ当な次善策に向かってしまうからだ。なんであれうまくやっていくしかない、といった具合に。そうした競争の続行、営為の継続――への拒絶が、件の投げやりな論調として現れている。

5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)、X(旧Twitter)、はてなブックマーク……中高年層を主力とする旧態の言論空間においては殊更、一連の態度が頻繁に垣間見える。おのずと、彼らのこの敗北加速主義的とでも呼ぶべき姿勢に至った理由が鮮明となっていく。

彼らにとって挽回の機会、チャンスの提示はもはや苦痛に他ならないのである。まして耐えがたいのは、自分と似たりよったりの人々が自己研鑽で成功を勝ち取ってしまうことだ。勝ちはなるべく遠く、決して手の届かない彼方にのみ存在していてほしい。敗北の安住を狙う者にとって「勝利の隣人」は誠に招かざる客と言うほかない。

どうにもならない世の中で負けたのなら、それは自分のせいではない。ゆえに人生設計の話には「高学歴で新卒大企業内定でなければ終わり」、恋愛の話には「顔も収入もよくなければ終わり」などとRTA走者顔負けの落着に終始する。社会的な問題を語る際も、釣り上等の極端な露悪さでもって口火を切る。

対をなす読み手もそんな罵詈雑言を真正面から受け止めたふりをして、仮初の被害者意識を旺盛に増幅させる。かくも劣悪な扱いを受けているのならなにもかもしょうがないという恍惚的諦観に充足を得て、インターネットの汚泥をさらうがごとく薬物探索行動を繰り返す。

世代が下るとこれはこれで「親ガチャ」に代表される運命論的な人生観が流行り、勝ち負けのどちらかに拘泥する旧世代と勝負自体を放棄する新世代の違いはあれど、共通してどこか物事に対して拗ねた態度は変わらない。センテンスはより断定的で短く、言論の消費傾向はよりファスト的になる。

いずれにしても確定的な結論を欲しがるのはきっと不安だからなのだろう。手探りで自ら進むのは責任がつきまとう。もし結果に格差が生まれたら敗北の責任を一生背負わされ続けるかもしれない。所詮、なにもかも運ゲーなのだと言い切ってもらえた方がいっそ気楽というわけだ。

まあ、実際どうなのかと問われたら僕も大いに悩む。環境や運が7で自由意志が3くらいとも、あるいは8:2くらいとも考えられる。日常生活がうまくいっている時だけは比率を逆転させたい誘惑もかなりある。ただ、なんにせよ語り得ぬ話についての結論は極力先延ばし、後回しにする方針でいる。

僕たちは一人ひとり本を携えて生きている。そこには色々な事柄が書かれている。最初から最後まで通して読めるのは自分ひとりしかいない。どこで完結とするかも自分で決められる。書きたければなんでも書けるし、逆にこれ以上書き加える気がないのなら早々に本を閉じて縛り、二度と開かないようにもできる。

たとえば親について「金がなく、自分をぶさいくに生み、性格も悪い」と書いてそこで終えれば、それはそれなりの本となる。同様に自分自身について「学歴が低く、稼ぎも悪く、もう若くもない」と書けば、やはりそれなりの本だ。一方「しかし……」と書き足して話の続きを作ってもいい。もちろん、現実は現実に違いない。この本に書き足したからといって不遇な過去は変えられない。

それでも、自分の本に「しかし……」と書き足すのは本人にしかできない。この本は俗に「解釈」と呼ばれている。各々がどんな社会的立場に列せられるかは個人には決められないが、どんなつもりでいるかは勝手に位置づけられる。他の物事も客観的な傾向とは別に、僕たちは一人ひとり個別の解釈を持てる。

「決定」は難しい。恐れ多くも僕たちは自己決定権を持つとされているが、真に能動の決定を下せる立場の人間は極めて稀だ。だが、解釈は何人にも妨げられない。個々人がなにを感じて、自他や事象をどう捉えるかはまったく自由な心身の働きであって、現実世界とは無関係に常に可能なのである。

だから今日もまた、語り得ぬ話の末尾に「しかし……」と付け加える。本を開いているかぎりはいつでも続きを書き足すことができる。

©2011 Rikuoh Tsujitani | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説