2025/09/24

自分たちの方(党派)を向いてほしがっている

創作においてはなにを描くかということと同じくらいなにを描かないのかも重要だ。節操なく要素を詰め込んでいくと太い幹として通したい真のテーマ性が損なわれ、あちこちに散らばって生えた枝葉に栄養を奪われ尽くし、いかにも貧相な見てくれの木々が出来上がる。

これは少し角度を変えると商業的な動機でも成り立つ。ある要素を取り入れるとそれに親和的な客層に好印象を持ってもらえるが、同時に他の客層には反感を抱かれる。ならばと広く客層を取り込もうといたずらに要素を散りばめると、かえって誰にとってもやや不快な、いわゆる「ノイズ」まみれの作品に堕してしまう。要素は増やすよりは減らす方が容易い。

以上の理由からコンテンツがよりメジャーなメディア形態へ変貌を遂げる時、すなわち大衆化を果たす際には、反感を抱かれやすい要素を防衛的に削る方向にしばしば傾く。中でも暴力と性描写は真っ先に槍玉に挙げられる。元が成人指定並の作品なら、せめてR-15程度に抑えられないか検討されるし、元がR-15相当ならせめてPG-12程度でやれないか考える。グローバル展開も視野に入っているのなら、なるべく主要各国のガイドラインに則ろうとする。

これらの施策は当然ながら商業的利益を得る機会を最大化するために行われる。より広い層に訴求できれば原作では拾いきれなかった顧客を獲得できる可能性がある。新たな客層にリーチできればそこからバイラルに認知度を高めていける。本来はこれこそがメディアミックスの狙いであり、ゆえにかつては未来の顧客に向けた大胆な創作的改変が行われてきた。

しかしインターネット上で旧来の客層たる「原作ファン」の発言力が伸張しはじめると、こうした未来の顧客へのアプローチは次第に邪道と見なされる向きが強くなった。たとえばアニメであれば原作の流れを踏襲しきった作品こそが正統派のアニメとされ、そうでない作品はなんらかの妥協を孕んだ軟派な代物に違いないと一等低く扱われた。

作り手もこうした意見を受け止め、アニメーションや演出、楽曲に力を入れるなどして映像化の特長をアピールする作品づくりを行っている。原作にもぼちぼち沿うようになった。それと並行して、客層拡大の障壁になりうる部分はちゃっかりオミットして虎視眈々と一石二鳥を狙う。今時のアニメ制作は盆栽に似ている。捨てる方が多い取捨選択。限られた予算、人員、尺の短さと戦い、旧来の客層を懐柔しつつ新規の顧客も得なければならない。

ところが問題は起こる。あまりにも典型的な「マイナーバンドがメジャー化して曲の雰囲気が変わった時の愚痴」が今では1000にも10000にも膨れてインターネット上にぶちまけられる。SNSがそれを加熱させる。以前なら友人やサークルの仲間が適度に共感するなり諌めるなりしてクールダウンできていたが、エコーチェンバー現象によって新たな燃料が焚べられ続けるとなかなか冷めるに冷められない。

昔から今まで旧来のファンが抱きがちな心理はさして変わっていない。平たく表せば「こんなに作品を愛している自分たちの方を向いてくれなくて憎たらしい」という気持ちだ。世間が目をつける前から原作を読んでいてキャラクターの機微も物語の魅力も把握しているのに、自分ほど愛してくれるか定かではない一見さんのために作品が塗りつぶされてしまう。彼らからしたらその時点で嫉妬心を感じていなくもない。

言うまでもなく今回の話は『ぼっち・ざ・ろっく!』の一部の描写がノイズとされて取り除かれた問題について書いている。自分ではない客層の方を向いている時点ですでにほんのりとジェラシーを抱いているところへ、あまつさえ聖典たる原作の描写が「ノイズ」と断ぜられ、あたかも倫理に悖るかのように言われてしまった。これは原作ファンにとっては宣戦布告に等しい。

かくしてSNS特有の加圧環境で一気に高温化した問題は、チェンバーを引き裂く勢いで炎上するに至った。件の発言をした脚本家に対する誹謗中傷・罵詈雑言はもちろん、論客や政治家をも巻き込んで謝罪と降板を求める署名運動にまで発展した。ここまでくるとクールダウンは難しい。冷めてしまうと負けた気がするからだ。

原作者自身が制作の意見交換の場に参加していたり、脚本家に賛辞の声を送っている投稿が発見されても、立場上やむをえず言っているだけなのだと意地を張り、さらには強大な権力を持つテレビ局に脅されて無理やり言わされているのだとか、ついには敵対者たる脚本家に加担するなら原作者も原作ファンの敵だ、などといった幾重にもねじ曲がった主張までもが飛び交う始末である。

むろん、予想されうる真相は非常に明快で「原作においては掲載誌の客層に合わせ、メディアミックスにおいてはより広い客層に合わせている」以上の理由はおそらくない。おっぱいが大きいとか小さいとか入浴時に水着を着ているとか着ていないとかは、広範な客層を獲得する機会や諸外国でのゾーニング基準を引き下げることの商業的利点と比べたら、少なくとも本作では検討に値するほど重要な要素ではない。

こんな話は一旦落ち着けば容易に理解できる。というより、炎上させている側も理解していないわけではないのだが、裏切られた怒りの清算が先行していて気持ちの整理がつかない状況なのだろう。原作通りの描写や政治思想が云々は殊ここに至ってはすべて建前であって、単に自分の方を向いてくれないのが憎たらしいのだ。もっと言えば作品が自分たちの方(党派)ではない、敵と見なした人物の「手に落ちた」ように見えるのが気に食わないのだろう。

この仮説を補強しうる仮定として、たとえば脚本家が一連の描写を削ったのではなく逆に増やして、それを思想的に正当化する発言をしたとしよう。僕の見立てでは今回炎上させている側は大して怒らなかったと思う。むしろそういった描写に反感を抱く他の客層が怒ったがために、金科玉条のごとく振りかざしている「原作通り云々」を封印して全面擁護に回っていたかもしれない。

彼らは別にそこまでデカいおっぱいや裸体が見たいわけではない。〝敵〟と定めている相手に批判されたからには無理にでも擁護せずにはいられない党派的態度にはまり込んでいるのだ。事実、炎上を起こす直前までは彼らも本作のアニメ化を成功したものと捉えていたのではないかと思う。

きっと彼らの署名運動は実を結ばないだろう。言い草はどうあれ現に企画を成功に導いた脚本家を降板させる理由はなく、二期目においても続投する見込みの方が高い。仮になんらかの理由で交代するとしても原作者を含む関係者の間で合意がとれている以上、作品の方向性が急に変わっておっぱいが大きくなる余地は限りなく乏しい。

とすると、今回炎上させている側がもし自ら折り合いをつけられず、延々と怒り続ける道を選んだ場合には「敵の手に落ちた」作品の二期目を評価するのは党派的に困難となるため、彼らによるネガティブキャンペーンが催されると想定される。もはや作品を愛しているのか嫌っているのか傍からは見分けがつかないが、反転アンチとはえてしてそういう手合いである。彼らの中では愛ゆえに滅ぼすことが認められる。

実のところSNS上の論争はここしばらくずっとこんな具合で、なにもこれはアニメに限った話ではない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎く、賢しげに付け焼き刃のエセ社会学を振りかざしているものの、結局は自分の方をもっと向いてほしい、自分たちをもっと気にかけてほしい、さもなければ傷つけてでも振り向かせてやる、といった集団的自己愛がアルゴリズムで肥大化しているに過ぎない。

早晩、アニメの方はどうでもよくなり、党派に便乗している方が気持ち良いと気づいた人間から全身がインターネットに染まっていく。

©2011 辻谷陸王 | Fediverse | Keyoxide | RSS | 小説