誰しも己の特権性を自覚するのは辛いものだ。自分の成功はまるきり自分ひとりの手柄だと信じ込みたいし、逆に自分の失敗は不運や周囲の環境、ひいては社会や国家に帰責したくなる。たぶん、いくらかは双方ともに事実なのだろう。卓越した成功は相応に自己研鑽ゆえであり、愚かな失敗は相応に不運や環境が招いている。現代社会の成り立ちは複雑怪奇でどんな成功や失敗も一人では抱えきれない。
しかし、あまりにも奇跡的な実例を目の当たりするとそういう中庸っぽい考え方がただの御為ごかしにしか感じられなくなってしまう。「みんな辛いのは同じなんだ」と先進国の中心で熱唱すれば肩を組んで一致団結できるかと思いきや、世界の片隅に属する人々の辛さは明らかに同等ではない。我々が空気を吸うかのごとく得ている物事が、彼ら彼女らにとっては宝石に値するほど得難い贅沢品なのだ。本作の物語はそれをまざまざと体現している。
本作「漁村の片隅で」は本邦では珍しいカメルーン映画である。Netflixの大きな利点の一つはこうした国々の作品を意欲的に調達してくれるところにあると思う。だがその一方で、まったく遺憾なことに本作は4月18日に配信が終了する予定だと言う。もしここまでの文章を読んで少しでも観る気が湧いてきたなら僕の記事など後回しにして可及的速やかにご覧頂きたい。
映像はカメルーンの漁村の海辺から始まる。風景はのどかでも海で働く人々は荒波に揉まれ、荒縄に身を削られている。まず最初に父親が映る。寡黙だが善良そうに見えるその出で立ちが静謐にクローズアップされる。次に娘。年端はいかなくとも賢明な物腰で、父の獲った魚を器用に売りさばいていく。この二人の働きが生活を支えている。
海辺の先にはすぐ集落がある。漁が終わると父親はボロボロに使い込まれたホンダの古い船外機エンジンを担いで帰宅する。船や網は岸にいくつも放置されているのにエンジンがそうではないのは、彼らにとってこれこそが日々の糧を生み出す源泉だからだろう。たとえ前世紀の船外機であっても彼らには気安く買い替えられる代物ではない。
家では娘が家事の一切を取りしきる。魚を焼き、洗濯をして、母の看病もする。そんな姿を父は誇らしく感じている。そうして一日が終わる。次の日も、また次の日も、概ね同じ仕事の繰り返しだ。ここでは働くことと生きることが強固に直結している。当然、我々は疑問に思う。でも、教育は? 子どもなら学校に行くべきだ。
じきに答えは詳らかとなる。この集落では教育が歓迎されていない。特に女子教育は嫌悪さえされている。集落の人々は言う。「あの家の子どもも、あそこの家の子どもも、学校に行かせたらみんな怠け者になった」実際のところは分からないが仕事を嫌がっているのは事実のようだ。
そしてその中には、娘の母――父にとっては妻だが――も含まれている。母はかつてはとても愛嬌に満ちた女性で父の熱烈なプロポーズを受け入れて結婚したものの、周囲の反対を押し切って学校に通い出すとたちまち態度が豹変する。彼の言葉遣いや発音の誤りを叱責するようになり、一転して強情な態度を示しはじめたのだ。最終的には重篤な病にかかり、床に臥してしまう。
父はこれを「学校が一家に悪魔を呼び込んだ」と認識した。海と漁だけで生涯を暮らしてきた彼に学校教育と発病の因果関係を整理する知恵はない。すべてが連続した悪魔の災いとして学校教育を強く憎んでいた。だが、その折、彼にとっては非常に不都合な事実が判明する。娘は類稀な知能を持つ天才少女だったのだ。
闘病むなしく母がこの世を去ると、娘は空いた時間で学校に忍び込むようになる。母の遺品と見られるポスターに書かれていた文字を読むには、読み書きの知識が必要だからだ。ポスターには自分と似た年頃の少女が写っていた。凛とした佇まいの少女がなんと言っているのか彼女は知りたかった。
むろん、正規の入学は到底許されない。間もなく授業を盗み聞きして得た知識だけで、彼女は学校のどの生徒よりも優れた学力を得るに至る。事情を知った教師は喜んで入学を進言しに向かった。しかし教師の期待に反して娘の行いを知った父は怒り狂い、すぐさま彼女を鞭で打ちつけた。普段の善良で朴訥な人格が消え失せ、娘の身体に宿った悪魔をなんとしてでも打ち払いたいという鬼気迫った表情がスクリーンに映し出される。
これだけ痛めつければ娘は悪魔に誘われないだろうと父は思った――ところが、彼女の勉学に対する熱意は決して揺るがなかった。勉強道具を燃やされても隠したポスターを頼りに懸命に音読を続けた。そのポスターに写っていた少女の名前はマララ・ユスフザイ。当時、パキスタンで女子教育の必要性を訴えた結果、テロリストから銃撃を受けるも奇跡的に生還した少女だ。
その頃、並行して二つの出来事が進行していた。一つは学校。数少ない有識者の尽力によって建てられたこの学校は危機に瀕していた。近日中に開催される学力大会に送り出せる生徒が一人もいないからだ。どの生徒もおそろしく出来が悪い。小学六年生くらいの年齢の子でも公倍数や公約数がなんなのかさえ理解できない始末だった。とはいえ、我々の目から見るとどうにもならない話に思える。
先進各国が備える洗練された教育カリキュラムと比して、この地の学校教育はとてつもなく質が悪い。行きあたりばったりに計算問題をやらせてもいきなりできるようになりはしない。本当は段階を追って数の数え方から教えなければならないのだが、丁寧に手順を踏めないのもある種の教育の不足である。貧困国で教師として身を立てられた人物に、分からない子どもの気持ちは分からない。
そんな状況の中、二人の教師の間で例の娘の話が持ち上がる。盗み聞きした授業ではありえない好成績……だが、男性の上司の方は難色を示す。彼はルールに厳格であった。正規の生徒でない子どもを出場させることはできない。ましてや親に入学を反対されている。地元で反対運動が盛り上がれば学校など簡単に打ち壊されてしまう。あくまで天才少女を推す部下の女性教師と悶着が続く。
もう一つの出来事は、父の兄に関係する。父よりも激しく女子教育を憎み、娘を鞭打つたびに「お前は強い」と父を手放しで称賛する彼は、その一方で金遣いが荒く地元の有力者に多額の借金を作っていた。このままでは用心棒に殺される。苦し紛れに彼が唱えた返済案は、虚言を弄して弟の娘を有力者に売り飛ばすことだった。希望と絶望の二つの手が彼女へと伸びる。
やがて娘の命運は父に委ねられた。結論ははっきりしている。あれほど痛めつけても勉強をやめない娘はもはや手がつけられないほど悪魔に侵されてしまっている。娘を手放すのはなにより辛いが、このまま妻と同じ末路を辿らせるくらいなら……。つくづく、無知とは恐ろしいものだ。娘の将来を慮る一心で、完全に誤った決断を下してしまう。
こうして彼女は弱冠十二歳にして有力者と強制的に結婚させられる。決死の逃亡劇も実を結ばず集落に連れ戻された彼女は、婚姻の儀式が終わったその日のうちに強姦される。次の日も、また次の日も犯される。有力者は目を輝かせながら歓喜の声を口にする。「一日中犯していられる」彼女の命運は決まったかのように思われた。
本作は肝心な部分が抜け落ちている。辛くも屋敷から抜け出した彼女は森の中で首吊り用のロープを発見する。現実か幻かは定かではない。ともかく、首を通して地面を蹴れば楽になる。だが、次の瞬間には場面が切り替わる。慌てて自分の”妻”を探す有力者、兄の虚言を知って激昂する父の姿。各々が娘の目撃情報を頼りに辿り着いた先には、集落全体で共有するテレビがあった。
画面には学力大会の決勝戦で戦う娘の姿が映っていた。事態を知った教師たちが超法規的な措置を講じたのかもしれない――いずれにせよ、そこにいた。標準問題は両者ともに完答し、次いで互いに出し合った問題を答える延長戦に突入していた。淀みなく答え続ける二人。そして彼女が、意を決して最後の問題を繰り出す。
「二〇一四年に史上最年少でノーベル平和賞を受賞した人の名前は?」対戦相手の少年は答えられなかった。答えは、銃撃から生還したパキスタンの少女、マララ・ユスフザイである。見事、彼女は学力大会に優勝を果たして多額の賞金を獲得する。十数年後、ある工科大学の卒業生スピーチで壇上に登る、成長した天才少女の姿を最後に物語は幕を閉じる。
さて、誰しもある程度は辛く、ある程度は努力をしているというのは冒頭に述べた通りだ。しかし我々が初等教育を得るために負った代償の多寡は記憶にさえないほど小さい。なぜなら我々の社会を築いた先人たちが先に支払ってくれたからだ。大抵の場合は筆記用具と教科書がランドセルに詰まって勝手にやってきてくれる。僕たちは気ままに通うだけで、働く必要もない。
時折、先進国の満ち足りた社会にわざわざ自分が生まれてきた理由が分からなくなる。同時期にカメルーンのどこかの漁村に生まれた子どもと入れ替わっても不都合はおそらくほとんどない。なんなら今の時点で入れ替わっても、世界はその差異を実に微々たるものとして難なく吸収するだろう。たとえそれが百人、千人、一万人であってもきっと大差はない。
つまり、今の僕が得ている種々の恩恵を正当化しうる道理はどこにもない。かといって、自らの地位や財産をなげうつ立派な気概も持ち合わせていない。せいぜい物価の差を活かして月々に数万程度の寄付をしてやり、相対的に偉業を成した気になるのが関の山だ。
このように言葉を巧みに手繰った曖昧な態度でなんらかの楔を済ませた優越的な態度を気取れるのも、言ってしまえば教育を受けた人間のみが持ちうる言語的特権にほかならない。想像を絶する苦難を乗り越えた少女の姿を前に、潜んでいた特権性のスティグマが己の全身からありありと浮かび上がる様子をただじっと見ている。