ある時、サークル主のendenが言った。「食塩水に漬けてみたんですけど放っておいたらなんか良い感じになったんですよね、これで本を作りたい」手に持った容器には塩の結晶が浮いた紙だか発泡スチロールだかが入っていた。「え？ これで……本を……？」数ヶ月後、この話は現実のものとなる。
当サークル『Gradierwerk』は異常装丁本の制作を行っている。第一弾の『戦略級魔法少女合同 黒点』において装丁が高く評価されたこともあってか、彼はさっそく次のアイディアを試したがっていた。塩の結晶が固着した本のイメージから、作品のテーマは環境について幅広く取り扱うSFに決まった。その名も『環境SF合同 圏界面』だ。後ろの2文字は僕が考えた。
この時点で、一向に翳る気配のない夏の暑さを持て余したまま9月が目前に迫っていた。初回の頒布を予定しているコミティア150の開催までせいぜい2ヶ月半、校正と組版のためにひと月は使うとすると、原稿の締め切りまで正味一ヶ月あるかないかという極めてタイトなスケジュールであった。企画を聞かされたその日のうちに原稿を書きはじめたのは言うまでもない。
まもなく9月に入り、寄稿者の募集を開始した。今回も彼のアイディアは大いに当たった――以前にも増して反響を得た我々のもとに、文章はもちろんイラストや漫画の執筆、さらには作曲を手掛ける人など、実に豊富なメンバーが集まった。前回に引き続き異常装丁を支える校正・組版班に助けられつつ、怒涛の勢いで制作が進められた。
なにしろ前回は半年以上の猶予があったのに寄稿者の半数以上が原稿を落としたのだ。もしかすると『黒点』を読んで「なんか一人でむっちゃページ数を使っているやつがいるな……」と訝しんだ人もいるかもしれないが、実はあれは僕が頑張って中編を2作書いていた（泣）異常装丁本は厚みが薄いと迫力が出ないのである。だが、今回はそんな余裕もない。
幸いにも、各人の専心と校正班の尽力により概ね予定通りの原稿が出揃った。さらっと言ったが僕などは校正者に原稿を何度読み直してもらったかもはや定かではない。心より感謝を申し上げる。そうして、10月を過ぎたあたりから制作の中心は塩装丁の量産に移った。僕たち寄稿者陣がコンテンツを作り上げている間、endenと組版班らは塩結晶を効率的に析出させる方法を検討していた。
ところが、こっちの方は不幸にも――彼らの弛まぬ努力とは裏腹に――残念ながらうまくいったとは言いがたい。そもそも塩結晶の品質が天候に大きく依存するため、最終的には祈って待つしか他に手がなかったようだ。コミティアの数日前に予想生産数を聞いて思わず「敗色濃厚の獲得議席予測みたいだな」とこぼしてしまった。中心に対してやたら下限が広くとられているやつ。
コミティア前日、出来上がった塩装丁を本に組み込む作業に取り掛かる。この日はサークルメンバーが何人も集まってウオウオしながら夜遅くまで作業が続いた。どうしていつもこんなに限界すぎるスケジュールなのか。なぜなら発注した製本が届いてからでなければ異常装丁を実装できないからだ。より早く発注するとしたらより早く締め切りを設定しなければならず、そうすると地獄の釜の蓋が開く。当サークルは限界制作に適応した異常人材を歓迎しております。
とはいえ、苦労した甲斐はあった。数ヶ月前までは不確かな想像の産物でしかなかった、リアルに塩で装丁された最高にクールな本が紛れもなく目の前に存在している。そんなただでさえ最＆高の本に、僕たち自身のコンテンツが余すところなく格納されている。とてつもなく誇らしい気持ちだ。
締めくくりに、塩結晶を運搬時の摩擦から保護するために真空パックで包装する。enden曰く、真空パックを単なる装飾以上の実用的な用途で使っているサークルはほとんどないらしい。このようにすることで、ただの包装にも工業デザイン的な文脈を与えられる。
結果、コミティアに向けて用意できた在庫はわずか数十部に留まった。当日時点で告知ツイートは100RTをゆうに超え、頂いている期待の声に反して部数が致命的に少ないのは明らかだった。だが、それでも完成した。帰り際、寒くも暑くもない季節外れな夜風がなぜか心地よかった。
その翌日、文字通りサークルのみんなで手塩をかけて育てた本は案の定、開場から15分と経たないうちにすべて読者のもとに巣立っていった。売り子を務めるのも当サークルで4回目を数えるだけに一応セールストークも考えていたのだが、口を開くどころか息をつく間もなく本が売り切れた。買って下さったお客さんの鬼気迫る勢いにかえってこちらが圧倒されてしまったほどだ。まことにありがたい話である。
そうして残された長大な数時間は、言うまでもなくもっぱら謝罪に費やされた。もしかすると様子を見て「なんか一人でむっちゃ言い訳をこねているやつがいるな……」と訝しんだ人もいるかもしれないが、実はあれは僕が頑張って謝っていた（泣）こんなに言い逃れをしたのは社会人一年目以来だなと妙な感慨を抱いた。いや、しかし、それはそれとして本当に申し訳ない。
必死に言い訳をこねる傍らで得た所感としては、SNSを通じて訪れた方々は元より、通りすがりの一見さんにも積極的に関心を持って頂けたところが印象深い。製造手法や保存方法、装丁を思いついたきっかけ、作品のテーマについての質問も盛んに寄せられ、ますます力強い手応えを感じた。
また、前回は頒布場所にかぎらず9:1の割合でほぼ男性のお客さんが中心だったが、今回は7:3か、あるいは6:4くらいで男女比にさほど差異が見受けられなかった。異常装丁と一口に言っても保存性は前回より後退しているのに、むしろ万人受けとも言える成果が得られたのは率直に興味深い。
「黒点が面白かったので」と前作の内容に言及するお客さんもちらほらといた。なんと言っても僕たちが作ったのは各々の物語だ。『黒点』の評価がこうして『圏界面』に繋がっているように、今回の評価も次回以降に繋がっていくのだ。両方に参加した身としてたいへん勇気づけられた。
最後に、天気さえ良ければちゃんと部数を用意できた、とは主宰者の弁だが、どうか彼を信じて通販とコミケまで待っていてほしい。まだそんなに多くは部数を確保できないものの、今週末に開催されるコミックアカデミー25でも頒布する予定だ。化学に長けたメンバーが貧溶媒晶析なる画期的な手法を見つけてくれたので、今後の生産効率は飛躍的に改善される見込みである。乞うご期待あれ！