あらすじ
本作はナチス政権下で行われた「ヴァンゼー会議」をもとにした作品である。ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔にちなんで名づけられたこの会議では、親衛隊の将校ならびに事務次官などナチスドイツの中枢を支える高官たちが一堂に会している。
戦争のさなか多忙を極める彼らが今回招集された理由は、かねてよりヒトラー総統が掲げる「ユダヤ人問題」の「最終的解決」を討議するためだった。風光明媚な景観を湛える邸宅の中、ランチタイムを挟んだ90分の議論でユダヤ民族の絶滅計画が作り上げられたのだ。
流血なき血なまぐささ
本作は大別すると戦争ものの歴史映画に含まれるが、作中では一発の銃声も響かない。全編が会話シーンで占められているこの作品に戦場は現れず、したがって流血も起こりえない。仕立ての良い軍服や正装に身を包んだ高貴なる男たちの物語だ。
しかしながら、会議中に語られる彼らの仕事ぶりの背後には血なまぐささが色濃く立ち込めている。捕虜やユダヤ人の「特別処理」について報告する将校の裏には死体の山が、アーリア民族の財産を守るべく様々な手段を講じたと語る官僚の裏には飢餓と貧困が、まざまざと垣間見える。
視界には机と人とグラスしか映らなくとも、我々は一連の台詞から酸鼻極まる光景を連想できる。時に人間の想像力は生半可な写実を容易に越える。観る人が観れば、鉤十字の旗の下にどす黒く染まった血の海が骸とともにやがて固まり、隆起した血の山脈を築く様子さえ思い浮かぶだろう。
手間は最小限に、手柄は最大限に
本作をより陰惨たらしめているのは登場人物の高官たちがあからさまに残虐だからではない。むしろ反対に、彼らはしばしば「最終的解決」の実行に難色を示す。もちろんそれは、ユダヤ人に同情しているからではない。
作中では地図やイラストでヨーロッパ内におけるユダヤ人の人口、地域別の人数が示される。その総数はおよそ1100万人にものぼる。ヒトラー総統の悲願を達成するには東京都の人口にもにじり寄るほどの人間を「最終的解決」に導かなければならない。
となると、やにわに現実的課題が立ちはだかる。1100万人ものユダヤ人を一箇所に集めるのはどだい不可能なので、各管轄で手分けして「解決」にあたらなければならない。ただでさえ戦時中で手が空きづらい輸送網を「最終的解決」のために幾度となく往復させる羽目となる。
単に送ればいいわけでもない。効率を考えるとなるべく一遍に大量輸送したいが、万が一意図を察知されて暴れられると脱走の危険性も出てくる。たかが輸送に貴重な兵力をあてがいたくはない。かといって反乱を恐れて小分けに運んでいては燃料と時間が無駄になる。
送られてきたら送られてきたで、今度は宿舎や食事の用意が欠かせない。数百、数千人単位で日夜送られてくるであろうユダヤ人を滞りなく「解決」できるはずもなく「解決」する寸前まではおとなしくしてもらわなければ手間がかかる。どうしても一時的に落ち着かせる場所がなくてはならない。建築資材、人夫、食料、警備……。
はてさて、こうして考えてみると高官たちにとって「最終的解決」を意欲的に行うメリットなどなにもないばかりか、下手に安請け合いして失敗でもしたら逆に粛清されかねないとんだ外れ仕事と言える。だがそれでも、ヒトラー総統の命令に応えない選択はありえない。
たちまち、将校、官僚ともども己のキャリアを賭けた壮絶な押し付け合いが始まる。典型的な縦割り組織ならではの所属部署の利益優先、保身――皮肉にも、現代のサラリーマン生活でも時折見受けられる普遍的な光景だ。
官僚としては平然と省庁の権限に踏み込んでくる軍人の横柄さには我慢ならない。将校からすると総統の理想を素直に受け入れず原則論を盾にとる役人の頑固さに我慢ならない。会議はほとんど平行線を辿り、戦時中にしては豪華な珍味が揃えられたご機嫌なランチタイムに突入する。
変な話、もし彼らがカルト宗教の狂信者のごとく代償をいとわず命令を実行するような人々だったら、大したグロテスクさを帯びずかえって安っぽい印象になっていただろう。これほど平和な現代人にも通ずる葛藤や私欲を抱えつつも、根本的な部分では相容れない両極端さにこそ底知れぬ恐怖を感じる。
ユダヤ人の定義
後半では内務省次官と将校たちの間で議論が白熱する。散々押し付けあった末に渋々ではあるものの管轄ごとに受け入れ可能なユダヤ人の規模が定まったところで、次に問題となるのは誰をユダヤ人と見なすのかであった。
将校たちの見解は明快そのものだ。ユダヤ人の血が少しでも入っている者は例外なく根絶すべきだと主張する。これに断固反対を表明したのが先の内務省次官、シュトゥッカート氏だ。かつてニュルンベルク法を起草した法学者でもある彼にとって、なんであれ法律が無視される事態は許しがたい。他の官僚たちにしてもユダヤ系というだけで有用な労働者が奪われるのは避けたかった。
ニュルンベルク法ではハーフの混血児であっても父母のどちらかがドイツ人で、思想が”模範的”であれば正式にドイツ人と認定される。したがってクォーターもドイツ人として認められる。ところが将校たちの見解に沿うと、法律で保護されるべき市民の権利までもが唐突に奪われてしまうことになる。
言うまでもなく、シュトゥッカート氏もユダヤ人に同情などしていない。あくまで法体系の一貫性と秩序の確立を重んじている。一方、親衛隊の将校たちにとってはヒトラー総統が秩序であり唯一無二の法である。同じ狂気の帝国を支える身でありながら両者の隔たりは果てしなく深い。
頃合いよく、シュトゥッカート氏は面倒な「最終的解決」を取りやめて、緩やかな断種政策に変えるべきだと切り返す。これには官僚はもちろん将校の一部も頷かざるをえない。当面は「ユダヤ人問題」を棚上げにして戦争に集中できるうえにコストも安い。熟練のユダヤ人労働者も失わずに済む。だが、そのぶん総統が夢見る理想社会は何百年も先の彼方に遠のいてしまう。
想定外の落着を危惧したハイドリヒ長官は会議を中断、彼を個別に呼びつけてユダヤ人の「最終的解決」に反対なのか、と問い詰めるも、シュトゥッカート氏は冷静に否定する――法秩序が重要なのであってユダヤ民族の根絶に異議はないと答える。かくも確固たる近代的価値観を備えていながら、なお民族浄化を当然視できる彼こそが実は作中きっての狂人なのではないかと僕は思う。
ナチス流の人道的配慮
議論の終盤ではついに「最終的解決」の具体的な方法が話し合われる。官僚の一人がここぞとばかりにメモ用紙を取り出して、仮にユダヤ人がまったくの無抵抗で一列に並んで射撃の的になってくれたとしても、おびただしい量の銃弾と期間を要すると訴える。しかもこれは撃ち損じや死体の後始末を考慮しない渓谷の崖で行った場合の理論値、ベストエフォートでの概算なのだ。
将校たちは悪意のある仮定だと反発するも、どことなく歯切れの悪さは否めない。続いて他の官僚からも声が上がる。たとえユダヤ人相手でも人間を殺し続ければドイツ兵の精神に悪影響を及ぼすかもしれない、と。事実、捕虜の処刑などを境に精神失調に陥る兵士は少なくない。
「我が部隊の兵は軟弱ではない」と叫ぶ将校を一喝するハイドリヒ長官。確かに「最終的解決」に直接関わる人員の負担は無視できないと同意を示す。なんらかの負荷軽減策がなければならない。いわば、ナチス流の人道的配慮である。彼らは民族一つを滅ぼさんとする残忍性と部下を慮る気持ちを難なく両立してのける。
そこで、いよいよハイドリヒ長官とその部下、アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐が秘策を発表する。最後の最後まで隠していたのは議論を思惑通りに決着させるためだろう。アイヒマン中佐は「すでにソ連兵の捕虜を使って成果を得ている」と高らかにエビデンスを語る。それは、新開発の毒ガスを用いた画期的な大量処刑法だった。
一斉に会場がどよめく。毒ガスであれば気体を密室に流し込むだけで作業が済む。非常に安価で、かつ銃弾も浪費せず、いたって簡便に「最終的解決」が行える。「解決」後の死体の運搬もユダヤ人に行わせ、そのユダヤ人自身も次に「解決」する。ドイツ兵の精神も脅かされない。
ここへきて議論は一挙に満場一致を見た。輸送や受け入れのコストは避けられないとはいえ、効率的に「解決」可能なら宿舎や食料の方は大幅に削減できる。早くもアウシュビッツという地では大型のガス室を作る計画が始まっていると言う。
あれほど激しく言い争っていたのに、話が終わってみれば誰も彼も満足した顔で邸宅を立ち去っていく。将校、官僚たちを見送った後で残った長官とアイヒマン中佐が手短に成功を祝う。「全員が賛成したからやりたいようにやれる」かくして、一つの民族が陰惨な歴史の闇の奥底へと突き落とされた。わずか90分の会議で、1100万人のうち約半数の命運が決したのだ。
おわりに
本作を通じてつくづく思い知らされたのは「理解できる恐怖」だ。「理解できないからこそ怖い」との意見もあるが、僕の見解は違う。心の底からみじんも共感を抱かない存在は簡単に他者化、切断処理化できるため、もはや意識の内側に入ってくることはない。自己の認識が侵犯される恐れ自体が生じないのである。
他方、本作における彼らの営みは我々とそう離れてはいない。直情的で理屈を軽んじる連中に道理を説く苦労も、むやみに規則を振りかざす石頭を懐柔する苦労も、そこそこ長く生きていれば一度か二度は経験する。自分が正しかろうと正しくなかろうと責務ならば対応しなければならない。利害関係者の了解を得なければいつまでも前に進めないのだから。
そうして一つ一つ障害をやっつけるたびに、清濁併せ呑んでいるつもりの自分が一番危ういのではないかとも感じる。本来ならもっと時間をかけて検討すべき課題をおざなりにしてしまっているのではないか。本質的な事柄から目をそらしているのではないか。そもそも解決したと思い込んでいるだけではないか……。なにもこれは仕事にかぎった話ではない。
学や道徳がなくともホロコーストを悪だと断じるのは容易い。我々は歴史の結果を知っているからだ。対して、現在の出来事についてはまるで確証がない。一人ひとりが内省を尽くしているとはとても言いがたい。我々は未だ無自覚にナチス的かもしれないのだ。倫理と非倫理の境界線はどこにでも長く深く横たわっている。