5月16日に東京大学の学園祭『五月祭』が開催される。僕は東大生でも東大OBでもないが、文芸サークルの主宰者が東大生であったりなどでなにかと縁が多く、ここ数年はよく足を運んでいる。残念ながら今回は同人誌の出展予定はない。早く万全な体制を整えて定期刊行物をビシバシと出していきたいものである。
その五月祭だが今年は少し揉め事が起こった。(本当は毎年いつもなにかで揉めているが)あの排外論者にして陰謀論者、SNSが生み落とした令和の魔物、参政党の神谷某が五月祭で講演するというのだ。講演を依頼したのは東大生の保守サークルとのことで、当然ながら界隈では激しく賛否が沸き起こった。
中でも特に注目を集めたのは講演を中止に追い込むプロテスト運動の呼びかけで、当該のアカウントは活動開始から一週間足らずで2000人以上のフォロワーを集めている。IDが変だったり、以前から存在していた休眠状態のアカウントが急に動きはじめたことから騙りではないかとの声もあるが、このアカウントは正真正銘、東大生が運用している。なぜ断言できるのかと言うと、この運動を立ち上げた東大生のDiscordサーバに僕もいるからだ。
発起人の彼はこのようなアグレッシヴな政治運動を企画するのがたいへんうまい。政治家の講演を中止に追い込もうとする東大生と聞くと、なにやら直径三メートルくらいある丸メガネを装着していそうな堅物を想像するかもしれないが、実際に話すとむしろ柔軟でクレバーな印象を受ける。興味がある人は当日捕まえて話しかけてみるといい。ちょっと調べるとどこの誰かはすぐに分かる。
さて、ではこうして発起人と知り合っていて、プライベートなDiscordサーバにも入っている僕自身はこの運動に賛成なのかというと、必ずしもそうではないから困る。じゃあ反対なのか? いや、そうでもない。賛成か反対かどうかは、どういう論点で考えるかによって異なる。
まず原則論で言えば、それはもちろん反対せざるをえない。神谷某がいかに支離滅裂で言語道断な発言をしようとも、その権利自体は擁護されるべきであり、主張の機会を奪われるべきではないとの見立てだ。いわゆる表現の自由についてもっともピュアで、他の要素を勘定に入れないなら話はこれで済む。
だが一方で、他の論点もある。講演が行われる場所は大学の構内であり、たしか大学には学生の自治というやつがあるのではなかったか? すなわち、学生がそこを自ら治め、彼らの各々信じるところの秩序と理念を打ち立てることができる。そういった概念に基づくのであれば、これは一概に表現の自由の問題とは言えなくなる。なぜなら公園や公道といった公共の空間ではなく、特定の集団によって管理されている施設での話になるからだ。
通常、シェアルームにどこの誰を招いてよいか、との判断に一貫性や合理性は問われない。そこに住んでいる人間が好き勝手に決められる。特定の人物を選り好みして他を退けても構わない。それはそこが自治的な空間であって、関係者のルールが優先されるべきだからだ。同様の事柄が、大学にも当てはまるかもしれない。
だとしたら、この問題の是非は東大生たちが決める話であって、僕たちがあれこれ言っても仕方がない。神谷某を呼んだのも東大生なので東大生同士の対決でもある。なればこそ、プロテストといった運動の形態にも必要性が帯びてくる。だが、なぜ議論ではなく中止の要求なのか? これにもいくつかの考え方が想定できる。
SNSを見ていると「中止を呼びかけるのではなく正々堂々と神谷某を論破すればよい」との意見が少なくない。できるならそうした方が望ましいと僕も思う。しかしながら、おそらくそれは不可能だろう。『三島由紀夫vs東大全共闘』のようなインテリ同士の議論らしい議論が成立するほど神谷某は賢明でも誠実でもない。大方、一方的に喋り倒して事前に用意された簡単な質問に答えてさっさと帰るに違いない。こういうやり方を許すと、おそらく多くの東大生にとって嬉しくない事態が起こる。
「いいですか、この前、東大で講演してきたんですよ。あの東大生がですよ、私の話にですね、静かに耳を傾けてくれてですね、この国で最高の学生たちに私の熱い思いが伝わったと思います……」 こんなトークスクリプトが今後、全国各地の街頭で繰り返される光景が目に浮かぶ。では、無理やり議論を吹っかけてやり合おうとしたらどうなるだろうか?
「いいですか、この前、東大で講演してきたんですよ。あの東大生とですよ、喧々諤々とした熱い対話を繰り広げてですね、東大生にとっても我々の抱えるテーマがたいへん興味深く、議論に値するものだということがよく分かりました……」 こんなトークスクリプトが、今後、全国各地の街頭で繰り返される光景が目に浮かぶ。つまり、どう転んでも神谷某に東大で講演をさせた時点で、その権威が利用されてしまうのは確定しているのだ!
だったらもう、最初からなにか言う前に東大から追い出した方が早い、とも考えられる。東大生が自分たちの権威をみだりに利用させない点において、これは理にかなった行動と言える。もっとも、追い出したら追い出したで「既得権益の権化たる東大生に追い払われるほど私は警戒されている!」とか「私こそが差別されており真の被害者である!」とか色々言いようはあるが、それでも一応、権威の悪用は防がれている。
もちろんこれらはどれも考え方の一つに過ぎず、どれかが正しく、どれかが間違っているわけではない。原則論によって立つならそれはそれで正しく、学生の自治を重んじるなら東大生の数だけそれぞれの正しさがあり、一見狡猾な振る舞いにも先を見据えた正義があるかもしれない。逆に言えば神谷某を呼んだ保守サークルの東大生は、まさしく前述した内容を狙ってやっているのだろう。
神谷某自体は見下げ果てた悪党だと思うが、このように様々な立場の人間がいる。そして、学生の自治という理念がどこまで通用するかはさておき、少なくとも五月祭はそれを尊重するとされているイベントである。であれば、賛成するにしろ反対するにしろ、傾聴するにしろ議論するにしろ中止するにしろ、東大の中で起こっていることについては東大生自身に任せる方がよいと僕は思う。
せっかくなので当日は僕も現地に行って神谷某とプロテスターたちの攻防を観戦するつもりだ。ところで、ここであえて表現の自由の論点に立ち返るなら、これらも全部ひっくるめて表現の形態の一つと考えられなくもないではないか?