2024/11/12

身体感覚を取り戻すために

実はこないだから日記をしたためていた。このブログとは別の、紙にペンで書く方だ。毎日、手近なメモ帳に300文字ほど書きなぐっている。なにかを始めようとする時、やたらと形を整えるのはあまり良い筋ではない。モチベーションを行為ではなく形式に委ねてしまうと、その枠から外れた途端に継続力を失うからだ。

一ヶ月ちょっと経ち、もともと使い古していたメモ帳を使いきった。改めて読み返すと、日を追うごとに文面がやや長く技巧を帯びているのが分かる。なにしろ手書きはundoが効かないので、当初は書き損じを倦んで平易に表現せざるをえなかったのだ。だが、何週間も文字通り手を動かしていたおかげで指先と脳の間の経路が潤滑されたらしい。だいぶましになってきている。

日頃、多様なデジタルデバイスやソフトウェアに取り囲まれて暮らしているとどんな出力も一見容易く感じられる。ましてやその実装に一枚噛むような生業で糊口をしのでいる身ではなおさらそう思う。しかし、これらはあくまで巨大な電子計算機の連なりによって担保されている代物に他ならない。

たとえば本稿は古典的なHTMLの静的ページとして表示されているが、実際には静的サイトジェネレータという実装系を用いて変換している。それは僕がVPS上に構築したCI/CDによって自動的に実行され、最終的にWebサーバにデプロイされる。さらに皆さんは、そうしてできあがったHTMLページの実体ではなく、厳密にはCDNにキャッシュされたものを読んでいる。

書いた文章を表示する目的でこのような大掛かりな仕組みを用いるのはそれはそれで幾分楽しい娯楽としても、いささか万能感に傾倒しすぎている気配は否めない。簡便ではあるが人間ひとりの身体感覚からは著しく乖離している。そこで僕は、指先から等身大のフィードバックを取り戻すために手書きでも文章を書くことにしたのだった。

ところで、手持ちのメモ帳を使いきったからには新しい帳面を調達しなければならない。始めたなにかに定着の兆しが表れた時、それはまとまった投資を行う最良の機会と言える。A7サイズのメモ帳では余白の少なさを感じていたし、表紙が脆いと保存も携行もしづらいので、丈夫なハードカバーを備えたA6サイズくらいのノートがあるといい。

その条件ですぐに思い浮かぶのは、かの有名なモレスキンだ。なんせ中学生の頃に買ったことがある。今でこそ多くの文房具店で売られているが、当時見かけた瞬間の衝撃は相当なものだった。こんなかっこいいノートが世の中にあったのかといたく感心した。それだけに、いざペン先を走らせた際の落胆ぶりときたらとても言葉に表せない。

モレスキンは紙質が悪い。熱心なファンでさえ「高級わら半紙」と揶揄して憚らないほどだ。個体ごとのばらつきも大きく、端が折れ曲がっているのも珍しくはない。イタリア製なだけにあたかも往年のイタ車を彷彿させる。にもかかわらず、世界最高峰の製紙技術を誇る我が国においてもよく売れ続けているのは、そもそもハードカバーノートの国内メーカーでの取り扱いが意外に乏しいからだ。

もの自体はなくもない。文房具ブームが再燃するたびに、各社がこぞって競合製品を打ち出してきた。アピカの「Premium C.D. NOTEBOOK」や中村印刷所の「水平開きノート」、かつては無印良品もハードカバー仕様のノートを出していた。最大の問題は、そのどれもがわずか数年で廃盤を余儀なくされているところに尽きる。一旦ブームに乗っかってみたはいいものの、思いのほか採算が悪くて諦めたのだろう。

今時、あえて手書きで日記をつけるからにはなるべく帳面も手に馴染ませたい。となると、これと決めた愛用品が突然買えなくなるリスクを考慮しなければならないのはたいへん気が重い。対して、モレスキンには現行の製品を四半世紀以上も売り続けている実績がある。長期の継続は短期の品質に勝ると認めざるをえない。

とはいえ、やはり紙質の悪さはいかんともしがたい、と悩んでいたところへ素晴らしい製品が目に留まった。銀座ロフトの一角を占領せしめていたそれは LEUCHTTURM1917(ロイヒトトゥルム1917) と言う。同名の老舗ドイツ文房具メーカーが2005年に売り出したノートらしい。日本では2008年頃に流通しはじめ、2017年以降にバレットジャーナルブームを受けて販路を急速に拡大したようだ。

販売時期といい外見といいこれもモレスキンの対抗商品に違いないが、20年近く継続しているなら廃盤となるリスクは低いと考えられる。そしてなにより――そう、紙質がかなり良い。外装の質感も上々、入手性も申し分ない。気になるお値段はA6サイズで約3000円。 イカれてやがる。たかが帳面だぞ。 でも買ってしまった。先の条件を完全に満たすノートはこれしかない。

ラインナップには無地、罫線、ドット、方眼があったが無地を選んだ。せっかくなのであらゆる形式を取り払ってみたい。人に見せる前提じゃないから字なんて自分が読めればいい。取り繕う必要も面白くする必要もない。見たまえ、3000円の高級ノートがまるで落書き帳みたいだ。僕は日記の中に平然とTodoを紛れ込ませるし、隙あらばいきなり小説の設定を書く。

昨今のタスク管理ツールやメモアプリの機能性はほとんどの場合において紙のそれを凌駕している。それでもなお紙媒体が優れているとしたら、ひとえに形式に縛られないことしかない。なんの機能も持たないが、どんな機能も持たせられる。イラストを描けばその瞬間から紙面はペイントツールであり、Todoを記した直後にはタスク管理ツールと化す。良くも悪くも我々の身体感覚に根ざしている。

もちろん、現実にはそううまくはいかない……アナログとは連続的な試行錯誤の界面に自らを浸す営為なのだ。この世界では常に書き進んでいくしかない。しかしその甲斐あって、今回は締めくくりの言葉を最初から持った状態で始められた。

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